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おうた子に教えられ、川を渡る

2022年09月05日 17:40

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/05(月) 14:50:01.20 ID:SG6/So3y
徳川家光公の御治世に、「万事御政道は、東照宮の通りに成されるべき」と仰せになられたところ、
伊達陸奥守政宗は
「家康公より、百万石を給わらんとの御書付が有りますが、政宗としても現在は御代も代わった事でもあり、
それは反故であると存じていましたが、今度の仰せについて、この御証文の写しを御覧に入れたく思います。」

との御書付を献じられた。

この事は上聞に達し、土井大炊頭利勝を召されて
「陸奥守に百万石を下すというのは、有るまじき事では無いが、これはその当時の御謀であり、このような事を
取り上げていては、他家よりもまた、この類のことを願ってくるだろう、いかがすべきだろうか。」
と御尋ねになった。

利勝はこれに「井伊掃部頭(直孝)に御相談されるべきでしょう。」と言上したため、すぐに掃部頭を召し出され、
これこれの旨を仰せ聞かされたところ、直孝は承って、伊達家に参り、政宗と対面して申した

「只今、風説を承るに、今度仰せ出されたことについて、御先祖(家康)より下された御証文の写しを
差し出されるとの事ですが、これは実説でしょうか?不審に思い、罷り越しました。」と申した。

陸奥守答えて「いかにもその通りである。御代も代わった故に、この御書付も反故と存じていたのだが、
今度の仰せ出されにより、御覧に入れるのだ。」

直孝は尋ねた「その御証文は御自筆でしょうか?」
「全く、御先祖の御筆である。」
「もし出来るのであれば、それを少しばかり拝見仕りたく思います。」

そのように申したため、政宗は家臣を呼び出し、御証文の入った筥を取り寄せ、井伊の前に置くと、
直孝は御証文を出して押し頂き、とくと拝見して政宗に対し

「かような事は御謀であり、貴殿もその事は御存知であるはずです。誠に反故にて候。」

そう言いながらこれを二つ三つに引き裂いた。政宗はこれを見て興醒めして

「なるほど、左様である。これはおうた子に教えられ、川を渡る(負うた子に教えられて浅瀬を渡る)と
申すものであるな。」

と笑われ、種々の饗応あって後に、直孝は伊達家を出てそれより直ぐに登城して、この趣を報告すると、
家光公はご機嫌斜めならず、利勝も大いに感心したという。

(新東鑑)



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明の日本への援兵要請の時の話

2022年07月16日 15:58

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 11:08:02.39 ID:T4jJtv0Z
朝野雑載」から明の日本への援兵要請の時の話

家光公の御時、韃靼(清)が中華を滅ぼしたため(1644年、実際には明を滅ぼしたのは李自成)、大明の大将(鄭成功)から日本へ援兵を乞うてきた。
十万の軍勢を出そうと計画したところに井伊掃部頭(井伊直孝)が述べていうことには
「昔、太閤が朝鮮を攻め、大明の援兵と戦った時にすこぶる勝利したのは、日本の兵は久しく乱世であったため戦になれており、
一方、大明の方は久しく太平であったため戦になれていなかったためです。
今、日本の兵は久しく太平で戦を知らず、韃靼の兵は大明を討って戦になれております。
若兵を遣わしたところで勝利は得られないでしょう。
日本の兵がもし敗れたなら、かえって末世まで異国にまで侮りを受けることとなりましょう。」
と申したため、援兵派遣は沙汰止みになった。
一説には上の発言は大久保彦左衛門のものだという(大久保忠教は1639年死亡)



294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 11:15:13.67 ID:WAJ05+SS
鄭成功じゃなくて父親の鄭芝龍か、この時は

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 14:02:53.97 ID:V+56qfjT
>>293
井伊さんおっしゃる通り
そして自称ご意見番のバーバリアンにはこんな見識ないと思う

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/16(土) 14:42:21.63 ID:hQTuVJNr
ついでに「朝野雑載」の別の箇所に書かれている話では
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1677.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12676.html
では柳生宗矩や安井算哲のセリフとされている板倉重昌戦死の予言も大久保彦左衛門がしたことになってます
板倉重昌が戦死したのは大久保彦左衛門の死の前年だからこちらはまだ可能性がありますが

井伊直孝産湯の井

2021年04月16日 18:13

120 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/15(木) 18:39:50.57 ID:6h1dReAZ
静岡県焼津市にある井伊直孝産湯の井戸に行く機会があったので

