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井伊直孝の嫡子の靱負佐直滋が若年の時

2014年02月13日 19:16

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 16:59:53.83 ID:RzyyDguE
井伊直孝の嫡子の靱負佐直滋が若年の時、父直孝が言ったのは、

「其の方に附人を申し付けようと思うのだ。家士の中から選びなさい」ということだった。
嫡子直滋は答えて「私は嫡子ですから御跡を継ぐ身です。そうであるのに、いま家士の中の
誰彼と選んだので、私が当主になった時にいま選んで残した者どもが、

『自分たちは当主の気に入っていない身だ』と思ったならば、自然と勤方も怠ることでしょう。
家士は主将の四肢です。四肢が怠る時には身は立ちませんので、私は選ぶつもりはありません。
父の御目鏡をもって誰でも御附けになってください」と、言った。

直孝を初めこれを聞く者に感心しない者はいなかった。ところが、直滋はどのような理由なのか、
その後に遁世なさった。「彦根一家中で惜しまない者はいなかった」と、家中の老人は
嘆息しつつお話しになった。

――『明良洪範』




518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/13(木) 16:35:44.96 ID:bcc0dnuM
ほうほう、そんなに立派な嫡男だったのかとググったら

>>江戸城下で育ち幼少の頃から将軍徳川秀忠・家光父子に寵愛され、
>>幕臣筆頭の家柄の嫡男として何不自由なく育ったために我が強い性格で、
>>父とたびたび対立し言い争うことが多く、質素倹約を旨とした父に気に入られなかった

誰が本当の事を言ってるんだろうか

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/13(木) 17:06:25.24 ID:LEi2KN2U
親父の押しつけには嫌気がさしていたので付人つけるなら勝手にやれよ
まあ周りの目もあるし角の立たない言い方でおさめとく
と、ずーっと反抗し続けていたら廃嫡されたでござる

井伊直孝の直言

2013年07月23日 19:52

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 08:18:39.22 ID:BTaLqH8H
井伊直孝の直言

秀忠様が諸大名を召して土井大炊頭利勝をもって来年嗣君に世を譲る
と仰せ出されたので、誰もがお祝いを申し上げているなかに井伊直孝
一人は黙然としていた。

利勝はそばに招いて「なぜそのようになさるのか」と問いかけると、
直孝は「天下乱れのもとになると存じますので、とても目出度くは
思えませぬ。」と答えた。

利勝が「その仔細は如何に」と問いただすと、直孝は「大坂の乱後、
すぐに江戸の石壁の営み、日光の御造営などが続き、天下の諸大名は
とても困窮しております。このような時に御代を譲られますと諸大名
は献上物への費えが嵩み、将軍宣下の祭礼を執行するにはなお困窮に
及び、重税を課して民を苦しめる他やりようがありません。これは
万民の嘆きとなり乱のもとになると存じます」と申し上げた。

利勝は「至極もっともな事である。この旨ありのままに言上しなさい」
と直孝を御次の間に伴って、利勝は御前へと進み出てしかじかの旨を
言上した。

秀忠様は即座に直孝を御前へと召され「汝が言うことはもっともで
あるが、既に公言してしまったからには止めがたい。今後もはばかる
事無く言って欲しい」と仰せられた。

直孝はそれは良くない事だと考えたので「そのように私の言う事を
もっともと言いながら用いられぬのは、いかに仰せとはいえ、よく
ありませぬ」と答えた。

暫くお言葉が無かったので、利勝が「私は既に年老いましたが、壮年
の者がこのような直言を申し上げた事は、誠に天下泰平の基でござい
ます。明日諸大名を召されて、掃部頭が申す事はもっともであるから
昨日の件は中止すると仰せ出されるべきでしょう」と申し上げたので
秀忠様は諌めに従われた。

直孝は「私の申す事を用いて頂き忝けなし」と謝し奉り御前を退去な
された。

秀忠様の諌めを受け入れる器量と、直孝の直言は君臣ともに立派なこと
だと世の人々は語ったと言う。

(明良洪範)

井伊直孝の諫言についてのお話




753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 16:41:41.36 ID:Df+LqmJd
>>752
状況よりも予定に合わせてしまうんだよな

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 18:04:19.22 ID:rC1gL2TW
>>752
秀吉「民に重税をかけて苦しめるとは、なんと酷い将軍なのだ」

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 19:54:28.75 ID:hXET5Q2J
>>753
卑近な例だけど、湿度も高い真夏日に、熱中症の危険が高いけど予定通り運動会を開くような感じか

【井伊直孝遺状】(抜粋)

2013年01月30日 19:50

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 21:04:26.49 ID:kK6dsO2q
井伊直孝遺状】(抜粋)

一.上意は申すまでもなく、御老中からこの上もない無理難題を申しつけられても
幕命に沿い、只管に将軍家への御奉公を専らに勤められることを本義とする。
我らへの孝行は将軍家への御奉公に勝るべきでなく、御代々の御厚恩を子々孫々に至るまで忘れるべからず。

一.大権現様により泰平の世となって以来、我らが御主君の御役に立ってきたことは、天下に広く知られている。
其方も昼夜武道を忘れなく励まれよ。
世の中が泰平ゆえ、大猷院(家光)様と当公方(家綱)様に対し、戦場での御奉公も致さず相果てることは、誠に残念至極である。
幕府に対する謀反者が現れた際には直ちに出陣出来るように、常日頃から覚悟しておけ。
その際の軍法は以前より定めおいた通りにすべきであるが、場合により少しばかり変えてもよい。
しかし、新たな戦法は取るな。 井伊家直々に伝わってきた軍法と、別書一巻の通りに合戦をしろ。

一.天下に兵乱が生じた際、靫負佐(直滋)が独自に別旗を立てて出陣しようとしても、その意に任せてはならない。
また金銭を所望してきても、以前から定め置いた合戦の員数以外の援助は無用。

一.賞罰については、当たり前のことだが、賞を厚く罰を薄くするように心掛けよ。
大将たるべき者は、表向きの役務をする外様者や、遠所に在勤する者に対しても、よくその善悪を見極めろ。
並みの人と能き人とを同等に扱ったら、能き侍は嫌気が差し、奉公を等閑にするものである。
他人から聞き及ぶことには、事実と相違することがあり、そのため人を見誤ることも多いのでよくよく分別せよ。
何れにせよ大将たるべき者は、欲を浅く慈悲を深くすることが肝心である。

