378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 12:25:02.49 ID:D27mfuVN
滝川辰政の履歴
滝川一益の息子(五男とされる)辰政は、のちに池田家に仕え岡山藩士となった。
以下は本人が書いた寛永21年の身上書の抜粋&意訳。
一、祖父(一益の父)のことは存じません。近江国日野郡甲賀にいたということを
人から聞きました。その縁で父(一益)は信長公から(甲賀を)与えられたのだと
蜂須賀蓬庵(家政)様の家臣、益田宮内少輔が言っていたので、そのように
承っています。
一、父は尾張国の賀伊道郷で生まれたそうです。北伊勢5郡と尾張2郡はその縁で
信長公から与えられたのだと、当時のことを知っている人から聞いたので
承った通りに書き付け申し上げます。
一、父左近に対して信長公が、関東を残らず与え、日の本(東国)の将軍に
なるようにと御意があったことを、山上道及が直接伺ったと聞いています。
一、(父が)武蔵野での合戦に破れて帰郷した際、種々の事情で越前に私がいたので
太閤様(秀吉)からそちらに行くようにと命じられ、(父は)越前まで五分の一
というところで病気になり、62歳で亡くなってしまいました。
一、私は丹羽五郎左(長秀)殿の養子でした。しかし息子の丹羽長重殿が加賀へ
転封になったときに、富田左近殿が太閤様にお取次ぎをしてくれました。
織田上野介(信包)様のところにいた長兄の三九郎(一忠)が亡くなっていたので
跡目として次兄の久助(一時)と一緒に預けられることになり、仕官しました。
一、(私は)少年のときに小田原征伐にお供し、児小姓の番衆として母衣を指して
韮山城攻め、小田原城攻めにお供しました。そこで両城での奉公ぶりを
上野介様に褒めていただきました。
一、朝鮮出兵のときも上野介様に仕えていましたが、備前国の伊部で同僚と喧嘩して
出奔しました。岐阜少将(豊臣秀勝)様の家臣に津田筑後*の祖父と伊藤豊左衛門が
おり、2人が以前父に仕えていましたので、その縁で一緒に朝鮮に渡り
岐阜少将様に釜山海というところでお仕えすることになりました。
一、岐阜少将様が釜山海で亡くなられたので、浅野弾正(長政)殿の指揮下に入ることに
なり"ちんちう"(晋州)という城を攻めました。落城させた際(私は)城内に乗り込む
ことが出来たので、弾正殿と黒田如水殿にお褒めの言葉をもらいました。
一、帰国後、石田治部少輔(三成)殿に召し出されましたが、関ヶ原合戦の年の2月に
暇乞いをしました。同年の4月に金吾中納言(小早川秀秋)様に召し出されました。
合戦では奉公ぶりを評価されました。(そのことを知っている)存命の者が紀州に
おり、他にも他国にいる小早川家の旧臣たちの知るところです。
一、小早川家をお暇し伏見におりましたところ、慶長6年8月に荒尾平左衛門(成房)が
先の津田筑後から(私のことを)聞いて、(池田)輝政様の御意で播州に来るように
とのことでしたので(池田家に)参り、知行二千石をいただき組頭になりました。
――『池田家文庫 家中諸士家譜五音寄』
* のちに鳥取藩の家老となる津田氏。出自ははっきりしないが織田信張の兄・寛維
の子孫という。
379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 13:24:06.87 ID:s/79RoCk
見切りが上手いな。関ヶ原前に三成の元を去り、秀秋が死ぬ前に小早川家を去って池田家とは勝ち組じゃないか?
380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:42:57.37 ID:POkXOWYA
>>379
確かに凄いw
381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:50:35.07 ID:mVyr8C1X
>>379
そいえば、秀秋は関ヶ原後に半ば乱心していたらしく、生きているときにも多くの重臣が去っているらしい。
382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 18:54:54.60 ID:TnZZlKuJ
信長は一益に関東一円の仕置を本気で任せる気でいたのか
383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 19:05:03.92 ID:POkXOWYA
秀秋乱心はデマじゃないの?医者のこいつ酒飲み過ぎって診断記録が見つかってたような。
384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 23:25:14.73 ID:W4mQ0TL+
乱心して酒ばっか飲んでたんじゃないの?
