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これより長政を恐れて

2021年03月26日 18:25

32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/26(金) 16:59:53.91 ID:/LJeRXU6
浅井備前守長政が、玉淵川を限りとして、斎藤龍興(実際には義龍か)と合戦をした。
ある時、長政は五百ばかりの兵をよりすぐり、関ヶ原野上の宿に火をかけ、樽井の前にある小川に
柵を造り待ち構えた。

龍興勢一万ばかりがここに出ると、長政はこれを聞いて、百人ばかりを菩提の小道より敵の後ろに廻らせ、
自らは四百ばかりを以て敵の油断している所を夜討ちした。
そこに小道より迂回した兵も馳せ来て、思いもよらぬ所より鬨の声をあげると、龍興は内通の者が有ると
思い、慌てて岐阜へと引き返した。

その後、長政は大垣の周辺所々に火をかけさせると、龍興は「敵が勝ちに乗じて大垣を攻めるのだろう、
いざ助けよ!」と岐阜を出たが、長政は引き返す時に、足軽で物に慣れた者達三十人を樽井の土民の
家に隠した。

龍興勢が樽井に入ると、士卒も疲れていたために、兵糧を使って油断していた時、隠し置いた足軽共、
所々に火をかけて焼いた。そして長政勢は思いもよらぬ所へ押し寄せ、斎藤勢を散々に打ち破り、
やがて南宮山に上って敵を待った。

龍興は二度まで敗北し口惜しく思い、「四面を取り巻いて余さず討たん!」と押し寄せたが、
長政見て「敵は大軍なり、十死一生の戦とはこれなるべし。我が下知無き内は箭の一筋も
射るべからず。」と言って、敵が攻めかかってくるのを待って、山の上より一文字に
切って懸ると、龍興大いに敗軍して、これより長政を恐れて再び合戦すること無かった。

常山紀談



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信長は手早き大将なので

2018年11月10日 16:44

425 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/09(金) 17:20:01.51 ID:WhLjlONa
(姉川の戦いの直前)

織田信長は龍ヶ鼻に本陣を張り、総軍は横山城を取り囲んで攻めること急なり。城中には三田村・大野木・野村・
高坂、その他宗徒の者どもが少しも弛まず防戦するが寄手は大軍のために叶い難く、頻りに小谷へ加勢を乞うた。

浅井長政は小勢ながら捨て置き難く、8千余騎で小谷より出勢して大寄山まで着陣した。その時、越前よりも加勢
に朝倉孫三郎景健の1万余騎が26日に近江へ着陣する。神君は23日に近江坂田郡に御着きになり、24日に

信長の龍ヶ鼻の陣所へ御越しになって御対面された。浅井方では越前の加勢が来ることに力を得て「明日必ず一戦
すべし!」と評議した。長政の計策は「信長本陣の龍ヶ鼻まで50町あるので、ただちに攻め掛かれば人馬は

疲れてしまうだろう。今夜野村・三田村へ陣を移して、明日の夜明けに信長本陣へ切り入らん!」とのことだった。
浅井の家人・浅井半助はこれに「信長は手早き大将なので、野村・三田村までの陣替は覚束なく思われます。

今少し軍勢の様子を御覧になるべきでは」と申した。一方で遠藤喜右衛門(直経)は「長政の御謀はもっともなり。
是非一戦で勝負を決しなさいませ。私は敵中に紛れ入って、信長と引き組み討ち果たしましょう!」と申した。

長政は大いに喜び、27日の深夜に越前勢は三田村へ帰り、浅井勢は主計村・野村に移る。果たして半助の言葉に
違わず信長は「敵方が終夜火を焚くのは朝に合戦を心掛けているものと見た」と味方の備定めをされた。

――『改正三河後風土記(東遷基業・岐阜記・武徳編年集成・四戦紀聞)』



498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/11(日) 03:43:41.72 ID:fcfYanbe
織豊期って成り上がりで大名になったのがたんまり出てきたから
それ以前や以後と比べてパワハラアルハラが多そう
その分自分が間違ってたと思えば素直に悪かったといえる
ある意味で君臣間の距離が近しい空気もあるけど

形は人であるが、心は畜生である

2018年01月05日 15:54

454 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/05(金) 01:10:37.80 ID:GQe9Igv/
小谷落城の時、浅井備前守長政が既に自害に及ぼうとしているのを、織田信長
不破河内守(光治)を遣わし、このように伝えた

「今までの縁者の好があるのだから、私の方に少しも疎意な気持ちはない。
ただ兜を脱いで、降参してほしい。」

長政はこれに返答もせず、しきりと自害しようとしたのを、傍の者達が諌めた

「信長がこれほどまで慇懃な礼を遣わした以上、何か仔細があるのでしょう。
どうか平に御降参あって、御家の相続を成されるべきです。」

この説得に長政も遂に同意し、「であれば、父下総守(久政)の生害も御免あるべし」と申し送り、
城を出て、百二三十騎ばかりで、降参の体を示した。

信長はこれを櫓の上から目にすると、声高に罵りの声を上げた
「彼は長政か!何の面目あって降参するのか!?」

長政は大いに面目を失い、その道から赤尾美作守の宿所に入り、そこで自害して果てた。

この時、浅井の重臣である浅井石見守赤尾美作守も続いて一緒にはせ入り自害せんとしたが、
大勢の敵に隔てられ、また彼らは老齢でもあったので足がついていかず、剰え生け捕られてしまった。
信長は彼らを引き出させ、また罵倒した

