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「続武家閑談」から「秋月居城姑取山を生駒雅楽頭に御預けの事」

2023年05月01日 19:02

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2023/04/30(日) 20:25:20.02 ID:wzp3miEb
続武家閑談」から「秋月居城姑取山を生駒雅楽頭に御預けの事」

秀吉公は秋月氏居城の古処山城を生駒親正に御預けになられた。
親正がたいそう険しい古処山に乗り上げると、西国武士どもは驚き
「馬に鳥が生えて白い轡をはめ、鳥も通わぬところを通るとは、稀代のことだ」と口々に言った。
これは乱世により諸国から九州に馬面・馬鐙・白轡の進呈がなく、九州の者どもがそれまで知らなかったためである。(?)
秀吉公は秋月の東北の荒平に陣を敷き、二日逗留して仕置きを申しつけ、肥後へ出発された。
鍋島直茂ら九州の軍勢が先手を勤めたが、西国衆のいでたちははなはだ見苦しかった。
また指物を請筒(受け筒)に指すことを知らず、縄で背中に指したり、肩にかたげたりする者も多かった。
それを見た上方勢が手を打って笑ったため、直茂が秀吉公に申しあげたところ
秀吉公「そのように上方勢が国ごとのならいを知らずに笑うことこそ不覚である。
今後そのようなものがいれば罰しよう」
と戒められたため、以後笑うものはなかったという。



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味方千騎の強みとは

2021年10月07日 16:23

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/06(水) 21:13:25.39 ID:1w+xW3ed
天正17年(1589)、正規(生駒親正)は大坂在勤の時に予州今治の城主、
藤堂佐渡守高虎と御対談あって申されるには「今度、今治に御帰路の時に我が
高松へ御立ち寄りになって、城地を御見分してくだされ」と申された。

高虎は申されて「もちろん私も参るつもりだが、幸いにも黒田如水が近日中に
中津へ帰られる。時を合わせて同道仕り、如水に見分して頂けるように相談し
ましょう。この人は城取り功者で諸方の城々はおおかた如水の見分で相調った
のです」と仰せられた。

これに正規は喜び申され先立って高松へ下着し給い、西浜東浜の間に仮屋形を
造り待ち給う。程なく両将御下着なさり高松の地を見分なされた。

如水は仰せられて「これは究竟の城地です。富貴繁昌ともに備わって要害良く、
諸方の船路は便を得て、国主の居城に合った地形です」と誉め給う。正規は申
されて「西の山が程近いのだが、どうでしょうか」と御尋ねになった。

これに如水は仰せられて「この山なくてはこの所で城取りは成り難いでしょう。
この山があって西を塞ぎ、寄口は南一方になるため要害に良い。

特に山は険阻で人馬の足場がなく、北は海岸に入って海深く、山の根は潮汐の
差し引きあって敵人は留まることができない。東は遠干潟で川入あって敵人は
留まりがたい。南一方を防ぐだけである。

味方千騎の強みとは、この山のことである」とのことだった。このため正規は
安堵してこの場所を城地に定められたのだという。

――『南海通記



651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/07(木) 11:04:26.13 ID:lP6gqeTD
>>650
弱点あっても後々のことを考えて言わなさそう

高松由来

2021年10月06日 18:32

647 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/05(火) 20:55:53.29 ID:bRILBaEz
天正15年(1587)、生駒雅楽頭正規(親正)は讃岐国を賜り、当国に入部なさった。
まず引田の城に入り給い、その後に国の中區なので鵜足郡聖通寺山の城に移り給う。

正規曰く「国中に在来する所の城々は皆乱世の要害であり、治平の時の居城の地にあらず。
平陸の地を設けて居城とすべし」と、その地を求めなさったところ、香川郡笑原の郷に究
竟の地があった。

(中略。その地の故事伝承について)

正規はこの所を見立て地形の吉凶を占おうと相者を召された。安倍晴明の遠裔、安倍有政
という者がいた。これは乱世の相者だが京学でホギに通じ、文才あって占に優れた。近来
は香西氏に許容されて山端村にいた。

この占者を召して吉凶を問われた。相者は卜を布いて曰く「この地は富貴繁昌ともに備わ
り、四神相応の地と言えましょう。しかしながら、地祭をなして吉凶を定めなさるべきか
と存ずる」と言った。

