どうして昼寝などしていたのですか?

2017年08月15日 18:55

45 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/08/14(月) 22:01:40.61 ID:9LMNQKA6
大阪の陣の折、ある人が井伊直孝の陣所に見舞いに行くと、直孝はその直前まで昼寝をしていて、
乱れ髪の体にて出てきた。

その人は尋ねた
「直孝殿は昼夜の心がけの気がある方なのに、どうして昼寝などしていたのですか?」

直孝はこう答えた
「夜寝ないからです。」

(士談)

そりゃそうだ



46 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/08/15(火) 05:24:52.89 ID:An5zR+zm
いっ、いっ、井伊いの井伊~
昼~は寝床でぐーぐーぐー
スポンサーサイト

“井伊家の一本槍”

2017年06月18日 16:11

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 04:52:56.99 ID:jFVDgUyD
台徳公(徳川秀忠)御上洛の時、彦根城を御旅館になさるとの由を御沙汰につき、
井伊直孝は将軍家を敬うあまり、家中の妻子家族を皆近郷へ立ち退かせた。

この事を台徳公は御聞きになり、彦根城へ御立ち寄りもなく、直に大津へと御出に
なったので直孝は大いに驚き、そのまま彦根に閉門して御沙汰を待った。

その後、台徳公は「旅館になる城は屋敷内へ小屋を建てて、そこへ家中の妻子を
入れるのが然るべきというのに、直孝はいかなる所存で家中の妻子を近郷へ立ち
退かせたのか。実に不審である」と、仰せになった。

それから御下向なさるという時、直孝は、「このまま京都に閉門して慎んだほうが
良いだろうか?」と、酒井忠勝へ内々に問うた。

忠勝は答えて「そのまま彦根にいても然るべきではない。供を少し連れて槍一本を
持たせ、密かに御後から下り申されるべきでしょう」と、言った。

直孝はその通りにして慎んで下った。台徳公は三島を御通行の折に仰せになって、
「直孝は下ったか?」と御尋ねになった。忠勝は答えて、

「供に3人を召し連れて慎んで御後に付き、供奉仕っております」と申し上げたので、
台徳公はやがて直孝を召し出され、御言葉を御掛けなさったということである。

“井伊家の一本槍”はこの時より家例となったのだとか。

――『明良洪範』


44 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/18(日) 17:17:19.00 ID:5kXMhSIL
>>42
今思ったけど井伊って織田家中での明智みたいな立場なのか?
外様だし京までの道筋にある場所を任されるって

彦根藩士は美服奢侈の排すべきを

2017年06月16日 17:55

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 19:40:10.63 ID:HMJ96zTR
井伊直孝は華美の風が上下を通じて一つの流行となった事を憂え、自藩にだけは昔ながらの士風を振作したいと考えていました。
江戸からの帰途、彦根に向かうために琵琶湖を横切って行くほうが近いので船により、彦根城の天守が見えた時に、藩士たちの出迎えを想像することもできました。
「皆の者。江戸出立の際、その方達に渡した荷物があろう、あれを開けい。」
「はっ。」
家臣たちは前々から気にかかっていたその荷物を開けると、中からは袴まで揃えた一揃えづつ綿の着物が出ました。
直孝は快活に笑い
「それに着換えいたせ。」
藩士たちは久しぶりでの国入りに綿服を着て同輩に会うのを気恥ずかしいと思いましたが、主命なので否応もなく渋々着換え終わった時、船は城下の岸に着きました。
出迎えの藩士の面々は直孝の後に続く士たちを見て、一人残らず綿服なのにどきりとしました。
出迎えの藩士は、己の姿を顧み、美服が粗服を迎えに出た形に妙な空気を醸し出しました。
「大義。」
直孝は、出迎えの士をいたわりましたが、衣服については帰城の後も言及しませんでした。
黙っていても、藩士たちには彼の心が分かったので、以後、彦根藩士は美服奢侈の排すべきを悟ったのです。
日に日に藩士の風俗は改まり、堅実な風が、以前とは逆な方向に吹いたのです。

(常山紀談)



34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/15(木) 22:59:14.80 ID:0xUE2tCx
慶喜「贅沢でもいい。忠義を尽くしてほしい」

