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関ヶ原合戦後の中川秀成の処遇と「支えたる仁

2020年09月27日 17:50

590 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/26(土) 21:42:52.10 ID:N5Jcfvwl
関ヶ原合戦後の中川秀成の処遇と「支えたる仁」


中川秀成は石垣原の戦いの折に、与力の田原紹忍・宗像掃部(大友旧臣)が大友勢に合流し
中川家の旗指物を偽作されたため、去就を疑われることになった。
その後、秀成は姉婿であった池田輝政に家康への執り成しを依頼した。
以下はそれを受けて山岡道阿弥岡江雪が池田輝政に秀成の安堵を伝える書状である。

  巳上
中川修理(秀成)殿について上件の条々(秀成の家康に対する忠誠)を残らず申し上げたところ
支えたる仁(口を挟む者)がいました。しかしながら中修(秀成)は忠節を斯くの如く
立てられましたので、不届きな太田飛騨(一吉)は即時に御知行を召し上げられ、また支えたる仁も
(秀成の)御近所には置かれず遠国へやられました。
この上は内府様(家康)の御心に別条がないことを両人(道阿弥と江雪)から申し渡すようにとの
仰せでした。めでたいことです。委細は中修に申し上げます。恐惶謹言
   (慶長六年)九月六日     山岡道阿
                  江 雪
         羽 三左様
               参人々御中

――『中川家文書



591 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/27(日) 01:48:49.52 ID:1b8vb2Sc
中川秀成の姉は輝政が家康娘を娶るために離縁されてるという
秀成にとってちょっと複雑な姉婿
まぁ、池田・徳川にこの件で引け目を感じさせて
家を保つ役に立ったとするなら結果オーライか
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推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!!

2019年08月15日 17:14

323 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/15(木) 16:33:34.16 ID:Tdfto4zP
「尼崎で諸大名が髪を切って信長公のことを嘆きなさる時、秀吉公も嘆きなさり『この上はいずれも
一味同心で明智を討ち取り申す他はござらん! いずれも左様に思し召しなされよ!』と敬っていか
にも慇懃に、同輩の様子も見えたのである。

明智敗軍の時、諸大名への御あしらいは『骨折り骨折り』と仰せられ、皆家来のあしらいになされて
大いに威が付いたのである」と(佐柿常円は)語りなさった。

――『佐柿入道常円物語(高松城攻物語)』

佐柿常円は備中高松攻めの時に秀吉に御供したという人
  
  
一、山崎合戦の時、秀吉公は西国より御上り。先手は中川瀬兵衛(清秀)・堀久太郎(秀政)・
  高山右近・池田勝入様(恒興)などである。

  (中略。戦勝後)

  秀吉公は遥か後ろより、乗物で朱唐笠を差させて御出になった。中川を始め諸大将は床机に
  腰を掛けていた。きっと懇ろに礼儀があるだろうと思いなされているところで、秀吉公は駕
  の中から「瀬兵衛、骨折り」と申されたという。

  瀬兵衛は気短き人なので「推参なり! 早くも天下取りの顔をするか!!」と申されたという。
  秀吉公の御聞きなきことはあるまいが、聞かぬ顔で御通りであったという。

一、古田織部は中川瀬兵衛殿の婿である。利隆様(池田利隆)の伯母婿でもある。秀吉公が山崎
  へ御向かいの時、秀吉公は古田を召して、

  「中川と其の方は縁者だから、中川へ行け。まったく中川を疑うわけではないが、世上の聞
  こえにおいても、中川なども人質を出すとあれば味方一味のために良い。誰であっても人質
  を出しなさるように申して参れ」

  との仰せであった。古田が畏まって行くと、秀吉公は山上に陣取りであったのだが、古田が
  山下まで行くのをまた呼び返して何か遣わしたいと思し召された。乾いてござる木綿足袋を
  脱ぎ、「これをやるぞ。これを履いて津の国(摂津国)の晴れをせよ」との仰せだという。

  さて中川へ行って以上の通り申した。例の中川殿は気短く、早くも立腹して申されるには、
  「秀吉が我に人質を出せと言うか!」と、申されたという。古田は「左様ではありません。
  よくよく御思案なされ」とまずは帰った。

