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公方である足利義稙公は、近江の六角殿を頼まれていた

2019年11月12日 18:16

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/12(火) 12:40:00.14 ID:F9dW7hQx
その頃、公方である足利義稙公は、近江の六角殿を頼まれていた。
江州の両佐々木と申すが、六角が惣領であり、近江国の国人たちは六角氏の下知に従った。
京極は庶子なのだが、その祖である(佐々木)道誉判官の、足利尊氏公への忠功が莫大であったため、
公方よりこれを賞して現在は四職の一つとなっている。

応仁の乱より京極は細川勝元に一味し、六角は山名と一味して、互いに敵と成った。
応仁の乱は結果として山名方の負けとなったが、六角は独り京都に順じずこれを討つための
将軍の御動座も度々であった。

しかしながら公方からも、また細川高国からも(永正の錯乱以後)頻りに六角高頼を御頼みあり、
六角殿は義稙方に参られたのである。

この時既に六角高頼は老齢であり、長男の亀樹丸(亀王丸)に家を譲った。彼は後に氏綱と名乗ったが、
彼は片足が短く立居が不自由であり、現在のような大事の時に彼を立て続けるのは難しいとして、
次男に吉侍者という、相国寺に入り禅門の修行をしている者があったが、彼には武勇の器量が有ると、
六角家の重臣である多賀豊後守、蒲生下野守、田中史朗兵衛尉らが相談して公方へ申し上げ、この度
還俗して高頼の名代として公方の前に奉り、諱を定頼と号した。

公方義稙はこれを大いに喜び、彼を任官させ佐々木弾正少弼とした。この六角定頼は木刀を
腰に指して公方の御前に参った。公方が「それはどうしたのだ?」と尋ねられると、定頼は
「私は元々出家ですから、刀を持っていないのです。」と申し上げた。
公方は笑って、彼に国行の刀を与えた。

(足利季世記)

永正の錯乱のあたりの近江六角氏について。六角氏綱が片足が短かった云々は現在では
否定的な見解が多く、どうも実際には戦傷などでかなり健康を損ない、結果的に弟に家督を譲った、
という事のようです。



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九里信隆謀殺

2018年03月28日 21:43

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 22:41:02.59 ID:6zrOuqmt
その頃、近江の国衆に久里備前守、山中新左衛門という人があった。彼らは三好と一味し、
ややもすれば公方足利義稙を保護していた、近江守護である六角氏の下知にも背いた。

しかし山中新左衛門は討ち死にをしたのだが、久里備前守は猶残り、しかもその勢力は大きく、
六角家にとって邪魔な存在ではあったが、自分たちに被害なく滅ぼす方法は見つからず、
六角高頼も、どうにも出来ないと彼に手を出すことをためらっていた。

しかしこの度、六角家を継いだ六角定頼は船岡山の戦いで抜群の大忠があり、従四位下に
補せられた。この期に久里を誅すべきと、密かに公方へ申し上げ、加勢の約束を得た。

さて、ある日突然、六角定頼は「伊勢へ参拝する。久里も供をせよ!」と、近臣である
種村三河守、狛修理亮、田中、二階堂といった者たちを供に、久里の館に入った。

久里は驚いたものの、様々に彼らをもてなし、数献の酒のうちに、御供衆も定頼も
沈酔し、定頼は久里の膝を枕にして空寝入りをした。

その時、多賀豊後守、吉田、永原といった者たちが、公方よりの御加勢二千騎を率いて
久里の館を取り巻き鬨の声を上げた。
これに定頼は驚いた風情にて「こはいかに!?」と飛び起き、即座に太刀を取って久里を討ち取った。

こうして六角は年来の本意を達し、近江の国衆はようやく定頼に従った。

(足利季世記)



735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/28(水) 02:00:08.46 ID:Pp4K4QKT
これはいい話だすげー

736 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/28(水) 10:07:45.07 ID:E9PDWkxa
嘘臭い
謀殺するならまず阿呆の演技が必要だろ

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/29(木) 03:09:26.49 ID:83nH2xdI
これは正にポルナレフAAな出来事だな

私は元々出家ですので、刀を

2018年03月27日 20:13

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 20:20:53.03 ID:0L5g/Ngu
江州両佐々木と申すは、六角は惣領であり、近江国人は彼の下知に従った。
京極は庶流であったが、佐々木道誉判官が足利尊氏への忠功莫大であったため、
公方より寵愛され、現在は四職の一つとなっている。

応仁の乱より、京極は細川勝元と一味し、六角は山名宗全に一味して、互いに敵となった。
応仁の乱で山名方が敗北した後も、六角一人京に従わなかったため、公方の御動座(遠征)も
度々行われた。

ではあったが、永正の乱の後は、公方からも細川高国からも頻りに六角高頼を頼るようになり、
六角は足利義稙の味方と成った。
六角高頼は既に老人であり、一男亀樹丸に家を譲った。亀樹丸は後に氏綱と名乗った。

しかし彼は片足短く、立居も不自由であり、現在のような大事の時には立て難いとされ、
次男が吉侍者といい、禅僧として相国寺にあったのだが、彼には武勇の器量があるとの事で、
重臣である多賀豊後守、蒲生下野守、田中四郎兵衛尉らが相談して公方に申し上げ、
還俗して高頼の名代として公方に預けられ、定頼と号した。
公方はこれを喜び、佐々木弾正少弼に任じた。

六角定頼は木刀を腰に挿して公方の御前に参った。公方が「それはどうしたのだ?」
と尋ねると
「私は元々出家ですので、刀を持っていないのです」
そう申し上げた。

公方はこれに笑いだし、国行の太刀を与えたという。
(足利季世記)



732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 20:32:17.36 ID:8tO6Yj5w
>>731
まるで無能のような印象の氏綱だけど、実際には10年ほど父の名代あるいは当主として積極的に活動していたみたいだね

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 23:36:42.67 ID:cVbL3AHp
毛利隆元に通じるものがある