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新納忠元は全身から汗を流し悔しがり

2021年11月01日 17:08

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/01(月) 14:51:32.43 ID:eGR1iS90
江戸後期に成立したと思われる、戦国時代-江戸初期の薩摩の君臣の話を随筆風に記した「薩州旧伝記」もしくは「薩摩旧伝集」から

文武両道の薩摩の名将・新納忠元がまだ若い頃、「太平記」を読んでいたところ、
新納氏の家祖である島津四郎時久(島津氏の第四代・島津忠宗の四男)の名前が出てきた。

以下、岩波文庫「太平記(西源院本が底本)」より該当箇所(文庫では古文だが現代語に翻訳)
「島津四郎は大力として知られ、まことに能力と風采に優れていたため、鎌倉幕府の一大事には頼りになるだろうとして
長崎円喜(鎌倉幕府末期に幕政を牛耳っていた)が烏帽子親となり、一騎当千の武者だと期待されていたため、
鎌倉の入り口の戦場(化粧坂の戦いなど)ではあえて相模入道(北条高時)の側に待機していた。
源氏(新田義貞軍)がすでに鎌倉に押し入ったため、相模入道は島津四郎を呼び、自ら酌をとって酒を勧め、三杯さかずきを傾けた後
厩で飼っていた坂東一の無双の名馬を、銀で縁取りした鞍を置いて引かせてきた。
これを見た人々はみな島津四郎を羨んだ。
島津四郎はこの馬に乗り、由比ヶ浜の浦風に大きな旗印をはためかせて堂々と敵軍に向かった。
数万の軍勢も「ああまことに一騎当千の武者だ。長崎入道(円喜)が重く恩を与え、傍若無人に振る舞わせたのも道理である」と皆感心した。
新田軍の兵もこれを見て「よい敵に会った」と思ったため
若武者どもは我先に、闘おうと馬を進めて近づいていった。
両軍の高名な大力の武者が一騎討ちで勝負を決しようとしていたため、敵味方の軍兵は固唾を呑んで見守っていると、

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/01(月) 14:57:49.26 ID:eGR1iS90
新田軍の近くにきた島津は馬から降り、兜を脱いで降伏し、新田軍に加わった。
これを見た全ての者は島津をけなし、ほかの北条から恩を受けた者どもも次々と降伏していった。」

これを読んだ新納忠元は全身から汗を流し悔しがり、それ以来武道を学ぶようになったという。
なお肥後国の住人曽我四郎という説もあると高野山の毛利本には見られるという。
太平記が編纂された頃には諸国の人々が書き足したため、あることないこと記された家もあるそうだ。
(なお岩波文庫「太平記」によれば、玄玖本、簗田本では「島津四郎」ではなく「曽我奥太郎時久」となっているという)



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「明赫記」続き

2021年09月26日 16:24

583 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 19:59:47.88 ID:UK3kv2yK
「明赫記」続き

球磨方の相良頼房(義陽)が大軍を率い大口城に入城。
島津忠長肝付兼寛、新納刑部大輔忠元で大口城を陥すことにしたが苦戦が続き
新納忠元は肥後八代の勇士的場・後藤と互いに斬り合い、六箇所に傷を受けるまで奮闘した。
(なお「箕匂記」によれば、新納忠元が戦勝祈願のために薬師如来の堂に歌を一首書こうとしたところ、
大口城から敵方の軍勢が押し寄せてきた。
それでも歌を書こうとしたが郎党の久保・尾崎に「犬死にする気ですか?」と引きずられた。
この時、肥後八代の住人の的場五藤兵衛が斬りかかってきた)

584 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 20:02:57.42 ID:UK3kv2yK
続き「伏兵を以て凶徒を大いに敗る事」

戦争は膠着状態が続き、相良軍によっていくたびも味方の足軽が負けてしまったため、相良軍は島津をあなどるようになった。
そこで平泉の新納忠元肝付兼寛は「勝ちに驕っている兵は滅し易い、伏兵を置けば簡単に討ちとれるでしょう」
と進言したところ、新納・肝付隊が第一の伏兵隊として冨神ガ尾に、大野駿河守・宮原筑前守が第二の伏兵隊として稲荷山に埋伏することになった。
永禄十二年五月六日、囮部隊の大将として中務大輔家久が雑兵四、五百人に兵糧隊を装おって糠袋を馬や兵に積み、
軍兵千余騎に警護させて平泉を通過したところ
大口城からこれを見た敵方は「平泉方は当番交替のようだ、積み荷を奪ってしまえ」と足軽や雑兵が思い思いに駆け出し、
敵方の深水三河守は計略ではないかと疑ったが、我先にと駆け出す味方軍の後を追いかけるしかなかった。
家久は一合戦しては退き、防戦しては退き、を繰り返し、疲弊することは言うも愚かであった。
第一の伏兵隊は「家久がこのままでは討たれてしまう」と思い、一度に動こうとしたところ、
新納・肝付は「時期尚早である」と怒り、軍配を横にして下知したところ、飛び出そうとした伏兵はその場にとどまった。
家久はいろいろ気配りをして敵軍を誘引し、とうとう両伏兵隊の真ん中に入り込んだ。
第一の伏兵が一度に鬨の声を上げると、第二の伏兵も一度に動き、敵軍を真ん中に取り囲んだため、相良・菱刈勢はことごとく敗北し
島津勢は百三十六人の将、八百余人の雑兵を討ち取り、無数を切り捨てた。
こうして家久の武名は比類なきものとなった。
討ちもらした者たちは大口城に逃げ、固くこもった。

585 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/25(土) 20:08:51.08 ID:UK3kv2yK
続き「祁答院の長野を攻める事、付 菱刈降参の事」

同月二十五日、渋谷党の祁答院の長野城を攻めた。
この時、祁答院新兵衛という者が城内より討って出て矛を合わせ勝負を決しようと四方八方に斬って回った。
味方の税所宮内少輔、仲俊坊、貴島源五郎、村原新介、村原左衛門五郎、深野平六、上床源六兵衛、岩下主殿、鍛冶屋新左衛門、尾上五郎、田実右京亮、肝付権助、等が斬りかかったが皆枕を並べて討ち死にした。
しかし味方の軍兵が退却の色を見せず奮闘したため、敵も弱り、勝鬨を上げて退陣した。
(「箕匂記」によればこの後、大口城の菱刈方が滅亡寸前となったため、
相良頼房から「もともと島津殿は国の太守のため敵対すべきではなかった、多くの士を失ったため引き上げる。
ただ菱刈氏を本城に存続させる事で頼房の面目を保たせてほしい」と和睦が提示されたため、同年九月十四日和睦となった。
九月二十日、大口城を受け取り、新納忠元に大口城の地頭職を授け武蔵守と成した。
また、真幸・菱刈・牛屎(「うしくそ」もしくは「ねばり」)を皆退治したためそれらの城もことごとく武蔵守を地頭とした。)

関連
「明赫記」菱刈叛逆馬越城落城の事


新納が申した如く

2017年05月12日 17:01

893 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/05/12(金) 09:35:48.62 ID:vNdllw93
肥前有馬のうち、島原において、龍造寺隆信と有馬修理太夫(晴信)が争っていた。
有馬は最初、大友に属していたが、大友の弓矢次第に弱り、ややもすれば龍造寺に攻め詰められ、
度々危ういことばかり多かったので、この時は島津に属して加勢を得て、島原において無二の一戦を決心した。

