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名字は魚の名であったはずなのですが

2021年02月14日 16:45

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/14(日) 16:41:25.64 ID:tAp7OMu6
主君の御前において、傍輩を取りなすことは、品々あるべきであるとして、ある人が言ったことに、

大和大納言(豊臣秀長)殿の御咄の法師が出頭した時、大納言殿が「今朝はどうして遅れてきたのか」
と仰られた。「御普請場の見物に参っておりました。」と申し上げると、
「法師の身にては相応しくない見所である。ところで堀石垣はどれほど出来ているか、奉行の侍どもは
精を出して仕事をしているか。」とお尋ねになった
「何れも、殊の外精を出されており、御普請は順調に進んでいるように見えました。」と申し上げると

「さもあらん。誰にも怠りなど無い。されど、その中でも殊に精を出していると見える者は無いか?
ありのままに申せ。」

そう仰せに成られた。これに「仰せのごとく。誰も怠り無く見えましたが、中でも抜きん出て諸人に
下知し、現場を飛び回り、骨を折っているように見える者が居りました。その人物について、何者かを
尋ねたのですが、つい今しがた、その名も名字もはたと忘れてしまいました。」

「誰であるか、思い出せ。」と仰せに成られると、その時法師はうち案じて
「名字は魚の名であったはずなのですが、忘れました。」
「鈴木か、益田か、魚住か。」と仰せになったが、「いや、それではありませんでした。」

「さては鯰江か」と仰せになった時、「その鯰江にて候!」と申し上げると、殊の外御気色良く
「総じて、あの鯰絵勘右衛門は慥かに用を成す人物である。」と評判も上がり、その後御加増を
給わったという。

備前老人物語



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『多聞院日記』より、吉川平介着服事件の解釈

2020年10月01日 17:08

379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 00:03:29.31 ID:A8tUaSNv
多聞院日記』より、吉川平介着服事件の解釈

天正16年12月7日、(吉川)平介という人、大納言殿(豊臣秀長)より紀伊国の大将として雑賀に城をこしらえ、富貴に暮らしていた。
「熊野山の木を売るべし」と命じられ、2万本を選んで切り出し、大坂へ輸送した。そして、売り上げを毎月、過分に「上之」。
関白はこれを聞き及び、「曲事である」と召し捕らえ、おととい5日、西大寺で誅殺させた。
「主には一円、無過事也」。秀長は天下の面目を失った。
跡には金子700枚を持ち、「上之」という。
「女子供は不苦云々」、不情不便なことであった。
天正17年1月5日、秀長は昨冬、熊野の木を売りつけ、関白の御意に合わなかった。正月のお見舞いでもお目見えがかなわず、仕方なく帰ってきたので寺々への諸礼がなかったそうだ。

※とにかく意味の取りにくい記事なんですが、いろいろと解釈できます。
浅学非才ゆえ、この有名な事件にほかの原典があるのかなど知らないのですが。
①(これが定説?)平介が勝手に着服した。その額は金子700枚に及び、その分をあとになって秀長が太閤へ献上した。
②金に汚いことで知られる(諸大名に高い値段で兵糧を売ろうとしたり)秀長が平介に命じ、大仏殿建設で高騰していた貴重な木材を普請用に提供せず、売り払った。(1月5日記事には平介のへの字も出ていない)
③これはかなり無理な解釈ですが、秀吉が秀長に命じ、熊野の木を売らせた。その代金のうち、かなりを平介が秀長に献上していた。太閤はそれを知って立腹した。
いずれにせよ、私の誤訳や勘違いがあると思うので、ご参考までに。

ちなみに、この記事の前後は聚楽第への落書きに対する処分であったり、秀吉の苛烈な言動がいろいろと記されています。
9月3日条では、
先般、関白の大事にしていた刀が盗まれ、ついに行方が知れなかった。
これによって男女があまた磔にされた。浅野弾正の甥も腹を切り、「諸方以外震動」。ひときわ機嫌が悪い様子で、「狂乱ノ始也云々」。頼朝の守り刀、一文字で無類の重宝だったという。ありかは未だに分かっていないそうだ。

と記されています。平介事件も秀吉が権力者としておかしくなりだしていたことを念頭に置いて考えるとおもしろいかもしれません。



380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 00:16:01.32 ID:SryfC8MZ
よく秀長が長生きだったら朝鮮出兵や秀次、利休の切腹は無かった説があるけど
ぎりぎり名補佐役の面目が立つ時期に死んだだけで後2~3年生きていたら粛清されていたかもな

382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 00:56:20.22 ID:nLSNZYeT
秀吉自身の方針の混乱は
秀長・大政所・鶴松の死、秀次養子縁組と秀頼誕生が複雑に絡み合ってるからなんとも言えないかなぁ
少なくとも大政所が生きてる限り秀長の粛清はできないと思う

383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 08:42:33.98 ID:pyId+6bq
大政所自体は諌めるだろうけど、それで秀吉がやめるかなぁ
正直秀長の当時の評判って悪いし

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 19:28:31.45 ID:SryfC8MZ
かーちゃんが生きていれば命は大丈夫だと思うけど朝鮮出兵の総責任者かな、大和紀伊召し上げ朝鮮半島切り取り次第とか言われそう

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 19:33:34.48 ID:mN8KDRpT
戦闘員が大量に余ってるんだから外征しなきゃ内乱になるだろ
そもそも唐入りが悪かったというのは結果論で、中華周辺異民族が中原目指すのは普通のことだし

386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 21:05:28.44 ID:B1l19ekP
戦闘員でなぜか景勝の母親が浮かんだ

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/01(木) 21:57:09.03 ID:r9WCf6jv
それ仙桃院

豊臣秀長の事

2015年07月22日 12:51

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/07/21(火) 21:04:35.30 ID:PSm1DkDK
天正19年