人の挨拶

2017年06月10日 21:19

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/06/10(土) 04:47:37.43 ID:OWDQQE2A
この掃部頭殿(井伊直孝)は大坂の御陣の時、家来の者が槍を合わせている
に付き、高い場所に上り、馬から下り立って槍を杖について見物しておられた。

そこへ本多安房守(政重)が足軽2百人ばかりを召し連れてやって来て挨拶を
致したところ、掃部頭殿は目の前に気を取られたのか挨拶を返さなかった。

すると安房守は、「掃部は腰が抜けたのか? 人の挨拶も聞き付けぬとは!」と
大声で憚りも無く申して、罷り帰った。

その後、対面の折に挨拶したとの旨、癸巳正月11日の夜に(松雲公前田綱紀
より)拝聴仕る。それ以後も度々この話を仰せでござった。

――『松雲公御夜話』


鳥居家改易顛末

2017年03月05日 18:33

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/04(土) 22:25:04.51 ID:O+aWJb3p
鳥居家改易顛末

寛永12年、山形藩主・鳥居忠恒は嗣子を定めずに早世する
忠恒には同母弟で戸沢政盛の養嗣子になっていた定盛と部屋住みの異母弟・忠春がいた
本来なら忠春が後嗣になるのが筋だが忠恒はあえて不仲の継母・内藤氏の腹である忠春に継がせずわざわざ定盛に継がせようとした
これが末期養子の禁令に触れ幕府の嫌疑を招くことになる
この時、井伊直孝はこう発言したとされる
「世嗣の事をも望み請ひ申さざる条、憲法を背きて、上をなみし奉るに似たり」
「斯くの如き輩は懲らされずんば、向後、不義不忠の御家人等、何を以て戒めんや」(いずれも『寛政重修諸家譜』)
直孝発言は対立関係にあった鳥居家を追い込むためとの説もある
鳥居家と井伊家は元忠や直政の子世代の忠政や直勝(直孝兄)の頃から対立を深めていた
直孝の発言を受け幕府は「末期に及び不法のこと申請せし」(『寛政重修諸家譜』)とし山形24万石を没収し高遠3万石に転封させた
しかし忠春は忠恒以上の絵にかいたような暴君かつバカ殿でその子・忠則の不始末で鳥居家は二度目の改易に遭うのは先の話


井伊直孝御夜話よりいくつか

2016年08月14日 17:28

75 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/13(土) 19:16:18.95 ID:yMJL0d14
一、人が隠していることを見聞きしようとしてはならない。人が秘蔵するものを、所望してはならない。

一、不慮の仕損じというのは、能力の有る人でも有る事だ。しかし自分の仕損じを人のせいにするのは
  大いなる恥辱である。逆に人の仕損じを我が身に引き受けるのは、見事というものである。

一、家を治めるとは、金銀米穀の事である。これを知らずに、人の家に意見すべきではない。

一、昔、数度の武功の誉れの有る老武士があった。若き人が彼にその武功を物語って欲しいと望んだ所、
  彼はこう言った
  「私は若い頃から、さしたる武功も無かったが、性格に愛嬌があってな、人からよく思われたのだ。
   だから少しの勤めも良く受け取られ、思いもよらぬ誉れを得たのだよ。人はただ、愛嬌があるのが
   良いのだ。」
  殊勝な物語ではないか。

井伊直孝御夜話)

井伊直孝御夜話よりいくつか



兄弟のことは、

2016年08月12日 18:58

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 19:26:40.35 ID:ItuPmMMu
兄は弟を子の如く憐れみ、弟は兄を親のごとく敬うべきである。
朋友の交わりは、心に叶わぬ事が有れば遠ざかるのが世の中の習いであるが、兄弟のことは、
心に叶わぬことが有るからといって、疎くなるべき道ではない。
不快の事があったとしても、互いに堪忍して誠の志を尽くすべき事である。

井伊直孝御夜話)

井伊直孝が言うといろいろ意味深ですね。



63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 19:52:08.06 ID:d07OqDCz
戦国ちょっと井伊話?