この時、島津龍伯(義久)は、家臣である新納武蔵守(元忠)を呼んで尋ねた
「今回の有馬への加勢は、当家興廃のかかるものである。いかがあるべき、大将を誰に定めるべきだろうか。」
新納は申し上げた
「同じ御兄弟ですが、兵庫頭(義弘)殿は、耳よりも目の大胆な人物です。
中書(家久)殿は、耳よりは、目で見て物を侮らない人です。

この度、龍造寺隆信な2万の着到にて出馬と聞きます。それに対し有馬はわずかに4千の人数です。
そして此の方よりの加勢も4千。ですから、戦を慎重に致す人でなければ大事に成ると思われます。

中書殿は聞いては大胆に物事を押し、あなどる人物です。しかし実際に見ると慎重に懸ります。
彼を以て、遣わされるべきと考えます。」

龍伯もこれに同意し、島津中無大輔家久を大将として加勢を発したが、新納が申した如く大利を得て、
隆信を討ち取ったという。

新納の終始の言い分、尤もその理を得ている。

(士談)


曽木の滝では

2015年06月07日 16:27

890 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/06(土) 22:29:47.31 ID:nEHsoC9s
鹿児島県伊佐市にある曽木の滝。この滝では

南の方の武蔵、新納忠元・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/688-9de1da57

に書いてあるが、新納忠元が秀吉を滝壺に突き落とそうとしたこと
が伝わっている。
(昭和32年(1957年)に柳原 白蓮が世界平和運動の講演のために訪れた時に
案内人を務めた郷土の医師から、新納忠元と豊臣秀吉の会見や滝見物の
言い伝え、 川ざらえと薩摩藩の米の流通などの話を聞いた後に歌を詠み
「もののふの昔がたりを曽木の滝 水のしぶきにぬれつつぞ聞く」
この歌の歌碑が曾木の滝にあります。)
そして、曽木の滝にはもう一人戦国の人の話があります。

薩摩のスナイパー2・押川強兵衛
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/7784-f34d239e

押川強兵衛は少年時代、曽木の滝で水練をし体を鍛えていました。
ある日、泳ぎ疲れた強兵衛が、(滝の下の河の中にある)岩の上で
昼寝をしていたら猟師が強兵衛を河童と間違え鉄砲を向けたことが
ありました。そのことからその岩は「カッパ石」と名付けられました。
また滝の左岸には、強兵衛が並べたとされる同じ形の4つの屋形の
巨岩がみられ、「力石」と呼ばれています。
(「カッパ石」と「力石」の場所は忠元が秀吉を滝壺に突き落とそう
 とした「観音渕」の付近です)
参考 曽木の滝周辺資源カード4



891 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/07(日) 10:07:27.28 ID:DFE7lzNk
ザビエルハゲの少年だったのか?

892 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/06/07(日) 16:38:36.99 ID:ecbDPL9G
>>891
意味は分かるんだが
せめてトンスラと言ってやりなよw

893 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/06/07(日) 21:57:40.48 ID:RARX4r5x
「カッパ石」と「力石」の場所は、曽木の滝周辺マップを
見ると滝壺のすぐ近くなので普通の人は泳げない所だから
河童と間違えられたのかも。

新納忠元・愛刀の行方

2013年01月20日 19:03

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 19:51:24.80 ID:awcIxwbk
>>74
蛇足ですが、こちらの後日談を。

新納忠元・愛刀の行方

天保の世になっても新納忠元を慕う者は多く、地元大口の郷士たちは連判で廟社建立の請願書を提出した。
御納戸奉行の海老原壮之丞は直ちに藩主の島津斉興公へ取次いだ。
この時の薩摩藩は莫大な財政赤字を解消するため藩政改革に追われていたが、藩主はこれを認められ
遠く京へ霊神霊社号免許を提出し、許可を受けた。天保14年のことである。

天保15年に工事は落成し、安政六年に明神の宣下があり、同年更に大明神への昇格が行われた。
かくて新納忠元は忠元神社の祭神となり、臨終の床で念を込められた愛刀も宝物として奉納されたのである。

それから時は流れ……薩摩は再び戦火に包まれた。
最後の武士の反乱、西南戦争である。

薩軍による熊本城の攻略は難航し、大将の西郷隆盛は「まるで清正公を相手に戦っているようだ」との
言葉を残し転進を決意した。
官軍は薩軍を追って陸路から海路から侵攻し、薩摩の至る所で大小幾多の戦いが行われた。
それは大口も例外でなかったのである。
追う官軍、逃げ惑う住民、その流れに逆らって歩みをすすめる男がいた。
年は三十手前、身の丈6尺(180㎝)余り、雷撃隊隊長の肩書きを持つその男は弾丸の雨の中、
忠元神社へ向かった。
(続く)

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 19:54:13.14 ID:awcIxwbk
(続き)
「薩軍の幹部が忠元神社へ逃げ込んだ」との知らせを受けた官軍により神社は直ちに包囲されたが
「名臣、忠元公を祀る神社を戦火に攻め込むのは…」と躊躇する意見がないではなかった。
(官軍にも薩摩出身のものは多く、参軍の黒田清隆からして薩摩の下級武士だったのである)
結局出入り口を固めて待ち構えていたところ、果たして先に神社に入った男が出てきた。
身には三尺八寸の大太刀を帯びている。

「肥薩の境犯さるることなかれ」古の名将が念を込めたその刀を抜き放つや、男は群がる官軍に
身を躍らせて縦横無尽に切りまくった。
男は残り少なくなった味方を糾合し、官軍への反撃を再開した。「第二の田原坂」と呼ばれるほどの
激戦だったという。

だが圧倒的な兵力差はどうにもならず、最初こそ馬上で颯爽と指揮をとっていた男も、大口から高原、
高崎へ撤退するときには
「わいら、逃ぐっは斬っど(お前たち、逃げる奴は切り捨てるぞ!)」と味方の尻を追いまくらねば
ならぬほど惨めな敗走をすることになった。
昭和の初期は西南戦争を経験した古老も多く、この狂気混じりの叱咤を「十郎太さまの激は
敵よりおじかった(恐かった)」との証言も残っている。

大口を退いた後の雷撃隊隊長、辺見十郎太の最期は諸説あってはっきりしない。
西郷隆盛の自刃を見届けた後に別府晋介と刺し違えて死んだとも、大勢の官軍を相手に
壮絶な戦死を遂げたとも伝えられる。
いずれにせよ確かなのは新納忠元の死から260年以上の時を経て、その愛刀が再び振るわれたことである。

薩摩で迎える武士の世の終焉と、そこで振るわれる我が愛刀をかつての持ち主は
どのような思いで眺めていたであろうか。

関連
新納忠元の最期
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7200.html



144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 20:00:46.30 ID:6uk7Eu0W
薩摩は自国の忠臣を祀る神社の宝物まで略奪したのか…

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/19(土) 21:15:19.33 ID:ywEeCPqH
>>144
アホか貴様は

149 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 00:14:53.23 ID:FH9nC42R
そこまでして己を鼓舞するとは、さすがスーパー薩摩人の末裔

