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生存したとて死と同じである。

2016年05月29日 13:05

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 01:45:53.35 ID:cAiDNTPK
 大阪落城のとき、秀頼が薩摩に行ったことは前にも言った。
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html


 さてこの頃聞いたことに、初めは肥後の隈本に立ち退いたとのことである。
従者が五人いたが、三人はかの所で暇を出したそうだ。
肥後でも関東を憚り、薩摩に送り遣わしたという。
(この次第は、人名等を『白石紳書』に見えるという。予の書は戊寅(1818年・文化15年、文政元年)に焼亡したので、人がいうままに記す)


薩州でも関東を恐れて、内々にその実を申し上げると、

「すでに大坂落城して、秀頼生害と披露したので、生存したとて死と同じである。
そのままにしておけ。しかし他国へは出してはならない。」

との御沙汰があり、秀頼は91、92まで存命したという。
その子孫は、今四世ばかりになって、木下谷山村というところに住居して、次郎兵衛という百姓であるとのことだ。


 朝川鼎(善庵)が西遊したとき、まさしく会って聞いてきたという。
秀頼の墓というのも行って見てきたが、同村の普門寺という寺にあって、無銘の石塔であった。
(この谷山村は鹿子嶋から二三里にあるという)
 かの百姓の家に秀頼の鎧、太刀、刀が今でも残り、その他の物は一切無い。
それは、秀頼が亡くなった後、所持の品はことごとく売り払い、それで田畑を買い取り百姓になったためだという。薩摩からは前後手当て等はなかったとのことである。
以上も次郎兵衛が鼎に話したことだという。
これは関東を憚ったためであろう。


 これらを思うと、今の天下の御勢を観ることができよう。
また豊氏の全盛の成果も憐れに思われよう。
(甲子夜話)



662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 13:07:00.87 ID:9kCyK6as
>>660
>薩摩からは前後手当て等はなかったとのことである。
創作なのに妙にリアルだw

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 13:31:15.80 ID:T5Pmts09
護衛や監視役はつかんのか

片桐の忠言はこの時に顕れた

2016年05月26日 15:34

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 22:58:06.80 ID:4/B3iYED
大阪冬の陣の講和に向けた動きが始まる中、大阪城の首脳である織田有楽、大野治長
豊臣秀頼の御前にて、このように講和の受け入れを勧めた。

「両将軍家より、御和睦の事を再三仰せ遣わっています。その上意疎意あるまじと、
神文を進ぜられるとの事です。

この度の合戦においては、日本国中の軍勢が雲霞のごとく集まり昼夜攻め戦いましたが、
我々にはさほどまでの負けもなく、これによって君のご威光は天下に秀で、人々はその武威を
皆恐れるほどです。然れば、また重ねて時節到来の時期が来れば、味方に属するものも多いでしょう。
また大御所も既に七十余歳。御余名も久しくはないでしょう。彼が薨去すれば必ず変があります。
その時は天下の大名2つに分かれ、合戦が起こり我らの存在が大きくなること疑いありません。」

秀頼はこれを聞くと
「お前たちが申すこと、一々道理が有る。だがその内容は結局、この戦が始まる前に片桐且元
私を諌めたものと同じではないか?

であるのに、その諌めを排除して今度の難儀に及び、ようやく今になって片桐の諫言に従うとは、
運の極まりである。
しかし運を天に任せ敵を討ち果たそうと思っても、今は皆和睦を好む。ここに至っては恥を忍んで
降を乞い、士卒の生命を継ぐ事を以って、軍勢の恩賞とするしかない。
早く和睦を調えよ。

片桐の忠言はこの時に顕れた。私は後世から嘲笑をうけ、その恥辱を雪ぐことも出来ない。」

そう、目に涙を浮かべて言った。有楽も治長も顔を赤らめたものの、秀頼が和睦を許諾したことに
喜悦して退出した。

(新東鑑)




651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 00:09:41.77 ID:36WfMBtD
その恥辱を雪ぐことも出来ないって断定しちゃダメでしょう。
家康の寿命尽きたら合戦になるって話てるんだから勝てばいいんだし、
そして結果がわかってる後世に書かれたってわかっちゃうという二重の意味で