  夜に入って古田を呼んで中川が申されるには、「いかにも心得た。しかし人質に遣わすべき
  者がいないので、家老の子を遣わそう」と人質を遣わしなさったという。その頃、中川殿は
  津国茨木に居住されたという。

――『烈公間話』



まことに良将が軍を統べる故なり

2019年03月09日 21:24

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 18:40:43.12 ID:6ECJ3CPn
(賤ヶ岳の戦いの時)

清秀(中川清秀)はこれ以前に度々に及んで武辺に落ち度を取らず、勇力を世間に知られた侍なり。

「度々の晴れ戦、万一鈍兵の名を得ては生涯の不覚!」と思い定めた清秀は「運は天にあり、進ん
で退くことなかれ! 」と諸卒に言葉を掛け、1千余騎が塁を離れて突き出た。玄蕃助(佐久間盛
政)の兵はこれを見て、余さず漏らさず押っ取り込めて、数刻攻め戦う。

清秀は我劣らじと、兵5,60騎が弓手馬手に並び、散々に切り合い割り入り追い立てた。清秀は
一旦は勝利を得たものの、敵は多勢をもって手負い死人を顧みず、風の発するが如く河の決するが
如く乱入して、ついに清秀は討死した。

その時、玄蕃助は勝ちに乗じて太刀場を取り、前は鯨波が地を響かし後ろは狼煙が天をかすませた。
風はふるい、旌旗は光を添えて日に輝く。甲冑は影を並べ、その威光は誰をもって争えようか。

この時、清秀が速やかに引き取っていれば、一化先は敵の勝手をなすとしても“勢に因りて之を破
る”との諺をもって、その尽くが居陣となったものであろう。

秀長(豊臣秀長)の陣所を始めとして、先手の陣取りは各々堅固の備であった。一陣が敗れて残党
も無事ではないといえど、士衆は一致して軍は心を結んだ。これまことに良将が軍を統べる故なり。

そうして江北の戦は相果てた。事が済んだ時、それより羽檄をもって件の注進あり。秀吉はこれを
聞いて清秀が討たれたために、甚だ深く哀憐した。

――『天正記(柴田退治記)』



撫で斬りを始めるぞ!

2019年02月14日 17:27

675 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 21:40:26.13 ID:fNzNXtnx
河内国の武士で名を顕した、遊佐左衛門佐という者が居た。摂津と河内は隣接しており、
摂津の中川瀬兵衛清秀との間に防戦止むことなかった。

ある時、中川の従兵である木村七郎右衛門が守口の堤下を移動していると、遊佐がただ一騎物見に出てきたと
見えて、馬上やってきた。木村は堤下より声をかけ、不意に躍り出ると、遊佐は咄嗟に槍を取り直そうとする、
そこを刺して馬上からはね落とし、堤下に倒れると同時に押えて頸を斬った。
そして立ち上がろうとしたが、そこに遊佐を追ってきた配下7,8人が、鑓を引っさげて進んできた。
しかし木村は遊佐との戦いに疲れ、息も喘ぎ勝負がつかなかった。ではあったが、最後の力をつくし、
大声で「撫で斬りを始めるぞ!」と堤の上に飛び上がると、味方の兵これに気が付き後に続いた。
敵はこれを見て引き退いた。

木村は後に人にこう語った。「あのとき総勢が続かなければ、童子にも討たれていただろう。
遊佐の頸を取ったのは左程のことでもなかったが、最初に疲弊し息も上がり、その後危うくなってしまった。」

(武将感状記)

助けを呼ぶ時「撫で斬り(皆殺し)を始めるぞ!」って叫ぶの戦国らしくていいな。



676 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/13(水) 22:09:20.45 ID:UttzCQRf
>>675
現代でも、泥棒と叫ぶより火事と叫んだほうが人が集まるらしいが、それの戦国時代版かなw

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/14(木) 12:12:40.18 ID:GlVcWKUV
木村「さあ、『皆殺し』を始めるぞ!」

漫画だったらすごいオーラ出してそうなシーンだw

678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/14(木) 20:00:41.82 ID:RiNIEpAp
>>676
火事は自分も危ないからな

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/15(金) 00:09:28.64 ID:ZfIZImEq
ヒャッハー!皆殺しだー!!
原哲夫の漫画っぽいな