問者の曰く「何の障りがあるのか」。有政曰く「土地の名を目出度く改めるべきかと存ず
る。その謂われは、聖通寺より野原(地名)へ出給う時はその詞は凶である。聖寺より通
して野原に出ると読むなれば、野原の名を改めて目出度き唱えの名になされるが、しかる
べし」と申し上げた。

これを正規はもっともとされ、東の方高松の名を取って城の名とし(高松城)、古高松は
波の寄せ来るところなので“寄来村”と名付けなさったのである。

さてまた右の陰陽師有政には地祭を仰せ付けられ、天神地祇を降拝して如在の礼奠をなし、
衆人は囲繞渇仰して地祭が済み、正規は喜悦なされ、有政には数々の引出物を得て目出度
き祝詞は整ったという。

――『南海通記



十河千松丸の非業

2011年08月09日 23:01

363 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 10:29:12.51 ID:Xp+/+51v
 天正十四年、九州征伐の最中に戸次川の合戦で当主存保が討ち死にを遂げてしまった讃岐の国主十河家。
 事実上、阿波三好家の後継者であったこの家系には存保の死に際して少なくとも二男が存在した。
 千松丸と存英の二人がそれで、嫡男である千松丸は時に十三歳、元服を未だ迎えず、二万石の所領は収公され、
翌年讃岐一国十七万石は生駒親正に与えられることとなった。
 ただし、この内十河家の所領二万石は一時預かり的な意味合いのものだったとも言う。

 さて、生駒氏が讃岐を統治するに当たって旧国主で四国東部に隠然たる影響力を持つ十河氏は厄介者であり、
親正はこの厄介な被養育者を三千石の捨扶持を与えて飼い殺す道を選ぶ事にした。
 むろん、親正には千松丸が長じた後に所領を返還する意思など一切ない。
 三千石にはわざわざ「鼻紙代」と言う侮蔑的な呼称まで付けた。鼻も拭けない小僧、という蔑視の表れである。
 家臣化すればそれでよし、出て行くようならそれもよし、程度の認識だっただろう。
 おそらくは時が経れば秀吉も彼の存在を忘れるだろう、という期待もあったのだろうが……それは聊か甘い未来予想だった。

 天正十七年、千松丸十五歳。
 元服にも程よい頃合に、千松丸は秀吉に呼ばれ、その謁見を得ることを許された。
 その席には生駒親正、そしてその甥(孫とも)の大塚三正が同席している。
 この二人の前で秀吉は千松丸が順調に成長していることを喜び、その所領を三千石と聞いて不満の念を親正に漏らす。
 親正は大いに畏まってその場を引き下がり――すぐに大塚に命じて、善後策を処すことにした。

 かくして十河家の大名復帰は約束されたかに見え、千松丸は意気揚々と帰国する。
 そして帰国するや否や、即座に『病』を得て帰らぬ人となった。
 余りにも不自然な死の成り行きから、人々は生駒親正の仕業と信じて疑わなかったと言う。

「命すつるも子ゆえにすたれ けなげなれとよ 千松丸」

 千松丸の死後、旧領の遺臣や領民はこの様に謳い、生駒家に殺された千松丸の冥福を祈った。




364 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 16:32:48.47 ID:qL7nTJKk
悪い話だ

365 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 20:14:16.12 ID:HqPsJ+PW
久々に悪い話を聞いたでえ。

366 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 20:16:39.23 ID:ZmvR9KmD
生駒って三中老でも目立たないけど
しっかりやることやってんのな

367 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 21:16:32.19 ID:1hoR7LGM
関ヶ原もうまく切り抜けてるしな

368 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 21:18:13.35 ID:LdFo4j0Y
>363はきっかけも戸次川だしホントに酷い話や

369 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 21:24:13.13 ID:Togfk+uu
そして生駒はひ孫の代に生駒おどりか…

370 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/09(火) 22:24:48.23 ID:8syVZPYW
生駒おどりの若殿もかなりのサラブレッドなのにな
やっぱ父祖の因果が子孫に報いるのかねぇ

377 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/11(木) 02:42:27.70 ID:JlCMAZFO
>>363
生駒は、城造りで名人に依頼したけど、内部に詳しいから殺したよね