(前略)あるとき、井伊直政は東海道を通った折、岡部宿本陣へ泊りました。そこで中里(焼津市の地名)出身の美しい娘が、身の回りのお世話をすることになりました。
直政は娘をたいそう気に入りました。その後、天正18年(1590)、娘は男の子を産みました。
この子が後の井伊直孝で、出産の時の産湯を汲んだのが「井伊直孝産湯の井」として、中里で大切に伝えられてきました。(後略)
井伊直孝の出生には諸説あります。
(「井伊直孝産湯の井」の立て看板)

直孝の出生には諸説あるとしつつ出生地?では地元の娘が母親だと伝わってるらしい

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/16(金) 10:30:07.58 ID:Ze7+E5nx
>>120
これ貼っといた方がいいんじゃね?
https://www.city.yaizu.lg.jp/rekimin/iinaotakaubuyunoi.html



井伊直孝の御貯え

2019年08月25日 16:46

157 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/25(日) 02:56:28.01 ID:OP61Z2p/
一、掃部頭直孝公(井伊直孝)御逝去の折、御形見として知行3万石や金7万両を御領地の庄屋
  までも拝領したという。

一、直孝公の御息女様(長女の亀姫)を大猷院様(徳川家光)に召し出されるようにとの御内意
  あり。すると掃部頭様は御受け奉り畏まったものの、「我が身は病身で御奉公勤め難く」と
  仰せ上げられ、それにつき御息女様は御一生御縁組はなかった。

  後には祟雲院様(掃雲院)と申して直孝公は取り分けて御労り、御生涯金銀は申すに及ばず、
  何事でも御望み次第、御心一杯御自由に遊ばされるよう仰せ進められた。これにより祟雲院
  様の御金は10万両あったという。

一、掃部頭様は御用金と申し御先手を3年御勤めになられる程の御手当を御貯えであったという。

――『石道夜話(石岡道是覚書)』



”みつめの法”

2018年09月08日 17:14

260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 20:32:30.67 ID:Qri71EVU
井伊直孝の邸宅に人が集まり物語などしていたとき、彼らが「この頃世に、”みつめの法”(呪いの一種
らしい)という物があり、人々がこれを習っている」という事を語りだし、

「刀も要らずに人を捕え殺すとは、稀有の重宝である。人々がこれを習い行うのも余儀なき事だ。
私も習おう、人も習おう」

などと言った。しかし直孝はこれを聞いて

「歴々たるあなた方に似合わぬこ事を物語るものです」
と、叱責した。

彼らは
「これほど重宝なことなのに、どうしてそのように言うのか」
と反論した所

「まだ合点致しませんか?人の剛操勇猛と言うものは、互いに剣戟を抜き持って勝負を争い、
勝ちたるを以てその志を定めるのです。例えば同じ仕物放討であっても、縛めを抜き放った者を
仕留めるのと、抜きはなさぬ者を仕留めるのとでは、甲乙差別の有ることです。
であれば、広い場所で声をかけ、相手に武器を抜き放させて、その上で心よく仕留めることこそ、
教えもし習いもして、これを以て武勇と致すべきなのです。

あなた方のような歴々の評定は、その様であってこそ然るべきであり、”みつめの法”などと言うものは、
出家町人のような長袖で、そういった技を知らぬものが言うべき事なのです。」

(士談)



261 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 22:19:40.50 ID:G9iXUhvF
二階堂の心の一方だったりして

262 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 22:20:29.07 ID:G9iXUhvF
二階堂の心の一方"みたいなモノ"だったりして

263 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/08(土) 05:56:12.97 ID:s+ctegTw
小賢しい童め

直孝12歳のときに、

2018年09月07日 17:43

257 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/06(木) 23:38:14.70 ID:4nhJDA70
井伊直孝は兵部少輔直政の次男であり、母は松平周防守家来の者(馬屋預りの者也。大阪役に馬にふまれて死)
の娘であった。

直孝が6歳の時、直政の所へ母方より、息男の故にて送られた。直政はこれを、百姓の庄屋、内蔵助と
云う者の所へ預け置いた。

直孝12歳のときに、この百姓の家に盗人が入ったと騒ぎになった。直孝が裏に出て、闇夜を透かして
見ると、後ろにある山に盗人が這い上がっているのを見つけ、直孝はそれを追いかけて上がり、高股を
切りつけた。

切られて盗人が振り返ると、「盗人を仕留めたり!出会え者共!」と大声で呼んだ。
このため大勢が駆けつけ、ついに盗人を仕留めた。

この事は幼若の身として無類の剛才であると、父直政に報告された。直政はその年、直孝を自身のもとに
呼び寄せた。

(士談)

割とありがちな勇将の幼少譚だけど、それよりも母方の祖父の死因に驚いた。



258 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/07(金) 00:59:04.86 ID:HvcW+ZTu
>>257
下男に撲殺された島津善久に較べたらマシかと

どうして昼寝などしていたのですか?