この年、太閤秀吉は伏見の城を築き隠居所として、大阪の城と掛け持ちにした。諸大名以下は伏見に
屋敷を構え、代わる代わる出仕した。

4月、太閤の側室が男子(鶴松)を産んだ。太閤は50を越えるまで子がなかった所、若君の誕生に
喜び限りなかった。国持大名、旗本の面々、ことごとくこれを賀した。

このような目出度い折に、太閤の舎弟である大和大納言秀長卿は、久しく病に臥せっていたが、
遂に空しくなられた。太閤の連枝、男子はこの秀長卿一人であった。

当時は戦国の頃であり、人倫の法も乱れ、兄弟で争うような者達も多かったが、
秀長は秀吉によく従い、いつも先陣を務め、或いは一方の大将として戦功度々多く、武勇優れ、
秀吉をよく助けたため、秀吉よりの友愛も深く、官位も大納言に昇り、禄は大和、泉、紀伊三ヵ国を
領して、国家の柱石となられ、天下の人々は彼を仰ぎ尊んだが、たちまち黄泉の人となってしまった。

太閤の嘆き悲しみは浅くなく、これこそ大いなる憂いであると考えられたが、その秋の頃、
この年4月に生まれた若君もにわかにかくれられた。太閤は悲しみのあまりであろうか、清水寺に
3日逗留されたが、近臣を集めて仰せに成った

「日本国は既に、ことごとく手の中に入った。この上は秀次に日本を渡し、大明国に入って四百余州の
王となろう!去年朝鮮より使者が来た時。書簡を朝鮮に贈り、大明を討つときは朝鮮は必ずその
先手をせよと告げたにも関わらず、未だその返書はこない。ならば、先ずは朝鮮を征伐すべし。

朝鮮が我に従うのなら、先手として大明に入るべし。もし従わないのなら、先の朝鮮を滅ぼしてその後
大明に入るべし!来春は必ず、大軍を朝鮮に出撃させる!」

そう、諸将に触れられたのである.

(黒田家譜)

黒田家譜より、豊臣秀長への評価と、朝鮮出兵の宣言についての記述である。

太閤秀吉の別種同腹の弟を

2014年05月28日 18:57

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/27(火) 21:14:06.58 ID:PM0SZ7y0
太閤秀吉の別種同腹の弟を、大和大納言(秀長)という。
彼は秀吉によって、大和、紀伊、和泉三ヶ国に封じられた。

この秀長は、賤ヶ岳の合戦で中川清秀敗死の時、その様子を見ていながら救出に向かわず、
非常に首尾の悪いものであった。
秀吉はそんな秀長の体たらくに激怒し、諸大名が居並ぶ中で

「お前はわしと、種が違うのだ!」

との言葉を叩きつけた。

この大和大納言には子がなく、関白秀次の子(弟)を養子とした。
これを大和中納言(豊臣秀保)と言う。

(老人雑話)

老人雑話の、豊臣秀長に関する記事である。





雑談・豊臣秀長に関する議論

2012年11月06日 19:59

197 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/04(日) 22:29:04.20 ID:vPe2MraC
無能な人間百人よりは、秀吉と信長がそうであったように
確実な成果が期待できる優秀な人間一人に依頼するだろな
その他大勢である百人からは憎悪されるかもしれんが
本来それは上司である秀吉がフォローアップすべきことだし

222 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/05(月) 20:29:46.18 ID:PiXUy448
>>197

そこのフォローは秀長がやってたんじゃないのかなー、と。豊臣政権空中分解したのは結局のところ
秀長が死んだ影響大なんじゃないかな?

223 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 20:44:54.30 ID:dh2eVboB
頭でっかち石頭と能筋でバランスの取れた人材に乏しかったから

224 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 21:51:56.71 ID:mek9p20d
秀長みたいに出来た調整役なんて他には隆景ぐらいしか思いつかんな

225 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/05(月) 22:03:40.58 ID:sIbB3lqJ
>>224
イメージとしては武田信繁なんかもそんな感じ

ただ、秀長と信繁に関しては早めに?死んだからこそ余計に評価されてる気がする
両方共一人の人格者がいたらどうのこうのっていうような甘い状況じゃない気がするし

>>220
ものすごくざっくり見れば作左と兼続やってること一緒なんだな
やっぱそっちのタイプの人間だな

226 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 02:54:25.87 ID:PM8FwmD6
秀吉は若年期に殿様としての教育(自己抑制)を受けてないために
老年期は大陸の独裁皇帝並みの自己肥大になったとしたら
同じ母集団から出て同じように階層が上昇したにもかかわらず
人格破綻を起こさなかった秀長や寧々って凄くね?

228 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 05:43:02.82 ID:VmFqHNiw
秀長は史料が少なくて過大評価されてる部分が多いだろうなぁ

229 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 05:46:33.77 ID:OxuERoyM
武功夜話で蔓延したのイメージもあるだろうな

230 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 09:21:30.98 ID:ZT4NF8NB
秀長は残ってる史料が接待ばかりだから
優秀な調停役だったと勝手にキャラ付けされてる様に見える

231 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/06(火) 12:31:05.30 ID:Yi4Igwyp
>>228

そうか?俺はむしろ過小評価されてると感じているが。
実際秀長が生きてる時は秀吉もラスボス化しなかったわけだし、三成ら近江閥と浅野長政ら
尾張閥との対立も表面化しなかったでしょう?



232 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 12:43:00.24 ID:TerQt6Ow
>>231
それと秀長との因果関係を示す資料ってあったっけ?