一.家臣を召使う場合、その侍の善悪次第によって召使われるべきで、譜代・新参の分け隔てなく扱うこと。
一心に奉公する者がいても、贔屓がなければ主人の目にも止まらず、埋もれて知れぬ事が多いものだが、これはとかく残念なことである。
また、さほどの取り柄の無い者でも、取り成してよき様に処遇してやり、
人並みの奉公も出来ない者でも、その善悪を選び出して程よく召使うことが、大将の手柄である。




218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 21:24:01.24 ID:e+3He9uu
彦根藩と庄内藩どうして差がついた

近畿ととうほぐの違い

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/30(水) 07:22:59.47 ID:7//td3HG
先日放送の「八重の桜」で
井伊邸に居たひこny…白猫や、松平容保と井伊直弼の対談を観て感慨に耽った身として
会津藩の藩祖・保科正之が遺した家訓と
井伊直孝が直澄に宛てた遺状って似てるんだよなーとまたまたしみじみ

福島正則改易の時の、井伊直孝の発言などについて

2012年11月23日 19:52

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 08:32:42.17 ID:X2nhYk3I
これは元和5年(1619)の福島正則改易について、石谷将監(初名十蔵、後に土入と号す)が語った
事である。

伏見でにおいて将軍秀忠が福島正則の改易を決断する。
そこでこの時江戸藩邸にあった正則に対し、改易を伝える使者を出すことになったが、この時将軍秀忠を始め
主な幕閣などは伏見にあり、江戸には留守居があるのみであった。そのため

『彼の者は武功者であり、また心荒き者であるので、上意を素直に受け入れるとは思えません。
そうであれば使者として赴くのは、江戸留守居の者たちからではなく、(現在伏見にある老中格の)
井伊・本多・榊原・酒井などの内から出すべきであると考えます。』

と、評議において意見が出た。重大な事態に陥る可能性の高い使者である以上、相応の
責任を持ったものが行くべきだ、という事であろう。

これを聞いた井伊掃部頭直孝は、言う

「おやおや、いざ合戦となって先陣を務めるのは私の役目であるぞ。この時は江戸留守居に残った
者達の出番はない。
幸いにも、今回のような事は、御上洛の御留守を承り、江戸御城下に居ながらのお使いという、
御留守居衆にとってうってつけの役目である。

各々の察している通り、福島左衛門大夫はこの改易を、とても素直に受け入れるとは思えない。
もし最初の使者からの改易の命を拒否したことが解れば、次は我々から彼に当てた書状を出すべきである。
その内容は

『あなたは咎によって安芸・備後両州を召し上げられ、どこどこに改易されることになった。
この事を御恨みに思うのであれば、広島に下って挙兵するのも、またそちらの屋敷に立て籠もるのも、
心次第にやって頂いて構わない。』

これを見てもまだ左衛門大夫が、むつかしく改易をお受けしないのであれば、その時は他でもない。
この掃部頭に仰せ付けられよ。討ち取って差し上げよう。

ともかく、先ずは穏当に使者を遣わされるべきであろう。」

これを秀忠もいかにもと考え、江戸留守居であった牧野駿河守信成以下が、正則への上使となった。


その頃正則の江戸屋敷は、今の増上寺の近く、愛宕山の下にあった。そのため愛宕山に石火矢を
配備し、緊急の事態になればすぐさま正則の屋敷に向かって撃ちこむ用意をしていた。

ところが、思いの外に正則は静かに改易を受け入れた。この事、江戸より伏見に報告されると、
伏見では秀忠上洛のお供として召し連れられていた、正則の嫡男備後守(忠勝)も取り籠められた。
(武野燭談)

福島正則改易の時の、井伊直孝の発言などについての逸話である。





542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 09:12:53.57 ID:AwgcWyxp
留守居の顔を立てたいい話
秀忠公は落ち着いているなぁ

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 10:09:00.99 ID:FAotWQ89
市松の身から出た錆とはいえ、改易話はやるせないなぁ

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 11:39:39.74 ID:HRCXv3lr
静かに受け入れたのも罪滅ぼしだったのかもね

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 11:58:25.63 ID:Ol09G7q6
きっと酒が入っていなかったんだろう

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 16:24:58.24 ID:KLdq6rtb
是非もなしって感じかな

軍陣の作法を心得ておるわ

2012年10月11日 20:22

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 17:43:44.57 ID:rsYOP+wD

大坂夏の陣の折、徳川家康と秀忠の両御所は伏見城の舟入の櫓に渡御して、
軍の進む様子を見ていた。

この時、井伊直孝の旗奉行である孕石豊後広瀬左馬助の二人は、城下にて
幟旗を伏せて通るので、直孝は般若野宮内に命じて「両御所が御覧になって
おられるのに何故旗を伏せるのか。早く旗を立てよ」と伝えさせたが、両人は
「旗のことは奉行にお任せください」と言って聞かず、直孝が馬場藤左衛門に
催促させても、二人は聞き入れなかった。

やがて二人は肥後橋を通過し、城から遠く離れて初めて旗を立てた。
これは主将が渡御した城へ旗を向けることを憚った故に、旗を隠していたのである。

家康はこれに感心して秀忠に向かい「この城に旗先を向けることを憚り、
今になって旗を押し立てるとは、直孝のもとには信玄の家風に慣れた古兵が多い
だけあって、軍陣の作法を心得ておるわ」と賞賛したということである。

――『徳川実紀(村越覚書)』




888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 18:45:28.06 ID:ml726taz
権現「してあの者達の名前は何と申すか?」

直孝「孕石豊後広瀬左馬助です」

権現「さっさと腹切らせろ」

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 19:09:39.20 ID:BdlzcD3M
そして何だかよく分からない作法が増えて行くのであった。
江戸に続く

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/12(金) 20:14:02.95 ID:mkLXV63a
>>887


孕石はあの孕石の縁者かの?