中川秀政の討ち死に

2018年11月23日 21:18

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/23(金) 10:19:09.75 ID:OgYlCKSq
中川秀政の討ち死に


中川秀政は父・清秀が賤ヶ岳の戦いで討ち死にした際家督を継ぎ、その後も
秀吉配下として各地を転戦し、摂津国三木13万石を領する大名となっていた。
文禄の役でも弟・秀成と共に三千余りの軍勢を連れ肥前名護屋に参陣した。
秀政は渡海し守備についていたが、10月24日水原城の辺りで鷹狩をしようとした。

秀政は家臣からの
「今は敵兵が四方の山々に満ちているのに、軽々しく鷹狩をするのはいかがか」
との申しに従わず、甲冑の上に狩装束を着て連れ行く兵にも具足で武器を持たせた。
しかし鳥を驚かせないために、付いて行く者は皆徒歩で馬は五、六町後に引かせた。
鷹狩で鳬(ケリあるいはカモ)、雁の類を、数多く捕らえたという。

その時日本の雑兵二、三百人が薪取りか刈田にでも出てきていたのだろうか
朝鮮人に追い立てられ、散り散りに逃げていた。
秀政はそれを遥かに見て
「彼の者どもを目前に討たせては、後日の嘲りを遁れることが出来ようか」
と言って笠を脱ぎ捨て半月を打った冑を付けて、馬に乗りただ一騎にて馳せ入った。
付いていた兵は徒歩の鎧武者なので、心は逸ったが後に続くことが出来なかった。

秀政は伯耆安綱が打った二尺七寸の太刀を持ち、真っ先に出てきた七尺余りの敵を
左の肩先から乳の下まで斬りつけると、馬から倒れ落ちて死んだ。
続いて金子寛という敵が組み付いてきたので、(秀政は)太刀を捨て共にもつれながら
馬から落ちた。
(秀政は敵を)押し伏せて首を掻こうとしたが、脇差が弓手(左手)の方に回って
取れなかったので、下にいる敵の剣を抜いて二度刺し通し大将を討ち取った。
「続けや者ども」
と秀政は呼びかけたが、傍にいるのは雑人ばかりで物の用には立たなかった。
付いていた兵も未だ駆け付けられず、その間に近くにいた敵が半弓から毒矢を放ち
秀政の脇壺を射った。痛手を負ったものの、(秀政は)その敵と組み合った。

この時ようやく五、六人の兵が駆けつけ、草履取りの市蔵が毒矢を放った敵を引いて
柳原源蔵がこれを斬った。
横田九左衛門光成、田島傳助、村治五郎大夫などは群がる敵を斬り殺した。
その間にも、兵が駆けつけたため敵兵は悉く逃走したという。

それから秀政を引き起こすと矢柄が中の方へ折り曲がっており、矢を抜いたものの
箆(矢の棒の部分)だけ抜けて、鏃は中に残ってしまった。
(脇壺は)急所であり深手だったが、ようやく水原城に(秀政を)運んだ。
(秀政は)同日の暮に卒した。享年二十五歳。
遺骸は城の傍らに葬り、目印に桜を植えたという。


――『中川家譜』



480 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/11/28(水) 01:55:28.03 ID:oszB9Hdo
>>465
秀政の死については天正20年12月6日付中川秀成宛秀吉朱印状で触れてるね
秀政が部下を連れず単独で敵の番所へ視察に出て待ち伏せに逢い
その時の傷がもとで死んだと報告を受けた秀吉が軽率過ぎると激怒してる

「筑前、早くも天下を併呑する気象あらわれたり」

2018年09月21日 09:58

193 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/09/21(金) 06:03:05.42 ID:fX5WZda+
山崎の戦いの時、神戸信孝(織田信孝)は斎藤利三勢に攻められるも中川清秀が横合より斎藤勢を
攻めたため、利三は敗れて落ちていった。合戦が済んで後、信孝は瀬兵衛清秀の手を取って戴き、

「今日、親の仇を討ち取ったのも、まったくそこもとの武功ゆえ!」と、感涙を流して感謝された。
その時、秀吉は駕籠に乗ってその様子を見て「瀬兵衛瀬兵衛、今日は骨折り骨折り」と言いながら