233 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 15:10:14.44 ID:NbK2TydX
>>228
歴史に興味無い人には過小評価され
歴史好きの中には過大評価する奴もいるってだけ

俺は秀吉の偉業は秀長、クロカン、秀吉で3等分できると思うけど

234 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 15:50:03.96 ID:ZT4NF8NB
史料上の如水はあごで使われる前線の将
秀吉どころか秀長とも比べられない格下だろ

235 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/11/06(火) 15:58:08.52 ID:I+BY/ICP
でもNHK の魔手にかかれば・・・
戦国の英雄や朝廷も一目置くキーマンに化けるのだ。
ついでに奥さんも超重要人物化して
一武家の夫婦愛や家族愛が全国の行く末を左右する物語のいっちょ上がり。

237 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/06(火) 17:35:00.71 ID:T54cWOMY
秀長が病気になったからラスボス化が始まったわけではなくて
北条征伐あたりでそろそろ周りに危険な勢力がなくなり
信長のかわりとして地位が確立されたことが原因だろ

秀長は優秀であっても過大評価されているように感じるわ

秀長の説得、蜂須賀党を動かす

2012年02月13日 22:05

900 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/13(月) 15:58:26.79 ID:8f2U2jKn
1566年ごろ、織田信長に仕える木下藤吉郎秀吉が斉藤家との戦いの拠点として敵地である美濃国墨俣に
砦を築くように命じられた。異母弟の秀長を従え、木曽川の水運を取り仕切る蜂須賀党(川並衆)の首領であった
蜂須賀正勝の元に赴いて協力を求めた秀吉は旧知の間柄であった正勝を得意の弁舌で説得したが、
色よい返事は得られなかった。
場に重苦しい空気が流れる中、それまで無言だった秀長は

「この戦いは兄の出世ばかりではなく、戦乱の世を治める足掛かりになります。大した名声も持たぬ我らは
この度の戦に全てを賭ける覚悟です。
 ぜひ協力願いたい。」

と発言。その誠実な人柄を感じさせる切々とした語り口は、秀吉の能弁振りよりも強く正勝の心を動かし、
正勝の協力を得た兄弟は
砦を完成させて、信長の美濃平定に貢献したという。 「武功夜話」より、
秀長の説得が蜂須賀党を動かした逸話である





901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:04:25.24 ID:+uSZYDLv
秀長無双ですなw

902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:10:24.14 ID:Gp6ex8vX
前野さん関係の文献だから秀吉を下げようとして秀長上げてるんかね?

903 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/13(月) 16:16:37.01 ID:nnXPDbvE
秀長と良いてんきゅー信繁と良い
こう言う控えめ実直な有能№2って日本人の心にきやすいよな

904 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:29:33.99 ID:8SjeKcY2
「武功夜話」の史料評価ってどんなもん?
ある程度は認められてる?

905 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:36:09.05 ID:huiNTWR0
死ぬ順番が逆なら世が乱れることもなくうまく収まったのかな

906 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:38:10.48 ID:a2SdNpSM
逆に二人共先に死んだからこそ評価が高いのかもしれない
生きていれば兄の死という重大事件によって失態をさらして評価だだ下がりだったかも

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:38:29.93 ID:ENSG7cdH
>>904
ぶっちゃけると資料価値はほぼ0。
よくて江戸後期の創作。
そしておそらくは戦後に創作されたもの。>武功夜話

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 16:41:45.03 ID:xmvm4Ky7
秀吉の弁舌でグラグラ来て迷って、でも決め切れないって時にポンと置いた言葉だろうから
やっぱり両方共いないと機能しない良いコンビだったって事じゃないかな

そんな解釈しちゃうと武功夜話が近世近代の作り話っぽくなっちゃう訳ですが

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 17:08:35.17 ID:eO402xW+
その話が出来たころにどう見られてたか、ってのを類推するくらいかな

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 17:11:47.71 ID:Cg0eUmlC
秀長さんは理想的なNo.2だったよな。斬新だけど大雑把な兄貴をうまくフォローしてたと思う
秀長が長く生きていれば、と思わずにはいられない

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 17:18:17.82 ID:KaZFxktm
生きてても秀吉が同じようにラスボス化が進行してたら、止められなかった気もなあ

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 17:29:05.25 ID:ENSG7cdH
ちょっと面白い話で言うと、秀長は徳川家康と非常に関係が良くて、三河一向一揆以来断絶していた
家康と本願寺との和解を斡旋したりしてる。
家康も秀長が病に倒れてから何度も見舞いに行ってる。

秀吉政権で東西の2トップとして徳川家康と小早川隆景があったのだけど、どちらも秀長と
非常に関係が深く、秀長がまさに、大名政策における扇の要となっていたフシがある。

秀長はおもむろに扇を開き

2012年02月12日 21:52

881 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/12(日) 20:25:55.08 ID:73pbmnvl
1577年、北陸地方の平定を任されていた柴田勝家のもとに援軍として派遣された羽柴秀吉は
勝家と意見を対立させた末に無断で戦線を離脱した。この事に激怒した織田信長から秀吉は謹慎を命ぜられてしまう。
この時秀吉の弟の秀長も謝罪と釈明の為に安土城を訪れた兄に同行し、控えの間で待機していたのだが、共に来ていた浅野長政

「秀吉は切腹させられるのではあるまいか・・・」

と気が気でなく、蜂須賀正勝に至っては

「もはや生きて城を出られぬかも知れぬ。だが、わしは無抵抗で死ぬつもりはない。」

と短刀を握りしめる始末で、室内の緊張感は高まっていた。すると、兄の窮地であるにもかかわらず冷静さを保っていた秀長は
おもむろに扇を開き、庭に咲く菊の香りを室内に届けるかの様に無言で仰いだのである。続いて竹中半兵衛

「控えめに咲くあの菊の様に、我々も驕らずにいれば誠意は通じるでしょう。」

と静かに語ったため周囲も落ち着きを取り戻し、やがて秀吉が許されたこと知った一同は手を取り合って喜んだという。

「武功夜話」より、扇で皆を落ち着かせた秀長の逸話である。





882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 20:57:40.35 ID:IO/178gk
武功夜話での蜂須賀を始めとした川並衆の信長嫌いは話として面白い。
荒くれ河川労働者と信長じゃ気が合わなさそうだし

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 21:45:40.24 ID:k1kweMZi
確かに、荒くれ河川労働者じゃ秀吉の方が相性良さそうだね
荒くれ労働者の後家なら家康にお任せだけど

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 21:53:30.47 ID:4B0umsjS
蜂須賀、前野は秀吉と苦労を共にしてそうなのに扱い悪いな

