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馬場頼周の謀略

2020年01月21日 14:08

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/21(火) 11:34:34.43 ID:BnZENNFy
肥前国の馬場頼周は、少弐の一族であり肥前国内に領地広く、その威勢はびこり、嫡子六郎政は
龍造寺家純公の聟として、龍造寺家と結ばれていた。であるのに、頼周には偏執の心有って、龍造寺の
威が強くなるのを嫉み、少弐冬尚へこのように申し上げた

「公は龍造寺を至忠の者と思召しているのか、龍造寺家門をも後見とされました。あの龍造寺剛忠は、
公の御ためを存ずるようにしながら、内々には大内家に内通し、自立を謀っていると聞き及んでいます。
これが誠であればまさに腹心の病であり、災が起こった後では悔いてもその甲斐はありません。
速やかに、先ず龍造寺剛忠を滅ぼし領地を召され、その後ともかくも御計策あるべきです。」

そのように言葉巧みに讒言したため、少弐冬尚もこれを信じ、馬場とともにその事を謀ったのは
実に愚かであった。これこそ少弐家を断絶させるための天魔の進めだったのではないかと、浅ましく
覚えるのである。

ともかくも時日を移すべからずと、謀をめぐらせて先ず龍造寺の御一家に命じ、西肥前の有馬に従う
者たちを退治するようにと言い、一方で西肥前の侍たちに密かに遣いを送り、有馬氏と通じて密かに
龍造寺を討とうとしたのである。

当家(龍造寺家)はそのようなこと夢にも思わず、軍士を率いて先ず多久宗時の梶峰城を攻め落とし、
六郎次郎周家を遣わしてその城を守らせた。十一月には上松浦を攻めて鶴田因幡守の大川野城を囲み、
日を経て弱らせた。同二十三日、龍造寺伯耆入道剛雲、同讃岐守、同日向守が先登して討ち死にされた。
城主の鶴田は和平を請い、波多三河守も和睦した。

天文十四年正月、千葉種連と龍造寺は連携して有馬を襲うため藤津郡に出張した。正月十六日、平井治部大輔、
前田伊予守、昌永左近等の諸侍が急襲してきたためこれと戦い、龍造寺右京允が討ち死にした。

同十八日、軍を返したが敵が食いつき難儀であった所を、於保備前守、龍造寺新五郎が志久峠にとって返し、
彼らが討ち死にしている間に味方はようやく佐賀へと帰った。

ところがこの時、西肥前の諸将悉くが押し寄せ佐賀を囲んだ。牛津川より東の諸侍、八戸、高木、神代、
姉川、本吉、小田、江上、犬塚、馬場、横岳、以下の人々一人も残らず少弐の命を受けて龍造寺を囲んだのだ。
佐賀城中はさながら籠の中の鳥のごとくとなり、これに馬場頼周は悦び、「この上は謀を以て容易く滅ぼすべし」
と、城中に入り剛忠公にこう申した

「今度の西肥前退治の事、全く有馬追討のためではなく、貴老が大内に内通していると讒言する者があり、
冬尚公もお疑いに成り、西肥前の人々に通じて貴家を絶やさんとするものである。とにかく、先ずは
ここから下城して貴老は筑後に赴かれるのが良い。そして御子孫を私が請け取り、御屋形に対し貴老に
罪のないよりを申し開きます。」

このように懇ろに言って帰った。しかし城中は評議まちまちとなりまとまらなかった。ここに馬場頼周はまた
遣いを立てて『それがし貴殿と縁を結び、別心更に無し。しきりに御屋形へ訴え三息を許されたのだ。
家純公、家門公、純家公は早く筑前へ赴かれよ。周家公、家泰、頼純は屋形に参り拝謁されるべし。
御一家免宥の儀も、この頼周がこのように有りますから、時日のかかることはありません。かえすがえす、
老心を悩ませることこそ推し量り存じ候へ。』と、誠に余儀なき内容であった。

老臣の面々「馬場頼周は誠に御縁者であると言っても、烏喙(欲深い)の相有る人であり、御下城されて
所々で憂き目を見られるより、ともかくこの城にて安否を極められるべきです。」と口々に申すのを
老公つくづくと思し召され、

「面々の諫言一理ありと雖も、つらつら事の心を思うに、野心の名を得て死ぬのは弓取りの本意ではない。
私に野心のないことは天が知っている。もし邪を以て正を謀るのであれば、私ではなく頼周が無道なのであり、
天がもし誠を照らすというのであれば、虚名がいつまでも語られることはない。ただ一旦の心地よきを
差し置いて、末代まで二心の名を得ない事こそ本意である。」

そう言って、正月二十三日、御嫡男である豊後守家純公、次男和泉守家門、並びに孫三郎純家を筑前へと落とされた
のである。

(肥陽軍記)

馬場頼周の謀略による龍造寺家の危機についてのお話



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戦国時代起源(?)の踊り「面浮立」編

2010年04月11日 00:10

258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/10(土) 09:58:54 ID:d8esvDzc
阿波踊りの話が出たので、戦国時代起源(?)の踊りで二話

享禄3年(1530)、大内義隆は九州の名族・少弐氏の息の根を止めるべく、筑前守護代の杉興運を討伐を命じた。
幕府から太宰大弐の官位を買い、侵攻の大義名分を得た大内氏に対し、既に本国・筑前を奪われた少弐氏は
悲壮な覚悟で戦いに臨んだが、たちまち劣勢に立たされた。