151 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/20(日) 10:41:53.14 ID:CVoW2nGh
>>144
ちゃんとお借りしたんじゃないの?
返せてないみたいだけど

新納忠元の最期

2013年01月13日 19:25

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 19:26:13.97 ID:bCcU/3o7
新納忠元は島津忠良を烏帽子親として元服して以降50年余りの歳月を陣中で過ごしてきたが、
晩年は寄る年波に勝てず床に伏せる日々が続いたという。

その衰弱振りたるや、「(掛け)布団が(体に架かって)苦しい」と訴えるなど、かつての雄姿からは想像も出来ぬほどであった。
家の者は敷き布団の四隅に低く切った柱を置き、その上に掛け布団を被せて忠元の体に布団が直接掛からないように気遣ったが、快癒の兆しは一向に見られなかった。

忠元には二人の息子がいたがいずれにも先立たれていた。
特に次男の忠増を関ヶ原の後に失ったことはよほど応えたらしく、忠増の忘れ形見である幼い忠清の将来を思いやって
懊悩する日々であった(長男の忠堯は子を残さぬまま、龍造寺との合戦で戦死)。

時の島津家当主である忠恒はこれを気の毒に思い、使者を遣わして忠清に大口地頭の地位を約束した。
主君の気遣いに忠元は涙を流して喜んだが、「畏れ多いことながら」と謝絶した。使者が帰った後、孫を枕元に呼んで曰わく、
「お殿様は忝くも、お前にこの爺と同じ地位を約束してくれた。
 じゃがそれは爺の方からお断り申し上げた。大口地頭は肥後からの守りを担う重要なお役目じゃ。
 才覚も定かでない幼い者がそのような重要な立場にあって、主家が安泰を得た例は古今東西無きに等しい。
 研鑽と鍛錬を怠らなければ、いずれお殿様はお前にふさわしいお役目を与えてくれよう。」
と不相応な地位を望まぬよう諭した。そして
「爺のようにただ強ければよい、戦に勝てばよい、という時代は終わった。
 これからはよく主を支え、時に諫め、外にあっては上方の者に侮られぬよう教養を身に付け、
 駆け引きにおいても遅れをとらぬようにせねばならんぞ」
と付け加えた。

忠元の体調はその後も回復せず、義久、義弘、忠恒ら歴代島津家当主の祈りも虚しく悪化の一途を辿った。
いよいよ死期を悟った忠元は呻き声を出して忠増の妻を呼んだ
(衰弱が進んだ忠元の言葉を聞き分けられるのは、身の回りを世話していた彼女だけだったという)

(続く)

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 19:29:00.82 ID:bCcU/3o7
(続き)
彼女によって家中の者が集められ、忠元の言葉が伝えられた。
「儂の身体を国分の方へ向けよ」
国分は先々代の当主、義久の居城である。おそらくは最後の暇乞いをなされるのであろう……
主人の覚悟を察した一同は、出入りの大工に命じて大きな木の板を設えた。

忠元の体を敷き布団ごと板の上に乗せて身体を国分の方角へ向かせると
「お義父上様、国分でございますよ」忠増の妻の言葉が聞こえたか、布団のなかで姿勢を正した。
心中で別れを告げたか、次は義弘の居城の加治木、その次は忠恒の鹿児島へと向きを変えさせた。

そして最期に「肥後へ向けよ」と命じた。

名将にして難敵、加藤清正の治める地である。
長年振るってきた愛刀を持って来させると、死期を迎えた老人とは思えぬ力強さで刀を握り、眼前に構えた。
刀とその先にある肥後を睨みつける眼光に周りは昔日の鬼武蔵を見る思いだったが、それも長く続かず、
刀を戻すと疲れきったていで忠元は布団ごと床にもどされた。
暫くして意識を取り戻し、「儂の念を刀に込めておいた。されば肥薩の境が侵されることは当面あるまい」
言い終わると眠るように目を閉じた。

忠元の死後は多数の殉死者がでることと想われたが、家人の長老格であった伊地知清人と宮内九兵衛が先手を打って
「我々二人がお供をするゆえ、決してあと追わぬように」と切腹して果てたため以降の殉死者は出なかったが、
自らの指を切って殉死の代わりとしたものが後を絶たなかった。
その遺骸は大口天龍寺にて火葬に付し、霊屋を祥雲寺に建ててその中に夫人の碑と並べて安置した。
法名を耆翁良英庵主。

忠元が死の床にあってなお警戒し続けた加藤清正は忠元と同じ年にこの世を去り、
後を子の忠広が継いだが家臣団を統御しきれず改易。肥後は加藤家に変わって細川家が入ることになった。

忠元が最後に語ったとおり、加藤家によって肥薩の国境が侵されることはついになかったのである。





78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 21:01:59.98 ID:j16t8+VK
悪家久さん、嫁さんもそれ位気遣ってあげて下さい

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/12(土) 23:40:02.42 ID:E1Pp/HP8
こういう名将の最期は悲しさよりも寂しさの方が先に立つな…
なのにどうしても悪久の名前に目が行ってしまう

81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/13(日) 16:02:52.18 ID:32Y53pFv
>>79
デ新納さんほどの人物が「武辺の時代は終わった」と言うと
ほんとに戦国の終わりを実感させるよなぁ

やはり新納武蔵の武勇、比類無し

2012年08月19日 21:10

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 14:46:29.19 ID:c07NlFBC
ある時、薩摩島津軍が山越えをして敵城を目指すことがあった。いつ敵に見つかるか分からぬ土地で、
深く険しい山坂、道無き道を進むうち、さしもの薩摩隼人たちも音を上げた。

「い、いやぁ、しかしノドが渇くこと、ノドが渇くこと!」
「そうじゃのう・・ん?“のどの渇ける、の、ど、の、か、わ、け、る”・・・・・・
どうじゃ武蔵どの!歌数寄で知られた貴殿のこと、このような時でも上の句など付けられるかのう?」

危険な行軍のストレスを逸らすための座興か、イライラがつのっての無茶振りと言ったところだが、
お題を振られた新納武蔵守忠元は、すぐに上の句を詠んでみせた。

「 “中つかふ 女の足の ながければ” 」
「「おお!流石は武蔵どの!!」」

常と変わらぬ忠元に、島津家中は「やはり新納武蔵の武勇、比類無し」と賞賛した。(薩藩旧伝集より)


“中使ふ 女の足の 長ければ のどの渇ける のどの渇ける”

敵地を行軍中に
「 ウチのメイドさんの脚(;´Д`)ハァハァ 」(超意訳)とか言っちゃう親指武蔵マジリスペクト




128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 16:30:20.97 ID:lme70Y/G
武勇?

129 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 17:15:41.73 ID:nopW7FZ1
首取るだけが武勇じゃない
それで難行軍の士気が上がれば立派な武勇


130 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 17:16:12.40 ID:M1oEUGj7
武勇っつーか戦場行くのに下ネタ(?)かましてる南の鬼武蔵は度胸のある勇者だって話だろ

132 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 18:26:32.00 ID:BwQaCWrc
武勇だけじゃなくて教養もあるからなあ、親指武蔵は
・・・幽斎さまだったらどんな句になるんだろう?