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:02:42.52 ID:PvSieo2p
>>885
蜂須賀さんなんて明治に至るまで盗賊の子孫扱いだったはず。


887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:13:34.71 ID:pxMPt5Z8
蜂須賀さん明治には侯爵まで上り詰めているぞ
明治天皇に冗談でからかわれはしたけど(笑)

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:22:54.04 ID:9xgL0Bcx
明治天皇にからかわれた蜂須賀さんは、徳川家から養子に入ったので、蜂須賀の血筋じゃ無いのに可哀相に。

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:26:07.24 ID:XQmJY4nL
そもそも蜂須賀の盗賊伝説は江戸中期以降、絵本太功記の創作から。

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:55:37.70 ID:pxMPt5Z8
蜂須賀侯爵
「陛下、お言葉ですが、
そもそも蜂須賀の盗賊伝説は江戸中期以降、
絵本太功記の創作でございます。
まして私は徳川から蜂須賀に養子に入った身。」

明治天皇
「・・・・・(いや、実際煙草とられてんだけど)」


な三河武士な展開にしてほしかったなw

891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 22:57:04.31 ID:DQbO/mcF
まとめサイトのその話の解説では
実は明治天皇に蜂須賀小六の血が流れてたという、衝撃の事実が

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 23:02:19.91 ID:XQmJY4nL
要は家風の問題であって血が云々ってあまり関係ないんだけどね、日本では。

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 23:25:04.25 ID:aZe8Uzdl
家柄も教養もばっちりな幽斎さんが油を盗んだり柿を盗んだり(ry

894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/12(日) 23:53:05.26 ID:PvSieo2p
結局どこも戦国からの血筋は残ってないんでない?
大名家も養子ばかりだしな。幕末なんか水戸家からの
養子ばっかり

そういう意味で水戸家最強だな。水戸藩は幕末前半で消えたけど
そのあとの将軍や主要な藩の藩主は水戸藩系ばかり会津や桑名の
松平、尾張の徳川も親父かその祖父が水戸家出身だから
それ含めると越前松平を超える最強の連枝集団だな

895 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 00:06:43.93 ID:8f2U2jKn
島津とか毛利などの外様大名は血が残ってるんじゃ?

896 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 00:30:16.11 ID:selISkyR
足利(喜連川)は養子入ってるのかな?

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 00:40:15.83 ID:TgcyyrdD
本多忠勝の家は女系の子孫を必ず養子にしてる
榊原家なんかも血族は続いていたはず

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 02:25:19.42 ID:A27AQDfe
それはそうと大和守△
風流過ぎる

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/13(月) 06:12:44.45 ID:LGIIVCVg
センゴク絵のイメージになってるから
風流されると戸惑う

天正13年(1585)9月24日、小早川隆景宛、羽柴秀長書状

2011年11月19日 22:21

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 01:00:06.66 ID:oZs//48J
天正13年(1585)9月24日、小早川隆景宛、羽柴秀長書状

『貴殿とは四国征伐以来互いに連絡を取りませんでした。これはお互い、いささか離れた場所にあった為ですが、
今回ご連絡をいただき、伊予のこと残らず仰せ付けられ御拝領とのご報告、誠に喜ばしく思います。
それにつけて鷹二羽を私に贈っていただいたこと、その御懇情浅からず思っています。

私の方も又、大和を拝領仕り、そちらに在住しております。こちら(畿内)に何か御用があれば、
どうぞ私の方までお聞かせください。きっと粗略にすることはありません。

なお、安国寺(恵瓊)に多くのことを申し入れましたが、その内容はここには書きません。恐々謹厳。

九月二十四日

小早川左衛門佐殿
                       秀長(花押)
             御返報』


片や親族の代表として、片や外様の重要人物として、初期の豊臣政権を支えた秀長と小早川隆景の、
関係の深さが垣間見られる書状であろう。
それにしても秀長は安国寺を通じてどんな事を伝えたのか、大変気になるところである。

(小早川家文書)




665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 01:18:30.39 ID:WYCAd8ej
>>663
秀長はほんとに色々気配り大変だったんだな
権力者の弟だっつーてそっくり返る奴もいるだろうに
頭が下がるわー

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/19(土) 05:38:41.36 ID:NXWCJ0Ex
秀長あっての秀吉だったんだな

豊臣秀長の賤ヶ岳

2011年10月29日 22:00

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:04:43.54 ID:9Qm7ZXcp
太閤(豊臣秀吉)の別種同腹の弟を大和大納言殿(豊臣秀長)と云う。
大和、紀伊、和泉三ヶ国に封す。

彼は賤ヶ岳の合戦の時、中川清秀の敗死の時、それを見ながら救おうとせず、戦の首尾が非常に悪かった。
そのため秀吉は怒り、諸大名の居並ぶ座中で秀長を

「お前は俺とは種が違うわ!(身とは違種たり)」

と怒鳴りつけた。

この大和大納言には子がなく、秀次の弟を養子とした、これを大和中納言と云う。
(老人雑話)

賤ヶ岳の折の、豊臣秀長の戦ぶりについてのお話。




577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:11:08.59 ID:8gkfzpGY
>>576
豊臣絡みの養子はどこかクセがある

秀勝・・・若死
秀次・・・ラスボスのジェノサイド
秀秋・・・空気ブレイカー
秀家・・・世間知らず

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:12:24.93 ID:uD6DEZs5
人には向き不向きがあるだろうに…
時代が悪かったのか、兄貴が悪かったのか

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:13:11.33 ID:eGAHmx0f
秀長って娘いなかったっけ?

