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一色義定室・伊也姫の事

2020年03月21日 16:47

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/21(土) 02:23:17.00 ID:7Ug6HP5N
>>928の続き

細川忠興は予てより米田監物(求政)と密談して、
「一色五郎(義定)を打ち留めた時は、汝は早く義定の居城である弓木城に馳向かい、
(忠興の妹である)五郎の室受取るのだ。もし城内の侍たちで、少しでも擬議する輩があれば、
一々に頸を刎ね城を破却して帰るべし。出馬の合図は狼煙である。」
と伝え、騎馬十四、五騎に足軽を付けて置かれた。

宮津から西に向かって、のろしが嶽よいう高山があった。この山に予め煙の役人を付け置かれ、一色を討つと等しく、
城内に煙を上げると、山上にも狼煙を立てた。かの十余騎の兵ども、その方々の一味の者、この煙を見ると
監物に従って弓木に押し寄せ、城内に言い入った

「御内室の迎えとして、米田監物ここまで来たり候也。この上は仔細無く渡し給え!」

そう申し使わしたが、城内からは返答にも及ばず、夥しい鉄砲を打ち出した。
城内には天下無双の鉄砲の上手、稲富伊賀(祐直)という者が在り、極めて正確に射撃すると、寄せ手は
たちまち死人多く出た。
監物は先ず野田の橋詰まで引き取り、重ねて使者を以て城中に申し使わした

『内室のみを渡し給わば、面々には仔細無い。只今卒爾の働きをし給う故、味方に手負いが少々出来たが、
それは武士の作法であればどうして苦く思うだろうか。これは私が、藤孝の前で宜しく取りなし申す。』

そう懇ろに申し遣わしたが、城内の評議は喧々にして、とやかくという間に、傍の者共が内室を人質に取って
後ろの山より忍び出て、但馬を指して落ちていった。
監物はこれを聞くと即座に諸鐙にて追いかけ、但馬国藤の森にて追いつき、恙無く内室を取り返して、
米田は宮津へ帰った。

(中略)

一色(義定)殿の御内室は、宮津へ帰られた後に五郎殿の打たれ給わった終始をお聞きに成り、最後の時を思い
深く嘆かれ、このように仰られた

「過ぎし八日の卯の刻(午前六時ころ)、殿は私に向かって宣われた。

『今日は細川殿と対面する。我等が家と細川殿、互いの先祖は親しくしていて、代々公方様に仕えつつ、
ここかしこの戦いに、互いに頼み頼まれて力を合わせていたと見え、そういった古き文なども残っている。
その子孫の末と成っても、昔を思えば懐かしいものだ。
それが、このように親子の縁と成ったのも、宿縁の浅からぬ不思議さよ。』

このように宣われ、誠にいつもより睦まじく、馬鞍綺麗に装わせ。弓木を出給うたのだ。

去年の夏の五月の頃に私が一色殿の元に参ってから、このように賑々しい供人で、どこの地にも出かけられた
事はなかった。私も一入嬉しくて、城の窓より見送ると、須津の浜道を過ぎられ山路にかかられた所で、
また朝霧が吹き払われてとても幽玄に見えた。しかしそこから、生い茂る松陰に見失い参らせ、
供人も見えなくなると、心の内に味気なく、そぞろに涙がこぼれるのを、忍んで人に見せなかったが、
殿が城を出られたことに涙を流したのは忌まわしいことだと思い、盃を出させ女房たちをも慰めたのだ。

それなのに、思いの外のことが有って失せさせ給う哀しさよ。このような企てが有るなどとは、私は夢にも
知らなかったが、御最期のその時に、さぞ私を恨まれたであろう。」

そう、明け暮れに嘆かれた。

丹州三家物語



930 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/21(土) 07:19:29.62 ID:9tXeVMOo
>>929
まさに悪い話…

931 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/21(土) 18:57:41.06 ID:cNtRGQG+
光秀「手段は選ばぬ。勝つためならば。」

932 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 06:17:42.39 ID:An2HW4k+
米田監物って、針薬方に出てくるあいつか。光秀とは深い付き合いだったのかな、田中城籠城以来

933 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/23(月) 17:41:19.37 ID:CHPz+jBH
一色が光秀に味方し長岡が秀吉に味方した
長岡の内室は光秀の娘
生き残る選択肢は少なかったと思う
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一色義定謀殺

2020年03月20日 15:42

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/20(金) 03:55:08.86 ID:xMBLyZ5b
天正九年の三月に、細川藤孝・忠興父子は丹後に入国され、明智光秀が予てより取り持たれた契約の事であったので、
その年の五月に細川藤孝の息女を一色(義定)殿に嫁がされた。

同十年九月八日、五郎(一色義定)殿が宮津の城に聟入りあって、細川父子に対面した。
この時、未だ宮津の城は完成していなかったため、はかばかしい座席も無く、そのため大手の内にあった、家臣・
有由士郎右衛門の宅に於いて五郎殿を饗応し、既に酒宴に及んだ。

細川藤孝が抔を一色殿に差し、五郎が抔を取り上げて、頂こうとしたその時、忠興が一色を討った。
しかし少しかわしたか、弓手の肩を討たれた。
五郎も流石壮士にて、勇猛をふるったものの、大勢が出合い、取り籠めて遂に討たれ給うた。
いたわしき有様であった。