少弐氏配下の龍造寺家兼も、大内軍の朝日頼貫を討ち取ったものの多勢に無勢、ついに敵に取り囲まれ、
さすがの家兼も覚悟を決めたその時、

ヽ( ・(ェ)・ )ノ  クマー
「!?」
ヽ( ・(ェ)・ )ノヽ( ・(ェ)・ )ノヽ( ・(ェ)・ )ノヽ( ・(ェ)・ )ノ  クママママー

「な・・・なんじゃ、あの赤熊(シャグマ)どもは!?」
突如現れた赤熊(ヤクの毛を染めた兜・母衣飾り)に漆黒の鬼面をつけた謎の部隊が、大内軍に襲いかかった。
勝ち戦に気の緩んだ大内軍は、異様な軍団に横合いを突かれ、見る見るうちに陣を崩される。
「な・・・なんだかよく分からんが、我らも続けーっ!!」
このスキに体勢を立て直した家兼が反撃に転じ、形勢は逆転。大将の杉興運は、本国に逃げ帰った。

「助かった・・・それにしても、彼らはいったい・・・?」
疑問の解けぬ家兼の前に、赤熊軍団の将らしき者がやって来て、鬼面を外して一礼した。
「佐賀郡鍋島の郷士、平右衛門清久と申します。良将に仕えたいと考えておりましたが、龍造寺殿こそと思い
機会を伺っていた所、今日の苦境を拝見し、助太刀に参りました。どうか、家臣の端にお加え下さい。」

喜んだ家兼は、清久の次男・清房に孫娘を嫁がせ、鍋島家を重臣として遇した。鍋島の者は戦勝祝いに
赤熊の装束で練り歩き、それが元となって佐賀の無形文化財「面浮立」が生まれたという。




260 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/04/10(土) 10:17:27 ID:YwqSSYxW
>>258
やはり戦勝祝いとか、祭りとかになると、気が弛みがちになるわな…
ベッキーが怒るのも無理ないか。

261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/10(土) 10:30:58 ID:jdKvYTxg
これか!

http://www.youtube.com/watch?v=_WDduCp6CN8
面浮立

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/10(土) 23:56:07 ID:l0EQq4xh
>>258
あの山向こうに鬼どもがー、いるとは一度も知らなんだ~、っと小学校の頃踊ったなあ
なんか鬼の面つけて敵を追い払ったのが面浮立になった、見たいな歌で知ってたけども
戦国時代っていうのは当時知らんかったなあ
今思うともったいねえー

まぁうちの地域は浮立はあったけど面浮立はなかったから、面浮立はパチモンみたいなよくわからんこと思ってたのよな

竜造寺、少弐・馬場に酷い事される・悪い話

2008年12月03日 00:06

937 名前:932[sage] 投稿日:2008/12/01(月) 23:45:04 ID:dkChs8g2
江戸期の伝記系の本には、やっぱりお家万歳系の良い話が多いね。
でも良く見ればすぐ近くに、悪い話として書けることがあった。

話の概略を知っている人は*印まで飛んでください。

そもそも事件の発端は、少弐が家来である竜造寺の隆盛を危険と感じたのか、
同じく家来である馬場がねたんだのか。
少弐の命により、西肥前の軍勢を中心に竜造寺の居城・佐賀城を包囲した。
馬場は、竜造寺勢に対し、開城して、孫を謝罪の使者とし、その他は筑後・筑前に退くことを勧告した。
竜造寺家兼はこれを飲み、一族はバラバラに行動。
少弐・馬場はこれを強襲。
竜造寺一族や郎党の多くはうたれ、家兼は命からがら筑後へのがれた。

*竜造寺一族6人の首は実験にかけられたのみならず、城門に埋めて、往来の人々に踏ませたという。
なお後に頼周父子を討った家兼は、頼周らの首を同様に佐賀城に埋めることを家来に提案されたが、
「人倫の所業にあらず」として退け、萬寿寺、高城寺にて供養している。


竜造寺家兼と馬場頼周家臣、薬王寺隼人・いい話

2008年12月02日 00:51

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/01(月) 22:50:06 ID:dkChs8g2
とりあえず話を変えるために、手元の本を開いて一番最初に目に入ったエピソード

竜造寺一族を謀殺した馬場頼周は、やがて竜造寺家兼らによって討伐され殺された。
頼周の死に際して、家臣の薬王寺隼人は遠方に行っており、そのまま剃髪し高野山に入ると宣言した。
しかし実際は肥前に帰り、仇を討たんと潜伏し隙をうかがった。
ところが事は露見、隼人は家兼の前に引き出された。

家兼は「なき主君に忠義を尽くすのはあっぱれ」とし、恨みを忘れて自分に仕えるようにいった。
しかし隼人は「一度は有り難く御仕えしても、仇を討ちたい心がなくなることは無いでしょう」といい、
旧主・頼周を追って切腹した。

家兼は、その幼い息子・市之丞を召出し、食禄を与えたという。


以上、息子が親の遺志を継がなかった悪い話?
すみません、どうせ無理やりですよ。



935 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/01(月) 23:16:27 ID:0QV/dilp
>>932
これはいい話では?

936 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/01(月) 23:21:05 ID:+d7KpX7y
>>932
いい話だなぁ
竜造寺は家兼があと10年生きて隆信を教育しておけばああいう末路にならなかっただろうなぁ


938 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/02(火) 00:11:42 ID:6XtV198e
>>936
・・・家兼の当時の実年令知ってる上で書いてるだろw

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/02(火) 00:17:10 ID:VmdGbFYL
数えで92歳だね

949 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/02(火) 05:42:06 ID:/nfrcFb3
>>938
あたりw
まぁ、冗談はおいておくとして家兼ほど高齢で逆転に成功した武将はそうはおらんだろうなぁ