通り過ぎた。清秀はこれを聞き「筑前、早くも天下を併呑する気象あらわれたり」と申したという。

――『改正三河後風土記(柏崎物語)』


赤座七郎兵衛は鉄砲頭である

2016年08月24日 18:14

36 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 04:21:00.00 ID:QmNZSZ0d
中川修理太夫秀重(秀成)の家来・赤座七郎兵衛は鉄砲頭である。赤座の妻の
弟に村井津右衛門という浪人がいて、彼は赤座のところにいた。

岡城は険阻な地理で諸士の居宅はここかしこにあって続かず、10町ほど家から
離れたところには墓場があった。いつの頃からかこの墓場で、雨風の夜に物の
羽撃きと鳴く声がするようになった。

そのため化物が出て来たと言い広められ、農商女童はたいへんこれを恐れた。
こうして数日が過ぎた時、村井はある所に行って夜に入り、帰ろうと言った折、
雨風は激しく、夜も更けていた。

その帰路は前述の墓場を過ぎる所だったため、その座中の人々は、「きっと、
最近の化物が出るだろう。とにかく、ここに泊まりなされ」と、村井を止めた。

村井は「何の思慮も無く粗忽な言葉だな。こう言われては泊まるべきだろうか」と、
心中で思ったが、なんでもない体で「赤座に必ず帰ると申したので、寝ずに待って
いるでしょうから」と言って、帰った。

ところが、村井が墓場近くに来ると、羽撃いて鳴く音が聞こえた。村井は、「さては
事実だったか!」と思い、その声に従って歩み寄ったが風の絶え間に声が止んだ。

彼がこの辺だろうと声のした所に近づくと風が吹くと同時に“はたはた”“ひょうひょう”
と言って、頭の上に何かが掛かった。村井は前もって、「斬らずに捕らえてやる」と、
覚悟していたので、これを捕らえ手探りして見た。

すると、それは竹の子笠で、墓場の竹垣に掛けて置いてあったものだった。これを
外すと風が吹いても声はしなかった。村井はこれを取って帰り、とっくに寝ていた
赤座を起こして、「私は今夜、かの化物を斬り留めました」と言った。

赤座が「それは奇怪なことだな」とその事を問うと、村井は人を退かせて、「こうこうの
首尾です」と、言った。これを聞いた赤座は、「事実は言うな。単に斬り留めたという
ことにしろ」と言って、次の日に人に会いこれを語った。

つまり“はたはた”という音は笠が垣根に当たる音である。“ひょうひょう”という声は、
笠にさえぎられた風が、垣根の竹の穴に激しく当たる音である。

その後、羽撃きも鳴く声も無かったので、人は村井が斬り留めたのだと信じた。
世上で妖魔などと言い伝えるものは、その実を正せば皆竹の子笠の類なのだろう。

――『武将感状記』



37 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 14:02:15.40 ID:pPGBazbw
>>36
手柄にしちゃうのか(困惑

38 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 14:41:12.97 ID:jO55FeWP
はやく出てってもらいたい居候だしな
妖魔退治の噂が拡がれば仕官の話くらい出てくるだろう

39 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/08/24(水) 16:06:04.15 ID:v1aiHHVU
騒動の原因を取っ払って不安を解消してるんだから
手柄にはなってるしいいんじゃないか
種明かしするか妖怪退治したことにするかは
教訓話が好きなタイプは前者の方を評価するだろうけど
義兄は後者の方がいいと判断したんだろう

中川瀬兵衛清秀、和田惟政を

2010年05月05日 00:08

719 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 23:37:33 ID:AuHhj9c7
元亀年間。
摂津では荒木村重が台頭し、和田惟政らと対立するようになっていた。
そしてついに、両者は決着をつけるべく軍を発する。
村重は士気を鼓舞するため、一つの板を陣頭に掲げた。
惟政を初めとする敵将の名を書き連ね、その首には報奨いくらと明示したものだ。

明日はいよいよ合戦、となった日。
掲示を見上げる男がいた。村重の与力、中川瀬兵衛清秀である。
清秀は筆を取り出すと、惟政の名の上に点を書き入れ、立ち去った。

その深夜、清秀は村重を訪ねた。
「おやおや、瀬兵衛殿。かような刻限にいかがした」
「…どうぞ」
清秀が携えてきたのは、紛れもない敵将・惟政の首であった。
「な、なんと!?」
村重は仰天し、いかにして惟政を討ち取ったのかを聞いた。