「汝らは故なきことを長政にすすめ、朝倉と一味して親しき我を敵と致し、
今このような姿に成り果てた。何か言いたいことはあるか!?」

赤尾は何も言わなかったが、浅井石見守は居ずまいを直して言い放った
「事新しき仰せに候!朝倉義景を相違わず立て置くとの誓状の血判が未だ乾かぬ内に、
越前に攻め入った事、これによって長政は義理を違えず義景に一味したのだ!

只今も、『城を出られ候へ、別儀あるまじき』と様々に言ってきたが、長政は
『信長の心中は、手の裏を返すつもりなのだ。ただ自殺すべし。』そう申されたのを、
『もし天命あって長政様の命が続けば、時節を得て信長をこのように仕りましょう!』と、我らが
達って諌めた、そのためにあのようになったのだ。

御辺はただ、天運が強いだけだ。義理を知らず恥を知らず、全てに偽りを行い、
形は人であるが、心は畜生である!」

そう憚ること無く言うと、信長は激怒した
「汝はその言葉と違い、生け捕られているではないか!」

「我ら老衰し、止むを得ず生け捕られた。だがこのような事、古今に例も多い。
武勇にて敵を討たず、偽りを以って人を滅ぼす。これは武士の恥辱である。
今に見ておれ、御辺は必ず、下人に頸を斬られるであろう!」

信長は憤激に耐えず、杖で石見守を打った。石見守はカラカラと笑い
「搦め捕った者へのかくの如きはからい、あはれ良き大将の作法かな。
いかほどでも打てや犬坊!」
そう言い放った。

この後両人とも、斬罪となった。

(士談)



455 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/05(金) 14:10:16.44 ID:Y5hAbSpF
江戸時代の人はこういう信長像を信じてたんやなぁって

456 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 10:59:06.70 ID:fLWOIJC3
かと言って現代の信長像が正しいとも限らないのが難しいところ
七回忌にはすでに世間に忘れられた存在になってたり
秀吉がその後の法要をやめても非難の声すら出なかったり
信長と同時代を生きた人間達のドライな対応を考えると
現代の持ち上げとの差が興味深いね

457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 11:07:57.66 ID:eCvOkl/F
三好長慶だってあっという間に忘れ去られたしなぁ。

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 11:14:44.36 ID:VaK1oG/E
信長の信奉者は三斎の他には誰がいたんだろう

459 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/01/06(土) 11:44:25.80 ID:BFNYuTQs
森一族は信奉してそうだが

460 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 12:54:14.27 ID:027hV0Ea
政宗

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 13:12:31.57 ID:b26EW6jH
信長の場合忘れられたんじゃなく秀吉に吸収されたといった方が正しいだろう

462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 19:23:00.32 ID:V+zRlDZ1
実は信長が暴君だったって話を広めたのは秀吉なんだよね。
秀吉が編纂させた天正記なんかは、露骨には書いてないけど「信長はすごい暴君だから裏切られまくった!
そんな信長に誠心誠意忠義を尽くした秀吉偉い!」
って基調で書かれてるし。

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 19:52:49.88 ID:VtzcOti0
怖くて逆らえずに共犯者に成り下がったただのヘタレやん

464 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 20:06:27.07 ID:b26EW6jH
>>463
それに従った全日本人はヘタレを超えたヘタレであり君もその子孫ということになるんやがw

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/06(土) 20:26:49.68 ID:51Y0Y3LF
なのに「俺は信長ほど甘くない」と言っちゃうラスボス。どんだけやん

そのようなことはあるはずもないものを、

2016年02月05日 12:41

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/05(金) 00:56:23.91 ID:wJtdm8/P
浅井の平生の存念は、越前が平定すれば、江北は肝要の
場所であるため、浅井も追い立てられるであろうというもので、

その旨嫌疑に及び、先年敵対したのだとか。

およそ信長公は大心第一の将であるため、そのようなことは
あるはずもないものを、

このように疑ったのは浅井の運の窮するところであろうか。

――『当代記』



浅井長政嫡子、万福の事

2016年02月03日 18:37

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/03(水) 08:01:35.51 ID:bT7LTetB
備前守(浅井長政)の嫡子に万福という者がいた。越前に人質として
送り遣され、越前平定後は加賀国に行って隠れていたが、

盲人となったので、母、または祖母公(信長の母)を頼って出たところ、
近江国木本にて信長により誅殺された。

――『当代記』



浅井長政斎藤龍興と軍の事

2015年01月25日 17:07

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 16:01:16.11 ID:nDHE0pBS
浅井長政斎藤龍興と軍の事