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:29:40.29 ID:kWfovEN6


653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:56:11.27 ID:o5U5k782
最初に且元の進言を退けたのに結局はそれに従うことになったからだろ
後に合戦に勝てばよいとかそういうことではない

三女下向

2016年05月24日 10:47

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/23(月) 23:49:54.24 ID:dNUJBjsC
大阪冬の陣の和議が整ったものの、豊臣家においては前年の旱魃によって摂津、河内は
甚だしい不作となり、年貢収入が殆ど無い状態となっていた。
その上、大阪冬の陣のため招聘した諸士頭分の者達、並びに武功有る者達は和議のあとも
そのままに抱え置いたため、物入り多く財政難に陥っていた。

そこで大阪方では摂河泉三ヶ国に加えて加増をしていただきたいと、七手組の青木民部少輔(一重)、
伊藤丹後守(長実)の二人を駿府、江戸へと派遣した。

江戸では将軍秀忠より
「委細は大御所と相談し、宜しきようにお計らいなさるだろう。四月上旬には大御所は
上京されるので、その時にこれを解決されるであろう。両人が大阪に帰ればこの事を秀頼公に
申し上げるように。」

との言葉を頂き、これを受けて駿府の大御所家康も

「将軍がそのように言った以上、この件は事済んだ。早速大阪に帰り、秀頼公を安堵させるように。」
と仰せ下した。

両人は大いに喜び早速駿府を出立、道中を急ぐ所に、遠州浜松の入り口において
大阪より降ってきた三人の女性と行き会った。
大蔵卿局二位局正栄尼である。

彼女たちは、両人より駿府と江戸の様子を問い、彼らの首尾を聞くと安堵し
「我々は駿府に下り淀様の御口上を申し上げます。あなた方は帰路を急ぎ、大阪城に登り、
関東の様子を申し上げるように言った。

この時青木・伊藤の両人は思った

『去年、あの三女が関東に下向して、片桐且元を猜疑し、様々に讒言したことによって
終にはあの大乱が起こったのではないか。
それにも懲りず、またあの三女を下されるとは、是非もないやり方である。
今度もどんな災いを引き起こすか…』

二人はそう畏れ、「駿府に向かわず、あなた方もこれより直に大阪に戻るべきです!」と申したが、
「何故?」と三女は全く合点せず、青木・伊藤も持て余し、

「ならば、駿府においては御機嫌を伺う御口上のみも申し上げ、その他のことは一切秘密にして
話さないでください!何故なら秀頼公のお望みは既に落着いたしたからです!
絶対に他のことは申し上げないように。」

そう固く申し含めると、三女もついには納得して駿府へと下っていった。

本当に、去年の騒動もこの三女の口から起こったのである。なのにまた、今年も下されるというのは
浅智の極みではないか。前車の傾きは後車の戒めという言葉を知らないのだろうか。
二人はそう思うばかりであった。

(慶元記)



豊臣秀頼、幕府との再戦を決意

2015年10月06日 19:28

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/05(月) 20:13:01.50 ID:bsliRp53
大阪冬の陣の和議の後、豊臣家の領地である摂河泉三国では百姓たちが逃げ出したまま戻らず、
大阪城内に集めた数万の軍勢に与えるべき兵糧も欠乏し、どうにも成らない状況であった。
そこで豊臣秀頼は、大蔵卿二位局に青木民部少輔(一重)を添えて関東に遣わした。

彼らは幕府に対し訴えた
『摂河泉三ヶ国の百姓たち、尽く退散し、未だにその家に安堵しません。
そのため牢人たちに与える糧も有りません。よって、関東よりの援助をお願いしたい。』

幕府はこれを聞くと
「先の和睦の後は、諸牢人の扶持を放ち、穏便の体にしてこそ和平入魂の顕れだというのに、
牢人たちに情けを深め、人を集めたままにしているというのは、秀頼公がその野心を
諦めていないこと疑いなしと言わざるをえない。」
そう考え、彼らに一切の返事をしなかった。このため使いの者達は、どうにも出来ないまま
無為に江戸に在府していた。

豊臣秀頼はこの様子を聞くと、
「この上は討ち死にし、名を後代に残すのだ!」
そういって木村長門守、大野主馬、諸牢人の頭などに内々に金銀数百枚づつを与え、
人を募集するように命じた。

しかしこのことを知った大野修理、織田有楽などは
「どう思われているにしても、日本中を敵に受けて叶うわけがありません!先ずは穏便にして、
時節を待つべきです!」
そう度々諫言したが、秀頼は毛頭許容せず、このため大阪は再びもってのほかの騒動と成った。

(豊内記)

豊臣秀頼が、幕府との再戦を決意したお話である。




400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/05(月) 20:32:05.69 ID:X5C2DS6f
そんな金があるなら米買えよ
霞でも食えってか?