385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 06:22:52.50 ID:0Ezlp1gF
アル中で素行が乱れてたから乱心扱いされたのかも
滝川辰政の履歴
滝川一益の息子(五男とされる)辰政は、のちに池田家に仕え岡山藩士となった。
以下は本人が書いた寛永21年の身上書の抜粋&意訳。
一、祖父(一益の父)のことは存じません。近江国日野郡甲賀にいたということを
人から聞きました。その縁で父(一益)は信長公から(甲賀を)与えられたのだと
蜂須賀蓬庵(家政)様の家臣、益田宮内少輔が言っていたので、そのように
承っています。
一、父は尾張国の賀伊道郷で生まれたそうです。北伊勢5郡と尾張2郡はその縁で
信長公から与えられたのだと、当時のことを知っている人から聞いたので
承った通りに書き付け申し上げます。
一、父左近に対して信長公が、関東を残らず与え、日の本(東国)の将軍に
なるようにと御意があったことを、山上道及が直接伺ったと聞いています。
一、(父が)武蔵野での合戦に破れて帰郷した際、種々の事情で越前に私がいたので
太閤様(秀吉)からそちらに行くようにと命じられ、(父は)越前まで五分の一
というところで病気になり、62歳で亡くなってしまいました。
一、私は丹羽五郎左(長秀)殿の養子でした。しかし息子の丹羽長重殿が加賀へ
転封になったときに、富田左近殿が太閤様にお取次ぎをしてくれました。
織田上野介(信包)様のところにいた長兄の三九郎(一忠)が亡くなっていたので
跡目として次兄の久助(一時)と一緒に預けられることになり、仕官しました。
一、(私は)少年のときに小田原征伐にお供し、児小姓の番衆として母衣を指して
韮山城攻め、小田原城攻めにお供しました。そこで両城での奉公ぶりを
上野介様に褒めていただきました。
一、朝鮮出兵のときも上野介様に仕えていましたが、備前国の伊部で同僚と喧嘩して
出奔しました。岐阜少将(豊臣秀勝)様の家臣に津田筑後*の祖父と伊藤豊左衛門が
おり、2人が以前父に仕えていましたので、その縁で一緒に朝鮮に渡り
岐阜少将様に釜山海というところでお仕えすることになりました。
一、岐阜少将様が釜山海で亡くなられたので、浅野弾正(長政)殿の指揮下に入ることに
なり"ちんちう"(晋州)という城を攻めました。落城させた際(私は)城内に乗り込む
ことが出来たので、弾正殿と黒田如水殿にお褒めの言葉をもらいました。
一、帰国後、石田治部少輔(三成)殿に召し出されましたが、関ヶ原合戦の年の2月に
暇乞いをしました。同年の4月に金吾中納言(小早川秀秋)様に召し出されました。
合戦では奉公ぶりを評価されました。(そのことを知っている)存命の者が紀州に
おり、他にも他国にいる小早川家の旧臣たちの知るところです。
一、小早川家をお暇し伏見におりましたところ、慶長6年8月に荒尾平左衛門(成房)が
先の津田筑後から(私のことを)聞いて、(池田)輝政様の御意で播州に来るように
とのことでしたので(池田家に)参り、知行二千石をいただき組頭になりました。
――『池田家文庫 家中諸士家譜五音寄』
* のちに鳥取藩の家老となる津田氏。出自ははっきりしないが織田信張の兄・寛維
の子孫という。
379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 13:24:06.87 ID:s/79RoCk
見切りが上手いな。関ヶ原前に三成の元を去り、秀秋が死ぬ前に小早川家を去って池田家とは勝ち組じゃないか?
380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:42:57.37 ID:POkXOWYA
>>379
確かに凄いw
381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 15:50:35.07 ID:mVyr8C1X
>>379
そいえば、秀秋は関ヶ原後に半ば乱心していたらしく、生きているときにも多くの重臣が去っているらしい。
382 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 18:54:54.60 ID:TnZZlKuJ
信長は一益に関東一円の仕置を本気で任せる気でいたのか
383 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 19:05:03.92 ID:POkXOWYA
秀秋乱心はデマじゃないの?医者のこいつ酒飲み過ぎって診断記録が見つかってたような。
384 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/20(土) 23:25:14.73 ID:W4mQ0TL+
乱心して酒ばっか飲んでたんじゃないの?
385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/21(日) 06:22:52.50 ID:0Ezlp1gF
アル中で素行が乱れてたから乱心扱いされたのかも
スポンサーサイト