浅井備前守長政は玉淵川を場所を決めて斎藤龍興と戦をした。
或る時長政は五百ばかりの兵を選び、関ヶ原野上の宿に火をかけ、樽井の前にある小川に、柵の木を結んで待ち受けた。
龍興は一万ばかりで出てくると長政は聞いて、百人ばかりを菩提の小道から敵の後ろへ回らせ、自ら四百ばかりで、敵が気を緩めているところを夜討ちした。
思いもよらぬところから鬨の声が上がったので、龍興は内通している者がいると思い、慌てて岐阜に引き返した。
長政は大垣のあたりに火をかけたので、龍興は
「敵が勝ちにのって大垣を攻めるのだろう、いざ援けよう。」
と岐阜を出たら、長政はすぐに引き返して、熟練した足軽三十人を樽井の土民の家に隠して、龍興が樽井に入って士卒が疲れたので、
兵糧を食べて油断しているときに、隠れていた足軽達は、所々に火をかけて焼いて煙を立てた。
長政は思いもよらぬ所へ押し寄せて散々に敵を打ち破り、すぐに南宮山に登って敵を待った。
龍興は二度も敗北し、口惜しく思って、四面を取り巻いて余さず討とう、と押し寄せた。
長政はこれを見て、
「敵は大軍である。十死一生の戦とはこのことだ。我が下知がないうちは矢の一筋も射てはならない。」
と言って攻めかかって来るのを待って、山の上から一文字に切ってかかれば、龍興大いに敗北して、これより長政を恐れてまた戦をすることは無かった。
(常山紀談)



600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/25(日) 20:10:13.10 ID:gS2gNwYx
wiki見たら1563年に美濃遠征とある
留守中に六角が攻め寄せたんで赤尾が兵500で殿したらしい

遠藤喜右衛門の諫言

2012年06月28日 21:02

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/27(水) 21:13:38.31 ID:zrrGgult
永禄11年8月5日、上洛を開始した織田信長は7日、馬廻の侍わずか二百四五十で、妹婿である
浅井長政の待つ近江佐和山城に入り、初めての対面を果たした。このとき京童たちは
『婿入りも無き先の舅入りとはこの事よ』と言いはやしたという。

その後各地の情勢報告が行われたあと、信長一行は近江柏原の成菩提院という天台宗の寺に座を移し
そこに一泊した。この寺において接待のため長政から浅井縫殿助、遠藤喜右衛門、中島九郎次郎が
付けられた。様々なもてなしに信長も非常に機嫌がよく、夜すがら打ち解け、酒宴の後就寝した。

これを見届けると遠藤喜右衛門は早馬に鞭を当てて急ぎ小谷へはせ帰り、長政を諌めて申し上げるには

「信長という人物は、大変に表裏の深い大将です。彼の行跡をよくよく見れば、その知略の早いこと、
サルが梢を伝うようです。我が浅井家を縁者として組み込み、こちらに参って懇切に言ってくるのも、
ただ上洛のための、当面だけの事です。功成り名を遂げたならば、朝倉も当家も必ず敵とするでしょう。
また、終始信長の気に入るように出来るかと考えても、なかなか想像のつかないことです。
そうして信長の怒りを買った時に戦うことになったとしても、必ず討ち負けて後悔しても手遅れとなります。

であれば、今夜柏原において、二百人ほどの供の者たちも皆町家に寄宿し、信長自身は酔いつぶれて
寝入っております。彼の側には14,5歳の小姓2,3人が眠っているに過ぎません。

ここで、どうか私一人に仰せ付けください。今夜中に柏原に罷り帰って、信長を安々と討ち取って
見せましょう。二百あまりの供侍たちも、大将が討ち取られればその上は、我先にと逃げ出すでしょう。
それを追って美濃に入り、岐阜の城を攻めるなら、城主はなく家督を継ぐ嫡男も幼少であり、彼の地の武士たちも
我も我もと味方に参り、美濃・尾張両国は時を移さずして攻め取ることが出来るでしょう。
そうなれば、その威勢に乗じて六角親子を押し倒し、帝都へ攻め上がって天下の仕置を助ける立場になることも…
誠に当家の興廃は、ただこの一挙にあるのです!」

こう言葉を尽くして説得した。これに長政はしばらく迷い、家老や一族を集めて密かに相談したが、一同が言うには

「信長はあれほど当家に対し懇切で、心やすく打ち解け、頼みまいらせているではありませんか。
そんな良好な関係を失い、公方様の上洛を妨げ、その上酔いつぶれて寝ている人を殺すというのは、
籠の中の飼い鳥を殺すのと同じ事です。

それに今のような時節に信長を討ち取れば、人望に背き、天の冥加も恐ろしく、侍の本意が立ちません。
そんなことは、絶対にあってはなりません。」

長政もこの意見に同意し、遠藤の諌めを用いず、彼に早々に帰って明朝も又接待をするようにと命じた。
しかし遠藤が重ねて申し上げる

「天の与えることを取らなければ、災に会うと申します!信長は表裏の大将です!必ず当家を
押し傾けようとするでしょう。その時、この判断が返って災いとなること、私には鏡に写したように
見えるのです!
どうか、どうか私の申し上げたことにご同心ください!」

そう、涙を流して訴えた。しかし長政は頑としてそれを聞き入れなかった。
遠藤も是非に及ばず、何事かブツブツと呟きながらその夜、柏原に引き返していった。

後にこれは信長の運の強さの現れだと言われた。
(総見記)





204 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/27(水) 21:22:30.85 ID:JEjEBXW+
>>202
信長の運の強さは異常

本当になんか憑いてたんじゃないか?