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/12(金) 20:30:35.86 ID:iDfdGD7W
旧今川領におおい苗字なのかしら

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/12(金) 20:35:27.65 ID:6KZn9KQW
【名字】孕石
【読み】はらみいし,はらいし,こいし

【解説】
現静岡県西部である遠江国佐野郡孕石村が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
藤原南家工藤氏族、和邇部氏がある。現高知県である土佐藩、小田原藩等にみられる「石」は石や岩、硬い地盤を表す。
http://www.myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AD%95%E7%9F%B3

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/12(金) 21:21:01.48 ID:I0GB3Awo
>>897
井伊家の旗奉行の孕石といえば、旧武田家家臣で、
信玄秘蔵の家臣として山県昌景に付された孕石源右衛門のことだけど、
甲陽軍鑑の注釈によるとあの孕石(主水)の息子さんではないかって、言われてるみたいだね

「拙者は髪にて御奉公は仕らず」

2012年09月27日 18:53

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 14:05:28.68 ID:5KBqIbgC
昨日(2012.09.26)の読売新聞、磯田道史センセのコラムより、ちょんまげ話を引用抜粋
「彦根往古ノ聞書」(慶大図書館収蔵)から
「(井伊)直孝様の時代、家中に上泉権左衛門という人がいた。この人はお見目えの時、
髪を結わず長髪で登城したため、藩主の目にとまりお叱りを頂戴した」
剣豪・上泉伊勢守の孫、居合の達人の権左衛門は「拙者は髪にて御奉公は仕らず」と抗弁
結局は、直孝は激怒し、閉門処分に。彦根も退去して尾張に仕える

彦根藩ではその後、長髪登城で2人、ちょんまげを糸でなく藁で結った1人が、閉門処分となっている

戦国期には自由だった髪型も、寛永頃には戦闘の準備行動であるちょんまげが主君への奉仕を象徴し、
管理統制へ移行したようだ

…直孝に抗弁して刃傷沙汰にならなかったから、いい話だったかもしれない…




593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 14:18:19.06 ID:g5jwDPI2
あたま・・・全部剃っちゃダメなのか?

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 14:24:26.63 ID:4Q5aK0LG
>>591
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?no=4215&spの逸話を思い出した
しかし糸でも紙でもなく藁で髪結ぶっておしゃれ上級者すぎるなw

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 15:04:30.88 ID:OFBUKKBq
髷が結えなくなったら隠居だから

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 16:17:38.68 ID:6bzTicsI
シグルイの夕雲思い出した。

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 18:48:46.21 ID:UBtiprp8
>>591
ひこにゃんは武士の規律を乱す人とかに厳しそうだもんな

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 20:19:59.05 ID:pml4fx5k
>>593
頭を留める者は髪を留めず
髪を留める者は頭を留めず

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 20:32:45.93 ID:ZIUk9L71
>>598
武者から藩士への過渡期なんやろね~

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 22:58:10.27 ID:f2ihicX8
>>599
フサフサは皆死んでしまへ!

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 23:42:06.24 ID:jLsdpooI
>>591

権左衛門さんってこのことで出奔して尾張に流れ着いて
尾張柳生の所にやってきて剣聖の孫の実力を遺憾なく発揮することになるのか


606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/28(金) 17:37:46.53 ID:JqkI9rwb
柳生さんって剣聖の弟子だっけ?世間は狭いな

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/28(金) 17:52:01.16 ID:IO6GurYO
世間は狭いっていうより、剣聖がいろんなとこ行脚してるからね~

松平定綱と井伊直孝は故あって

2012年08月14日 20:52

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 19:13:13.68 ID:nW9C8wHs

松平定綱井伊直孝は故あって数年にわたって断交していた。

ある時、直孝は麾下の士に「いま天下で異変があったとしたら、
その時に私が会わなければならないのは松平越中守だけだ。

近年、互いの心に隔たりがあって疎遠になっていることを
残念に思う」と言ったのを、その士が定綱の家に来て告げた。

これを聞いて定綱は喜び、和談のために使者を取り交わして
早いうちに面会しようとしたのだが、病に罹ってしまい、
直孝と会うことができずに死んでしまった。

――『名将言行録』




959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 19:49:53.48 ID:7X34yFFk
理由はどうせ些細なことなんだろうな。めんどくさい三河武士だから頭を下げるのは嫌だと

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 20:00:32.75 ID:UaTtOTGh
まあ三河武士にかぎらず、些細な事に平気で命をかけるのがこのへんの時代の武士ってもんですよ

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 20:04:20.52 ID:l2uRUcA5
井伊直孝って三河武士だっけ
あ、そうか、権現様のかくし…

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/08/13(月) 20:45:51.86 ID:MV1dIMPX
男は子供産まないだろ

滅びの兆しは、大豆の味噌汁に白き飯

2012年05月07日 21:01

58 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 20:32:08.32 ID:79jgw/fA
滅びの兆しは、大豆の味噌汁に白き飯
かって小田原攻めの際、三河武士の大久保忠教たちから糠味噌汁を振舞われ、溜り醤油を足して
味を調えれば味良くならんと言って、吊し上げを食らった井伊直政の息子、夜叉掃門こと井伊直孝
上野白井藩1万石の大名だった時、二代将軍秀忠の使いとして江戸から駿府に使いして大御所に
拝謁し、一連の報告を終えたあと大御所が尋ねた。
「何か面白き話でもあるか?」
「面白き話かどうかはともかく、近頃の小田原では、大豆の味噌汁が流行っております」
「ふむ・・・・・・大豆の味噌汁か。他には」
「城下の米が白くなりました」
「他には!」
「鯛の鱠と上方からのたまり醤油ももてはやされておりました」
「あいわかった。掃門、赤鰯に黒飯を忘れるなよ」
そういうと大御所は、井伊直孝との会見を終えた。
大久保忠隣没落の数年前の話である。
後年、井伊直孝は、「上に立つ者の心得は、兆しを捉えるの一事に尽きる。糠味噌が大豆味噌に
変わり、黒飯が白飯に、赤鰯が鯛の鱠に変わりしことに気づかぬようでは、家すら治められぬ。
ましてや天下をや」
夜叉掃門こと井伊直孝のちょっと良い話





62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 21:23:32.57 ID:cTDmFpmn
>>58
因縁のたまり醤油w
ひこにゃん学習したな
それに比べて大久保さんェ…

黄ばんだ褌の三河武士精神もダレはじめていたのか?