134 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 19:12:02.58 ID:wK/xOXfA
幽斎様といい、この手の古典落語の「青菜」みたいな話多いなぁ

まぁ俺は冴えた句を詠む数寄者ではなく冷えた柳陰を飲む方が好きな者だが

135 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/19(日) 19:23:42.88 ID:Hb6qklkd
そういえば「生ツバごっくん」ってフレーズ、最近みないね

島津忠良はあるとき、幼年のものを集めた

2011年10月09日 22:14

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 21:16:06.25 ID:wkLG33LJ
島津忠良あるとき、家臣の子弟、特に幼年のものを集めた。
いずれ年端も行かぬ子供たち。だが数十年後には家中の柱石として、自分の子や孫を
支えてもらわねばならない立場である。

子供達の利発さを確かめようという意図でもあったのであろうか。全員に数珠を手渡すと
「その手にある数珠の玉は幾つあるか数えてみなさい。早く数え終わったものから順に褒美を上げよう」
餅の袋を見せてそう言ったのである。

数珠の玉の数は108個と相場が決まっている。だがそのことを知らない子供たちは必死に数え始めた。
そんな中、終始身じろぎもせずじっと数珠を見つめる子供がいた。何をしたらいいのかわからない、という
風でもなさそうである
「はて、変わった子だの」忠良はその子が気になったが、他の子供たちから「大殿様!数え終わりもした!」と
報告を受けてる間に彼のことを忘れてしまった

さて、散会となったあと忠良は先ほどの子供だけ呼び戻して尋ねた。
「お前は最後まで数珠の玉を数えようとしてなかったな。あれは何故じゃ?」
「数珠の数は108と決まっております。それ故わたしは数えなかったのでございます」
「ふうむ、それならそれで数えるフリだけでもして折ればよいではないか。先駆けて褒美を得ること、思いの
ままであろうに」
「仰る通りではございますが、それではズルになってしまいます。わたしはずるをしてまで
褒美を得たいとは思わなかったのでございます」
ここまで聞いて忠良はその子を返したが、何か思うことがあったらしい

後年元服を終えた少年は忠良に目通りし、その日から忠良、貴久、義久、義弘、忠恒の五代にわたって
島津家にその生涯をささげることになる。

後の親指武蔵こと新納忠元である




13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/08(土) 21:22:51.15 ID:q5CH5Q/S
栴檀は双葉より芳し

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 23:32:13.35 ID:FDubvkxO
>>11
昔、鹿児島に住んでたときに仕事先のおいちゃんから
「1番偉い薩摩隼人は困難に挑戦して成功したもの、2番目に偉いのは困難に挑戦して失敗したもの」
ってよく聞かされた。デ新納さん挑戦すらしてないやんか。

22 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/10/09(日) 23:34:27.96 ID:TMuSvb5G
周りがそんな薩摩隼人ばっかだから
デニーロみたいな人材が必要なんだろ……

親指武蔵の作業を邪魔してはイケナイ

2011年07月06日 23:11

877 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/05(火) 23:43:07.03 ID:/Wg21lRH
島津氏が薩摩・大隅・日向三州統一に向けて諸大名と対峙していたころ、新納武蔵守忠元は
菱刈氏攻略を命じられ、薩摩大口の地頭として赴任した。

菱刈氏との戦に向かう前、忠元は戦勝祈願のため、薬師堂に参詣した。ところが、
「ご、ご注進!相良頼房(義陽)が、こちらに攻めてまいります!」

「なんじゃと!?菱刈と相良が、示し合わせておったか!」
「ここは仏閣、しかも我らは祈願祭事の最中だぞ?相良め、卑怯な!」
「ともかく、忠元どのにお知らせせよ。」

そのころ忠元は、薬師堂の窓のさんに登り、壁の上の方に祈願書など書きつけていた。
「忠元どの、一大事じゃ!相良が寄せて来る。早う出て指揮してくだされ!」
「・・・・・・」「どうした忠元どの!相良の奇襲じゃ、事は一刻を争うぞ!?」
「・・・・・・」「た、忠元どの?」
「・・・・・・これ書き終わったら本気出す。」

“是非無く、忠元を(窓から)引落とし候由”(薩藩旧伝集)


島津軍が出た時には、相良軍は薬師堂の前に陣を構えており、一人の武者が飛び出してきた。
「我こそは八代の住人、的場五藤!いざ尋常に「やかましか!」「ぶべらっ!!」

的場を倒した忠元は、相良陣に矢文を射掛けた。矢文には和歌が一首書かれていた。

“無用かな 人の弓矢に より房の 首をごう木に 下がらして(相良して)見む”

「ひーっ!鬼武蔵がブチ切れた―――――っ!!」
忠元の剣幕に恐れをなした相良軍は、早々に陣を引き払った。

教訓:親指武蔵の作業を邪魔してはイケナイという、久々に南の武蔵さんが鬼(?)な話。





新納忠元と島津義弘、ちょっとお行儀の悪い話。

2010年12月28日 00:00

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/26(日) 22:02:26 ID:gh/nWc7l
ちょっとお行儀の悪い話。

新納忠元島津義弘に茶を進上したときのこと、
柄にもなく緊張したのであろうか、落ち着きを欠いた進退を見せてしまった。
この事を義弘に見咎められると忠元、
「戦場ではこのような無作法、決して致さぬのですが・・・」
とらしくない言い訳をした。
これを聞いた義弘、
「おお、そうだそうだ。茶道の作法とはまことにやかましき物よ」
と膝を打って笑い、その後は二人して姿勢を崩してお茶をがぶがぶ飲んだとのこと。

島津義弘新納忠元、文武両道の誉れ高い名将であるが
実は堅苦しいことは二人とも苦手だったらしい。

まとめサイトの管理人さん曰く
>島津家において新納忠元さんのポジションというのは非常に特別ですね。これは後世においてもそうで、
>島津家中における君主の理想像が島津義弘なら、家臣の理想像は新納忠元さんとされていた節があります。
( http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4986.html )

とあるが、こういったおおらかな君臣関係も
義弘と忠元が理想の君臣とされた理由のひとつかもしれない。




171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/27(月) 00:09:29 ID:yUTmSb2G
(´・ω・`)「理想の主君とはまさしく僕のことだね」

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/27(月) 07:05:19 ID:hM+h53Fr
>>171
あんた誰だよ

『 難波の霞 』

2010年12月20日 00:01

877 名前:1/2[sage] 投稿日:2010/12/19(日) 17:08:55 ID:5KSHtmH+
薩摩島津家が天皇のもとに参内することになった前日、宮中から箱が送られてきた。箱の中には、

『 難波の霞 』と書かれた紙切れが入っているだけだった。

「これは、何のことじゃ?」
島津家の重臣達がいくら頭をひねって考え抜いても、何の意味があるのか、さっぱり分からない。

「まずい。これでは明日、義久様に恥を掻かせてしまう!」
「だが、どうすれば・・・」

「おや、何の騒ぎですかな?」
「おお武蔵どの!良いところに来てくれた!実は、こんなものが宮中より届いたのですが・・・」
重臣達は最後の頼みの綱、通りかかった新納武蔵守忠元にすがりついた。