205 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/27(水) 21:40:40.85 ID:WXxewK+D
遠藤「もう手遅れですわ」(ブツブツ・・・)

215 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 08:47:45.14 ID:4lvFuVTE
>>202
遠藤さんは素晴らしい武士だな
もっと評価されるべき

216 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 09:23:46.25 ID:zaxIDqfm
もう出てるけど、長政が離反を決意したときには逆に、もう討つには手遅れだから止めなさいと諫めるんだよなあ

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/28(木) 09:29:30.47 ID:DFjGMWq7
まあ裏切らなきゃ別段潰されはせんだろ
気付いたら家臣になってるだけで

元亀4年(1572)2月 浅井長政書状

2012年06月10日 21:02

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 16:11:17.85 ID:YCk9mbPc
武田信玄の上洛戦により信長包囲網が活発化する中の、元亀4年(1572)2月の浅井長政書状

『(上欠)書状を拝見したところ、懇ろな言葉をいただき恐悦に思っています。
去年12月22日の御合戦(三方原合戦)の次第を承り、耳目に驚愕を覚えました。
三河のことは、これも又信玄様の思い通りに掌握されたとのこと、その事は追々聞いております。
実に珍重であります。
日をおかず尾張・美濃に進軍なされること、偏にお待ちしております。

公方様(足利義昭)も立場を明確にされ、御内書を作られ信玄様に送られました。
こちらの方面でもその後威光を以って、(近江)滋賀郡全体が我が手に属しました。
朝倉義景は緊急に出陣することに決まりました。

申し上げている内容について、我々の方では油断はありません。
織田方から甚だ多くの調略などが行われるでしょうが、猶以て別して我らとご入魂頂ければ、恐悦に存じます。
詳しいことは使者に申し含めました。信玄様に直接申し伝えます。恐惶謹言。

元亀四年二月廿二日              長政(花押)

武田左衛門大夫殿(穴山信君)人々御中


(土屋文書)

『                浅井備前守
                     長政
(越中)勝興寺 御同宿中

前回お便りをしたところ、懇ろなる返報に恐悦に思っています。
そちらの方面の状況を承り、満足に思っています。

及ばずながら申し上げます。今は堅固な備えを構築することに専念すべきです。
輝虎(上杉謙信)との講和をお望みになっているようですが、武田信玄にご相談なくそのような行動をするのは、
全くあなた方にとって勿体のない話です。敵の計略に乗せられる可能性もあります。
我々は示し合わせ同盟をし、互いに同心を誓った、別格の関係なのです。
この事は常々、御門主様(本願寺顕如)の御意も得ています。

また、今月13日に公方様(足利義昭)も立場を鮮明にされ、朝倉義景、そして私に御内書を下されました。
そのためこれをあなた方にもご披見していただきたいと思います。

当国(近江)の滋賀郡も、全体が我が方に属しました。
東国では遠江・三河は申すに及ばず、東美濃の加治田、津保、鉈尾の三ヶ所の城が、揃って武田信玄
属し、甲州勢の先発隊は東美濃に乱入しました。
朝倉義景は我が方面への早々の出兵を決定しました。

申し上げた内容は、着々と進行しております。
諸方面の態勢をこのまま進めていけば、我らの目的が達成されるのは確実です。
どうか活動を停滞させることなく、積極的に策動していくことが肝要です。なお、度々ですが御備えの方は
宜しきように整備してください。

追ってまた申し入れます。恐惶謹言

(元亀四年)二月廿六日               長政(花押)


(勝興寺文書)

浅井長政が信長包囲網間の連絡調整に尽力しているのが、よく解る書状である




882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 16:18:02.29 ID:CX7wcsOz
9月には滅んだんだっけ浅井

884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 22:36:12.04 ID:oGF3ZDbo
浅井タン・・・(*´д`)/ヽァ/ヽァ

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/10(日) 22:41:55.71 ID:qglBnDHt
信玄の病死まで、あと一年と少し・・・

886 名前:sage[] 投稿日:2012/06/10(日) 23:22:45.80 ID:z6kcZuJ3
信長包囲網の調整役か。
どんな心境だったんだろうね。

徳勝寺由来

2011年12月05日 22:01

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/05(月) 00:47:30.15 ID:9LE/C9C7
天正元年(1573年)浅井家が滅亡し、羽柴秀吉が江北一円を与えられ、長浜城を築き
文禄四年(1595年)長浜城に内にある寺を移した

それは浅井家の菩提寺であり、元々は小谷城の背後にある上山田村にあった医王寺という寺を
浅井家初代、亮政が小谷城と共に同山麓に移して菩提寺にしたものだ
それを秀吉は、亮政の法号、徳勝寺殿にちなんで、徳勝寺と改名した