63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 22:59:06.48 ID:Qt2BuQow
>>62
ぱぱにゃんの溜り醤油の話ってまだ権現様の小姓やってた頃だから
小田原攻めの時ではないのでは?

しかし相変わらずひこにゃんは深い話をするな

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 23:09:05.56 ID:rOF6ksBV
というかひこにゃんは何で自分の領地でも江戸でもない小田原の食生活の話を報告したんだろう
小田原だけが奢侈に慣れていっていたのか?

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 23:20:13.71 ID:0Ofu/NYE
権現様の謎掛け論クオリティは晩年も健在か

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/06(日) 23:55:03.00 ID:IFYPWXhY
>>64
江戸を出て小田原で休憩して箱根超えて駿府着いてだから、そこで知ったんじゃないの?

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/07(月) 09:30:01.64 ID:GSwfz9LS
豆味噌はまだ高級品だった時代だね

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/07(月) 09:34:02.20 ID:E5PWroQU
三河武士なら焼味噌ぞ

70 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/07(月) 14:22:40.04 ID:hIxx0Par
焼味噌とはなんと贅沢な・・・・
三河武士は普段の心構えがなっとらん!

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/05/07(月) 14:53:54.21 ID:+JIFFMG9
金持ってないのが使わないと景気が悪くなるけどな。その点尾張様はわかっておられるようだが

井伊直政・直孝親子初対面

2012年02月29日 21:54

井伊直政・直孝親子初対面


井伊直政 井伊直孝

102 名前:88[] 投稿日:2012/02/29(水) 17:51:42.20 ID:2dukicO+
上に書いた逸話のその後の話。http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6232.html

わが子の豪傑ぶりを聞いた井伊直政が、直孝との対面を望んだ時の事である。
吹雪が吹き込む寒い縁側で長時間待たされた直孝は、膝に雪が降り積もっても座したまま動こうとせず、
その忍耐力を父に褒められたという。またこの頃、関ヶ原の戦いで腕を負傷していた直政に刀の試し切りを
任された時も、全く臆することなく死刑囚の胴体を斬り落とし、父を大いに喜ばせたという。
こうして12歳にして正式に直政の子供として認められた直孝は、その2年後から徳川家に仕えることになったという。




幼少期の井伊直孝

2012年02月28日 21:50

88 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/28(火) 01:52:55.52 ID:bqMSpXfr
徳川家重臣の井伊直政と、正室の東梅院の侍女との間に生まれた井伊直孝は、その誕生を東梅院に快く思われなかった事から、
父に会うことも叶わないまま上野国下後閑の名主の家で育てられた。そんなある日、直政の命で矢羽などに使う鶏の尾羽を収集していた
井伊家家臣が、直孝の事を知らずに下後閑の屋敷にやって来て、鶏を追い回し始めた。腕白な子供に育っていた直孝は、

「お前たち!一体何をやっているのか!」

と大声で怒鳴りつけたものの無視された。すると今度は槍を持ち出して追い払ったという。その後、その子供が主君の子供だと知った家臣が
謝罪に訪れても中々聞き入れようとはしなかったという。また、11歳の頃には、庄屋に押し入った強盗を斬りつけて捕縛に協力する手柄を立てたという。




89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 02:43:05.05 ID:yAawRpDq
ええっと、家臣の方が鶏を追い回したのか?子供の直孝じゃなくて?

90 名前:88[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 02:54:24.59 ID:bqMSpXfr
そうです。家臣が直孝を無視して鶏を追い回したんです。分かりにくくてすみません。

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 03:13:27.83 ID:oZFxJa5R
ひこにゃん拾った人か

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 08:45:38.91 ID:S0HI7cpc
世が世なら
ひこけっこーだったのか

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 09:38:01.69 ID:3NnNCM5F
>>88
せめて名主か庄屋か統一しろ

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 10:19:16.82 ID:+4Yi6I74
やっぱり安物の矢羽根にはニワトリみたいな家禽も使ったのか

95 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/02/28(火) 11:17:47.49 ID:H5IW6Tej
うむ

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 14:45:32.74 ID:BbWArl2t
お高いのは鷲とか鳶の羽だっけ?

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 18:15:51.63 ID:cYlHfcBg
>>93
名主の家と庄屋は違う家のことじゃないのか?

それにしても、まーくんとの↓の逸話でもそうだが
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2241.html
ひこにゃんは子どもの頃から勝気な性格だったんだな

99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 23:15:21.33 ID:uhsWr9cB
>>98
曲がりなりにも異母姉妹の義父に対してひこにゃんたらw

100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/02/28(火) 23:49:13.47 ID:52K11kNg
宇和島貰ってるのにしつこいジジイだな

天下普請と井伊家

2011年08月10日 23:01

372 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/10(水) 10:54:33.10 ID:vwQLggWE
元和から寛永年間にかけて、徳川幕府は諸大名に、いわゆる天下普請を命じた。
譜代筆頭格の井伊家も多くの普請に駆り出されたが、殿様からして無骨一辺倒、御殿や社寺普請の
知識を持つ家臣や伝手の少ない井伊家の作事は遅れがちであり、他家の侮りを受けていた。

江戸城本丸の改修においても、いつもの様に他家の普請が完了する中、井伊家の普請は未だ
天井の梁が丸見えであった。不安になった井伊家の侍たちは、普請奉行の岡本半介に伺いを立てた。

「お奉行、このままでは数日後の幕府検視に間に合いませぬ。よろしいので?」
「うむ、これで良いのだ。」
「?それと、釘がだいぶ余っておりますが、これも、数えなくて良いのですか?」

天下普請において釘は幕府を通じて買い、余った分は数えて幕府に返し、差額を返金してもらう
仕組みになっていた。が、半介は言う。
「かまわん。余ったら、まとめて埋めてしまえ。」
「そ、それでは当家の損となりますが?」「まあ見ておけ。わしに考えがある…」


