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有馬と龍造寺合戦の次第

2018年03月12日 17:08

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/12(月) 14:22:15.76 ID:2vy575Ch
有馬家と龍造寺家が合戦をするようになった次第は、有馬義貞と龍造寺隆信両家の境である、
牛津川と申す所に、龍造寺隆信領分より有馬義貞の領分へ踊りを掛け参り、その人数の内
一両人ほどが、水がほしいと百姓の家に押し入り、水を汲んでいた所、その家の亭主に

「何者なれば案内も申さず、濡れ草鞋にて座敷に踏み上がり狼藉な事をするのか!?」

そう散々に悪口を申したことで喧嘩となり、村中の者達が掛け合い踊りに参った者たちを
数多討ち果たした。

その事が龍造寺に聞こえ、隆信は有馬領分へ攻め入った。有馬義貞領分のうち、杵島郡須古の城代は
平井小左衛門という者であったが、ここには隆信より小川一祐という者を大将として、
永禄11年2月6日に城攻めに取り掛かった所、城中より人数を出し、龍造寺勢を須古の百町無田へ
追い込め、大将小川一祐を始め雑兵たち尽く討ち取った、
そこで須古の城より落書を立てた。当時龍造寺隆信の城下は中坂と言っていたため

 中坂は 花のみやことききつるに 少しの風に一祐もなし

永禄12年2月7日、龍造寺隆信は大軍で須古城へ取り掛かり、須古は落城した。
またこの時、先の須古の落書への返歌を立てた

 いたはしや そうこひたひにかね付けて へたはら響く須古のかたがた

(有馬晴信記)


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