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/05(月) 21:23:58.04 ID:tE7tVZPn
この時青木が板倉に拉致られて再び徳川方に仕えたわけか

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/06(火) 00:40:18.96 ID:eXeo6N2+
時節待ってもなぁ

秀吉の愛妾が秀頼という男子を生んだ

2015年10月06日 19:26

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/06(火) 00:47:37.43 ID:0a5oehs5
 賊魁(豊臣秀吉)には子がなかったので、妹の子を自分の養子にした。賊魁が、大閤と自称するに及んで、その養子を関白にし、伊勢・尾張などの州を分って領土としてやった。
 
 壬辰(1592)年の冬になって、秀吉の愛妾が秀頼という男子を生んだ。
〈ある者の言うには、大野修理大夫(治長)なる者が、秀吉の寵を得て、つね日ごろから寝室に出入りし、秀吉の愛妾とひそやかに通じて生んだのだ、と〉

秀頼が生まれてからというもの、関白(豊臣秀次)は、自然と心に疑いや懼れが生じ、暗に叛意を抱いた。石田治部(少輔三成)は、彼に従いながら、これを陥れた。
秀吉は、関白を自決させようとしたが、関白は紀伊州高野山に逃れ、剃髪して僧となった。秀吉は、ただちに、その所在で、またこれに死を賜った。
〈倭の法では、死罪に当る者でも、領土を捨てて僧侶になれば、通例として不問に付すのであるが、秀吉だけは、関白を殺してやっと満足したという。〉

 関白の屋敷も包囲し、その部下を一人残らず殺してしまった。その屋敷は没収して、加賀大納言(前田利長)の与えた。

(看羊録)

秀頼出生にまつわる浮名が朝鮮の捕虜にまで耳にしているということは、当時でも有名なゲスネタだったのかも



404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/06(火) 07:52:40.25 ID:ipxYJqjU
スキャンダルはいつの時代も盛り上がるんだねえ。

織田勘七郎と赤星内膳

2015年05月23日 15:58

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 23:43:07.91 ID:+/6/Q1lC
秀頼公の旗本である織田勘七郎(織田信長の甥・津田信澄の孫であり
明智光秀の孫)と赤星内膳(親武。元・加藤清正十六将の一人)が、
淀殿の侍女たちの東大寺へのお参りに護衛として同行したことがあった。
玉造から十三峠道を通って若江まで至ったところ、そこにたむろしていた
者どもが汚い言葉を発しながら侍女たちにふざけかかった。
勘七郎がこれを制しようとしたが、無道者(無法者)たちは言うことを聞かない。
おもむろに内膳が進み出て大喝すると、無道者の頭をいきなり槍で突き殺した。
驚いた無道者たちは逃げ散ったが、内膳は逃げようとした小者の一人の
足を突き、これを捕まえた。
そして、その素性を問いただしたところ、内膳が殺した男は土井大炊(利勝)の
家中で、主命で浮浪(牢人)を装って大坂の様子を探りに来た者であることが
わかった。
これを聞いた内膳は、「関東は秀頼公を滅ぼしに来るつもりだろう」と嘆息し、
勘七郎は「その時には必ず功をたててみせる」と憤った。
この次の年、大坂の陣が起き、関東からの軍勢が十三峠道を通って
攻め寄せた。
内膳も勘七郎も秀頼公のために戦い、命を落としたということである。
                                  十三街道記



豊臣秀頼、出馬の事

2015年04月08日 18:44

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/07(火) 21:50:14.35 ID:dL07ArE8
慶長二十年五月七日、この日は大阪夏の陣における最期の戦闘となった天王寺・岡山合戦があったが、
豊臣秀頼は天王寺に出陣し、一戦を為して討ち死にすべしと言い、桜の門より出た。