時は流れて徳川の世となった慶長十一年(1606年) 時代は二代将軍秀忠の頃
徳川譜代の内藤信成が長浜を与えられた際、城下の田町に同寺を移転させた
秀忠は、江の父祖の寺なのだからと配慮し、寺領三十三石余を安堵した

更に時は流れて寛文十二年(1672年)
長政の百回忌に、彦根藩主の井伊直惟が現在の地に移転し境内を整備した

江戸中期の頃、中御門天皇が長政に従二位大納言を追贈して以来、皇室が年忌ごとに香料を下賜する慣例になった

そして現在、境内には、亮政・久政・長政の三代の供養墓が並び
寺内には、浅井氏三代の夫婦像や一族の位牌、過去帳などが所蔵されている

逸話じゃないけど、一つの菩提寺でも色々な配慮がされているんだなぁと思ったので




893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/05(月) 09:53:28.26 ID:LT1PHWv7
凄い寺だが、霊感強い人が行ったらなんかこう…

浅井長政、斎藤龍興を評す

2011年05月20日 00:01

681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 11:32:25.09 ID:WpXvErRg
永禄7年(1564)7月の末、尾張の織田信長と美濃の斎藤龍興が戦い、
龍興が敗北した。
また同年8月10日にも両者は戦い、この時は斉藤勢が大敗北をした。
しかし龍興は決して、信長に降伏しようとはしなかった。

さて、この事を知った近江の浅井長政は、赤尾という家臣にこんな言葉を漏らした。

斎藤龍興という人は誠に、今の世の義士である。

将来、我々の武威が盛んになれば必ずこの人を幕下に加えよう。
もしまた我々の武威が衰えて他の勢力に付かねばならぬ時が来たら、
必ずこの人を頼ろう。

ああ、今後の世の中に義士が現れるとは私には思えない。
ただ裕福な商人の友を作ってこれを縁とし、それにへつらうような士や将ばかり多い
世の中ではないか。」

浅井長政による、斎藤龍興評である。
(浅井日記)




682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 12:54:24.20 ID:FPEAlSY0
負けっぱなしの人の下に付いたり、家臣にしようとしたりする
意味が解らんが…
気概だけは立派なり!ってことなん?

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 13:31:56.12 ID:EktnG6Iv
六角に屈した事とかもあると思う

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 14:38:53.63 ID:5OyY7kHY
浅井長政が天庵さまと出会ったとしたら、もはや何が興るか想像できない

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 18:45:04.49 ID:FCmIQRs1
天庵さまって別に義士じゃないよな。奇怪な徳はあるけど

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 19:20:01.94 ID:vLE0dyFo
龍興もどの辺が義士なんだ…
信長=(当時の長政にとって)悪 に一貫して反抗してるから?
それ以外では暗君エピソードくらいしか知らなかったのでwikipe見たら
長政の甥か従兄弟に当たるんだな
キリスト教に接近したからかもしれんが、宣教師からの評価も高い

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 19:22:11.67 ID:Hbqph87K
宣教師の武将評価ほど信用ならないものはない

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:02:44.33 ID:yGWwilAu
宣教師の記録を信じるなら、あの一条兼定はスーパー聖人君主なのである。

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:13:08.36 ID:stFhYcRd
聖人が悪人の策謀に勝てるわけもなく

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:27:07.36 ID:M28elnrz
>>685
義士は菅谷さんと小田領民の皆さんだな。

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 20:43:27.19 ID:q0LMY/Jh
宣教師が入れ込んだ大名が悉く衰退したのは策謀に劣る聖人だったからかw

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 22:19:55.89 ID:APCW+l9I
織田秀信とか前田玄以の息子(パウロ、長男のほう?)も宣教師からは高く評価されていた


693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/19(木) 22:25:39.57 ID:RJMZT/VL
竜造寺「カエサルとか言われて調子こいてたら釣られたクマー」

浅井長政の関ヶ原合戦

2010年05月01日 00:06

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/30(金) 19:52:35 ID:NecJ7J0f
浅井長政の関ヶ原合戦

ある時、浅井長政は五百の精兵を選り抜き、関ヶ原は野上の宿へ討ち入って火をかけた。
報告を受けた斎藤龍興は一万の兵をこぞり、踏み潰さんと打って出る。
長政は圧倒的な劣勢である。
垂井の手前に流れる小川を堀とし、柵を築いて持久の構えをとった。
が、これは見せかけで、長政は菩提の間道に小勢を走らせ、斎藤勢の背後へと走らせていた。
そしてある夜、長政自ら陣頭に立って夜襲をかけ、頃を見て別働隊を思い切り騒がせた。
「さては寝返りが出たか!」
斎藤勢は混乱し、龍興は岐阜まで撤退せざるを得なくなった。

さて、勝ちに乗る長政は大垣までも焼討する。
捨て置けない斎藤勢は態勢を立て直し、再度出撃。
浅井勢は槍を合わせず、あっさりと退いた。
龍興は垂井まで進み、そこで疲労した軍勢に一息入れさせようとした。
が、斎藤勢が休息を取り始めると、家々から轟々と火が吹き始めた。
実は長政、垂井を引き払う際、数十の足軽を伏せさせていた。彼らが手当たり次第に放火しだしたのである。
斎藤勢は右往左往、そこへ長政が斬り込み、またも龍興は逃げるはめになった。