検視当日、井伊家の担当部署を訪れた幕府目付は当然、吹き抜けのままの天井を疑問に思った。
「岡本殿、この天井はいったい?」
「いや、近ごろ色々な風聞があり申す。よって天井は特に、裏までじっくり検分をいただかねば。」
(なるほど。先ごろの、宇都宮の仕掛け天井とやらの噂を気にしての処置か。忠節の家は違うわい。
ところで…)

「話は変わるが、井伊家には釘の返納が無いとか。本当によろしいのかな?」
「いかにも。当家の普請に、余る釘など一本もござらん。」
「むぅ。さすが武をもって知られる井伊家、城普請も無駄無くソツが無い。それがし、感服仕った。
それに比べて他家は…手を抜いているのではあるまいな?!」

こうして他家でも、天井板を剥がして目付に見せねばならなくなり、釘の返納が多かった家は
手抜き工事を疑われ、普請をやり直すハメにすらなったという、他家のサイフに悪い話。




373 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/10(水) 18:07:32.64 ID:QR3Qcwe6
井伊だけにいい話し?

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/10(水) 18:16:10.73 ID:Y+wHjsN9
ちゃんとやってた所はいい迷惑だな

375 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/10(水) 18:26:15.84 ID:2YrAjXjs
これも正しく悪い話だな・・・

376 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/10(水) 20:38:20.81 ID:C4awa8Ka
ちゃんと悪い話が続くなんて、いい話すぎ
このスレ大丈夫?

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/11(木) 17:18:55.26 ID:tljWx+UF
井伊のほうはトンチ話じゃねえか。

383 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/08/11(木) 20:17:22.20 ID:CDZkIjsi
 石田三成は

「主君から頂いた禄は主君の為に使うもので、蓄財が貯まるような奴は禄盗人」

みたいな事、言っていて実際に佐和山城とか質素だったのに。

 後釜の井伊家は、徳川家から支給された釘を着服して返さない。

 こういう事をする奴がいるから、公共事業でも予算は使い切れとか悪習が起こったんだな。

 うん、本当に悪い話だw

384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/11(木) 20:57:51.13 ID:lEXI+wXj
>>383
釘は購入済みでしょ?
もうちょっとしっかり読みなよ。

井伊直孝の金の使い方

2011年06月29日 23:15

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 18:12:57.25 ID:hoI4lCBT
井伊直孝の金の使い方

井伊直孝というと、自身や家臣達に質素倹約を徹底した事が度々いい話・悪い話スレに上がっている。
そんな彼の価値観を偲ぶ逸話がある。

ある日、とある幕臣が金に困り、手持ちの高麗茶碗を七十両で手放したいと直孝の元にやってきた。
この幕臣は直孝に憚ったのか、茶碗と共に小堀遠州の書翰を数冊渡した。

直孝は承知してこれらを買った。だが幕臣が帰った後、高麗茶碗を手に取って語った。

「わしはこの茶碗が欲しくて七十両を払ったわけではない。あの男の貧窮を助けねばならぬと思ったから
買い取ったのだ。
 そもそも、こんなものがなければ、かの者はこんな目に合わずに済んだのだ。」

そう言うと直孝は茶碗を庭石目がけて投げつけ、小堀遠州の書翰も火にくべて燃やしてしまった。

(家光・。十一名臣/徳永真一郎より 出典元不明)




798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 18:16:26.67 ID:tIRRXuOS
まーた文化財クラッシャーか!

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 19:31:08.90 ID:58mWrJu6
ああ・・・好事家の悲鳴が聞こえてくる

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/29(水) 19:54:19.62 ID:9BXiDO33
織部正「俺の作った大井戸茶碗(須弥)や流れ圜悟とて良いものでござるよゲヒヒヒヒ。
    >>797殿、見事な破調の美にて候」

とんち三題・井伊直孝と庵原主税助

2011年06月28日 23:13

とんち三題・井伊直孝庵原主税助

井伊直孝 庵原主税助


386 名前:とんち三題 2/3[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 01:10:54.88 ID:uGaN+LFH
井伊直孝が家老の庵原主税助を訪問した時のこと。

直孝が主税助邸の門をくぐると、一匹の唐犬が飛び出し、猛然と吼え騒いだ。普通ならあっぱれ忠犬よ、
と褒めるところだが、直孝にはその犬に見覚えがあった。自分が主税助に下賜してやった犬だった。

「こやつ、旧主の恩も忘れおって・・・誰かある!この犬の耳を刈り取ってやれい!!」

聞いていた重臣の岡本半介が主税助邸の厩に駆け込み、大バサミを持って来ると、直孝の前に差し出した。

「なんじゃ、それは。」
「はっ、馬のたてがみを切り揃えるハサミにございます。」
「それは知っておる。わしは『誰か』に犬の耳を刈れ、と言ったのだ、わしが刈るわけではない!」

「いえ、ですから、まずは殿が範をお示し下され。それ、殿が江戸の御城に出仕されれば『犬』など
いくらでもおりましょう。あれからお刈りになられては?」
「・・・・・・っ!!半介、よくぞ申した。」

冷静になった直孝は、機嫌良く主税助邸に入って行った。(雨窓閑話より)



とんち三題・豊臣秀吉と千利休
とんち三題・真田信之と児玉三助


390 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 07:12:07.15 ID:/ple+JRY
ひこにゃんの話がイマイチわからないんだが

393 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 07:17:21.10 ID:S0FYNHot
豊臣恩顧の大名のことじゃないかな

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 08:55:52.85 ID:thxe7RRd
>390
江戸城にいる大名を、豊臣の恩を忘れた罪で耳を切ってきたら俺もこの犬の耳を切ってやんよ。
ということではないか。

395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 09:41:38.36 ID:fSm/WGTc
なるほど犬の話にそんなバイオレンスな意味が含まれていたのか

396 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 13:19:28.57 ID:UhAllmNE
嘘臭い説教話かとおもいきやきつい風刺だったのか

398 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/28(火) 17:43:50.65 ID:pzigmYUZ
例外は西の完璧超人だけか。
情けなや豊臣恩顧つう話だな。