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 17:19:09.79 ID:8gkfzpGY
>>578
織田信長「アニキが悪い?」
伊達政宗「さてさて」
長宗我部信親「人によるでしょう」
武田信玄「そうなのか」
長尾晴景「アニキの苦労がわからないから言えるんだよ」
毛利隆元「ですよね」

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 20:32:57.08 ID:VS/j/0Kl
秀長は諸々を信じればかなりの年齢になるまで農民やってた計算になるが、その割に色々多芸だよな
武芸は知らんが書も和歌も領地経営もまぁこなしてるし
少なくとも負けるにしろ他の武将と比較されるレベルには達してるように思う
まぁ兄が色々酷かった(特に書とか)と言うのもあるが

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/29(土) 21:15:55.95 ID:CkTUFiVV
>>584
三好吉房が結構教養あった人物なんじゃね
その縁で身についたとかとか>書

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 00:56:46.88 ID:7hXNx9WP
>>576
この逸話、戦死したのがあの中川清秀だから、
見殺されて可哀想とも思えないなw

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/30(日) 01:01:32.09 ID:17zPE6cd
そういやへうげで、清秀さん討ち死にシーンなかったから残念だった…

境与三右衛門春時と羽柴秀長の合戦

2010年12月26日 00:01

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/24(金) 18:15:51 ID:oJtZlbFG
今日はクリスマス・イヴです
籠城戦の話を募集します




967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/24(金) 23:15:23 ID:mL+gXyit
羽柴秀吉の中国攻めの際、弟の羽柴美濃守秀長は因幡丸山城の攻略を任された。
秀長軍は連日、激しく攻め立てたが、先鋒の藤堂与右衛門が城方の境与三右衛門春時と戦い、
互いに傷ついたのを期に、兵糧攻めに切り替え、じっくりと攻めるようになった。

そんなある日、丸山城に秀長からの書状が届けられた。
“この近くの山に、狼が出没している。双方で人を出して狩り、長陣の退屈しのぎにしようではないか。”

「何をこしゃくな。よし、受けて立て!」さっそく秀長軍と城方、双方で人手を出して山狩りを行なった。

秀長は狩り立てた狼を胴切りにして、頭側を手元に残すと、尾の方に酒十樽と肴を添えて城方に贈った。
思っても見ぬ贈り物に城中は沸いたが、ある者が疑問を呈した。

「敵からの贈り物だぞ?毒が入っているかも知れぬではないか!」
「しかし羽柴美濃守という男、そんな悪辣な手を使うような者ではないと聞くが。」
「うーむ、どうする?」

城中の皆が悩む中、境与三右衛門が名乗りを上げた。
「わしとしては美濃守を信じたいが、毒入りかも知れぬというのも、然るべき疑問じゃ。そこで、だ。
ここは、わしが毒見をしよう。おのおの方は、わしが飲んだ後しばらく様子を見ても、遅くはあるまい。」

この意見にみな賛成し、与三右衛門は自分の飯茶碗を取り寄せると、酒樽から七、八杯汲み上げて飲み干し、
自室で静かに座りこんだ。城の皆が注目する中、与三右衛門はそのうち体を傾けると、完全に倒れこんだ。
「すわっ!やはり毒であったか!」
城中は色めきたったが与三右衛門の容態を確かめると、かすかに息をしているので、医師をつけて見守った。

翌日の夕方になって、与三右衛門は眼を覚ました。

「おおっ、与三右衛門!おぬし一日中、寝ておったぞ。やはり毒だったのか?!」
「…いいや。あれは極上の美酒じゃ!あんな酒は飲んだことがないわ。わしは久しい篭城の苦しさも忘れ、
心を仙境に飛ばしておったわい。」
「なんじゃ、そうだったか。よーし、飲むぞーっ!!」
「あいや、待て待て!わしのような飲み方をすれば、たちまち酔い潰れて城の守りに差し支えてしまうぞ!
少しずつじゃ、少しずつ!」

こうして贈られた美酒は、城方の一人ひとりに少しずつ配られた。
「そうと知っていれば、最初にガブ飲みしておいたものを……」と、城方のうちノンベエは与三右衛門を恨んだ。


>>960のご期待に沿えるか疑問だが、篭城と贈り物のお話。




968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/24(金) 23:33:16 ID:hLdqxQMj
なんつーか双方余裕ありすぎるだろw

969 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/25(土) 00:18:45 ID:O3ze9m3Y
一方その近所には渇え殺しにあってる城がありましたとさ(´;ω;`)

まあラスボスと秀長の違い、とか言っちゃうと話は簡単だけど

970 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/25(土) 00:29:13 ID:d24pOLv8
真っ二つになった狼をどうするんだろう、という素朴な疑問。

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/25(土) 00:41:44 ID:Ap/L5lTK
食うんじゃね?
江戸時代初期まで犬はご馳走だったし

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/25(土) 00:46:28 ID:c218PFmw
犬食ってたってのは聞いたことあるがごちそうってのは初耳だわ

973 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/25(土) 01:01:33 ID:GHsD1Fdz
羊頭狗肉という言葉があるように、基本的に日本や中国では劣った肉として見られてたと思うが。
朝鮮ではどうか知らないけど。

974 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/25(土) 01:06:37 ID:d24pOLv8
与三右衛門の傷は癒えたようだが、その頃与右衛門は?

976 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/25(土) 08:13:02 ID:E/VLMAt5
>>971
待てよ。家畜なら生類憐れみの令なんかで犬殺しを規制されたりしないだろう
どこからそんな話持ってきたの?

977 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/25(土) 11:35:48 ID:8wf1wLwK
作家の藤原京がたしかそんなことを書いてたな。

江戸の庶民にとって年に数度食べる犬がご馳走だった、って話で、
それを生類哀れみの令で禁じたために綱吉はひどく庶民から恨まれたとか。

ただこれ、真偽はおいておくとしても大都市江戸の話だからな。
他の地方でどうだったかまではちょっと。


978 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/25(土) 11:57:20 ID:S4WEEx4i
大道寺友山 『落穂集』

「我等若き頃迄は、御當代の町方に於て、犬と申すものはまれにて、見當り不レ申候。
 若したまさか見當り候へは、武家町方共に下々のたべものには犬にまさりたる物は無レ之とて、
 冬向になり候へば、見掛け次第に打ち殺し、賞翫仕るに付まゝの義に有之事也」

(江戸の町方に犬はほとんどいなかった。
 というのも、武家方町方ともに、下々の食物としては犬にまさるものはないとされ、
 冬向きになると、見つけ次第撃ち殺して食べたからである。)

秀長病死の真相?