64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 20:07:06.57 ID:/DmlP1AN
どうでも井伊

65 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 20:30:48.65 ID:ZBwrP2oU
直孝が言うから重みがある

66 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 20:58:40.56 ID:id7Qth0M
国替えの時は兄貴に親父の遺品渡してるし関係が悪かったわけじゃ無いのかもな
ただ木俣守安が外された時は兄貴に対して色々と思うことがあったようだが

67 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 21:01:03.31 ID:/Np3oJwp
ひこにゃんは親父ににて無口だが口を開けは重みのある良い事を言う

68 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 21:04:56.89 ID:/Np3oJwp
さすが幕閣初の大政参与だ

69 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/11(木) 23:33:22.80 ID:bV21Tw8+
>>62
頼朝「兄弟は大切にしないといかんぞ」
信長「それな」
政宗「まったくもって」
義光「その通り」
秀忠「せやせや」
天武「えぇ…」

若年の時は一旦のことに迷い

2015年11月30日 07:21

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/30(月) 04:01:46.72 ID:dM7cB86d
井伊直孝曰く、

「若年の時は一旦のことに迷い、理非のわきまえもなく、是非とも自分の
心のままにしようと思うことがあるものだ。

その時、父母兄弟朋友の意見によって心を取り直し、正道に帰る者もいる。
一方で、強情で意見を用いず、悪名を得てその身を滅ぼす者もいる。

この時が一生の吉凶の浮き沈みである。一旦の怒りで主君父母の恩を忘れ、
一門の名を穢すことは非義の至りであるからよくよく覚悟すべきことである」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』




「面白いと思うことは、度々重ならないように覚悟すべし。」

2015年11月10日 15:33

972 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/10(火) 03:05:06.77 ID:pcLi2wWH
井伊直孝曰く、

「面白いと思うことは、度々重ならないように覚悟すべし。何事をするにしても、
まずその事の実質を知って、よく考えて取り掛かるべし。害を知って上手く防げば、
その事は成就して、後悔することもない」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』



人間一生の勤めは忠孝の道である

2015年11月08日 06:46

957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 00:57:01.81 ID:kHLr6tzO
井伊直孝曰く、

「人間一生の勤めは忠孝の道である。聖賢千万言の教えも、皆忠孝のためであろう。

忠孝を勤めようと思うなら、主君と先祖の恩を常に忘れるな。『恩を知らぬ者は、
思いもかけず災難にあうものだ』と、古人もおっしゃった。油断してはならない。

人間の苦には、飢寒よりもたいへんなものはない。百姓町人が昼夜となく骨を折るのは、
飢寒を防ぐためである。中には家職の勤めに油断して、飢寒に及ぶ者も多い。

一方で、武士には生まれながらの飢寒はない。皆々が父母妻子兄弟を養い、家来を使い、
安楽に暮らしているのは、主君ならびに先祖父母の恩徳ではないだろうか。

この恩を常に忘れなければ、忠孝の道を忘れようもない。古老の物語などによれば、
『毎日食に向かい衣服を着る時、主君と先祖父母の恩徳を思え』ということである」

――『松のさかへ(井伊直孝公御夜話)』




958 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 01:35:54.39 ID:G3IlIf/x
藩祖が遠江出身で生粋の三河者じゃないのに、一番禄をもらって
譜代筆頭なのに戊辰戦争では新政府側の彦根藩

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 06:39:27.75 ID:KLh7wixy
藤堂高虎「さんざん幕府の恩顧を受けながら裏切るとは彦根藩ってひどいな」

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 07:05:22.76 ID:IHwgcjch
井伊家は南北朝時代から何度も滅亡の危機をむかえてるのに明治維新生き抜いたのは正直すごいと思うの

961 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 08:26:58.70 ID:hS/xgfqa
直弼はさっちょうのスパイだったのさ

962 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 10:38:44.79 ID:1be3Js0o
風邪で具合が悪いせいか、
直政は家康のおっぱいだったのさ
に見えた

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/11/08(日) 11:34:48.66 ID:cGSOOvIR
寝てろ

「天下の乱の元と存じました」

2015年04月22日 18:30

853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/21(火) 20:45:49.19 ID:dtcF3OWH
将軍徳川秀忠が諸大名を召して、土井大炊頭利勝を以って、来年嗣君(家光)に世を譲る旨を
発表すると、何れも祝う所に、井伊直孝一人黙然としていたため、土井利勝は側に招いて
「どうかしたのか?」と問うた所、直孝は