420 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/01(金) 20:16:55.58 ID:G7z4hUmy
>>386
意味が分からないな
とんちなのかこれ

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/01(金) 20:40:30.77 ID:Fns/x3NW
>>420

直孝「誰か旧主の恩も忘れた唐犬を殺せ!」
家臣「まずは貴方が手本を示してくれ、
幸いお城(江戸城)に出仕すればイヌ(豊臣の旧恩を忘れて徳川に寝返った者達)などいくらでもいるでしょ?」
こんな唐犬殺す前にそいつら殺せば?」

つまり
「そんな犬殺したってどうにもならないし、
旧恩忘れたイヌだって(今は徳川に付いてるわけだから)殺せばタダでは済まない。
もうちょっと冷静になれよ」
という諫言。

井伊直孝、理あるところを以て、公論を申し上げる

2011年06月17日 00:14

178 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/15(水) 23:52:50.72 ID:lp2z3JYz
嘉永九年(1632)六月、福岡藩主黒田筑前守忠之の家老、栗山大膳が主人の不行跡を幕府へ訴えでた。
いわゆる黒田騒動に対し、幕府では黒田家の取り潰しを決行しようとした。
だが、その席で井伊直孝が反論を唱えた。

「大膳の訴状を読みましたが、特に領地を没収せねばならんような罪科はないですよ?
大船建造のことも忠之公本人でなく先代の長政公の時のことでしょう、今更咎めるのは無茶でしょう。」

更に直孝は指摘する。

「大体忠之公の謀反自体がデマでしょうこれは。
大膳がしばしば諫言したから、城中に呼び出されて毒殺されかけたと書いてますけど…
そもそも家臣に罰が与えられないからって、毒殺しようとする奴が幕府に謀反なんて無理でしょうw」

と主張した。その直孝の主張に対し、将軍・徳川家光は冷やかした。

「おい直孝、お前忠之を贔屓すんのかね?」と。直孝の返答は以下のとおりである。

「贔屓なんてしませんよ。忠之公は蜂須賀蓬庵(家政)と不和です。
私は蓬庵の娘婿ですが、辿れば私にとっても恨みはありますよ。
私は、理あるところを以て、公論を申し上げただけに過ぎません。」と。

黒田家の取り潰しは、この閣議によって沙汰止みとなったとされる。

(名将言行録巻之六十一より)





井伊直孝、小袖を

2011年06月16日 00:09

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/15(水) 10:26:57.65 ID:hKufVc6C
基本的にはいい話なんだと思うけどw

大阪冬の陣のこと。井伊家で物見に出ていた2名がにわかの大雨に合い、ずぶ濡れになって
帰ってきた。それを聞いた井伊直孝は自分が着ていた小袖2枚を脱いで、彼らに与えた。

さてそのすぐ後、安藤帯刀のところに井伊直孝から使いが来た。その口上によると

『わたしはこういう理由で自分の用意していた着物を2枚共に家臣に与えてしまい、しかし着替える服を
持っていません。
そんなわけで帯刀殿、着物を分けていただけないでしょうか?』

その後、家康の御前に安藤帯刀から贈られた小袖を着て出仕する直孝の姿が
度々見かけられたという。

安藤帯刀から服を分けてもらえなかったら裸で居るつもりだったんだろうか?w
そんな、井伊直孝自らの小袖を与える、と言うお話(近古武談)





669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/15(水) 10:44:22.11 ID:+GEbXZ5V
>>667
まあ服は別に貰うなりなんなりすればいいけど、しっかり奉公してくれる家臣はそうそう簡単には貰えないからなあ。

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/06/15(水) 13:20:47.14 ID:b/noIM8z
服なんか心斎橋に買いに行けばええねん

井伊直孝の井伊家継承

2011年05月27日 00:00

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 11:23:16.21 ID:KTOeap1G
井伊直政の次男、井伊直孝は慶長10年(1605)、15歳から将軍家に仕え、18歳で書院番頭、
慶長16年(1611)、21歳の時には大番頭と順調に出世する。が、大番頭といえども
家康、秀忠の御前においては、はるか末座の存在でしか無かった。

慶長19年(1614)、大阪冬の陣起こる。この時井伊家の家督を継いでいた直孝の兄・直勝は
病に臥せっており、大御所家康の命によって、直孝が兄の代官として井伊家の軍勢を率いた。
やがて冬の陣の和睦がなると、家康は直孝を召し

「兄に変わり、井伊家を継ぐべし」

と命じた。

これを聞いた直孝は驚き涙を流して訴える

「たしかに兄である直勝は近年病に犯され、軍国の任に耐えられる体ではありません。
ですが!大御所様が昔、父直政につけていただいた古き者共もなお多く残っておりますから、
家のことは問題なく沙汰出来ています。
又直孝もこのようにありますので、天下の事がありますれば、今回のように再び兄の代官として
軍勢を率います。
いかなる仰せでありましょうとも、兄を退けて父の家を継ぐというのは、私の望むところでは
ありません!」

しかし家康は、彼の辞退を許さなかった。その後も直孝は安藤帯刀を通じてなんとかこの命令を
撤回できるよう務めたが、終にそのお許しはなく、直孝は結局、井伊家の家督を継いだ。

さて、直孝が家督を継いだ直後の、御前への出仕の時のことである。

その頃家臣の中で最も上座にあったのは、家康の謀臣、本多正信であった。
が、この時直孝やおら進みでて、なんと正信の上座に座った。しかもその姿、些かも臆する気配なく
堂々として、実に立派であったという。

やがて諸事が終わり御前を下がると、直孝は正信に向かって頭を下げ

「今日の私の振る舞い、さぞ無礼なことだと思われたでしょう。
さりながら私が、故侍従(井伊直政)の家を継ぐよう申し付けられた上は、今後も此の様に
振る舞います。どうかこの事、御免あれ。」

これに正信、嬉しそうな顔をして

「何をおっしゃるのですか!今日の振る舞い、この正信こそ喜んだのですよ!
将軍家があなたを、かくあらん人と知って抜擢された事、実に有難いものだと
私は思っています。」

と、答えた。

これを見た人々、互いに打ち寄っては

「昨日までは大番頭としてはるか末座に伺候していた人が、今日は一番に上座に立ったが、
その立ち振る舞いは実に立派であった。これは将軍家の良き人事である。」

と、これを喜んだという。

井伊直孝の、井伊家継承にまつわる逸話である
(藩翰譜)




797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 11:29:22.43 ID:c/PiZgrK
それで喜んで噂をした方々のお名前は?