「はあ。
明日は決戦にて、敵はきっとこれに万全の用意をするだろうと思いました。
となれば、あらかじめ今宵のうちに、淀川の深さを測っておくでしょう。
惟政は優れた大将ですから、もっとも大事な物見を他人任せにはせぬはず。
必ずや、淀川べりに現れるだろうと踏んだのです。
そこで、敵が見えぬうちに川を渡り、木陰に伏し隠れておりました。
案の定、惟政が現れたので、兵に紛れて潜り込み、隙を見て首を取りました。
あとは水中に飛び込み、味方の陣まで参ったというわけです」

清秀はそう語り、人々に感嘆されたということである。




720 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 23:41:44 ID:RTCYK6Im
やっぱり自分が有能でなんでも自分でやる人よりは、自分は普通でも有能な部下をうまく使える人の方が有利か。

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 23:43:03 ID:Iq7fwSXz
え、何、これ1人でやっちゃったの…?

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/03(月) 23:45:37 ID:HJu0whed
どんなアサシンだよ

723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 00:04:25 ID:Eg/83VFm
中川清秀のイメージが変わったw

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 00:14:25 ID:iKM1myOL
秀吉から信長は自分が保護してるから早く来いって騙されたり
賤ヶ岳の合戦の時に見捨てられたりと都合よく使われてたけど
嫌われてたんだろうか・・・

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 07:40:10 ID:nf124hj6
忍者的な働きができたのか、スゲーな

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/04(火) 14:18:19 ID:AjBXtG6R
>>719
これ自分で何でもやる人を自分で何でもやる人が襲ったんだよなw

思考回路似てるから読みやすかったのか

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 01:22:25 ID:lvr9yxT4
>>724
重要拠点任されたりしてるんだからそれなりに信用はされてたんじゃないかなぁ
ただ自負が強すぎて持て余し気味だったかも
立ち位置的によく似てる堀久太郎は長生きしたら大大名になるか政権中枢を担った可能性もあるけど
清秀は長生きしたら難癖つけられてアッサリ所領取り上げられそうな気がするね

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 13:53:34 ID:d2x84LDb
中川は荒木を謀反に追い込むのに関わってたし、
高山右近ともども功名に逸って無茶をする印象。

738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/05/05(水) 14:45:37 ID:i1+MaTFO
瀬兵衛、骨折り。のエピソードからも媚びない、融通が利かない、簡単に腰を折らない頑固者、というイメージがある。
の割に部下が本願寺に兵糧横流ししたとか、配下の統制もいまいちな感じで、
なんか大将というよりは一個の武辺で
せいぜい万石程度が適当なちょうど仙石権兵衛みたいな印象。
権兵衛は媚びるのうまかったが。

中川清秀、するとこうなる・悪い話

2008年12月29日 00:04

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/28(日) 00:37:04 ID:Qoev2pa3
中川清秀は秀吉に正面切って「猿め!」と言い放った事がある。するとこうなる。

1582年、山崎の戦い
最前面に配され明智隊と正面からがっぷり四つ。消耗度大。

1583年、賎ヶ岳の戦い
 戦 死



726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/28(日) 00:39:13 ID:xv/zPGOg
>>725
そういえば賤ヶ岳の時の中川は、高山右近にはめられた、って説があるな。

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/28(日) 01:35:27 ID:omx2MqbP
まあ個人的な遺恨か自分(羽柴政権)に反抗的な分子の粛清か、あるいは
その両方か、といろいろ考える事はできるけどな。

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/28(日) 01:39:48 ID:Qoev2pa3
賎ヶ岳で死んだのは偶然だと思うがなw

かなり奥面に配置されていたのに死んでしまった。

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/28(日) 01:43:13 ID:xv/zPGOg
良く家康が、大阪の陣に至る過程で、豊臣恩顧の大名が都合よく死んだ、なんていわれるけど、
実は秀吉も天下取りの過程で、「信長恩顧」は都合よく次々と死んでいるんだよね。

まあ、天下人になるための「運」とは、そう言うものなんだろうな。

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/28(日) 01:46:29 ID:K49GdaWf
直家「ぼくも運は良かったよ!」