生駒親正の胸糞悪い話

2010年05月21日 00:01

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/19(水) 23:06:09 ID:NBTd3EST
生駒親正の胸糞悪い話

仙石秀久、戸次川で大失態!高野山に追放され→尾藤知宣が讃岐を任される

生駒氏は(足利義輝の生き残りの子を養育していたとされる)これが理由かは解らないが
生駒親正は十河存保の後継である十河千松丸を毒殺したと言われている

尾藤が釣野伏せを恐れる←生駒が恐れる尾藤にしつこく告げたとも言われる
尾藤、釣野伏せを恐れ大失態を起こして追放される

十河の嫡男(大坂の存英は違うらしい)が都合よく居なくなった讃岐の領土は生駒親正の領土に・・・

               生駒大勝利!!

の後、生駒親正と蜂須賀家政はHP0の三好(氏)に対する『三好狩り』を開始
祖谷渓に住む人々が古くから受け継いできた数々の名刀を奪い弾圧を行う(マジで名刀だらけだったと郷土史にはある)
その三好狩りは讃岐生駒氏の3代目、生駒正俊の代でやっと収束を見せる事になる

長宗我部は仙石の所為ばかりにしているが実はこいつも一枚も二枚も噛んでいた悪だと言う事に気が付いて欲しい




生駒親正の丸亀城の石垣・悪い話

2008年12月05日 02:15

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/04(木) 10:28:37 ID:QXKHsuQZ
豊臣家三中老の一人としても有名な、讃岐十七万石、生駒親正、
彼がその領地にて、丸亀城を築城していたころのお話。

この城の石垣を造るにあたり、親正は、石垣造り天下一との評判の石工、羽坂重三郎に
依頼をした。重三郎の造営術はすばらしく、たちまちのうちに見事な石垣が完成した。
これには親正も上機嫌で

「実に天晴れである。流石は羽坂重三郎。お主の名声は伊達ではないわ。
これほどの石垣ならば、鳥でなくては登る事もかなうまい。」

と、喜んだ。

「そうでもありませんよ」

重三郎はふと、言った。

「余人では無理でしょうが、わたくしなら棒の一本もあれば、このくらいの石垣、登って見せましょう。」

親正も「な、ならば登って見せよ!」と、少々剥きになる。
すると重三郎、大工道具の中から一本の棒を取り出すと、それを石の隙間に差し込みながら、
するすると石垣を登ってしまった。

「この通りでございます」

大したものだ、流石は重三郎である。親正は彼をまた、褒めた。


さて数日後、親正はまたも重三郎を呼び出した。

「実はな重三郎、内々に城から井戸までの、抜け道を造りたいのじゃ。
おぬしの技術を見込んで、どこの井戸から道をつなげればよいか、調べてもらいたいのだ。」

重三郎は喜んでこれを受けた。城の周辺の、一つ目の井戸、二つ目の井戸、と調べていき、
三つ目の、二の丸の井戸の底に入った時


「重三郎、お前がこの石垣を登れるようでは、いざと言う時敵に内通されれば、この城の
致命傷となる。かわいそうだが…」

「と、殿様!?」

親正は家臣に命じ、井戸の中に巨石を落とした。


この、重三郎が巨石の下敷きにされた井戸は、今も「二の丸井戸」として、丸亀城に残っている

そして丸亀城の石垣は、その角度の美しさから「扇の勾配」と呼ばれ、訪れる人たちを今も、感嘆させている。



39 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/04(木) 13:22:27 ID:MMA/wgCX
>>36
雉も鳴かずば撃たれまい

合唱

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/04(木) 12:23:08 ID:zWAASBGJ
>>37
戦国残酷物語


40 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/04(木) 14:12:50 ID:vWTCcvQ+
ワワワワー♪

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/04(木) 14:34:01 ID:cCP+Hu9o
そういえばもう「第九」の季節か

42 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/04(木) 17:51:52 ID:dNWJllj0
気がつかなかった
合唱違いかァ

39さんっておもしろい人そうだね

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/06(土) 04:56:28 ID:Gm31i4EM
>>36
丸亀城には築城時にたまたまそのあたりにいた豆腐屋をとらえて
人柱にしたため雨が降ると豆腐屋の売り声が聞こえるという話もあり


86 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/06(土) 08:04:38 ID:1Q9ibytE
>85
プー