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 11:55:23.83 ID:ouBvqRyG
新参の井伊家なのに、酒井、本多勝、大久保家を飛び越えて
譜代筆頭になってしまう不思議

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 12:36:26.80 ID:S87uq2Vf
兄貴の直継は本当は病弱じゃなかったという噂もあるがのう。

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 13:08:19.06 ID:9bnGnS4l
>>798
げに恐ろしきは尻穴の魔力よw

801 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 13:29:24.91 ID:M7AYjhLr
>>799
実際、弟より長生きしてたんじゃなかったっけかな

802 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 13:30:21.92 ID:peKcQjNC
>>800
前田利家「……」

803 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/26(木) 13:39:48.61 ID:Ekir6xPw
>>800
早く姉か妹を連れてまいれ!

804 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/27(金) 00:11:15.99 ID:+KgoKQlW
>>796
陪臣から直臣だから当然といえば当然だが、
ちょっと急過ぎ、上過ぎ?

805 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/27(金) 10:59:36.47 ID:wzTCBUkn
家康の目に叶うモノを持っていたんじゃないの?

806 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/27(金) 11:46:21.84 ID:6Y7oxVlR
見た目や性格が父と似てたとかじゃね

戦国ちょっと毛深井伊話

2011年05月22日 00:02

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/21(土) 07:56:21.35 ID:l/tBddA+
司馬遼の街道をゆく(近江散歩)より抜粋。

「…家綱が将軍になったとき、将軍の代がわりごとに聘せられる恒例の朝鮮通信使がこのときもやってきて、
江戸城で家綱と会見した。
家綱のまわりには、四人の重臣(井伊直孝、保科正之、酒井忠清、酒井忠勝)がいた。
この光景について、通信使の随員のひとりである南竜翼が『壷谷扶桑録』という紀行文を書いている。
いま身辺をさがしてもこの本を見つけようとおもったが、見あたらないので、以下『彦根市史』上冊から孫引きする。


 直孝、状貌豊偉、臂(二の腕)に遍く毛を生ず、深く多知を見る。
執政中、最も驚なるものなり。年七十二、而して兵権最も重し。」

戦国ちょっと毛深井伊話でした。




井伊直孝誕生秘話

2011年03月13日 00:07

231 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/03/12(土) 03:50:14.39 ID:TvpclFCQ
井伊直政の正室は徳川家康の養女であった。この女性、大変気の強い性格だった様で、
直政も頭が上がらなかったという。
そしてこの奥さんの侍女であこという娘がいたのだが、直政はこの娘に手を出して妊娠させてしまった。
奥さんにバレたら大変とばかりに
必死で隠蔽工作に励むも露見してしまった。結局直政はあこを追い出し、
生まれた子供にも決して会おうとはしなかった。

その数年後、箕輪城の主となった直政のもとに、突然あこが現れ、子供を引き取ってほしいと懇願した。
すると直政は「引き取るには、そなたの命を引き換えにしなければ正室に申し訳が立たない。」と答えた。
あこは「命は惜しくはない」と言うと、家臣に命じて自身を処刑させたと言う。そして直政もあことの約束を守り、
子供引き取って育てた。
この子供が後の井伊の赤牛こと、井伊直孝である。




夜叉掃部さんの真骨頂

2010年09月08日 00:01

817 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 05:49:48 ID:Spp1IWyc


由井正雪の乱が未然に防がれた後、
「正雪を後援する大名がいたのではないか」
「乱に乗じて謀反を起こす大名がいたのではないか」
と取りざたされて、世間は騒然としていた。

特に話題の中心となったのは紀州徳川家。
御三家の一つでありながら、由井正雪を援助し、今回の乱の黒幕だと噂されていた。

噂だけなら良い。
しかし、紀州頼宣から諸大名に向けた謀反を呼びかける回状なるモノが幕府に提出さ
れると、幕府上層部でも放置は出来なくなった。

老中達が頭を付き合わせ、
「どうするべきか、こうするべきか……」
と右往左往するのを横目で眺めながら、平然とした口調で発言をするのは『夜叉掃部』
こと井伊直孝

「コレ、ニセモンだよ?」
「「「………え?」」」

一斉に振り返る老中達を白けた様子で眺めると、

「天下の大乱ってのは大抵、ナンバー2、ナンバー3辺りから引き起こされるモンだ。
徳川家の場合は御三家が危ない。だからオレは前々から御三家の皆様の筆跡、花押を
しっかりと記憶してある。オレの記憶が確かなら、コレは紀州様の直筆書状じゃない
よ」

それを聞いて一安心、と言う風の面々。

「大体さ、お前等だけであーでもない、こーでもないって相談ばかりしてて、何か意
味あるのかよ? どうしても疑念が晴れないって言うなら、紀州様に直接会って、真意
を糾すのが筋じゃねぇのか?」

直孝の言葉を聞いてそれもその通りか、と納得した老中達は、一度解散の上、用意が
出来次第紀州屋敷前に現地集合、と申し合わせてそれぞれの屋敷に帰った。


さて、数刻の後、申し合わせ通り紀州徳川家の屋敷前に集合した老中達。
しかし、その中には何故か井伊直孝の姿だけが見当たらない。
井伊屋敷に使者を送ると、
「何か急に腹が痛くなったから、オレ欠席。お前等だけで頼むわ」
との返事。

「おいおい、実は井伊も紀州様に味方しててオレ達を陥れ……」
「お、おいヤメロよ! そーゆー冗談言うの!」

俄かに不穏な空気が流れ始めた一同だが、ここまで来ては引き返せない。直孝抜きで
徳川頼宣との面会をするコトになった。

びくびくしながら噂について、回状についてを説明し、申し開きを求める。
が、頼宣は堂々とした態度で笑いながら噂を否定、回状についても最近追放した小姓
の仕業ではないか、と紀州徳川家の方でも調査するコトを約束。何事もなく面会は終
了した。