「ああ、こりゃ和歌の定番ネタのことじゃな。」忠元は、あっさり謎を解いた。

“難波潟 刈りふく蘆の 八重霞 ひまこそなけれ 春のあけぼの”(二条為氏・新後撰集)

「難波の入り江には蘆が生い茂り、それを覆い隠すように霞が立ち込める、というのが定番の情景でな。
つまり『難波の霞』が隠すのは『あし』、『あし』を隠すのは履き物。
すなわち、宮中に特有の履き物である木靴・革靴を改めて参れ、という謎かけじゃよ。」

「「「おおお!さすがは武蔵どの!!」」」


新納忠元が謎を解いた」という噂はたちまち宮中に伝わり、公家衆はその姿を見んと宮中で待ち受けた。

878 名前:2/2[sage] 投稿日:2010/12/19(日) 17:09:44 ID:5KSHtmH+
参内当日、島津義久に随行した忠元を、公家衆は奇異の目で見つめた。

(あれが名高い新納武蔵守かいな)(武名高く教養深いと評判の武蔵守が、こんな小さいお人とは)
(しかし、ほんにえらいおチビさんどすなあ)(あれで有名だから、むしろ大したモンやホホホ・・・)

「・・・・・・!!」「忠元。」
「・・・わかって、おります。」義久に暗に釘を刺された忠元は、暴れ出したい衝動を必死で抑えた。

無事、参内を遂げた島津家一行に、天皇は親しく声をかけた。

「さて、薩摩は遠国だ。何ぞ上方と変わっている、珍しき事はないか?武蔵守よ、どうだ?」
「そうですな、薩摩では跳び方が面白いと、良く蛙を棒で突っつくのが上方と変わっておりまする。」
「か、蛙?!」
「ええ、あのゲコゲコ鳴く蛙です。都にも蛙が多いようで、楽しみな限りにござる。ハハハ・・・」
忠元は、天皇の左右に控える百官を見渡して笑った。
「さ、左様か。それは面白い事を聞いた。島津家の者ども、今日は下がって良いぞ。」


島津家一行が退出した後、公家衆は忠元を嘲笑った。
「聞くと違って、何や阿呆なこと言うお人でしたなあ。」「ほんに・・・ホホホ・・・・・・」

「阿呆は卿達だ。」

「な、何を申されます主上!」「・・・『井蛙』という言葉を知っているか?」
「『大海を知らず』、という話でおじゃりますか?」

“井蛙不可以語於海者、拘於虚也。夏虫不可以語於氷者、篤於時也。”(荘子)

「和歌の知識という井戸に篭もる都の蛙を、薩摩者が漢籍という棒で突ついた、という訳だ。
分かったか。以後、田舎者とて武家を嘲笑うこと、まかりならぬ。これ以上、朕に恥を掻かせるな。」

天皇の静かな怒りに、公家衆は一言も返せず、うなだれるばかりだった。




879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/19(日) 17:37:21 ID:uElzWMr0
新納さんかっこいいー!
そして公卿ざまぁw
こーいうスカッとする話良いな

881 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/19(日) 21:11:56 ID:m+4oBwsY
>>877-878
この切り返しはかっこいいな。
まーくんの逸話にしてもそうだが、自分もイヤミに対してさらっと皮肉で返せるだけの
教養を身に着けたいと思うわ。
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新納忠元、敵に米を

2010年10月24日 00:00

850 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/22(金) 23:10:39 ID:OmUoIH4p
豊臣秀吉による九州征伐の時のことである。
細川忠興と蒲生氏郷の軍は、新納忠元の籠る大隅大口城を攻めていた。

ところでこの九州征伐、兵糧不足の話がそこらかしこに出てくるのだが、この大口城攻めも例外ではなく、
攻め手の豊臣軍は甚だしい兵糧不足に陥り、細川忠興すら一両日にわたって食事を取らず
なんとか凌ぐ、ということすらあったそうだ。

そんな時、大口城より一人の若党が下人たちに米俵を担がせ川を渡り、
忠興の陣の前まで来ると、このように大声を発した

「その筋違いの幟、長岡幽斎殿家中の陣と存ずる。
城主新納忠元よりの口上をお伝え申す!

さて、戦は兵糧のことを先ず第一にするものだと存じておりますが、
このたび、秀吉公においては兵糧がご不足の様子。誠に笑止なことでござる。

ところで長岡幽斎殿はわが主君、島津義久とかねてから殊の外懇意な間柄でござった。
その縁により、はばかりながらこの米をそちらにさし上げんと存ずる!」

なんと、半ば飢餓状態の忠興の軍に、敵である新納忠元が米を分け与えるというのだ。
嘲笑であると取るべきか、親指武蔵の剛毅さと見るべきか。
忠興はこれに大いに驚いたが

「我が軍に兵糧は潤沢にあり、そのような物は必要ない!」

と、強がりを言いこれを拒否した。


後年、忠興はこの時の事について、こんな述懐を漏らしたそうだ

「あの時は本当に苦しかった。新納忠元の申し出を聞いたときには感動のあまり、
つい米を受け取りそうになったものだ。」


新納忠元、敵に塩ならぬ敵に米を贈る。と言うお話




851 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/22(金) 23:44:52 ID:eVZMlN8V
流石「じゃないほう」の鬼武蔵さんやで

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/22(金) 23:57:02 ID:V4VGphNs
忠興、誘惑に打ち勝ったいい話

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 00:14:56 ID:pEYVtP/P
食欲に誇りが勝った面子守ったいい話だな
信長も言っていたな、飯がなくても誇りがあれば人は生きていけるって、ドリフターズで

855 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 00:22:22 ID:W/DO6eWo
幽斎さんなら上手い事言ってもらっちまうんだろうなぁ~

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 01:10:51 ID:5PnQkWT9
幽斎にも送ってたりする→http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2996.html
デニーロはやっぱかっこええな

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 01:14:28 ID:cOudrbBa
幽斎さんなら名刀とか古筆を贈り返すんだろうなぁ。

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 07:28:34 ID:itB0OKdp
>>853
兵糧に毒盛ってあったら全員毒死の悪い話になってたな

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 09:17:48 ID:W/DO6eWo
幽斎さん、お米はきっちりいただいんだね^^
でも、武蔵さんも幽斎さんもかっけーなー



860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 12:44:31 ID:6xFGWZcs
兵站の基本がなってないってどういうことなの……

861 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 13:07:28 ID:1REFYu5h
>>860
日本の伝統だろw

862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 13:15:10 ID:hHQ2OI/L
>>860
織田系の兵站の基本って、合戦のある周辺で商人や農民から米穀を銭で買取り
それを兵站拠点に集積させ活用する、ということだったらしいのね。

で、これは畿内やその周辺といった、生産力が旺盛で余剰米も多く、また貨幣経済も
盛んだった地域では通用したのだけど、九州征伐の時の九州はちょうどひどい不作
だったこともあって、この「織田方式」が通用しなかったっぽいのね。

で、米のある地域から運ぼうとしても、このころは未だ「長距離の輸送力」という意味では
秀吉の軍も貧弱で、効率的な運搬が実現できず自軍の兵を多く飢えさせた、という状況
だった模様。

