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大寧寺の変と、宗像氏男の最期

2020年01月10日 16:39

741 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/10(金) 02:57:24.25 ID:WBNtECPA
天文二十年八月六日、宗像大宮司氏男、香月次郎左衛門隆光は宗像を出発し、同九日、山口に参着した。
相良遠江守武任を通して、大内義隆に参勤の御礼を申し上げたい旨を申し入れた所、同十一日、両人ともに
築山の御所に召され、義隆より「遠国よりの参勤、神妙である。」との言葉を頂き、また大友、島津などの
軍某もお聞きになられ、九国(九州)の太平を祝し、ご機嫌、殊の外麗しく、「両人ともに路次の労をも
休められよ。」と仰せになって、氏男、隆光は己の旅館に帰った。

そのような所に、同月二十六日、大内義隆の家老、陶尾張守興房の子息、五郎隆房は義隆公に怨みを奉る
事があり、逆心を企て山口を攻めんと若山の城より出撃したという話が聞こえたため、義隆は宗像氏男香月隆光
に五百余騎を差し添え千把ヵ嶽に差し向けられ、陶方の宮川甲斐守、江良丹後守の二千余騎と戦っていた所、
搦手の方面での合戦が敗れ、早くも築山の御所に火が掛かり、義隆公は行方も知れず落ちられたと、黒川刑部が
使いに来て伝えた、これを聞いて「今はこれまでである」と、宗像氏男香月隆光は打ち連なって長門国へと
落ちて行った、相従う軍勢は皆散り散りに落ちて行った。

深川の大寧寺に義隆が居られると聞いて尋ねて行ったが、はや昨日御自害されたと言われた。
両人ともに力を失い、「大内殿の家の滅亡、この時に究り、本来義隆公に従う義務のない公卿殿上人さえ皆討死、
或いは自害された。我等は武門に生まれ、生きて帰って誰に面と迎えるというのか。」
そう言うと、両人ともに腹を切って死んだ。あわれなる事共である。

(宗像軍記)

大寧寺の変と、大内義隆の跡を追った宗像大宮司・宗像氏男(黒川隆尚)の最期



742 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/10(金) 20:02:13.30 ID:/JcGRl1J
>本来義隆公に従う義務のない公卿殿上人さえ皆討死、或いは自害された。我等は武門に生まれ

後世からみたら宗像氏は武士化した社家で
軍事貴族たる武門ではないように思えるんだけど
当人たちの「武門」意識は面白い

 宗像の家摂津守氏国(13世紀前頃)よりこのかたは、もっぱら武門となり……
 この氏俊(14世紀初頃)の時にいたりては、猶更武士をこととして、
 神職の事はなばかりにて、四季の祭祀を勤むる事をいといければ

743 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/11(土) 11:02:53.43 ID:Ihnuve94
厳島の神主家然りで武門とのつながり強いとそう言う風になってくんじゃないかな?

745 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/15(水) 15:14:21.83 ID:Sy0WILvA
>>743
摂関家なんていう貴族中の貴族の土佐一条も、立派に武家扱いだしなぁ。

時代が南北朝まで遡ると、北畠顕家は、親の北畠親房が建武の新政以前でも権中納言、自身も参議で公卿なのに、ほぼ武家扱い。

もっとも、南北朝期は懐良親王とか護良親王みたいに
皇子ですら前線で戦っていたわけのわからない時代だけと。
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宗像大宮司より見た大寧寺の変

2018年05月20日 17:51

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/05/20(日) 17:45:33.12 ID:YeJdzbDA
天文20年8月6日、宗像大宮司氏男と香月次郎左衛門隆光は、宗像を出立して同9日、
山口へと参着した。そして相良遠江守武任を通して、大内義隆に参勤の御礼を申し上げたい旨を
申し入れると、同11日、両人供に築山の御所に召され、義隆より直々に「遠国よりの参勤
神妙なり」との言葉をいただき、また大友や島津の軍謀の事なども聞かれ、九国(九州)の
太平の事を祝し、ご機嫌殊に麗しかった。

そして「両人供に路次の労を休められよ」との仰せにて、宗像氏男香月隆光は自分の旅館に戻った。


このような所、同月26日に、大内義隆の家老である陶尾張守隆房は、主君義隆へ恨みを持つ
事があって、逆心を企て山口を攻めようと若山の城を出陣した、との情報が聞こえた。
宗像氏男香月隆光大内義隆に命ぜられ、五百騎あまりを付けられ千把ヶ嶽に差し向けられたが、
陶方の宮川甲斐守、江良丹後守率いる二千騎と戦いもみ合っている所に、黒川形部より使いが来て、
『山口の搦手が敵に破られ陶勢が乱入し、築山の御所にも火がかけられ、大内義隆は行方も知れず
落ち行かれた』と伝えられた。

宗像、香月は「今は是迄」と打ち揃って長門国へと落ちていくと、付き従う軍勢はみな散り散りとなった。
そんな中、深川の大寧寺に義隆が居るとの情報を聞き、ここを尋ねていったものの、早くも昨日
御自害されたと言われ、両人供に力を失い

「大内殿の家の滅亡は此の時に究った。本来そうする必要のない公卿殿上人までみな討ち死にし、
或いは自害されたという。我ら武門に生まれ、生きて帰って誰に面を向けるべきだろうか。」

そう考え、両人ともに腹を掻っ切って死んだ。あわれという言葉もない。

(宗像軍記)

宗像大宮司より見た大寧寺の変


宗像氏男跡目の事