2010年06月26日 00:01

575 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/25(金) 18:24:09 ID:RzAGyi7B
「三河物語」より。

徳川家康が秀吉に臣従してしばらくのこと。
秀吉は家康を危険だと考え、とある饗宴のさい食事に毒を入れこれを暗殺しようとした。

その日、席順は家康が上座であった。だが食事が出るというとき家康は、秀吉の弟、大和大納言
豊臣秀長が自分の下座にいる事に遠慮し、秀長の下座にと席を移動した。

このため家康の場所に置かれるはずだった膳は秀長の前に置かれ、これを食した秀長は、
その毒が回り遂に死んだのだという。

まあ事実かどうかはともかく、家康の家臣の間に、豊臣秀長の病死に際して、そのような噂が
流れたのは確かなようだ。

そんな、秀長病死の真相?のお話。




576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/25(金) 20:02:18 ID:zfTPNMlI
秀長って病んですぐ死んだわけじゃないしなあ


577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/25(金) 20:38:53 ID:RHBW5vyP
>>576
平岩親吉「其方にはそれがしから饅頭を馳走しよう。なに、それがしも相伴いたすゆえ不審がることはない」

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/25(金) 20:41:00 ID:neLbCNMu
三河武士はフィクションの世界でも面倒くさいなw
秀長が死んだ話を、家康が毒で狙われた話にするとかもうね

豊臣秀長と上井覚兼の犬

2010年05月25日 00:02

963 名前:sage[] 投稿日:2010/05/23(日) 22:36:49 ID:oiv3Ue/c
埋めに小ネタ「旧記雑録」より

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2745.html
このような経緯で南蛮犬を預かった上井だが
九州征伐が終った天正15年(1587)に豊後にいた羽柴秀長のもとに情報が届いた


秀長「島津家の上井が唐犬を秘蔵しているとな。献上させろ」
南蛮犬の話が広まるうちに唐犬になったのか、本当に飼っていたかは判らない
問題は、そう秀長の耳に入ってしまったことだ

6月15日に秀長から「速やかに献上すべし」と命令が下る
秀長が間もなく帰還するから島津豊久経由で間に合うように届けろと言われ
更に「しろき唐犬」と指定された
色が指定されたので無理だったのか献上できなかったので催促が来る

7月20日、催促は島津義弘の元へ来た
「上井が「白唐犬」・「白野牛」を所有しているが献上に対する返事が無い。」
「秀長が所望しているので義弘自身が郡山まで持参すると尚、御覚え宜しい」

??何故か白野牛まで秘蔵している話になっている?!
白と云う所を見ると秀長は瑞兆のパフォーマンスに使いたかったのだろう
その後、この件に関する記録が無いのを見ると、やはり献上は無理だったらしい
この頃の上井は日記を書いておらず心中は推測するより仕方無いが
上井の新たな領地が決まっていないという微妙な時で困ったのは確かだろう
結局、表舞台から去り隠棲する上井だが唐犬献上に関する気まずさも一因かな?と思ったのと
秀長さんも無茶な要求してたんだなぁってことで悪い方に投下





964 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/23(日) 22:51:05 ID:gJPj5ugN
秀長ファンには怒られるかもしれないが、秀長はこういうの、自分の金儲けのためにやる
印象があるなー。それも巡って豊臣家のためになる、と言われると、そうだとも思うが。

秀長にはその手の一種の意地汚さを、なんか感じるんだよねー。能力云々とは別にね。


965 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/23(日) 23:05:57 ID:rXv7UHwK
まぁ豊臣家のためにってのは間違いないけど他家から見ればまた違うってやつだろうな

966 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/23(日) 23:23:31 ID:dk6gQHXD
秀長の犬好きっぷりになごんだw チワワみたいなのに見つめられたらどんな顔するのかねぇ

967 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/23(日) 23:50:49 ID:06HhbAGS
しかし、不思議なことに秀長がそういう面で嫌われたって逸話は聞いたことない
以前上がってた、多聞院日記くらいかな?

968 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/24(月) 00:02:59 ID:zTNRVziB
好きな色は白 あと野牛って 牛か?w
飼ってる牛でも野牛っていうのだろうか

法華寺に参拝に行った豊臣秀長が

2010年04月30日 00:03

481 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/29(木) 15:24:29 ID:b4R9vRSD
あるとき豊臣秀長は法華寺に参拝に行った
そこで出合ったのが興俊尼である
余程好みだったのか、その場で城にお持ち帰りしてしまい、興俊尼が寺に帰ってきたのは翌日の事だった
破戒僧となってしまった興俊尼は姉を頼って寺を出、菊田某の家に身を寄せた
一年後、そこには玉のような赤子の姿が! そう、一夜の過ちが実を結んだのだ
これを知った秀長は子供を養育することにした
その娘こそ後の毛利秀元正室、きくである

意外に手の早かった秀長さんの話




483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/29(木) 16:03:47 ID:6evmsvw9
>>481
それは悪い話の部類かな?
秀長さんがもっと子供をつくっておけば、状況はまた変わっていたのかもしれない

484 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/29(木) 16:35:20 ID:b4R9vRSD
まぁ、尼僧に戒律破らせた挙句子供の話聞くまでは放っておいた悪い話という事で

どうでもいいけど秀長の家族って資料が殆ど無いんだよな
秀保、(藤堂)高吉、智勝院(切らず粥http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-578.html
の3人は確実だけど、妻と実子については諸説入り混じっていてさっぱり解らない
特に女性関係は謎が多く、智雲院、興俊尼、多聞院日記の「濃州女中」、これら総て同一人物とする説、
総て別人とする説などもう何がなんやら
更に大徳寺の秀長墓塔の隣にある五輪塔には養春院なる女性の名が刻まれている。どうみても縁者です。本当にry

