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殊ノ外ホメ奉ル

2020年08月21日 16:48

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/20(木) 20:48:00.62 ID:96SZy5U2
祖父物語』から
有名な話でほかの文献からのまとめ記事がありますが、一応。本能寺後の津田信澄の話。いろいろと記事では混乱が見られますが、そのまま記します

津田信澄明智光秀の指示で大坂に赴いたのは、織田信孝丹羽長秀に腹を切らせようとしてのことだった。
信澄は織田信勝の嫡男で、明智の婿だった。大坂天王寺の千貫櫓にいた。長秀は玉造、信孝は京橋口乾の角櫓にいた。
夜中に信孝の小姓が1人で長秀宅に向かい、「信澄の内々の用意では、信孝と長秀が明日、弔い合戦に出るところを討とうというはかりごとで、京橋に人数を出すと聞いている」
長秀はそのとき、「ずいぶん早いお出でですね。私も信孝様のところに参って御意を得ようと考えていたところです。明朝、弔い合戦に行く名目で軍勢をそろえてお待ちください。私が鉄砲を2発撃ちます。そのとき、采配を取って千貫櫓を攻撃してください。信澄の軍勢が京橋に出るのは幸いなことです。信澄の周りには侍200人ほどがいるでしょう」
打ち合わせの通り、翌朝長秀が鉄砲を2発撃つと、信孝が采配を取って千貫櫓に攻めかかり、即座に信澄の首を取り、堺にてさらし首にした。
「味方の者どもは信長公に(名誉の討死に?)遅れ、士気が落ちているので、まずはこの首をさらし、味方の勢いをつけるがためにやったのだ」と話していた。
信孝が弔い合戦に出陣したとき、信澄の首を板に打ち付け馬印のごとくにして持ち歩いていた。
池田恒興と羽柴秀吉はこれを見て、「お手柄、吉報です。必ずや明智は力を落とすでしょう。明智には子供がいないので天下はこの人に譲るものだと思っていました。お手柄です」と「殊ノ外ホメ奉ル」。



284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/21(金) 08:52:09.49 ID:CFIrcChl
秀吉も子がいないから秀勝を殺せばよかった
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叛賊の光秀が予め計っていたことには、

2019年01月22日 17:57

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 04:13:57.36 ID:lazxmLUg
叛賊の光秀が予め計っていたことには、

「柴田勝家は越前北庄に在城して越後の上杉景勝と対陣し、羽柴秀吉は毛利という大敵と合戦の最中、
佐々成政は越中にあって道は遠い。滝川一益は関東にあって北条を気遣い、容易に出軍は叶うまい。
三七信孝と丹羽長秀らは大坂にあって未だ四国へ発向していないから、この輩は弔合戦をしようと引
き返し、押し寄せるかもしれないと思う。

しかしながら、その中の織田七兵衛信澄(津田信澄)は光秀の婿である。その上、信澄の父・武蔵守
信行(信勝)は弘治3年(1557)に謀叛して信長公のために誅せられた遺恨もあるから、必ず我
に味方するはずの者ぞ」

と内々に頼み遣わすと、信澄は早速一味した。この時は四国発向のために順風を待ち合わせ、信孝を
始めとして丹羽長秀蜂屋頼隆も共に大坂城にいた。信孝・長秀は本丸に住し、信澄は二の丸にいた
ところを、光秀は謀を授け、「もし信孝を謀り殺したならば、その恩賞として摂津を半国授けよう」
と申し遣わしたのである。

信澄は願うところの幸いと大いに喜び、諸々謀を巡らせたが、その陰謀はたちまち露見した。信孝は
丹羽・蜂屋らと相談し、「それならばまずは光秀誅伐の手始めに、逆党である信澄を誅戮する!」と
軍勢を催し、二の丸を取り囲んで鉄砲を厳しく撃ち掛け攻め寄せた。

信澄も「覚悟したこと!」と手勢を指揮して手強く防戦しようとしたところ、その家人・匂坂民部丞
は「逆意であるからとても打ち勝つ戦にあらず」と思ったのか、丹羽に回忠して寄手を二の丸に引き
入れ、信澄はついに叶わずして上田左太郎重安(宗箇)のために首を取られた。

光秀がこれを聞いて肝を潰し、狼狽したことこそ浅ましいことである。

――『改正三河後風土記』


大坂には三七殿と惟住丹羽五郎左衛門殿、織田七兵衛殿の3人とその他小大名衆4,5人がおられた。
惟住五郎左衛門殿の所より秀吉が承ったことには、

「近日中に姫路へ御帰城の由を承りました。早々に御馬を急がされよ。拙者の次第も御弔合戦一つを
志してはおりますが、御存知のように七兵衛殿は日向守の婿であるため、きっと内心は一味同心であ
ると推量致して前の疑いは果てぬ故、大坂を出立しないのはそれが理由なのです。後から様子につい
ては追々注進させます」

と五郎左衛門殿より道中への早飛脚があったと、相聞こえ申し候事。

(中略)

これは羽柴筑前守殿の所から丹羽五郎左衛門殿への御内心と聞いている。

「織田七兵衛殿は日向守と本心は一味同心であろうと存ずる。三七殿と仰せ談じられて、七兵衛殿を
御討ち果たしなさるのが御もっともと存ずる」

この筑前守殿の御内心と、五郎左衛門殿も内々は判断を同じくしていたので、七兵衛殿の御座所の大
坂本丸の外、千貫矢倉へ押し寄せて鉄砲ずくめにして攻撃致され、道理も表裏もなく七兵衛殿を討ち
果たしたのだと聞いているが、まさしく明智合戦は収束した。

(あや表裏なく打果し申と聞え申候扨こそ明智軍はおさまりけり)

――『川角太閤記』



687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 05:39:16.44 ID:mhxHrSOm
大坂城ってあったのか

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/22(火) 08:13:54.80 ID:PazeiqiM
>>687
名前は知らないけど、本願寺を応急措置で修復したものでしょ
ここを本格的な城にして安土の後の居城にするつもりだったって話もあるよね

不覚悟の討ち死に

2017年11月02日 17:30

213 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 17:25:55.37 ID:j17J6I/M
丹波において、織田信澄の扈従の若者6、7騎が朝駆けを行い、敵30騎ばかりの中へ馬を乗り入れ、
それぞれに首を取って帰ろうとした。

この中に居た里見小才助と言う者の乗っていた馬は、三寸にあまり四寸に及ぶほどの大型であったが、
馬取は付かず、殊に腹帯もしっかり付けられていなかった。

鎧武者が指物を指して、首と槍と抜いた刀を持って乗ろうとすれば、鞍が返って上手く乗ることが出来ず、
そうしてもたもたしている間に敵が数多返してきて、小才助は討たれてしまった。
そして他の6騎は小才助を助けずに帰ったため、その頃その行為に対して批判が有ったそうだ。

大柄の馬に乗るべきではない、というのはこういう事であり、かつその上に、彼は馬の腹帯が
鞍の固定のために大切であるということを知らず、かといって鞍をつけない馬に乗る術も知らず、
その身の不覚悟のために討ち死にし、それだけでなく傍輩まで人々から批判させてしまった。
まさに誤りと言うべきであろう。

(士談)



214 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 17:33:38.20 ID:SXEm+Gu2
そんなやつに馬のせんな

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 18:33:24.83 ID:zdtRAxdV
今の出来事に置き換えるとバイクで立ちゴケするようなもんか

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/02(木) 20:33:18.88 ID:9+jJPnHU
舅の援軍として丹波に赴いたのかしら
信澄の話は貴重だねえ