「天下の乱の元と存じました。めでたい事とは全く思いません。」

「それはどういう理由か?」

「それについては、大阪の乱のあと。江戸城の石垣の造営、日光の御造営とうち続いたため、
天下の諸大名は以ての外に困窮しております。そんな状況でこの上御代をお譲りなされば、
諸大名はその祝の献上品のため費え多く、また将軍宣下の饗礼を執り行えば、更に困窮に及んで、
支配下の民を苦しめる以外に方法が無くなるでしょう。
これによる万民の嘆きは、乱の基であると存じます。」

土井利勝これを聞くと
「至極の事である。それをありのまま、秀忠公に言上すべきだ。」
そう言って直孝を御次の間に伴い、利勝は御前に進んでしかじかの旨を言上すると、直ぐさま直孝は
御前に呼ばれ、秀忠よりこのように言われた

「汝が申す所は尤もである。しかし、一旦言い出してしまった以上、止めることは出来ない。
なお、今後も憚ること無くどのような事でも私に申すように。」

ところが直孝は、これに全く納得しなかった。
「直孝の只今の旨、然るべからずと思召したのであればそれでよいでしょう。
しかし!臣の言葉を尤もと聞かれたのに、用いられないのは、仰せとも思えません!」

これに秀忠は、暫く言葉もなかったが、ここで利勝が申し上げた
「私は既に年老いました。しかし彼のような壮年の者がこのように直言申し上げるというのは、
誠に天下泰平の基であります。明日、大名を召され、掃部頭(直孝)が申す旨尤もなるにより、
昨日の事は止められると言うことを仰せになるのが、然るべきと考えます。」

これに、秀忠は彼らの諌めに従う事にした。
直孝は「私が申す旨を用いて頂き、忝く思います。」と謝して退去した。

この事について当時の人々は、秀忠が諌めを入れたこと、直孝の直言、誠に君臣とも美を為し
善を為したと語り合ったという。


(明良洪範)


井伊直孝「それは能き沙汰なり」

2015年02月15日 19:57

412 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 16:05:27.42 ID:tmMYLvYF
井伊直孝が大番頭として伏見城に勤番の時、世間では、

「大坂と関東との間に御合戦があるにちがいない」

との噂があった。ある人がやって来てその旨を直孝に話して聞かせた。
直孝はこれを聞いて、

「それはよい噂である。ああ、そんな事にでもなってほしいものだ。
秀頼公に切腹をさせて、淀川ではらわたをすすいで見せ申すのだがなあ」

と言った。

(掃部頭聞て。それは能き沙汰なり。あはれさやうの事もあれかし。
秀頼公に切腹させ。淀川にて膓をすすぎ見せ申すべきものをと云。)

――『武功雑記』




413 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 17:12:00.66 ID:0n63oxZu
>>412
個人的に好きな逸話だ
こういうこと言えちゃう掃部さんかっけぇっす

414 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 17:15:57.77 ID:AI+QI/w8
ラスボスは自分がノブの息子たちにした事を忘れちゃったのかな
俺だったら家康はまっ先に殺すけど
秀頼の将来を託しちゃうくらい耄碌しちゃってるから無理か

415 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 18:35:32.84 ID:cueKlJE/
織田秀信が秀頼なみに挑発やら抵抗やらしてたら切腹どころか磔にしてるでしょ。
家康は成人するまで生かした上に最低でも二度は生き残りのチャンスを与えてるんだ、ほんともう仕方ない。

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 18:43:01.90 ID:LcyymyQc
家康がそんな甘い男なわけ無いだろう
自分で秀頼を殺らなければ、自分の死後に今度は徳川家が同じ目に会うんだから

417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/02/15(日) 21:27:36.88 ID:4PlYAfOp
大阪の主戦論はだいたい主馬治房のせい

井伊掃部頭殿(井伊直孝)のこと

2014年05月25日 18:52

19 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/25(日) 15:47:30.82 ID:wPkIi9ip
掃部頭殿(井伊直孝)は毎朝刀や脇差をぬぐいなさった。
武士にとってこれは忘れてはならないことであり、
冥加のためなのだという。

同人の言によると「日本は日本流が良い。遠い唐の書物に
とらわれて物知りぶるのは悪いことだ」という。
(同人云。日本は日本流よし。遠き唐の書になづみて。
物知りだてはあしし。)