上の話ではきくと大善院(毛利秀元正室)は同一人物になってるけど、これも別人説があったりするしなぁ

485 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/29(木) 19:07:27 ID:I85FOrKb
>>483
どうだろ、殺生関白の例を考えるとその対象が広がっただけな気もする

大和における豊臣秀長の施策

2010年04月12日 00:00

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/11(日) 19:45:23 ID:08MgZLVw
大和における豊臣秀長の施策
詳しくは知らなかったのでちょっと多聞院日記から超訳してみた

天正十三年 8月25日 多武峯談山神社に武具類の提出を命じたそうだ
         9月 5日 検地(指出)を命じられたので一日がかりで書き出す
         同 25日 一万石没収された
        10月15日 昨日から奈良の町での一切の売買を禁じられた。味噌も酒も野菜も薪も郡山まで買いに来いって言ってる
天正十四年 6月24日 また検地(指出)を命じられた。
         7月 3日 提出した検地が去年のと違うってめっちゃ怒られた
        10月 9日 これからは京升で計るから升を買い替えろって言ってきた
        11月18日 6月に出した検地の件で7500石没収された
天正十五年 1月16日 奈良でも郡山でも座を禁止したとか言ってるんだけどマジか
         4月 1日 鉄製品、魚、塩は座が復活したらしい
         8月21日 奈良で商売すんなってまた言ってきた
         9月11日 小作料を取るなって言ってきた
天正十六年       多武峯談山神社が郡山に移された
天正十七年 10月5日 奈良中から一万石を強制的に借り上げていった。代金は春になったら払うって言ってる


そりゃ死んだ時にいやみの一つも言いたくなるってもんだわ
とは言っても寄進や造営も結構やってるし、病に倒れてからは没収した寺社所領を返還してるんだけどね




65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/11(日) 20:53:00 ID:+/vaSJEt
>>64
なんか笑えるwww
ソースは忘れたけど和議のふりして土豪を集めて暗殺してたりするから
何気に戦国大名なんだよな>小一郎さん

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/11(日) 21:46:09 ID:zWnrKGpf
>>64
既得権をフイにされた老人の愚痴ばっかだなー

大和だいなんごはアメとムチの使い分けを知っている印象

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/11(日) 22:37:02 ID:Y5yeu/OW
そりゃ仕方ない。既得権というと悪いもののようにみえるが、
当事者からしたら先祖からの財産を一方的に奪われるのだから。

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/11(日) 22:49:47 ID:OSiQpTBE
別に悪いことをして得た権利じゃないんだもんな。
「被害者」の視点からすれば、秀長は無理を言って正当な財産を奪う強欲な大名なのは確かなわけで。

大和大納言秀長の穏やかな日常

2010年02月16日 00:43

934 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/15(月) 19:11:51 ID:VWAIrI6H
大和大納言秀長の穏やかな日常

ある日、大和大納言秀長の御伽集の法師が出仕したときのこと。
法師はいつもより少し遅れて来たので、不審に思った秀長は聞いてみた。

秀長「今日は遅れてきたけど、どうかした?」
法師「はい、御普請場を見てまいりました」

この頃、秀長は何かの普請をしていたらしい。

秀「そんなことしなくて良いんだけど…
  で、堀の石垣はどれくらい出来てた?奉行たちちゃんと働いてた?」
法「はい。皆さん殊の外精を出していました」

秀「それはよかった。その中でも誰が一番良く働いてた?」
法「それが、抜きん出て働いていた奉行がいまして、
  その男の名を聞いたはずなんですが、ド忘れしてしまいました」
秀「誰だよ、思い出して」

法「……」
秀「……」

法「…名字が…魚っぽい感じの名前でした…」
秀「魚って言うと、鈴木か益田か、それとも魚住か?」
法「いえ、そのどれでもありません」
秀「ってことは鯰江?」
法「あっ!そうです、鯰江です!」

無事名前を知ることが出来た秀長は非常に機嫌がよく、
その鯰江某を加増してやったそうな。(備前老人物語)

どうということのない普通の会話なんだが、
秀長の性格を現しているようなまったり感が面白かったので投下してみた。




935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/15(月) 19:18:13 ID:CXx0a/eN
>>934
大納言さんの逸話少ないからちょっとした小話でもいいね。
何でこんなに少ないのかな?100万石以上の大名なんて数えるほどしかいないのに。
大納言さんだけ逸話が少ない。太閤さんの弟と言うことで実績が割引されてるのかな。

936 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/02/15(月) 19:18:37 ID:Abl4ZKz9
「ちょっといい話」のお手本のような話

誰か「最近秀長様が…」

2010年02月16日 00:42

937 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/15(月) 19:56:16 ID:EmMLW2Zl
秀長さんってこんな感じの逸話あったよね
九州出兵の前くらいだっけかな

誰か「最近秀長様が諸大名にめっちゃ高く米を売りさばいてるらしいっす」
秀吉「なんだとー( ゜Д゜)」

秀吉「ちょっと、アンタそんなセコイことは、おやめなさいよ(*´д`)」
秀長「うん…了解…(´・ω・`)」
秀吉「アンタ、こういう時は、気前よくあげちゃいなさいよ(*´д`)」
秀長「兄ちゃん、ごめん…(´・ω・`)」

ラスボスのせいでビッグビジネスを潰された話
ちなみに家康さんは朝鮮の役の時に気前よくあげちゃって株を上げてる…ような記憶…




938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/15(月) 20:42:55 ID:z5M6UgRW
>>937の家康の逸話を聞いてみたいです。
誰か書いて下さい。


939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/15(月) 20:45:48 ID:jnf+76qI
熊野杉の代金着服事件もあったな
秀長の代官吉川平介が熊野の杉2万本を大阪で売ったさい、
その代金を着服したとして処刑されたが、秀長も監督責任を負って秀吉に怒られた。

ただこれだけの話で秀長まで勘気を被るというのもおかしな話だから、
秀長の命令で建築ラッシュの大坂で高値で杉材を売りさばいてたんじゃないかな
買い手の兄貴(ラスボス)としては面白くなかろう