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/28(日) 07:41:59 ID:xolXq4w5
松永久秀「主家の有力者たちがいつの間にか死んでいました」

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/28(日) 07:46:49 ID:bicA+F9P
元就「勝手に周りが弱体化していきました」

733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/28(日) 09:03:26 ID:WgfTCvW0
>>730
>>731
>>732

お前らww

賤ヶ岳の中川瀬兵衛と高山右近・考えさせられる話

2008年10月16日 00:19

321 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/13(日) 14:57:01 ID:AqjKZIq2
ちょっといい話というより、ちょっと考えさせられる話

 羽柴秀吉と柴田勝家が争っていたころ、勝家配下の武将佐久間盛政が突出して秀吉方の
砦に侵攻して来た。
 砦を守っていた武将は高山右近、中川瀬兵衛の二名で、それぞれ300人ずつ手勢を従えていた。
高山右近は敵の侵攻に対し、「こちらは合わせて600人しかいないから、ここで無駄死にするよりも
一時撤退して本隊と合流してから戦おう」と主張し、それに対して中川瀬兵衛は「敵の進撃を少しでも
遅らせるためにここで籠城しよう」と主張した。
 結局、二人は喧嘩別れになり、高山右近率いる300人の兵のみが砦から撤退した。残った中川瀬兵衛の
軍勢300人は佐久間盛政の攻撃を奮戦して受け止め、全滅するまで戦い、進撃を遅らせることには成功した。
 世間の人々は命がけで戦った中川瀬兵衛を勇者としてほめたたえ、戦友を見捨てて逃げた高山右近を
臆病者として非難した。だが、部下の命を無駄に死なせたくないと撤退を選んだ高山右近と、部下を死なせる
ことになっても全体の勝利に貢献したいと思った中川瀬兵衛。本当に正しかったのはどちらなのだろうか。




322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/13(日) 16:25:35 ID:UsfC1+4C
俺としてはどちらも悪くない判断だとは思う

323 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/04/13(日) 17:59:25 ID:4T6p3u6I
>>321
当時なら中川。現代なら高山が正しい…だと思うけど。
ただこの戦いに限れば、戦死しても無駄死にでは無い気がする。

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/13(日) 18:02:37 ID:Njo99i/G
上司にしたいのは高山で、部下に欲しいのは中川だな

325 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/13(日) 20:15:16 ID:RoMbE5lx
高山も残って損害を与えすぎると、陣取らないで素直に撤退していた可能性があるからな。
高山の選択で正解!



326 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/04/13(日) 21:17:58 ID:5SAhL3Iq
小牧長久手で羽柴秀次が家康に補足された際に堀秀政は攻めてきた徳川の一軍を撃破したが
その後さらなる敵軍に包囲される危機が迫っていたので、先陣の援軍要請を無視してほぼ無傷で撤退してしまった。
急を聞いて駆け付けた豊臣の援軍が現れてた時には先陣の池田や森は討ち死に。
戦上手の堀はこんな感じの行動をしてる。
やはり一戦して小勝でも良いからポイントを稼いで一気に撤退するが解答だろう。
秀吉に激怒された秀次が堀を恨んだかどうかは知らんがな!



327 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/13(日) 22:19:53 ID:jk3Vh3es
>>321
両方とも残って籠城していても、
両方ともに撤退していても全滅する可能性が高いんじゃないか?
2つに分かれて片方が籠城して時間稼ぎしたから
結果的に高山の撤退が成功したんだと思う。

328 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/04/13(日) 22:21:30 ID:5R3g+BX/
>>321
中川思考の武将
道雪、宗茂、紹雲、家久、義弘、元春、左近、幸村、謙信

高山思考の武将
信長、秀吉、義久、宗麟、隆景、元就、家康、氏康、政宗

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/04/13(日) 22:49:44 ID:5SAhL3Iq
>>328
中川思考でなおかつ佐久間ごときレベルなら勝っちゃいそうなメンバーだなw
柴田も敵数を誤認して撤退しそうw
このまま後詰めに敦賀で待ってるよ~って伝令出して勝手に追撃戦に移りそうだわw
高山思考のメンバーは確かに残っていたら全滅しそうなメンバーだから撤退して後詰め待ちした方がいいな。
まーこの後に秀吉は神速の行軍しちまったわけだが。