小田原の陣の時予め米雑穀20万石を集めておいたというのは。この九州征伐の時の
反省からだろうね。

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 13:47:14 ID:lM6oRg+8
九州征伐の際、兵庫尼崎では約三十万人分の兵糧、二万匹の馬の飼料など一年分を集め
輸送にあたったんだが、その膨大な物資輸送の様子を見て細川幽斎が一句

「米舟は国々よるも著きにけり あけても積まん倉なしの浜」

兵糧調達、供給もすごい一大事業だったようで
それでも足りなかったんだなぁ

ちなみにこの時の兵站奉行、ご存知石田三成、大谷吉継、そして長束正家
いつものメンツなら長束でなく増田長盛がいる所なんだが、
算術能力に優れていたという長束を起用してる所が、やっぱ大変な事業だったんだろうと思った

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 14:00:24 ID:JI91N8BU
>>850

太閤さんも賤ヶ岳で猛暑でダレてる兵達のために
近隣の村々から笠を買い集め敵方にも配ったという話があったね

865 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 14:56:37 ID:769u16WF
新納さん、やるじゃんwww
流石、島津の重臣

866 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 15:01:11 ID:HF5WshSf
>>853
可愛いよ三斎さんw
デニーロは普通に漢、カッコいい。

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 16:08:03 ID:JkzDgxmY
そもそも戦国時代は自弁です
部隊によって兵糧に差があるのは当たり前

868 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 16:09:13 ID:JkzDgxmY
>>861
WWⅡでは、各国とも兵站はボロボロだぞ
色んな国で色んな笑い話が残ってる

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 16:11:42 ID:J/g+UlTw
ナポレオン時代のフランス軍とかもひどいよな。

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 16:24:27 ID:G8uXonYt
>各国とも
程度がおおきく違うのに各国ともとひとくくりにしちゃうのはなんかちがうとおもうぞなもし

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 17:06:03 ID:35tlXNap
兵站を円滑に行うのはいつの時代だって平坦な道じゃないさ

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 17:09:51 ID:JkzDgxmY
>>870
場所や条件が同じ軍などこの世に二つとないんだから
比べようがあるめぇ

873 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 18:24:12 ID:iBZGMFqm
>>871 を凍蚓様付きのお伽衆に取り立てようぞ

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 19:23:24 ID:UX6ueWrd
兵站を
担当すべく
兵隊が
平坦な道を
兵站担ぎ

875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 19:30:42 ID:HnL/Yjs6
>>874 を武蔵守様付きのお伽衆に取り立てようぞ

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/23(土) 21:10:29 ID:UtllSkfi
>>868
ところで水はありませんかね、パスタを茹でたいのだが



後日談
“♪鹿児島の館 快い館 お盃賜る 琉球で語ろ・・・”
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-5141.html

新納忠元と島津家久の歌合

2010年06月13日 00:01

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/12(土) 00:22:05 ID:qqHKZfJl
悪い話スレでデ新納さんの可愛い…というかちょっと可哀想な逸話があったので
http://iiwarui.blog90.fc2.com/tb.php/4290-38d1df94

ちょっとフォローしてみる。

関ヶ原の戦後処理も一段落した慶長八年、
島津家久は新納忠元の多年の功績を称えて馬越前目の地を加増し、更に自ら愛用の帷子を贈った。

これに感激した忠元の詠んだ歌。

おほけなき君がみけしの香に触れて
  しばし我かと身をたどるなり
(分不相応にも立派な帷子を頂き、
  本当に自分のものであろうかと暫し我が身を顧みました)

この歌を受け取った家久は直々に忠元の居る大口まで足を運び、返歌を送った。

おおけなき身とも思はば唐ごろも
  着つつもなれよ幾年までも
(分不相応と思うのであれば、
  着慣れるまでいつまでも長生きして下さい)

せっかく来た主君を手ぶらで帰すわけには…という訳ではないであろうが、
これは良い機会、と忠元は一振りの長刀を献上した。

君に譲り奉りけん山賤の
  身は仙人の千代の齢を
(太閤殿下からいただいたものをいつまでも私しているわけには行かないので)
(ご主君にこの長刀と我が長命を献上いたします)

こうして忠元がかつて秀吉から拝領した長刀は家久の元に渡ったという。
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2324.html)

家久が老齢の家臣を気遣う歌を詠むなんてポーズじゃないの?
と思われるかもしれないけど、庄内の乱で老齢を押して奮闘した忠元には
家久も感謝していたのかもしれない。

歌の内容は超意訳なのでご容赦のほどを^^;。




ある猛将の晩年

2010年06月11日 00:00

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 23:11:55 ID:roabuxQU
ある猛将の晩年

慶長14年(1609)6月、島津家家老・山田有信が死去した。享年65。

田原親賢率いる大友軍三万を、日向高城においてわずか五百の手勢で引きつけ、耳川の戦いを勝利に導き、
秀吉の九州攻めの際は島津義弘・新納忠元らとともに最後まで抵抗した大武辺者の死は、
その死因も、病の床に就いた島津義久の身替わりにならんと断食しての衰弱死という、見事な忠節によるものだった。

回復した義久は深くこれを嘆き、その葬儀の時には、自ら有信の棺の前で焼香し、

はちす葉の 置こぼしたる 露の玉 終りや君が 為に捨てけん
(意訳:おまえが死んでしまい、蓮の葉に貯まった露がこぼれるように、涙が止まらぬ。)

と挽歌を詠み、「さらばだ、有信よ。オレもすぐに追いつくからな。」(原文:理安(有信道号)さらバ、自身も頓而追つかん)
とまで言い、悲しみをあらわにした。


これを聞いた新納忠元(85歳)は、うなって一首を詠んだ。

うらやましき 経ぬる玉の 終りまで いともかしこき 君の言の葉
(意訳:くっそおおお!オレも義久様に焼香に来てほしいよう!挽歌とか詠んでもらいてーよぉぉおおお!!!)


…親指武蔵こと新納忠元は翌慶長15年12月に死去するが、有信と忠元の死について記録した「旧記雑録 後編四巻」の
ドコをひっくり返しても、義久が忠元に挽歌を捧げたという  記  述  は  な  い  。

やっぱアレか、「義久様ー!秀吉殺ろうぜー!(意訳)」とか「ジジイだからとか関係ねーから朝鮮連れてけ。(超意訳)」
とか、年甲斐もなく不穏なことばっか言ってたせいか。




346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/09(水) 23:58:15 ID:JT/VVCrG
>>344
ちょw可愛いじゃないかw
書いてないだけで貰えてたらいいね

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/10(木) 00:00:04 ID:VK09JOSv
>>344
義久が死んだのはデ新納さんが死んだ約二ヶ月後
自分の娘嫁がした家久(悪)のこともあったし
もう和歌を詠めるだけの元気が無かっただけじゃ…
と、九州のお兄ちゃんを弁護してみる

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/10(木) 00:02:37 ID:EqpGFHMU
マジレスすると鬼武蔵が死んだとき義久も死にかけ

349 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/10(木) 00:03:22 ID:EqpGFHMU
もう書かれてた

疲れてたんだよ・・・きっと

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/10(木) 00:16:44 ID:VK09JOSv
>>349
…の間に全てが詰め込まれてるんですね、分かりますw

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/10(木) 00:19:32 ID:Kj7wjx5O
非常に微笑ましいなw