2017年08月15日 18:55

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/14(月) 22:01:40.61 ID:9LMNQKA6
大阪の陣の折、ある人が井伊直孝の陣所に見舞いに行くと、直孝はその直前まで昼寝をしていて、
乱れ髪の体にて出てきた。

その人は尋ねた
「直孝殿は昼夜の心がけの気がある方なのに、どうして昼寝などしていたのですか?」

直孝はこう答えた
「夜寝ないからです。」

(士談)

そりゃそうだ



46 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/08/15(火) 05:24:52.89 ID:An5zR+zm
いっ、いっ、井伊いの井伊~
昼~は寝床でぐーぐーぐー

“井伊家の一本槍”

2017年06月18日 16:11

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 04:52:56.99 ID:jFVDgUyD
台徳公(徳川秀忠)御上洛の時、彦根城を御旅館になさるとの由を御沙汰につき、
井伊直孝は将軍家を敬うあまり、家中の妻子家族を皆近郷へ立ち退かせた。

この事を台徳公は御聞きになり、彦根城へ御立ち寄りもなく、直に大津へと御出に
なったので直孝は大いに驚き、そのまま彦根に閉門して御沙汰を待った。

その後、台徳公は「旅館になる城は屋敷内へ小屋を建てて、そこへ家中の妻子を
入れるのが然るべきというのに、直孝はいかなる所存で家中の妻子を近郷へ立ち
退かせたのか。実に不審である」と、仰せになった。

それから御下向なさるという時、直孝は、「このまま京都に閉門して慎んだほうが
良いだろうか?」と、酒井忠勝へ内々に問うた。

忠勝は答えて「そのまま彦根にいても然るべきではない。供を少し連れて槍一本を
持たせ、密かに御後から下り申されるべきでしょう」と、言った。

直孝はその通りにして慎んで下った。台徳公は三島を御通行の折に仰せになって、
「直孝は下ったか?」と御尋ねになった。忠勝は答えて、

「供に3人を召し連れて慎んで御後に付き、供奉仕っております」と申し上げたので、
台徳公はやがて直孝を召し出され、御言葉を御掛けなさったということである。

“井伊家の一本槍”はこの時より家例となったのだとか。

――『明良洪範』


44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:17:19.00 ID:5kXMhSIL
>>42
今思ったけど井伊って織田家中での明智みたいな立場なのか?
外様だし京までの道筋にある場所を任されるって

彦根藩士は美服奢侈の排すべきを

2017年06月16日 17:55

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 19:40:10.63 ID:HMJ96zTR
井伊直孝は華美の風が上下を通じて一つの流行となった事を憂え、自藩にだけは昔ながらの士風を振作したいと考えていました。
江戸からの帰途、彦根に向かうために琵琶湖を横切って行くほうが近いので船により、彦根城の天守が見えた時に、藩士たちの出迎えを想像することもできました。
「皆の者。江戸出立の際、その方達に渡した荷物があろう、あれを開けい。」
「はっ。」
家臣たちは前々から気にかかっていたその荷物を開けると、中からは袴まで揃えた一揃えづつ綿の着物が出ました。
直孝は快活に笑い
「それに着換えいたせ。」
藩士たちは久しぶりでの国入りに綿服を着て同輩に会うのを気恥ずかしいと思いましたが、主命なので否応もなく渋々着換え終わった時、船は城下の岸に着きました。
出迎えの藩士の面々は直孝の後に続く士たちを見て、一人残らず綿服なのにどきりとしました。
出迎えの藩士は、己の姿を顧み、美服が粗服を迎えに出た形に妙な空気を醸し出しました。
「大義。」
直孝は、出迎えの士をいたわりましたが、衣服については帰城の後も言及しませんでした。
黙っていても、藩士たちには彼の心が分かったので、以後、彦根藩士は美服奢侈の排すべきを悟ったのです。
日に日に藩士の風俗は改まり、堅実な風が、以前とは逆な方向に吹いたのです。

(常山紀談)



34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 22:59:14.80 ID:0xUE2tCx
慶喜「贅沢でもいい。忠義を尽くしてほしい」