ここに大野修理(治長)が御前に参り
「御出馬の事、先ずは前線にいる真田(信繁)と確認を取るべきでしょう。私が先に行って、
彼と会ってまいります。」
これに秀頼も「ならば遺書いで状況を聞いてこい。」と仰せになり、床机に座って桜の門に待ち居た。

大野が左衛門佐(真田信繁)の元に行くと、左衛門佐はこう言った
「現在、敵と5,6町(およそ5,600メートル)を隔てています。今、船場に備えている
明石掃部(全登)の人数を、幟をしぼって、この西の崖の影を密かに廻って、茶臼山より一町ばかり
先に張り出します。その合図を定めて、この陣より合戦を始める、明石の軍勢が横合いから掛かれば、
十に一つは利を得ることが出来るでしょう。
秀頼公の御出馬、一刻もお急ぎあるべし。」

これを聞き、大野は逸物の馬に乗って数十人を引き連れて駆け帰ったが、前日の合戦で生き残った
大阪方の軍兵たちは、これを見て敗軍したのだと思ってしまい、備も大いに乱れた。

大野は御前に戻ると、左衛門佐の指図の趣を申し上げた。その時、左衛門佐と一緒に居たはずの、
真田の子息である大助が御前に参った。そしてしばらくして「御味方、敗軍いたしました!」との報告が来た。

秀頼はこれを聞いても「出馬するぞ!」と言ったが、速見甲斐守(守久)御前に出て、
「御方敗軍と見えます。今、御出馬されたとしても大軍が崩れ掛かり、大敵を受けて何も出来ません。
御馬を戻し、御本丸だけを固く守り、時至らばお腹を召されるべきです。」
そう申し上げたところ、「その儀尤もである」と同意し、千畳敷へと入っていった。

しかし大阪城内は、このような状況であったので、軍兵多しといえども、皆気色を変え、心々に
落ちていった。秀頼はそのような光景を見ながら、奥の御所に入った。
しかし、かつて名高かった千畳敷も荒れ果てていた。その姿は、ここが完全に消滅した跡も想像させ、
なおいっそう哀れであった。

(豊内記)

豊臣秀頼が、出馬を断念した場面についての記事である。




雑談・大阪の陣の豊臣秀頼について

2015年03月05日 18:35

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 09:06:29.45 ID:59L9f9Rt
信長に気に入られる為、創意工夫で仕事に励んだり時にはゴマをすったり
派閥争いに勝ち抜くため、ライバルを貶めたり仲良くしたり
部下を統制する為、ひとたらしとして褒美を与えたり、ラスボスとして恐怖で支配したり

何不自由なく育った秀頼に出来る訳無いだろうが

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 18:28:11.05 ID:M6wVdTWP
>>488
自分で苦労して築いたものじゃないから、
是が非でも守ろうって気にもならなかったんだろうな

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 03:55:47.78 ID:CDlr8/Rz
>>495
いや、「名」を守ろうとしてるだろ。
当時の武士としちゃあ平均的な考えだ。

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 08:25:55.08 ID:48bwMSsm
武家でもなかったラスボスの落とし子が名とな(笑)

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 09:51:48.29 ID:OzdzEf1W
>>503
そういう場合は尚更じゃないのかな
足軽階層の出身でありながら天下人の父と覇者の姪の母
当然ながら帝王学も教育されてるわけでしょ?

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 03:49:44.76 ID:GWekeBUv
>>501>>505
机上の空論になってたんじゃないのかね。
名を残そうとした割には、武家としてクソみっともない最期を選んだよな。

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 19:11:03.19 ID:0XDZwj8l
>>511
武家としてみっともない最期というのは、戦わずして降伏したとか、敵前逃亡したとか、
約束なしに土壇場で寝返って寝返りを受け入れられず斬られたとか、そういうのを言うんだよ。具体的な例で言えばな。
落城して自害するのは武家として何ら恥じる最期ではない。

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 19:30:33.71 ID:hlFtmwOQ
いや、負けまくっても生き残れば勝ちだろう。天庵さまを讃えよw

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 19:48:18.49 ID:VBTUscm7
醜い奴が生き残っても何の価値もないけどな 本人以外は