「おのれ!小勢にいいようにされてなるか!」
龍興は怒り心頭。
浅井勢が立て篭もった南宮山へ向かい、包囲を固める。
大軍でもって攻め上ったが、敵からは矢の一筋も飛んでこない。
「はは、戦意を失ったか」
意気上がる斎藤勢が敵陣に足を踏み入れた瞬間。
一丸となった浅井全軍、真一文字に突撃してきた。
斎藤兵は山を転げ落とされ、完全に壊乱して逃げ惑う。
長政らはその隙に包囲を抜け出し、戦場を離脱していった。

これ以後、龍興は長政を甚だ恐れ、再び出陣することはなかったという。




678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/04/30(金) 21:01:10 ID:trW42hTO
>>677
それだけだと、ちょっと戦がうまい話だからなぁ~
長政パパが僻んだり龍興さんが馬を背負って逃げたりとかなかったのかね~!

つか、山科けいすけの浅井長政が戦バカの恐妻家だっけ?
もう忘れたな・・・

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 09:48:57 ID:RpdKWkwH
>>677
義龍でないとてんで駄目か

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 10:20:15 ID:2vKFhKNV
印象では義龍死亡→ほど無く滅亡だけど、実際は結構保ってるよね龍興

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 14:42:59 ID:+w0MYoW4
保ってるとはいえどんどん調略で切り崩されてたから・・・。

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 14:54:50 ID:+4ltOrut
Wiki見たら13で家督相続して19で稲葉山城を失ってたんだね、龍興さん
暗君のイメージあったんだけど、こんな若かったんだ・・・

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 15:12:06 ID:xoxyMMuc
>>686
その後越前朝倉家と運命を共にするまで反信長が活動を延々続けた勇将だったりもする

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 16:14:48 ID:XGK5aQWL
総大将、総責任者としての才能は無くても、一部隊の隊長としての才能はあったてことかな。
痛い目にあって成長しただけかもしれないが。

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 16:32:16 ID:J0SCmgzC
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-category-219.html

今までの龍興の逸話見ても少なくとも暗君じゃあないな、
苦労した事で人間性が磨かれたのかなって感じは確かにする
↑の九右ェ門伝説が本当だったなら良いんだがなぁ、一寸報われて欲しいわ

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 16:42:37 ID:wNft5O00
信長も何度も痛い目にあって成長してるし、失敗が人を強くするんだな
ただ、失敗しすぎて国まで失うともう挽回できないけど

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 18:00:50 ID:9MD+ndr6
>>690
ゴンベ「いや、やり方によるよ?」

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 18:19:59 ID:wwEfqlKK
>691
 ち ね ば い い の に 

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 19:09:57 ID:JJt5EVHp
小田さんは・・・

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/01(土) 22:29:03 ID:zwov4o+D
小田さんは再起動するたびにメモリの内容が消えますから

698 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/02(日) 00:31:04 ID:NxHSUFbG
>>692
長宗我部さんの叫び

浅井長政の降伏

2009年12月27日 00:11

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 17:06:50 ID:DjuibA9D
天正元年(1573)9月1日、
織田信長の攻撃により近江小谷城は陥落寸前となり、浅井長政は今まさに
切腹に及ぼうとしていた。

ところがこの時信長より、不破河内守を通じて

『我らは縁者である以上そなたを疎意に思ってはいない。悪いようにはしないので、
ただ兜を脱いで降参なされよ。』

と言ってきた。長政は「このようなもの返答に及ばない。ただ腹を斬るだけだ。」と拒絶したが、
傍の者たち、「信長がこれほどまで慇懃に言ってくるからには、何かの仔細があるのでしょう。
どうかここは降参なさって、お家の存続を図るべきではないでしょうか?」
などとしきりに言うため、長政も「父久政も許されるならば」と、ついにこれに同調し、
百二三十騎ばかりで、降参の体でもって城を出た。

ところが信長、矢倉の上よりこれを見つけると、彼らに向かって

「あれは長政か!?何の面目があって降参するのか!?」

と、声高に叫んだ。
長政は大いに面目を失い、すぐさまその道沿いの赤尾美作の屋敷に入り、自害して果てた。

信長は長政に、この恥辱を与えんがため降伏勧告を送り続けていたのだろうか?