人の挨拶

2017年06月10日 21:19

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/10(土) 04:47:37.43 ID:OWDQQE2A
この掃部頭殿(井伊直孝)は大坂の御陣の時、家来の者が槍を合わせている
に付き、高い場所に上り、馬から下り立って槍を杖について見物しておられた。

そこへ本多安房守(政重)が足軽2百人ばかりを召し連れてやって来て挨拶を
致したところ、掃部頭殿は目の前に気を取られたのか挨拶を返さなかった。

すると安房守は、「掃部は腰が抜けたのか? 人の挨拶も聞き付けぬとは!」と
大声で憚りも無く申して、罷り帰った。

その後、対面の折に挨拶したとの旨、癸巳正月11日の夜に(松雲公前田綱紀
より)拝聴仕る。それ以後も度々この話を仰せでござった。

――『松雲公御夜話』


鳥居家改易顛末

2017年03月05日 18:33

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 22:25:04.51 ID:O+aWJb3p
鳥居家改易顛末

寛永12年、山形藩主・鳥居忠恒は嗣子を定めずに早世する
忠恒には同母弟で戸沢政盛の養嗣子になっていた定盛と部屋住みの異母弟・忠春がいた
本来なら忠春が後嗣になるのが筋だが忠恒はあえて不仲の継母・内藤氏の腹である忠春に継がせずわざわざ定盛に継がせようとした
これが末期養子の禁令に触れ幕府の嫌疑を招くことになる
この時、井伊直孝はこう発言したとされる
「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」
「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」(いずれも『寛政重修諸家譜』)
直孝発言は対立関係にあった鳥居家を追い込むためとの説もある
鳥居家と井伊家は元忠や直政の子世代の忠政や直勝(直孝兄)の頃から対立を深めていた
直孝の発言を受け幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」(『寛政重修諸家譜』)とし山形24万石を没収し高遠3万石に転封させた
しかし忠春は忠恒以上の絵にかいたような暴君かつバカ殿でその子・忠則の不始末で鳥居家は二度目の改易に遭うのは先の話


井伊直孝御夜話よりいくつか

2016年08月14日 17:28

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/13(土) 19:16:18.95 ID:yMJL0d14
一、人が隠していることを見聞きしようとしてはならない。人が秘蔵するものを、所望してはならない。

一、不慮の仕損じというのは、能力の有る人でも有る事だ。しかし自分の仕損じを人のせいにするのは
  大いなる恥辱である。逆に人の仕損じを我が身に引き受けるのは、見事というものである。

一、家を治めるとは、金銀米穀の事である。これを知らずに、人の家に意見すべきではない。

一、昔、数度の武功の誉れの有る老武士があった。若き人が彼にその武功を物語って欲しいと望んだ所、
  彼はこう言った
  「私は若い頃から、さしたる武功も無かったが、性格に愛嬌があってな、人からよく思われたのだ。
   だから少しの勤めも良く受け取られ、思いもよらぬ誉れを得たのだよ。人はただ、愛嬌があるのが
   良いのだ。」
  殊勝な物語ではないか。

井伊直孝御夜話)

井伊直孝御夜話よりいくつか



兄弟のことは、

2016年08月12日 18:58

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 19:26:40.35 ID:ItuPmMMu
兄は弟を子の如く憐れみ、弟は兄を親のごとく敬うべきである。
朋友の交わりは、心に叶わぬ事が有れば遠ざかるのが世の中の習いであるが、兄弟のことは、
心に叶わぬことが有るからといって、疎くなるべき道ではない。
不快の事があったとしても、互いに堪忍して誠の志を尽くすべき事である。

井伊直孝御夜話)

井伊直孝が言うといろいろ意味深ですね。



63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 19:52:08.06 ID:d07OqDCz
戦国ちょっと井伊話?

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 20:07:06.57 ID:/DmlP1AN
どうでも井伊

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 20:30:48.65 ID:ZBwrP2oU
直孝が言うから重みがある

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 20:58:40.56 ID:id7Qth0M
国替えの時は兄貴に親父の遺品渡してるし関係が悪かったわけじゃ無いのかもな
ただ木俣守安が外された時は兄貴に対して色々と思うことがあったようだが

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 21:01:03.31 ID:/Np3oJwp
ひこにゃんは親父ににて無口だが口を開けは重みのある良い事を言う

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 21:04:56.89 ID:/Np3oJwp
さすが幕閣初の大政参与だ