施薬院の親類の柏原可休という者は掃部殿のところにいた。
この者の話によると「掃部殿の平生の物語は、武や義の他には
まったく余計な事柄が無かった」という。

――『武功雑記』




井伊家については

2014年05月18日 19:20

327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 18:16:33.74 ID:2Jo6T3qV
大坂落着後、若江合戦における初めの先後について御尋ねがあった。

この時、藤堂家が一番槍であるとのことを同家の士が申し上げた。
一方、諸士は井伊家が一番槍であると言う。

この時、井伊家の士である岡本半助は申し上げて、

「一番槍は藤堂に相違無く候。しかし、藤堂勢は備えも固めずに先を争い、
バラバラに掛かりましたので、敵に突き立てられて討死した者も多かったのです。
井伊家については備えを固め、軍法を正しくして掛かりましたので、藤堂家の次に
なりましたが、敵を打ち破りました」

と言った。

――『明良洪範』




328 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 23:41:52.55 ID:zizGugK5
「……だって前の殿さまいたんだもの」

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/17(土) 23:53:33.67 ID:CZ23+Uq3
>>328
再来年の大河で活躍するといいな

井伊直孝の嫡子の靱負佐直滋が若年の時

2014年02月13日 19:16

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/12(水) 16:59:53.83 ID:RzyyDguE
井伊直孝の嫡子の靱負佐直滋が若年の時、父直孝が言ったのは、

「其の方に附人を申し付けようと思うのだ。家士の中から選びなさい」ということだった。
嫡子直滋は答えて「私は嫡子ですから御跡を継ぐ身です。そうであるのに、いま家士の中の
誰彼と選んだので、私が当主になった時にいま選んで残した者どもが、

『自分たちは当主の気に入っていない身だ』と思ったならば、自然と勤方も怠ることでしょう。
家士は主将の四肢です。四肢が怠る時には身は立ちませんので、私は選ぶつもりはありません。
父の御目鏡をもって誰でも御附けになってください」と、言った。

直孝を初めこれを聞く者に感心しない者はいなかった。ところが、直滋はどのような理由なのか、
その後に遁世なさった。「彦根一家中で惜しまない者はいなかった」と、家中の老人は
嘆息しつつお話しになった。

――『明良洪範』




518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/13(木) 16:35:44.96 ID:bcc0dnuM
ほうほう、そんなに立派な嫡男だったのかとググったら

>>江戸城下で育ち幼少の頃から将軍徳川秀忠・家光父子に寵愛され、
>>幕臣筆頭の家柄の嫡男として何不自由なく育ったために我が強い性格で、
>>父とたびたび対立し言い争うことが多く、質素倹約を旨とした父に気に入られなかった

誰が本当の事を言ってるんだろうか

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/13(木) 17:06:25.24 ID:LEi2KN2U
親父の押しつけには嫌気がさしていたので付人つけるなら勝手にやれよ
まあ周りの目もあるし角の立たない言い方でおさめとく
と、ずーっと反抗し続けていたら廃嫡されたでござる

井伊直孝の直言

2013年07月23日 19:52

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 08:18:39.22 ID:BTaLqH8H
井伊直孝の直言

秀忠様が諸大名を召して土井大炊頭利勝をもって来年嗣君に世を譲る
と仰せ出されたので、誰もがお祝いを申し上げているなかに井伊直孝
一人は黙然としていた。

利勝はそばに招いて「なぜそのようになさるのか」と問いかけると、
直孝は「天下乱れのもとになると存じますので、とても目出度くは
思えませぬ。」と答えた。

利勝が「その仔細は如何に」と問いただすと、直孝は「大坂の乱後、
すぐに江戸の石壁の営み、日光の御造営などが続き、天下の諸大名は
とても困窮しております。このような時に御代を譲られますと諸大名
は献上物への費えが嵩み、将軍宣下の祭礼を執行するにはなお困窮に
及び、重税を課して民を苦しめる他やりようがありません。これは
万民の嘆きとなり乱のもとになると存じます」と申し上げた。