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/06/10(木) 06:27:57 ID:1drBypd0
家久(悪)…

新納忠元の後味の悪い話

2010年01月29日 00:04

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 19:49:29 ID:X39e+y0C
新納忠元には、可愛がっている愛妾がいた
この娘は和歌が上手で、忠元も彼女のそんなところを愛していた

ある日、忠元が娘の元を尋ねると、娘は一心に何かを書いていた
ははあ何か歌でも思いついたかと忠元は思い、
娘に見せてみろといったが、娘は頑としてそれを見せなかった
見せろ、嫌だの問答がしばらく続き、やがて娘はその紙を飲み込んでしまった

瞬間、忠元はキレた。
娘が歌を見せたがらないのは、おそらくはあれが浮気の歌だからだ
忠元はそう思い、太刀を取ると娘の首を刎ね
その喉の奥から歌の書き付けられた血まみれの紙を取り出した

紙には娘が忠元を想って書いた歌が書き込まれていた

新納忠元の後味の悪い話




68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 19:53:47 ID:9weoB+cD
>>67
グロい

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 19:55:32 ID:+z2vJtXX
ひでえ話だwww
忠元も流石に応えたに違いない

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 19:57:05 ID:Wi/Q+8XA
>>67
おお…これはひどい…

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 20:00:45 ID:hLIjAgs7
これはいかんでしょ

72 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 20:01:45 ID:+z2vJtXX
最早自害モノだろ
可愛がってた娘を浮気と勘ぐって殺しちまったら自分を想ってくれた歌だったとか
俺なら間違いなく自決するか夢に娘が出てきて発狂死する
塚ちょっとどころじゃない ワーストクラス

73 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 20:03:05 ID:V1XRP1on
血の気の多い戦国武将に
下手に隠し事するとロクな目に遭わないのかw

74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 20:14:35 ID:9nkBduQ2
グロ忠元だからしょうがない

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 20:19:40 ID:CuqIvSLb
森じゃない方の鬼武蔵はまとも
そんな風に考えていた時期が俺にもありました



76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/28(木) 20:29:01 ID:X39e+y0C
思い出せなかったから書かなかったが、飯食ってたら娘の歌思い出した

「人ならば浮名やたたん小夜ふけて 枕にかよふ軒の梅が香」

これ読んだ忠元は大泣きしたそうだが、なんともねえ




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血気盛んな老将とそれを支えた二人の男

2010年01月25日 00:10

276 名前:264[sage] 投稿日:2010/01/24(日) 16:59:07 ID:exajRfVt
謙信公が励ましてくれたので俺も頑張って逸話を投下してみる。

島津家家老、新納忠元の元に次男の忠増から手紙が届いた。
忠増は島津忠恒の供をして朝鮮から凱旋し、今は京都に滞在中の身である。

手紙には、家老の伊集院忠棟が忠恒の頭越しに他大名とお付き合いを始め、
不穏な気配を漂わせている事が書かれており、地元の都城にいる息子の忠真と示し合わせて
良からぬ事を企んでる可能性もあるので用心するように、と締めくくられていた。

有り得べからざる事と思った忠元だが、これは息子からの手紙という形で忠恒から出された命令でもある。
良からぬ事、即ち謀反が起こったときに主戦場となるであろう都城の地勢について忠元は考えをめぐらした。
「都城の反乱を鎮圧するのであれば、主戦場は平野ではなく山道や田畑の畦が多い地形となろう。
 そうなれば馬は適さぬ。だがワシは七十過ぎの老将。若者達と供に戦場を走り廻るなど思いもよらぬ。
 かといって一番乗りの役目はわしが果たさねば若い者に示しがつかん…どうしたものか」
忠元の頭の中には後方で督戦するつもりなど全くなく、最前線へ出る気満々だったのだ。

七十過ぎの自分がどうやって若者達と同じように戦場を走り回るか…
兵の訓練、物資の調達を進める傍らでそんなことを考えていると、忠元の目に止まったものがある。
炭を納めに来た樵…が背負っている大きな籠だった。「そうだ、これだ!」
忠元は樵に命じて、自分が中に入り尚且つ人が背負うことの出来る籠を作らせた。
外は竹、中は藁で編んだ二重構造の籠である。

「よし、あとは背負う人じゃな。」自分を担ぎ、尚且つ戦場で走り回る。力もあり肝の据わった男がいるだろうか。
家中のものを集めて相談したところ、牢番の和泉牛之介が口を開いた。
「牢屋に繋いでいる山賊の六太郎は頭目をしていただけに力も抜群、肝も据わっておりましょう。
 助命の許可さえいただければ私が使いこなして見せます」
忠元の許しを得た牛之介は六太郎を牢屋から引き出すと仔細を説明した。
「実は斯々然々の次第で、うちの大将はお前を必要としておる。危険な仕事ではあるが、
 前非を悔いて此度の使命を全うすれば命を助けると仰せだ。どうだ、やって見ぬか?」
またとない更正の機会である。
その日から牛之介と六太郎の猛特訓が始まった。

「お役人様~、もう無理です。」
「なんだ、もう音を上げたのか」
「いくらなんでも無理ですよ。こんな大きな籠に石を一杯つめて城と山の間を往復するなんて」
「ほほう、まだ弱音を吐く余裕があるのか、それなら城から山頂までのダッシュもう1本追加!」
という会話があったかどうかはさておき。

…数ヵ月後の庄内の乱、そこには元気に走り回る牛之介と六太郎の姿が!
籠を担いだ六太郎、籠から上半身を乗り出して号令する新納忠元、
そして後ろから六太郎の籠を支え自身も予備の籠を担いだ牛之介。
猛特訓を乗り越え、文字通り三位一体となった彼らは縦横無尽に戦場を駆け、
忠元の目論見どおりに城への一番乗りを果たしたという。

血気盛んな老将とそれを支えた二人の男のお話。





277 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/24(日) 18:19:45 ID:TnFt+IhL
>>276
>かといって一番乗りの役目はわしが果たさねば若い者に示しがつかん
さすが親指武蔵と言わざるを得ないw

にしても殺気立ったジジイが籠に背負われて顔出してる絵はなかなかシュールだなw

新納忠元、細川幽斎からの降伏勧告に

2009年10月12日 00:10

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/11(日) 20:29:50 ID:fj9oTRqP
細川幽斎「鼻のあたりに 松虫ぞ鳴く」
新納忠元「上髭を ちんちろりんと 捻り上げ」

新納忠元と細川幽斎がこんな遣り取りをする前の出来事。

島津義久が豊臣秀吉に降参した後も、薩摩にはまだまだ徹底抗戦を主張するものも多かった。
弟の義弘や歳久がそうであり、新納忠元もその一人であった。

彼は大口城に留まり続け、ついには細川幽斎の軍勢に包囲されるに至ったのである。
ところが幽斎の軍勢、存外に動きが鈍い。これを見た忠元は行動を起こした。
奇襲をかけるのか、と思いきや使者を派して糧米を送り届けたのである。

使者が持参した書状にはこう書かれていた。
「京都の軍勢兵糧乏しくお困りの由承り及ぶ、これをきこしめして我が大口城に押し寄せられよ、
忠元随分にご会釈仕るべし」
そちらの兵糧不足はお見通しだ。攻めるなら、こちらの送った米を食べてから大口城に来られよ、
不肖忠元が心行くまでお相手しよう、というのである。