一般には長政は降伏勧告を最後まで拒絶し切腹したとされているが、浅井家滅亡に関して伝わる
異説の一つである。




376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 18:57:41 ID:jQOt8u8V
|┃三ガラッ! ____
|┃    |どっきり|
|┃ ≡/⌒\ ̄∥ ̄ミ
|┃ ( 信長 ) ∥ サッ
|┃≡(_》^ω^)E)
|┃=⊂   ノ
|┃≡(_ノノ

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 20:47:22 ID:FFAKAVw5
>>375
不破さん気の毒

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/26(土) 20:53:11 ID:vx2EV2jQ
信長、二重人格説

379 名前:奇矯屋onぷらっと ◆SRGKIKYOUM [sage] 投稿日:2009/12/26(土) 20:59:40 ID:byqSJsF4
赤尾曲輪の位置。

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/12/27(日) 00:10:06 ID:+MQzUgek
>>379
これ原文には「赤尾美作の屋敷」じゃなくて、「赤尾美作の衣装部屋」になってるな。

浅井賢政(長政)、六角家臣一の美女平井氏との縁談を

2009年10月16日 00:10

592 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/14(水) 22:48:56 ID:6MCNhAyY
長政がらみでいい話を

浅井久政は六角氏に従属していました。
そして息子の賢政(六角義賢から一字拝領)と六角家臣一の美女平井氏との縁談をまとめました。
しかし賢政は美人というところに反応してしまいました。
美人で懐柔される俺ではないというわけです。
そこで賢政はクーデターを起こし父親の浅井久政を捕え島流しにすると、嫁を送り返し
強大な六角氏に戦いを挑みました。
わずか十六歳の少年と侮った六角氏の油断もあり、圧勝した賢政は北近江を平定し
六角氏に肩を並べる大大名になりました。そして賢の一字も返却し長政と名を改めました。
後年久政配流先の竹生島の宝厳寺には長政の外孫、徳川家光によって大伽藍が建てられました。




593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/15(木) 00:59:40 ID:bSZg3tlU
>>592
なぜ市はおkなんだww>美女NG

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/15(木) 01:10:18 ID:q885aU/t
実は美人じゃなかおっとこんな時間に宅配便だ…

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/15(木) 01:13:00 ID:9bp/i47G
賢くなくなった訳だ

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/15(木) 02:04:54 ID:E+g63Jvm
上手い事言うなぁ

浅井家重臣浅井石見守、信長の前に引き出され・悪い話

2009年06月08日 00:06

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/07(日) 00:15:21 ID:zVpVj5wa
浅井長政が小谷城において自害した時の事である。

浅井家の老臣、浅井石見守、赤尾美作守も、主君に続いて自害せんとしたが、
大勢の敵に取り囲まれ、また老齢でもあったため思いを遂げる事ができず、
生捕りとなり、信長の前に引き出された。

信長は彼らに言う
「お前達は理由も無いのにわしへの反逆を長政に勧め、朝倉と一味して、親戚であるわしを敵とした、
その果てに今、長政は自害し、お前達は絡め捕られ、わしの前に引き出されておる。
何か言う事はあるか!?」

赤尾は何も言わなかったが、浅井石見は信長のほうを睨み

「理由が無い!?なんと耳新しい仰せかな。朝倉義景に手は出さないと誓った、
その血判も乾かぬうちに越前に攻め寄せたのは何者か!?
長政は義理を違える事ができなかったから、朝倉に味方したのだ!
今度も長政に、『別儀は無いので城を出るように』と、何度も書状を出されましたな、
長政は、『信長と言う男は、いつも手のひらを返す事を考えているのだ』と言って、
自害することを選択したのです。
我々は、天命あって命続けば、いつか時節が参って信長をこのように攻め滅ぼせますと
諫めたにも拘らず!

信長様、あなたはただ、運が強いだけの人だ!
義理を知らす恥も知らず、偽りだけを撒き散らす。形は人だが、心は畜生である!」

こう、憚る所無く言ってのけた。

信長はこれに大いに怒った。
「お前はそんな事を言いながら、今生捕られて恥を晒しているのはどういうことだ!?」

「老い衰えて、止むを得ず生捕られること、古今にもよくある事である。
そんな事より、武勇にて敵を討たず、偽りをもって人を滅ぼす。これこそ武士の恥辱で無くて
何だというのか!
今に見ていよ!あなたは必ず下人に首を取られるであろう!」

信長は憤怒に耐えず、杖で浅井石見を打ち据えたが、石見はからからと笑いながら
「絡め取られている者をこのように扱うとは、さすが有能な大将の作法ですな。

いくらでも打てや、犬め!」

この後、浅井石見、赤尾の両人ともに、斬首されたとの事。


まあ、臨場感がありすぎて、おそらくは軍記ものの脚色なのですが、浅井の思いをよく表し、かつ
かっこよかったので、書き込んでみる。





92 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/07(日) 03:18:54 ID:068Sws0v
>>87
血判の血って数ヶ月たっても乾かないものなのかw

いや、冗談ですよ

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/07(日) 09:02:36 ID:It6if6+d
>>87
自分の行いが、後に自分に返ってきたんだ

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/07(日) 12:02:46 ID:AUKIz4WM

>>87
封建社会の完成形は、少数のサディストと、多数のマゾヒストによって構成されるのだ


湖北ヤバイ・悪い話

2008年12月04日 00:02

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/03(水) 14:54:36 ID:hblRdKGn
なるほどこれはヤバイと思ったので転載