五郎の扈従に蘆屋千八、金川与藤という者たちが有り、彼ら二人は常に一色の身近くに仕えていたため、
この時も召し具され次の間に在ったのだが、彼らについても予め討手を用意し、一色殿と同時にこの二人も
討たせた。蘆屋、金川は勇士であり、即座に抜き合い、討ち手も手負ったが、多勢に無勢であり、叶わずして
二人共討たれた。
その他の一色衆は、予め大手の門外に町家を建て、そこに置かれていたのだが、城内が何やら騒がしく、
一色討たれ給うと聞こえると、「すわ!我先に!」と抜き連れて追手の門へ入り込もうとしたが、細川衆
切って出て、大手の橋を轟かせ追い返して戦った。手負い、死人多く出て、一色方は十三人が枕を並べて討たれた。
生き残った一色衆は皆、弓木に引き取って堅固に城を固めた。

丹州三家物語

細川父子による一色義定謀殺についてのお話

続き
一色義定室・伊也姫の事


これぞ一色滅亡の基であった

2020年03月18日 18:05

924 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/18(水) 00:51:26.24 ID:F8JL/9mO
丹波福知山の住人、細川兵部太夫藤孝の子息、與一郎忠興の丹後入国の由来を詳しく尋ねるに、
天正の頃、織田上総介平信長は弓箭盛んにましまして、東は美濃尾張、西は播州を限りに、五畿内南海、
悉く信長に属し奉った。しかし丹後国は未だ御手に入らざりしを、明智日向守光秀が謀して、
河北石見という者を大将に仕り、雑兵二、三〇〇ばかりにて丹後国を大物見にて差し越しける。

河北石見、先ず与謝郡石川谷に討ち入り、堡塁二、三ヶ所落とし、その勢いに国中を遵見しようとしたが、
国侍たちは強く、在々所々にて河北の人数は打ち留められ、河北石見はほうほうの体にて丹波を差して逃げ帰った。

猶も明智は当国に謀をめぐらし、終に一色五郎(義定)を欺き、細川の聟に仕ることを取り持った。
細川與一郎忠興は光秀の聟である故にだろうか、丹後半国を細川父子に参らせ、一色・細川両旗にて
堅固に治め給えば終始然るべしと、光秀が強いて取り持ったのである。

一色殿は代々丹後の国主として、一色五郎は近年は宮津八幡山に居城していたが、天正三年、父左京大夫(義道)
卒去の後、国中の諸士五郎殿を背き、それぞれ不敬を以て会うような時節であったため、本意ではなかったが、
流れに棹さす心地して、光秀の計らいに任せた。

中郡、竹野郡、熊野郡は一色殿、与謝郡、加佐郡は細川と定め、その上一色殿は奥郡手使いのためとて弓木の城に
移し、八幡山は細川に渡されすべしと定まって、細川父子入国のことを了承された。
これぞ一色滅亡の基であった。

かくて細川父子の人々、天正九年の三月に宮津に入り、八幡山に入城されたが、こうして河守あたりより奥宮津までの
地侍、百姓たちは細川に従った。城持ちでは、公庄但馬下村の城主。上原徳壽軒、奥宮津の小倉播磨、惣村の城主
北庄鬚九郎、これらの者達が先ず細川殿に従った。

翌年子の年よりまた、宮津の平地、海寄りの場所に城郭を築いたが、丹波国より明智の人足が多く来て、
城普請を致した。

丹州三家物語

丹後国と一色義定明智光秀、細川父子について



御最後の時、さぞかし私の事も

2018年02月09日 21:04

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/09(金) 08:31:11.41 ID:LuXzig//
細川幽斎・忠興父子により、丹後弓木城主である一色五郎(義定)が謀殺された後、
幽斎の娘であったその内室は宮津へと帰った。そこで一色五郎の討たれた終止を聞くと、
その最期の時を想い深く嘆いて過ごした。彼女はこのように語った

「過ぎし八日の卯の刻(午前6時ころ)、殿は私に向かってこう仰られました

『今日は細川殿と対面する。我が家と細川殿、互いの先祖は親しくして代々公方様へ仕えつつ。
ここかしこの戦において、互いに頼み頼まれ、力を合わせてきたと見える、古い文なども
今に残っている。子孫の末となったが、昔を思えば懐かしく、またこのように親子の縁となった
宿縁の浅からぬ不思議さよ。』

そうしていつもより丹念に、馬鞍をきれいに装わせて弓木を出発されました。
私が一色に嫁いでより、あのように賑々しい供人にて、いづくの地へも出かけたことはありません
でしたから、私もひとしお嬉しく、城の窓から一行を見送りました。
須津の浜道を過ぎ山路に差し掛かると、そのあたりを覆っていた朝霧も吹き払われ、とても幽幻な
姿に写りましたが、それもやがて松陰に見失い、供人も見えなくなり、心の中にやるせない思いを成し、
そぞろに涙がこぼれそうになりましたが、忍んでそのような姿を人に見せませんでしたが、なにやら
不吉な気もして、盃を出させ、女房たちも慰めました。

それなのに、思いの外の事があって失せさせられた哀しさよ。
このような企てが有ったとは、夢にも知りませんでしたが、御最後の時、さぞかし私の事も
恨まれたでしょう。」

そう、明け暮れに嘆かれたという。

(丹州三家物語)



529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 14:30:50.66 ID:xivEyj3j
兄が基地外だと普通の男が優しく見えるようだ

530 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/10(土) 15:31:24.86 ID:7B7liXrt
三斎様の眉間の刀傷ってこれが原因か?