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河村の才知

2017年07月01日 15:06

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/01(土) 09:35:57.74 ID:or08M729
加藤左馬助嘉明が伊予の松山にあった時、藤堂和泉守高虎は今治に在城していた。
松山の枝城には、嘉明の弟・主馬が置かれていた。これは今治領との境目であった。

ところが、この境目において在地の争いがあり、高虎の領分の百姓が、主馬支配下の百姓に
殺される、という事件が起きた。

高虎は堪忍致せぬ事態であるから、主馬の所へ軍勢にて押し掛け城を踏み潰すとの噂もっぱらとなり、これが
飛脚により嘉明に伝えられた。これを聞いた嘉明は扇子を手に持ちながら
「さればこそ 人かよいけり あさぢはら」
という歌の上の句を2,3度唱え、暫く黙っていたが

「今、弟を人に殺されて堪忍することは出来ない。今後どうなろうとも、是非出陣して
高虎を討ち果たすべし!未だ主馬が死なぬうちに後責め致すべし!」

そう言って即座に陣触れし、その夜の五つ(午後8時ころ)出勢と決め、諸士ひしめいた。
老臣たちも黙ってこれに従った。

しかし、河村権七といい、彼はこの頃まだ若年で、家老の列に入っていたが末座に控えていたが、
彼が進み出て四方に主張した

「今少し、後思慮なされるべきです!何故ならば、今から出陣いたしましても、高虎の勢が
主馬様の所を攻撃するのに間に合いません。また噂だけで実際に藤堂勢の出勢がなければ、我らが
陣触れして出撃する意味もなく、かえって公儀を軽んじて私の軍を起こしたとの批判も受けるでしょう。
特に藤堂は公儀において重んじられていますから、何を企んで我等に対し手段を致すか、はかりかねます、
今少し実否を正して、その後に後出勢なさるべきです!」

これに嘉明も屈し、その夜の出勢は中止となった。二時(約4時間)ばかりを経て注進があったが、
藤堂の出陣は噂だけで実際に軍が動く様子はない、との事であった。河村の才知が功を奏したのである。

その後、藤堂高虎は公儀に対し「加藤嘉明は境目の紛争で我儘をいたし、陣触れまで行った」事を、
数通の実例を上げ申し上げたため、嘉明の立場は難しいものとなり、身上破却に至る寸前まで行ったが、
様々に弁明し別状無かったという。

(士談)


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加藤嘉明と河村権七・いい話

2008年11月21日 00:07

645 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/20(木) 20:46:08 ID:uUJ+sXDV
加藤嘉明の家臣に、河村権七という者がいた。

彼は関ヶ原でも大功をたてた者であったが、生来頑固であり、あるとき、嘉明と行き違いで口論となり、
腹立ちのあまり加藤家を出奔することにした。
が、出奔した後「あいつは他の家に、今より良い条件で仕えるために出奔したのだ。不忠者だ」などと
言われるのも片腹痛い。そこで、書置きを残した。

「この度お暇を頂くのは、他家に仕えるためではない。例え放浪の身になっても、加藤家以外に
仕える事はない。今後加藤家に大事があったときには、何処にいようと掛けつける。」

そうして、出て行った。これを知った嘉明は渋い顔をしたが、そのままほうって置いた。

14年の時が過ぎ、大阪の陣となる。
この時、豊臣恩顧の大名の多くは、江戸に留守居として抑留された。無論嘉明もそうなった。
そしてこんな噂が流れた。江戸に抑留された大名達は皆、改易されるのではないか?

そんな嘉明の江戸屋敷に、汚い身なりをした修験者が現れた。「どうか殿にお目通りを」
河村権七であった。

嘉明は驚き、対面した。「加藤家改易の噂を聞き、いても立ってもいられず参上いたしました。」

「…よく来た。書置きのとおりにいたしたな。」

嘉明はそれを喜び、河村を、元のように八百石で召抱える、戻って来い。と言った。
最初権七は恐縮したが、ついにこれに応じた。


「よし…。ではこちらに来い。」

嘉明は権七を、屋敷の一室に連れ出した。その部屋には、紫の布に覆われた、山のようなものがあった。
これはなんだろうと、権七が不思議な顔をしていると、嘉明は家臣に命じその布を取らせた。
その下には、莫大な金銀があった。

「権七、お前の俸禄じゃ。」

権七は混乱した。たった今八百石で仕えるとは言ったが、それが何故このような大金になるのか。
すると、その布を取った家臣が言った。
「これは河村殿が、『見聞の旅』に出ている間の俸禄を、殿の仰せで積み立てておいたものです。
14年分で一万一千二百石。どうぞお納めなされ。」

「お前は14年前、言ったな」唖然とする権七に、嘉明は語りかけた

「他家には仕えぬ。わしの一大事には駆けつける。お前の忠心を思えば、わしにはおぬしの俸禄を、
横領することなど出来なかった。そして今、その通りにしてくれた。

権七、またこの嘉明に、力を貸してくれ。」


権七はただただ、感涙にむせんでいた。

大阪の陣の後、会津四十万石に加増された加藤家において、河村権七は良く、嘉明を支えたという。




646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/20(木) 20:54:18 ID:WCRE5V7t
俺の顔面から今、熱涙が垂直に飛び出してきた・・

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/20(木) 20:58:53 ID:sSGXzlXf
嘉明すげー!

塙直之の話があるから意外なイメージ。

648 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/20(木) 21:13:47 ID:lhAliZ52
目から、目から水が…

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/20(木) 21:43:15 ID:Lixrx8z8
イイハナシだなー!

651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/20(木) 22:59:57 ID:VpPbkZI6
この主君にしてこの部下ありだな。

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/20(木) 23:14:29 ID:ZclFbCvS
紫の布が一瞬紫の布団に見えてまさかの展開かと思って焦った

653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/20(木) 23:32:11 ID:yhffuRKw
>>645
どっかで見たことある名前だと思ったらこれか

654 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/21(金) 01:44:57 ID:9hVb0Hg0
>>645の口論の理由が>>653なのかな?そうすれば綺麗に繋がるような。

655 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/21(金) 04:48:27 ID:CHfjyauG
>>645で感動したんだが>>653と併せて読んだら加増は結局200石止まりなのか・・・

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/21(金) 05:13:37 ID:PPSdFcBT
一万石分の俸禄って現代の価値に換算すると数億円分になるはずだけど
いったい河村さんはその大金を何に使ったのだろう

657 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/21(金) 06:55:08 ID:WpjqiV+M
家を買ったり色々使っても結構残りそうだ

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/21(金) 07:20:51 ID:jypY5W5E
年俸200万で足軽100人雇えば2億消える

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/21(金) 18:35:46 ID:y+KTY77U
>>658それでも8億残る



参考
加藤嘉明と奥方と河村権七郎の関ヶ原・悪い話

加藤嘉明と奥方と河村権七郎の関ヶ原・悪い話

2008年11月03日 00:11

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/02(日) 12:23:21 ID:O1uOsHhC
関ヶ原の、奥方衆を守った話といえば、加藤嘉明のところの河村権七郎が、
嘉明の命で、苦労の末大阪の加藤屋敷に潜入して、屋敷に井楼まで組み上げて武装して
奥方を守り通したのだが、

戦後、嘉明がこの功に200石の加増を言うと

河村「オレがどれだけ苦労して奥方守り通したと思ってるんですか!それをたった200石!?
オレの功を関ヶ原で訳のわからん首取った連中と一緒にする気か!あんた何にもわかってないよ!!」

って言って大喧嘩になって、結局河村出奔、ってのがあったなw




この続きは
加藤嘉明と河村権七・いい話