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尼子の強弓坂田原蕃、一矢七殺

2017年11月29日 23:02

349 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/28(火) 21:11:23.00 ID:Pev+23F+
尼子の強弓坂田原蕃、一矢七殺

 旗返城主江田隆連は、これまで毛利氏と同盟関係にありましたが、庄原の山之内氏に誘われ、4月初旬山陰の尼子氏に味方しました。
この事を知った毛利元就は山口の大内氏に援軍を求め、たちまちのうちに江田領に進攻して来ました。
7月には隆連の家臣で神杉の武田氏が守る高杉城を全滅させ、その勢いで1万数千の兵をもって、1千百人が守る旗返城に攻め込んできました。
 旗返城は堅固な山城であったため、毛利軍は、旗返城の麓、丸山(陣床山)に臨時の城を築き、食糧や水を断つ作戦をとったと思われます。
 隆連の唯一の頼りは尼子氏の援軍でしたが、毛利軍に阻まれて容易には来られませんでした。
 城中にはすでに尼子晴久の家臣で強弓で知られた坂田原蕃(げんばん)を差し向けていましたが、ある日、旗返城の東方を見ると、数十の敵兵が攻め寄せて来るのを確認して、
坂田原蕃は弓を満月の如く引き絞り、よき敵ござんなれと、ひょーと打ち放てば前方よりの7人が田楽刺しに一矢で射ぬかれました。けれどもこれは手柄でもなんでもなかったのです。

 射抜かれた武士は、隆連救援のために駆けつけた尼子の援軍だったのです。(言い伝えによると、高杉城の援軍だったともいわれている)
後、邑人は(むらびと)は、このあわれな武士たちを厚く葬りました。これを七森(盛)塚と呼ぶようになりました。
(圃場整備により現在位置に移されたが、元は高さ1m・直径5mくらいの塚の上に祠が建っていた。)

 旗返城は、水と食料を断たれ、遂に10月になり城兵は夜陰にまぎれて逃亡し、落城しました。

    川西郷土史研究会”
(当地の看板より)



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