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 21:38:42.25 ID:Uq3ysvBY
武威を見せつけた後は潔く降伏して家門を後生に残す、一般の武家だったらこれで面目は立つが
豊家だとそうもいかないかもね

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 21:50:19.93 ID:xuqqVNw0
どうせ暴れるなら、関が原の後に豊家単独で徹底抗戦しておけば良かったんだよ。
秀頼が幼すぎるのが辛いが

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 22:30:24.86 ID:FqBxDv60
そういえば今年は大坂夏の陣後ちょうど400年だな。

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 23:10:08.97 ID:Uq3ysvBY
平安遷都1200年のときに合わせて京都へ遊びに行ったのを急に思い出した、何もかもが懐かしい

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 01:26:40.69 ID:n2yDtp3b
>>517
後北条はその「武威を見せてから降伏」をやろうとしたけど彼我の戦力差があり過ぎてそのまま滅びた…
そんな後北条を下した豊臣が同じ負けパターンにはまるとは何とも皮肉だ

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 02:12:05.57 ID:kUSoEhf+
家、領地、名
武士が守るべきものといえばこの3つだが、うまくいっている時は3つとも順調に増えていくからいいが
ピンチになった時にどれを優先するかでその人の個性が出るな

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 09:28:20.19 ID:TXtmmAQq
>>521
大坂城と小田原城が鉄壁過ぎて、この城があればなんとかなるって
判断を誤らせてる。

城を守るのは所詮、人なんだから落ちない城は無いのに

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 12:06:51.55 ID:KJsq2Akq
そりゃ軍神や信玄も落とせない小田原城ならだれが来てもおとせないお!と思うのは仕方ない

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 15:54:22.40 ID:WGljER3w
小田原城は軍神、信玄の攻撃受けた時よりも数倍レベルアップしてた

ラスボスも小田原城に触発されて、上方に帰還してから京都に御土居
大坂城に障子堀を構築したりしてる

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 19:51:39.12 ID:iXDrqSY4
>>528
殿といっしょの氏康が真っ先に頭に浮かんだ

常高院よ、二度と私の前に出てくるな

2015年03月04日 18:43

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 00:14:37.29 ID:PEzwStB5
慶長20年(1615)、豊臣秀頼が誓紙を違え和睦を破り、再び諸牢人を募集し、これにより
京大阪に大きな騒動が起こっていることが関東に聞こえると、大御所徳川家康は、4月4日に
駿府を立ち、同18日、京に到着した。大樹徳川秀忠は4月10日に江戸城を出て、同21日に
伏見城に入った。これにより、貴賎南往北来の混乱をしていた洛中も落ち着きを取り戻した。

前の冬の陣に従軍した軍勢はようやく本国に帰り、未だ弓も弓袋に入れていない有り様であったが、
再び両御所により上洛するよう命が下ると、日本の諸大名は、今度こそ軍功をなして
天下の誉れを得ようと、夜を日に継いで駆け上がった。よって五畿内の内は、野にも山にも諸軍勢が
満ち満ちて、未だ秋ならぬ都の景色も、色めいて紅葉を吹き散らしたようであった。

両御所は京に到着すると常高院(淀殿妹・初)を召して言った
「我々は秀頼公の御為を浅からず思い、この和睦を整え誓紙を取り交わしたというのに、
再びこのような事を思い立つとはどういう事だろうか。
しかし、この上でも大阪の城を明け渡しさえすれば、代わりにどこの国でも望みに任せて
参らせるであろう。このことを、伝えて頂きたい。」

常高院は大阪城に入り、秀頼達にこのことを伝えると、秀頼母北方(淀殿)、大野修理亮(長治)らは
その提案に同意し
「どう考えても叶わないのですから、虚しく朽ち果てるよりも、身を全うして時節を待たれるべきです。」
そう主張したが、秀頼はこれに、以ての外に怒りだした。

「時節を待てと!?今の世の人心を知りながら、そのように計らうというのは、臆病心のする業である!
そもそも弓矢の事に女が口を出すなど、ろくな事に成らない!(弓矢ノ事ニ女ノ指出、墓々布事侍ラス。)
常高院よ、二度と私の前に出てくるな。どうしてもというなら、この扱いの事は、私の髑髏に逢って伝えよ!」