利勝は「至極もっともな事である。この旨ありのままに言上しなさい」
と直孝を御次の間に伴って、利勝は御前へと進み出てしかじかの旨を
言上した。

秀忠様は即座に直孝を御前へと召され「汝が言うことはもっともで
あるが、既に公言してしまったからには止めがたい。今後もはばかる
事無く言って欲しい」と仰せられた。

直孝はそれは良くない事だと考えたので「そのように私の言う事を
もっともと言いながら用いられぬのは、いかに仰せとはいえ、よく
ありませぬ」と答えた。

暫くお言葉が無かったので、利勝が「私は既に年老いましたが、壮年
の者がこのような直言を申し上げた事は、誠に天下泰平の基でござい
ます。明日諸大名を召されて、掃部頭が申す事はもっともであるから
昨日の件は中止すると仰せ出されるべきでしょう」と申し上げたので
秀忠様は諌めに従われた。

直孝は「私の申す事を用いて頂き忝けなし」と謝し奉り御前を退去な
された。

秀忠様の諌めを受け入れる器量と、直孝の直言は君臣ともに立派なこと
だと世の人々は語ったと言う。

(明良洪範)

井伊直孝の諫言についてのお話




753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 16:41:41.36 ID:Df+LqmJd
>>752
状況よりも予定に合わせてしまうんだよな

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 18:04:19.22 ID:rC1gL2TW
>>752
秀吉「民に重税をかけて苦しめるとは、なんと酷い将軍なのだ」

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/23(火) 19:54:28.75 ID:hXET5Q2J
>>753
卑近な例だけど、湿度も高い真夏日に、熱中症の危険が高いけど予定通り運動会を開くような感じか

【井伊直孝遺状】(抜粋)

2013年01月30日 19:50

217 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 21:04:26.49 ID:kK6dsO2q
井伊直孝遺状】(抜粋)

一.上意は申すまでもなく、御老中からこの上もない無理難題を申しつけられても
幕命に沿い、只管に将軍家への御奉公を専らに勤められることを本義とする。
我らへの孝行は将軍家への御奉公に勝るべきでなく、御代々の御厚恩を子々孫々に至るまで忘れるべからず。

一.大権現様により泰平の世となって以来、我らが御主君の御役に立ってきたことは、天下に広く知られている。
其方も昼夜武道を忘れなく励まれよ。
世の中が泰平ゆえ、大猷院(家光)様と当公方(家綱)様に対し、戦場での御奉公も致さず相果てることは、誠に残念至極である。
幕府に対する謀反者が現れた際には直ちに出陣出来るように、常日頃から覚悟しておけ。
その際の軍法は以前より定めおいた通りにすべきであるが、場合により少しばかり変えてもよい。
しかし、新たな戦法は取るな。 井伊家直々に伝わってきた軍法と、別書一巻の通りに合戦をしろ。

一.天下に兵乱が生じた際、靫負佐(直滋)が独自に別旗を立てて出陣しようとしても、その意に任せてはならない。
また金銭を所望してきても、以前から定め置いた合戦の員数以外の援助は無用。

一.賞罰については、当たり前のことだが、賞を厚く罰を薄くするように心掛けよ。
大将たるべき者は、表向きの役務をする外様者や、遠所に在勤する者に対しても、よくその善悪を見極めろ。
並みの人と能き人とを同等に扱ったら、能き侍は嫌気が差し、奉公を等閑にするものである。
他人から聞き及ぶことには、事実と相違することがあり、そのため人を見誤ることも多いのでよくよく分別せよ。
何れにせよ大将たるべき者は、欲を浅く慈悲を深くすることが肝心である。

一.家臣を召使う場合、その侍の善悪次第によって召使われるべきで、譜代・新参の分け隔てなく扱うこと。
一心に奉公する者がいても、贔屓がなければ主人の目にも止まらず、埋もれて知れぬ事が多いものだが、これはとかく残念なことである。
また、さほどの取り柄の無い者でも、取り成してよき様に処遇してやり、
人並みの奉公も出来ない者でも、その善悪を選び出して程よく召使うことが、大将の手柄である。




218 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/29(火) 21:24:01.24 ID:e+3He9uu
彦根藩と庄内藩どうして差がついた

近畿ととうほぐの違い

221 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/01/30(水) 07:22:59.47 ID:7//td3HG
先日放送の「八重の桜」で
井伊邸に居たひこny…白猫や、松平容保と井伊直弼の対談を観て感慨に耽った身として
会津藩の藩祖・保科正之が遺した家訓と
井伊直孝が直澄に宛てた遺状って似てるんだよなーとまたまたしみじみ