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 23:33:22.80 ID:bV21Tw8+
>>62
頼朝「兄弟は大切にしないといかんぞ」
信長「それな」
政宗「まったくもって」
義光「その通り」
秀忠「せやせや」
天武「えぇ…」

若年の時は一旦のことに迷い

2015年11月30日 07:21

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/30(月) 04:01:46.72 ID:dM7cB86d
井伊直孝曰く、

「若年の時は一旦のことに迷い、理非のわきまえもなく、是非とも自分の
心のままにしようと思うことがあるものだ。

その時、父母兄弟朋友の意見によって心を取り直し、正道に帰る者もいる。
一方で、強情で意見を用いず、悪名を得てその身を滅ぼす者もいる。

この時が一生の吉凶の浮き沈みである。一旦の怒りで主君父母の恩を忘れ、
一門の名を穢すことは非義の至りであるからよくよく覚悟すべきことである」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』




「面白いと思うことは、度々重ならないように覚悟すべし。」

2015年11月10日 15:33

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 03:05:06.77 ID:pcLi2wWH
井伊直孝曰く、

「面白いと思うことは、度々重ならないように覚悟すべし。何事をするにしても、
まずその事の実質を知って、よく考えて取り掛かるべし。害を知って上手く防げば、
その事は成就して、後悔することもない」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』



人間一生の勤めは忠孝の道である

2015年11月08日 06:46

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 00:57:01.81 ID:kHLr6tzO
井伊直孝曰く、

「人間一生の勤めは忠孝の道である。聖賢千万言の教えも、皆忠孝のためであろう。

忠孝を勤めようと思うなら、主君と先祖の恩を常に忘れるな。『恩を知らぬ者は、
思いもかけず災難にあうものだ』と、古人もおっしゃった。油断してはならない。

人間の苦には、飢寒よりもたいへんなものはない。百姓町人が昼夜となく骨を折るのは、
飢寒を防ぐためである。中には家職の勤めに油断して、飢寒に及ぶ者も多い。

一方で、武士には生まれながらの飢寒はない。皆々が父母妻子兄弟を養い、家来を使い、
安楽に暮らしているのは、主君ならびに先祖父母の恩徳ではないだろうか。

この恩を常に忘れなければ、忠孝の道を忘れようもない。古老の物語などによれば、
『毎日食に向かい衣服を着る時、主君と先祖父母の恩徳を思え』ということである」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』




958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 01:35:54.39 ID:G3IlIf/x
藩祖が遠江出身で生粋の三河者じゃないのに、一番禄をもらって
譜代筆頭なのに戊辰戦争では新政府側の彦根藩

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 06:39:27.75 ID:KLh7wixy
藤堂高虎「さんざん幕府の恩顧を受けながら裏切るとは彦根藩ってひどいな」

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 07:05:22.76 ID:IHwgcjch
井伊家は南北朝時代から何度も滅亡の危機をむかえてるのに明治維新生き抜いたのは正直すごいと思うの

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 08:26:58.70 ID:hS/xgfqa
直弼はさっちょうのスパイだったのさ

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 10:38:44.79 ID:1be3Js0o
風邪で具合が悪いせいか、
直政は家康のおっぱいだったのさ
に見えた

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 11:34:48.66 ID:cGSOOvIR
寝てろ

「天下の乱の元と存じました」

2015年04月22日 18:30

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 20:45:49.19 ID:dtcF3OWH
将軍徳川秀忠が諸大名を召して、土井大炊頭利勝を以って、来年嗣君(家光)に世を譲る旨を
発表すると、何れも祝う所に、井伊直孝一人黙然としていたため、土井利勝は側に招いて
「どうかしたのか?」と問うた所、直孝は

「天下の乱の元と存じました。めでたい事とは全く思いません。」

「それはどういう理由か?」

「それについては、大阪の乱のあと。江戸城の石垣の造営、日光の御造営とうち続いたため、
天下の諸大名は以ての外に困窮しております。そんな状況でこの上御代をお譲りなされば、
諸大名はその祝の献上品のため費え多く、また将軍宣下の饗礼を執り行えば、更に困窮に及んで、
支配下の民を苦しめる以外に方法が無くなるでしょう。
これによる万民の嘆きは、乱の基であると存じます。」

土井利勝これを聞くと
「至極の事である。それをありのまま、秀忠公に言上すべきだ。」
そう言って直孝を御次の間に伴い、利勝は御前に進んでしかじかの旨を言上すると、直ぐさま直孝は
御前に呼ばれ、秀忠よりこのように言われた