303 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/18(火) 22:17:59 ID:pK8dkZf4
ヤバイ。湖北ヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ。
湖北ヤバイ。
まず仏像。もう多いなんてもんじゃない。超多い。
あと伊吹山。標高1377.3m滋賀県最高峰。積雪11.82mは世界記録。ヤバイ。積もりすぎ。かまくら作る暇もなく死ぬ。怖い。
それに超何も無い。超ガラガラ。それに超のんびり。白猪とか平気で出てくる。白猪て。ヤマトタケルでも勝てねぇよ、最近。
なんつっても湖北は雪が凄い。50cmとか平気だし。
うちらなんて雪とかたかだか5cm積もっただけで上手く歩けないから転倒したり、電車遅らせてみたり、ホカロン使ったりするのに、
湖北は全然平気。雪で屋根が潰れるとか茶飯事。凄い。ヤバイ。
とにかく貴様ら、湖北のヤバさをもっと知るべきだと思います。
そんなヤバイ湖北でのし上がった浅井とか超偉い。もっとがんばれ。超がんばれ。



989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/03(水) 18:46:15 ID:tP31AB+K
悪い話じゃなくて
過酷な環境でがんがった浅井エライ!という
いい話向けのような気がしますな >>988

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/03(水) 18:57:29 ID:hblRdKGn
(環境が)悪い話ということで、どうかひとつ。

織田VS浅井!in工事現場!・悪い話

2008年11月13日 00:26

988 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/12(水) 15:47:28 ID:Iz0ZnmJ+
埋め代わりに

永禄12年(1569)、三好三人衆による足利義昭襲撃事件があり、美濃より急ぎ京に戻ってきた信長は
将軍の安全のため、二条城の拡張工事を始めた。

その工事での事

この普請は、織田信長と浅井長政の両者が引き受ける形となり、信長側からは
佐久間信盛、柴田勝家、常識的なほうの森こと森可成、長政の方からは三田村左衛門大夫、
大野木土佐守、野村肥後守が、それぞれ奉行となって進められた。

しかし、実際に普請を行うこの両家の足軽たちは、実に仲が悪かった。
織田方は去年の箕作城の攻めのおりの、浅井勢の働きが鈍かったと悪口をいい、浅井側も
それに強く反発していた、そして、事件が起こった。

佐久間の侍達が何故かわざわざ、浅井の持ち場の方に水を捨てに来たのだ。浅井側が
「何故こっちに捨てるのだ」と言うと

「そのほう受け取りの丁場で捨てずに、どこへ水を持っていくべきなのだ。何さ、浅井のぬる若者ども。」

挑発である。これに浅井の足軽たちは、300人ほどが一斉にもっこの棒をはずし、それを持って
佐久間の足軽たちに打ちかかった。佐久間の側も待ってましたとこれを向かい撃ったが、
浅井のほうが強く、たちまち追い立てられてしまった。
これを見た織田方の奉行、佐久間、柴田、森は、「構わん!刀を抜いて懸かれ!」と下知を出す!
それに頭にきた浅井側の三奉行もこの乱戦に加わる。騒ぎは大きくなる一方。

浅井側が織田側を立売堀川まで追い立てると、騒ぎを聞きつけてきた織田軍の物頭たちが加勢し、
逆に浅井勢を二条まで押し返す。すると今度は浅井家中の者が200人ほど駆けつけ、再び
立売まで追い返した。そこで双方、どうにか兵を引いて分かれた。

この事件で双方の死者150人。
「野戦でもこんなに死者は出ないだろうに」と、京の評判になった。

この日一日織田浅井双方は、臨戦態勢のままであったが、翌日、将軍義昭のとりなしにより、
どうにか和睦したとか。



989 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/12(水) 17:20:53 ID:CEWEtTx9
森と柴田は味方や部下には優しいから止めると思ってたんだがな

990 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/12(水) 17:38:52 ID:axfKA8QP
まぁそこで止めたら主家の面子が潰れるからな。
森の次男坊だったら先頭に立ってたろうなw

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/12(水) 18:06:36 ID:pWH0hv8B
ただの喧嘩なんだよ

993 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/12(水) 18:55:51 ID:MhCeFiA4
>>988
いつ信長が登場するのかwktkしながら読んだけど結局登場せずかw


994 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/12(水) 18:59:22 ID:Iz0ZnmJ+
>>993
一応出ては来るんだけど、柴田たちをなだめるだけで大したことしてなくてw>信長
最後は義昭に丸投げ。


996 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/12(水) 19:18:00 ID:MhCeFiA4
>>994
マジでかw
騒動を聞いて駆けつけてきて権六たちをなだめるが
興奮度MAXな権六たちは聞く耳持たずでそれ以上何もできずに渋々引き下がって
将軍に仲裁を頼む信長の姿を想像してフイタw
信長のイメージと全然ちげえw


997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/12(水) 19:21:36 ID:Iz0ZnmJ+
まあこの頃は形式上、浅井は信長の臣下ではなく、信長と同じ将軍の臣下、って建前だから
織田と浅井という大名同士の紛争を調停できるのは将軍だけ、と、法理論上はそうなるわけで。

998 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/12(水) 19:36:50 ID:yiCcZuqf
死傷者が出ているし将軍の暇つぶしにもなるしな

999 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/11/12(水) 19:38:58 ID:Vp9+vhhx
義昭さん喜んでやりそうwww