福島正則改易の時の、井伊直孝の発言などについて

2012年11月23日 19:52

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 08:32:42.17 ID:X2nhYk3I
これは元和5年(1619)の福島正則改易について、石谷将監(初名十蔵、後に土入と号す)が語った
事である。

伏見でにおいて将軍秀忠が福島正則の改易を決断する。
そこでこの時江戸藩邸にあった正則に対し、改易を伝える使者を出すことになったが、この時将軍秀忠を始め
主な幕閣などは伏見にあり、江戸には留守居があるのみであった。そのため

『彼の者は武功者であり、また心荒き者であるので、上意を素直に受け入れるとは思えません。
そうであれば使者として赴くのは、江戸留守居の者たちからではなく、(現在伏見にある老中格の)
井伊・本多・榊原・酒井などの内から出すべきであると考えます。』

と、評議において意見が出た。重大な事態に陥る可能性の高い使者である以上、相応の
責任を持ったものが行くべきだ、という事であろう。

これを聞いた井伊掃部頭直孝は、言う

「おやおや、いざ合戦となって先陣を務めるのは私の役目であるぞ。この時は江戸留守居に残った
者達の出番はない。
幸いにも、今回のような事は、御上洛の御留守を承り、江戸御城下に居ながらのお使いという、
御留守居衆にとってうってつけの役目である。

各々の察している通り、福島左衛門大夫はこの改易を、とても素直に受け入れるとは思えない。
もし最初の使者からの改易の命を拒否したことが解れば、次は我々から彼に当てた書状を出すべきである。
その内容は

『あなたは咎によって安芸・備後両州を召し上げられ、どこどこに改易されることになった。
この事を御恨みに思うのであれば、広島に下って挙兵するのも、またそちらの屋敷に立て籠もるのも、
心次第にやって頂いて構わない。』

これを見てもまだ左衛門大夫が、むつかしく改易をお受けしないのであれば、その時は他でもない。
この掃部頭に仰せ付けられよ。討ち取って差し上げよう。

ともかく、先ずは穏当に使者を遣わされるべきであろう。」

これを秀忠もいかにもと考え、江戸留守居であった牧野駿河守信成以下が、正則への上使となった。


その頃正則の江戸屋敷は、今の増上寺の近く、愛宕山の下にあった。そのため愛宕山に石火矢を
配備し、緊急の事態になればすぐさま正則の屋敷に向かって撃ちこむ用意をしていた。

ところが、思いの外に正則は静かに改易を受け入れた。この事、江戸より伏見に報告されると、
伏見では秀忠上洛のお供として召し連れられていた、正則の嫡男備後守(忠勝)も取り籠められた。
(武野燭談)

福島正則改易の時の、井伊直孝の発言などについての逸話である。





542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 09:12:53.57 ID:AwgcWyxp
留守居の顔を立てたいい話
秀忠公は落ち着いているなぁ

543 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 10:09:00.99 ID:FAotWQ89
市松の身から出た錆とはいえ、改易話はやるせないなぁ

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 11:39:39.74 ID:HRCXv3lr
静かに受け入れたのも罪滅ぼしだったのかもね

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 11:58:25.63 ID:Ol09G7q6
きっと酒が入っていなかったんだろう

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/11/23(金) 16:24:58.24 ID:KLdq6rtb
是非もなしって感じかな

軍陣の作法を心得ておるわ

2012年10月11日 20:22

887 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 17:43:44.57 ID:rsYOP+wD

大坂夏の陣の折、徳川家康と秀忠の両御所は伏見城の舟入の櫓に渡御して、
軍の進む様子を見ていた。

この時、井伊直孝の旗奉行である孕石豊後広瀬左馬助の二人は、城下にて
幟旗を伏せて通るので、直孝は般若野宮内に命じて「両御所が御覧になって
おられるのに何故旗を伏せるのか。早く旗を立てよ」と伝えさせたが、両人は
「旗のことは奉行にお任せください」と言って聞かず、直孝が馬場藤左衛門に
催促させても、二人は聞き入れなかった。

やがて二人は肥後橋を通過し、城から遠く離れて初めて旗を立てた。
これは主将が渡御した城へ旗を向けることを憚った故に、旗を隠していたのである。

家康はこれに感心して秀忠に向かい「この城に旗先を向けることを憚り、
今になって旗を押し立てるとは、直孝のもとには信玄の家風に慣れた古兵が多い
だけあって、軍陣の作法を心得ておるわ」と賞賛したということである。

――『徳川実紀(村越覚書)』




888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 18:45:28.06 ID:ml726taz
権現「してあの者達の名前は何と申すか?」

直孝「孕石豊後広瀬左馬助です」

権現「さっさと腹切らせろ」

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 19:09:39.20 ID:BdlzcD3M
そして何だかよく分からない作法が増えて行くのであった。
江戸に続く

897 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/12(金) 20:14:02.95 ID:mkLXV63a
>>887


孕石はあの孕石の縁者かの?