「汝が申す所は尤もである。しかし、一旦言い出してしまった以上、止めることは出来ない。
なお、今後も憚ること無くどのような事でも私に申すように。」

ところが直孝は、これに全く納得しなかった。
「直孝の只今の旨、然るべからずと思召したのであればそれでよいでしょう。
しかし!臣の言葉を尤もと聞かれたのに、用いられないのは、仰せとも思えません!」

これに秀忠は、暫く言葉もなかったが、ここで利勝が申し上げた
「私は既に年老いました。しかし彼のような壮年の者がこのように直言申し上げるというのは、
誠に天下泰平の基であります。明日、大名を召され、掃部頭(直孝)が申す旨尤もなるにより、
昨日の事は止められると言うことを仰せになるのが、然るべきと考えます。」

これに、秀忠は彼らの諌めに従う事にした。
直孝は「私が申す旨を用いて頂き、忝く思います。」と謝して退去した。

この事について当時の人々は、秀忠が諌めを入れたこと、直孝の直言、誠に君臣とも美を為し
善を為したと語り合ったという。


(明良洪範)


井伊直孝「それは能き沙汰なり」

2015年02月15日 19:57

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 16:05:27.42 ID:tmMYLvYF
井伊直孝が大番頭として伏見城に勤番の時、世間では、

「大坂と関東との間に御合戦があるにちがいない」

との噂があった。ある人がやって来てその旨を直孝に話して聞かせた。
直孝はこれを聞いて、

「それはよい噂である。ああ、そんな事にでもなってほしいものだ。
秀頼公に切腹をさせて、淀川ではらわたをすすいで見せ申すのだがなあ」

と言った。

(掃部頭聞て。それは能き沙汰なり。あはれさやうの事もあれかし。
秀頼公に切腹させ。淀川にて膓をすすぎ見せ申すべきものをと云。)

――『武功雑記』




413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 17:12:00.66 ID:0n63oxZu
>>412
個人的に好きな逸話だ
こういうこと言えちゃう掃部さんかっけぇっす

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 17:15:57.77 ID:AI+QI/w8
ラスボスは自分がノブの息子たちにした事を忘れちゃったのかな
俺だったら家康はまっ先に殺すけど
秀頼の将来を託しちゃうくらい耄碌しちゃってるから無理か

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 18:35:32.84 ID:cueKlJE/
織田秀信が秀頼なみに挑発やら抵抗やらしてたら切腹どころか磔にしてるでしょ。
家康は成人するまで生かした上に最低でも二度は生き残りのチャンスを与えてるんだ、ほんともう仕方ない。

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 18:43:01.90 ID:LcyymyQc
家康がそんな甘い男なわけ無いだろう
自分で秀頼を殺らなければ、自分の死後に今度は徳川家が同じ目に会うんだから

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 21:27:36.88 ID:4PlYAfOp
大阪の主戦論はだいたい主馬治房のせい

井伊掃部頭殿(井伊直孝)のこと

2014年05月25日 18:52

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 15:47:30.82 ID:wPkIi9ip
掃部頭殿(井伊直孝)は毎朝刀や脇差をぬぐいなさった。
武士にとってこれは忘れてはならないことであり、
冥加のためなのだという。

同人の言によると「日本は日本流が良い。遠い唐の書物に
とらわれて物知りぶるのは悪いことだ」という。
(同人云。日本は日本流よし。遠き唐の書になづみて。
物知りだてはあしし。)

施薬院の親類の柏原可休という者は掃部殿のところにいた。
この者の話によると「掃部殿の平生の物語は、武や義の他には
まったく余計な事柄が無かった」という。

――『武功雑記』




井伊家については

2014年05月18日 19:20

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 18:16:33.74 ID:2Jo6T3qV
大坂落着後、若江合戦における初めの先後について御尋ねがあった。

この時、藤堂家が一番槍であるとのことを同家の士が申し上げた。
一方、諸士は井伊家が一番槍であると言う。

この時、井伊家の士である岡本半助は申し上げて、

「一番槍は藤堂に相違無く候。しかし、藤堂勢は備えも固めずに先を争い、
バラバラに掛かりましたので、敵に突き立てられて討死した者も多かったのです。
井伊家については備えを固め、軍法を正しくして掛かりましたので、藤堂家の次に
なりましたが、敵を打ち破りました」

と言った。

――『明良洪範』




328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 23:41:52.55 ID:zizGugK5
「……だって前の殿さまいたんだもの」

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 23:53:33.67 ID:CZ23+Uq3
>>328
再来年の大河で活躍するといいな