940 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/15(月) 20:45:53 ID:Hq1YmbpV
秀長のいい話・悪い話が、天下人の秀吉のエピソードに吸収されてしまっている可能性は大いにあるね

941 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/15(月) 21:08:43 ID:EmMLW2Zl
>>937
ごめん、家康がってのは確証持てないや…本当にごめん…

島津さんに貸してたような気がしたんだけど…
大老として島津が預かってる太閤蔵入地みたいなのを
勝手にあげちゃったってなかったっけ…

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/15(月) 21:19:01 ID:WUqdCkeb
大和大納言のとこは饗応とか斡旋半端ない数あるから100万石の収入じゃ足りなかったんじゃないかな。

秀吉にたしなめられた時に異を唱える性格じゃないから
蓄財の理由を教えてくれる逸話にならんので推測するしかないんだけどさw

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/02/15(月) 21:52:32 ID:mwN3R+OK
戦争に負けても笑いのネタになるような負け方する秀長だからね

大和郡山城の石垣・悪い話

2009年04月18日 00:01

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/17(金) 18:38:06 ID:qxOh2Izg

まとめスレになかったので ついでに

豊臣秀長は大和の領主となり今の大和郡山市に居城を築いた。
今も一部が残る大和郡山城である。
しかし、あまりの突貫工事だったため石垣を築くための岩や石の調達が
全く間に合わない。
ふと周囲を見渡して気がついた。

「さすが寺社仏閣が多くいにしえから都だった大和
 石仏とか古墳の石室を転用すればいいじゃーん」(ぴこーん)

・・・今も壮大な野面積みの石垣を残す大和郡山城
実は壮大な文化破壊の跡地でもあった。
豊臣秀長家があっさり2代であぼーん(しかも2代目の養子は曰く付きの変死)は
これらの祟り・・・かどうかは不明。
ちなみに一部の石仏は露出しているので、今も確認することができる。




731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/17(金) 19:26:10 ID:95tLgIpJ
>>728
宣教師もビックリだよな
わざわざ見えるように積むなよ…

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/17(金) 19:31:57 ID:rxjWCbku
>>728
光秀の築いた福知山城もどっかに墓石が使われていると聞きました
当時はこういう事が結構あったんですかね


764 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 17:24:11 ID:53fFVnJU
>>728
信心深い人にはキツい話だが、城や館を築き街を拓こうって時に
毎回々々大石を切り出してくるのは大変な軍役負担だぞ。

むしろ領民や寄騎(大名)の負担を減らすためだったろう

海際や河口でもない内陸部に大石持っていく苦労はわかるっしょや

765 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/18(土) 17:32:23 ID:Pikexkz3
>>764

信長は、わざわざ出所の寺院や石仏を晒しあげるように
石組み作らせたよ。


ごく普通の豊臣秀長について・悪い話

2008年11月30日 00:10

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 02:49:45 ID:ud5UprBS
秀長のごく普通の日常

天正十六年(1588)、

九月四日:午後二時、京から大阪入りするにあたり大和に寄った毛利輝元を出迎える。
       そのまま宿舎の別邸に案内。終日酒食の饗応

九月五日:午前八時、輝元を郡山城にご招待。進物の儀の後、宴会。参加者は毛利一族のほか
       細川幽斎、黒田如水、安国寺恵瓊、大谷吉継など。
       正午より金春太夫らによる十二番の能。午後10時まで続く。

九月六日:午前八時、輝元の宿舎で家臣一同で出立を見送り。
       午前十時、輝元出立。秀長はそのまま輝下についていき、奈良見物の案内。
       午後二時、成身院にて昼食のお振る舞い。
       午後十時、秀長の宿舎にて宴会、金春太夫による囃子や謡、鼓。
       零時ごろ輝元帰宿

九月七日:午前六時、輝元を招いて朝食。
       午前八時、奈良を出立した輝元と別れる。


諸侯が畿内に出入りするたびに秀長、こんな感じで接待していたらしい。
ちなみにこの数日前には家康を、その少し前には秀吉との交渉に来た北条氏規を接待していた。

そりゃ早死にするわ。



809 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 22:02:54 ID:/DyB7thl
>766
そういや、秀長の悪評って聞いた事が無いな。
俺が知らないだけかもしれないが…

810 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 22:09:59 ID:rWcVQSbw
悪評というか検地やら何やらで奈良の既得権をもっていた層には嫌われてて、
多聞院だかなんかの日記で秀長が死んだという記事の後で蓄えてた金の重みで
建物が壊れたことについてふれて、
「意地汚く蓄えてても使うこともなく死んでは蓄えた甲斐もない、おろかなことだ」
というような感想を残してた記憶がある。

811 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 22:10:58 ID:5bnxW/kB
秀長は、島津の家久(貴久の4男の方)を毒殺したって説があるな
秀長一代の失策とかなんとか

812 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 22:13:35 ID:DgJzdk1g
秀長が若い頃
足軽や組下を集めて賭博詐欺で巻き上げてたらしいな
まあ金銭感覚を養わせるためにやっていたとかって話だけど
恐らくは巻き上げた金の一部はそのまま羽柴軍の軍資金になってたんじゃないかと思う

まさに『”ちょっと”悪い話』だと思うが

813 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 22:14:36 ID:HfZRHPpU

>>809
出典は出せないが、金に五月蝿い人だった、とかいう話は残ってる筈。
あと、紀州統治時代に地元の寺社に対してキッツイ要求をして困らせた、
とかも。寺社勢力を削ぐために必要な事だったんだろうけど。

814 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 22:19:34 ID:3CabhQGu
秀長は金に汚いじゃなかったっけ?
材木を売らせて代金着服とか。

815 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/29(土) 22:21:24 ID:pdIDB95g
そういうとこが兄弟だなぁ

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 16:49:52 ID:Co/d3am3
>>766
出展詳しく

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/30(日) 23:47:49 ID:C97ztUDj
>>857
毛利家文書の輝元初上洛の記録