898 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/12(金) 20:30:35.86 ID:iDfdGD7W
旧今川領におおい苗字なのかしら

899 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/12(金) 20:35:27.65 ID:6KZn9KQW
【名字】孕石
【読み】はらみいし,はらいし,こいし

【解説】
現静岡県西部である遠江国佐野郡孕石村が起源(ルーツ)である、中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる氏(藤原氏)。
藤原南家工藤氏族、和邇部氏がある。現高知県である土佐藩、小田原藩等にみられる「石」は石や岩、硬い地盤を表す。
http://www.myoji-yurai.net/searchResult.htm?myojiKanji=%E5%AD%95%E7%9F%B3

900 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/12(金) 21:21:01.48 ID:I0GB3Awo
>>897
井伊家の旗奉行の孕石といえば、旧武田家家臣で、
信玄秘蔵の家臣として山県昌景に付された孕石源右衛門のことだけど、
甲陽軍鑑の注釈によるとあの孕石(主水)の息子さんではないかって、言われてるみたいだね

「拙者は髪にて御奉公は仕らず」

2012年09月27日 18:53

591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 14:05:28.68 ID:5KBqIbgC
昨日(2012.09.26)の読売新聞、磯田道史センセのコラムより、ちょんまげ話を引用抜粋
「彦根往古ノ聞書」(慶大図書館収蔵)から
「(井伊)直孝様の時代、家中に上泉権左衛門という人がいた。この人はお見目えの時、
髪を結わず長髪で登城したため、藩主の目にとまりお叱りを頂戴した」
剣豪・上泉伊勢守の孫、居合の達人の権左衛門は「拙者は髪にて御奉公は仕らず」と抗弁
結局は、直孝は激怒し、閉門処分に。彦根も退去して尾張に仕える

彦根藩ではその後、長髪登城で2人、ちょんまげを糸でなく藁で結った1人が、閉門処分となっている

戦国期には自由だった髪型も、寛永頃には戦闘の準備行動であるちょんまげが主君への奉仕を象徴し、
管理統制へ移行したようだ

…直孝に抗弁して刃傷沙汰にならなかったから、いい話だったかもしれない…




593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 14:18:19.06 ID:g5jwDPI2
あたま・・・全部剃っちゃダメなのか?

594 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 14:24:26.63 ID:4Q5aK0LG
>>591
ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/?no=4215&spの逸話を思い出した
しかし糸でも紙でもなく藁で髪結ぶっておしゃれ上級者すぎるなw

595 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 15:04:30.88 ID:OFBUKKBq
髷が結えなくなったら隠居だから

596 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 16:17:38.68 ID:6bzTicsI
シグルイの夕雲思い出した。

598 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 18:48:46.21 ID:UBtiprp8
>>591
ひこにゃんは武士の規律を乱す人とかに厳しそうだもんな

599 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 20:19:59.05 ID:pml4fx5k
>>593
頭を留める者は髪を留めず
髪を留める者は頭を留めず

600 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 20:32:45.93 ID:ZIUk9L71
>>598
武者から藩士への過渡期なんやろね~

601 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 22:58:10.27 ID:f2ihicX8
>>599
フサフサは皆死んでしまへ!

603 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/27(木) 23:42:06.24 ID:jLsdpooI
>>591

権左衛門さんってこのことで出奔して尾張に流れ着いて
尾張柳生の所にやってきて剣聖の孫の実力を遺憾なく発揮することになるのか


606 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/28(金) 17:37:46.53 ID:JqkI9rwb
柳生さんって剣聖の弟子だっけ?世間は狭いな

607 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/28(金) 17:52:01.16 ID:IO6GurYO
世間は狭いっていうより、剣聖がいろんなとこ行脚してるからね~