これを見た幽斎は驚いた。事実、幽斎の軍勢は大軍であるため兵糧が行き渡らず、
土地の貧しい薩摩では徴収もままならなかったのである。

この男、死なすには惜しいと思ったか幽斎は石田三成、伊集院忠棟と供に忠元に返書を送った。
その内容は兵糧の件を謝すと供に、
・たとえ自分の軍勢が敗れても後に控えている秀吉の軍勢には到底太刀打ちできないであろう事
・既に主君の義久が降伏している以上、これ以上の抗戦は不忠であること
等を述べ、一命は助かるように取り計らうからと降伏を勧めるものであった。

だが忠元はこれを撥ね付けた。
「この国中一戦して相防ぐ者が無ければ薩摩に男児一人も無きが如し、この城下に寄せつけて
一戦に及ばん」
秀吉の軍勢が来ているのに薩摩国内で誰も一戦交えなかったとあっては、
まるで薩摩に真の男児が一人も居ないようではないか。
ここは城下にて一戦して雌雄を決しよう。

…自分では忠元を説き伏せることは出来ない、さりとて殺すには惜しい、
そう思った幽斎は秀吉を通じて義久、義弘から降伏を進めさせることにした
(この時点で義弘も義久に遅れて降伏していた)。
幼少から仕えた主筋の二人に言われては、忠元も従うほか無く渋々降伏するに至った。

この後に秀吉とどんな遣り取りがあったのかはこちらをどうぞ。

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2539.html

徹底抗戦を貫くことで、却って好印象を与えた新納忠元のお話。
尤も歳久の場合は逆効果だったけど…




438 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/10/11(日) 21:06:07 ID:Z2C9XlDn
>>436
かっこいいね、薩摩隼人の鑑ですな。
「敵に塩を送る」って話も、実際こう言うやりとりを
信玄と謙信がやったら絵になるな…っていう発想かも
しれないな。

豊臣秀吉、宴席で新納忠元に

2009年07月29日 00:41

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/28(火) 13:25:54 ID:kTZ8fxCo
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2324.htmlこれと荒木村重の餅に似た話だが
デ新納さんのお話

秀吉が九州征伐で島津を服従させたころ

秀吉を歓迎する宴席で秀吉は島津家の勇将、新納忠元が気になった
宴会も終わりに差し掛かったころ、秀吉は唐突に太刀を抜き目の前にあった魚に突き刺した
一同騒然とするなか、秀吉はそれを忠元の前に突き出すと
「 食 え 」
と言った

人々はそれを手に取って食べるかと思ったが、忠元は直接かぶりついた
秀吉は驚いてなぜ手に取って食べなかったか、と尋ねると忠元は
「関白殿下の腕は伸びきっておられました。それ故某を突くことは出来ないと考えたのです。」
(そんな小さな腕で俺を突けるかよバーカ)

これに秀吉は甚く感心し、わしの直臣にならんか、と言ったが、
「いえ、某はもうこの通りの高齢。このような老いぼれには荷が重すぎまする。」
(ははーん、そんなこと言って島津を弱くするつもりだろ?バレバレだよバーカ)

デ新納さんの(気概の)いい?お話

上に挙げたやつとは真逆の逸話だが、地元にはこんな逸話もあるんだよと、
それが言いたかったので書いた
ちなみにカッコはデ新納さんの心境。大体こんな感じで伝わってる




902 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/28(火) 13:27:47 ID:q/M7x0Rf
秀吉しょっちゅうそんなことしてんのかよw
しかしデ新納の反骨精神は相変わらずだな

903 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/28(火) 14:05:26 ID:M9YQBhhN
信長ならともかく、秀吉がやったらなんか小物っぽいのがなんとも…


秀吉、新納忠元に

2009年06月28日 00:05

837 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 20:46:24 ID:MOoY7jOw
秀吉が島津義久を下した後のこと。

秀吉は島津家臣の新納忠元と会った。秀吉は忠元に
「まだわしと戦いたいかね?」
と質問すると忠元は
「我が主君と敵対なさるならば何度でもお相手しましょう。」
と言った。

秀吉は
「さすが勇士であるな。」
と言って着けていた陣羽織を忠元に授けた。受け取った忠元が
下がろうとすると・・・
「待て。まだやる物が残っておる。」
秀吉は白刃の長刀の首もとを掴んで、石突の方を出して授けた。
この状態なら、忠元が殺ろうと思えば秀吉を刺すことができる。
しかし秀吉の豪胆な振る舞いに、忠元は身震いしながら受け取ること
しか出来なかった。

その後、帰宅した忠元に若侍たちが会見はどうでしたかと聞いてきた。
これに忠元は
「・・・俺が刃向かえるような御仁ではなかった。さすがの俺も腰が抜けたわ。」
と答えたという。




838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 20:58:29 ID:TLN5qwiH
まあその割に太閤検地が始まっては反乱を勧め
歳久処罰と聞いては反乱を勧めるんですがねw

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 21:01:32 ID:/RGWkIuE
ラスボスのすることといったら
刃が潰してあったら面白いんだが

840 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/27(土) 21:05:57 ID:z27LfoEp
>>838
そりゃあ、新納さんは刃を向ける者じゃなくて、その者が持つ、相手に向けられる刃の方だからな。



関連
南の方の武蔵、新納忠元・悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-688.html

東郷元帥と新納忠元・いい話

2009年04月24日 00:12

971 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/23(木) 01:22:27 ID:hpXmumdS
明治時代の話なんだけど戦国武将にも由来するお話

東郷平八郎が元帥に任じられた当初のこと。
鹿児島から、各地の史跡の碑銘に対する揮毫の依頼があった。

故郷の者からの依頼、ということなので快く引き受けたが
とある碑銘のところで、ピタリと筆が止んでしまった。

依頼をした村の者が横から伺ったところ、
『関白陣跡』の四文字を見てムッと難しい表情をしていた。
この4文字がまずいと悟った村の者が慌てて『新納忠元公記念碑』と改めて依頼したところ
快く筆を走らせたとの事。

時代が変わっても薩摩の人にとってはラスボスより親指武蔵さんの方が
尊敬されてたんだね。というお話。

ちなみに東郷元帥は西郷さんの推薦でイギリスに留学したが
留学中に西南戦争が起こり、帰国前に終結してしまった。

長州閥に「参加できなかったのが残念だったのではないか?」と揶揄されると
「いや、全く残念だ。かなうことならば自分もイギリスから駆けつけて西郷先生の
お手伝いをしたかったものを」
と半ば本気で悔しがって周りのものを倉皇とさせたとか。
この辺は纏めサイトでも紹介されている
「オマエなんか義久様からGOサイン出ればいつでも殺ってやんよ」
発言を彷彿とさせます。





975 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/23(木) 11:14:11 ID:GOateFOI
>971
井伊の万千代さんといい、アミバ様より前に取り上げられる新納さんといい……(´Д`;)

野戦に強い大名んところの侍大将って気力だけで人を頃せるんじゃね?
んで全盛時のラスボスはそいつらの殺気を跳ね返すオーラがゴゴゴ・・・とかドドド・・・とか溢れてんの