818 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 05:52:59 ID:Spp1IWyc

頼宣との面談が無事終了して一安心した老中達は、今度は直孝の態度に疑念を持ち、
紀州屋敷から直接、井伊屋敷へと足を向ける。

すると急病と称して来なかったハズの直孝が、ケロリとした態度で皆を出迎えた。

「おい掃部!お前元気そうじゃないか!何で来ないんだよ!?」
「まさか夜叉掃部ともあろう者が、臆病風に吹かれたんじゃないだろうな!」

と、詰問する老中達。
直孝は頭を下げるどころか、彼等を鼻で笑うと、

「お前等、それでよく老中など務まるなぁ。もし本当に紀州様が謀反を考えておられ
たらどうなっていた?」
「そりゃ、その場で首を刎ねられるだろう」
「だからと言ってそれを恐れるとは、やはり臆病風に……」

「馬鹿者共がっ!! オレ達が死ぬのはそれでいい。だが幼い将軍を支える老中が一人
残らず死んでしまったら幕府はどうなる!? そんなコト位、言わずとも判っていると
思っていたのに、お前等は何も考えず、皆揃ってぞろぞろと紀州様の屋敷に押しかけ
る。だからせめてオレ一人だけでも、と思って残ったのではないか」

相手が身分の高い御三家だから、敢えて奉行には任せず、自ら訪れたのだが、そう言
われてみれば直孝の言葉にも理はある。
言葉に詰まった老中達の中、それでも一人が反論する。

「だ、だが……あの回状は偽物だったのだろう? 何よりお前がそれを証言したのでは
ないか」
「回状? …………あぁ、アレか。知らん」

「「「え?????」」」

「筆跡を覚えてるって言ったの、アレ、嘘。お前等があまりに狼狽えてたから、落ち
着かせる為に言っただけ」

「じ、じゃぁ、オレ達……」
「紀州様に討たれてた可能性も……?」

「だからオレが残ったんだってば。先刻も言ったじゃん。まったくお前等は馬鹿だよ
なぁ(笑)」


ちょ、フリーダムすぎませんか?夜叉掃部さん!?




819 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 06:23:50 ID:Bu2YSPtT
うわあ、すげえ納得できねえw

820 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 07:10:38 ID:VLKGL+Uv
一言物申す。

ふざけんなw

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 07:25:27 ID:k5xKc+V3
これ、いい話じゃね?
非常事態に経験不足の後輩共を鍛えたんだろ?

822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 08:20:04 ID:8tAMH01I
さすがは幕閣で最も怖ろしい男

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 09:48:23 ID:l0qPTOf1
うわあ。

これに逆らって乱起こそうとか、無謀もいいとこだよなあ。

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 10:01:18 ID:sYHBuVTN
そういえば直孝は、酒井忠勝が政宗に江戸城内で相撲を強要された時も、
「酒井が負けたら俺が出る!」
って言ってたなあ。自分のことを「徳川幕閣最後の切り札」と自認していたのだろう。
ジャイアントロボの中条長官ポジションかw

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 10:04:12 ID:+nuh4Pwz
ただ、慶安の変が上手くいってまかり間違って倒幕の勅命なんて出ちゃったりしたら、
尊王をモットーにしていた尾張藩がこれ幸いと倒幕の兵を起こす
可能性も高い。って具合に紀州・尾張が同調したらとんでもないことに…

826 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 10:05:51 ID:+nuh4Pwz
>>824
ただ、光圀を叱責した事例からもわかるように、先鋒を自認していたんで、
最後の切り札だけど最初に切ってくれって感じ?

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 10:28:26 ID:3/PPaPoz
温存して延焼するくらいなら最初に切るべき切り札

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 10:49:03 ID:+nuh4Pwz
>>827
まあ、島原の乱では温存し続けちゃったけどねい。
板倉重昌で炎上して知恵伊豆で消火。

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 10:58:25 ID:4spK1sfd
まぁ所詮切支丹くらいの反乱と紀州様立つ!では切るべき札は違うでしょう

830 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 14:12:54 ID:Spp1IWyc
>>821
いや、むしろ黒か白か判らない相手の前に無防備な幕閣を差し出して、
「討ったら黒、討たなかったら白。黒だった場合はオレと戦争だ!」
という踏み絵をやったんだと思う。

老中達としてみれば、体のいい生贄だろう。

831 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 14:18:37 ID:1yWbxLeu
紀州様めんどくさいから踏み絵だと思わせたら普通に踏むだろ

832 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 19:11:50 ID:nibcs3dE
>>828
切るべき切り札:立花宗茂、水野勝成、鍋島勝茂
温存すべき切り札:三斎様、お兄ちゃん、ひこにゃん

だったわけだ

833 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/07(火) 21:23:18 ID:k5xKc+V3
>切るべき切り札:立花宗茂、水野勝成、鍋島勝茂

どっかに宗成さん居ないかな?

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/09/08(水) 17:53:19 ID:EivgX3t6
>切るべき切り札:立花宗茂、水野勝成、鍋島勝茂
なんかの役かと思ったぜぇwwww

まぁ、ドラえもんドンジャラとかは餓鬼の必修遊戯にするべきだなwwww
後輩とか麻雀できないやつ多すぎ



関連
由比正雪の乱と酒井忠勝
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4645.html

近習に脇差は

2010年07月20日 00:00

240 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 16:11:25 ID:ldJS7IkT
4代将軍家綱が幼少の頃、
家綱の警固について話題になったことがある。ある者が言うには
「乱心するかもしれない近習どもに脇差は危険ではあるまいか?
今後、奴らには無刀で出仕させよう」とのことだった。

すると井伊直孝がこう言った。
「アホか。御幼少だからこそ警固のために刀が必要だろうが。
だいたい、近習がそのようなたわけたことをするようならば、
徳川の世も終わりなのだ。これまで通りにすればよろしい!」




241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/07/19(月) 23:30:08 ID:t4FIXjt0
だからこそ乱心しそうにない心利きたる者を側に侍らすんじゃないのか
近習を疑うようになったら直孝の申す通りに終わりだな