そう言い放つと障子を乱暴に開け、奥の御所へと入っていった。

(豊内記)




507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 01:00:59.56 ID:c5d7+/tD
こういう逸話見ると父親の栄光を吹き込みすぎたのかなって気もしてくる。
こういうのは強気で押せば良いってもんでもなかろうよ。

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 01:49:12.23 ID:aGWGO8D+
人の上に立つ人物が滅びの美学みたいなものに突っ走るとそれに同調してない配下は悲惨だね。
三成との友情美談みたいになってる大谷吉継の話なんかも。
やはりそういうこともあり得ると覚悟の上で奉公はするものなのだろうけど、そうはいっても配下下々の者にも家庭や生活があると思うと
なんとも悲しい。

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 08:27:03.30 ID:CN2rvlca
大坂方に残った将兵が戦うことで固まってしまったんだから
大将の秀頼が彼らを捨てて逃げることはできないわな。
それこそ末代までの恥さらし、偉大な秀吉への最大の裏切りだわな。

大阪は再び、以ての外の騒動と成った

2015年03月02日 18:27

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 06:59:21.49 ID:qv6GP8+Z
大阪冬の陣が講和し、慶長20年(1615)正月3日、大御所徳川家康は京を立って駿府に帰り、
同25日には大樹秀忠が伏見を立ち武州江戸城へと帰っていった。

大阪は石垣が破られ平坦となり、鹿の伏せる野原となれば、名にしおう梅の香りもなく、
何もかも昔とは様変わりして、正月三日の若菜の祝言も、形ばかりに行われた。
豊臣家の領地の百姓は未だ耕地に戻らず、大阪城に集まった数万の軍勢に与えるべき兵糧も
絶えてしまい、どうにもやりようがなかった。

そこで大阪では、大蔵卿二位局に青木民部少輔を付け、関東に遣わし援助を願い出た。その内容は
『去年の大乱、および洪水によって、摂河泉三ヶ国の百姓たちは尽く退散してしまい、未だその家に
帰住しません。そのため軍勢に与えるべき糧もありません。従って援助をお願いしたい。』

関東ではこれを聞くと
「先の和睦の後は、諸牢人の扶持を放ち、穏便の体にしてこそ、それが入魂した現れとなるのに、
逆に諸牢人への情けを深め、人を集めたままにしているのは、秀頼公の野心が未だ止まっていない事
疑いなしと言わざるをえないではないか。」
そう答え、さらなる返事もなく、使いの人々はそのまま何も出来ず江戸に在府していた。

豊臣秀頼はこの有り様を聞くと、
「この上は討ち死にし、名を後代の残そう!」
そう言って、木村長門守、大野主馬助といった諸牢人の頭などには、内々に金銀百枚ずつ下し、
人を募集するようにと伝えた。

大野治長、織田有楽らはこの事を知ると大いに驚き
「どのように思し召しになろうと、日本全体を敵に受けられてその思いが叶うことはありません!
今は先ず穏便に済ませて、時節をお待ちになるべきです!」
そう度々諌言したが、秀頼は毛頭これを受け入れず、これによって大阪は再び、以ての外の騒動と
成ったのである。

(豊内記)

豊臣方の記録と考えられている豊内記でも、やはり「主戦派」は秀頼自身だという認識があったのですね。



487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 08:31:05.23 ID:XtnwO/c2
父親の才覚をすがすがしいほど受け継いでないなあ

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 09:06:29.45 ID:59L9f9Rt
信長に気に入られる為、創意工夫で仕事に励んだり時にはゴマをすったり
派閥争いに勝ち抜くため、ライバルを貶めたり仲良くしたり
部下を統制する為、ひとたらしとして褒美を与えたり、ラスボスとして恐怖で支配したり

何不自由なく育った秀頼に出来る訳無いだろうが

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 12:33:51.95 ID:E7i5jg5g
真の権力者淀君と闘っている

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 18:28:11.05 ID:M6wVdTWP
>>488
自分で苦労して築いたものじゃないから、
是が非でも守ろうって気にもならなかったんだろうな

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 03:55:47.78 ID:CDlr8/Rz
>>495
いや、「名」を守ろうとしてるだろ。
当時の武士としちゃあ平均的な考えだ。

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 07:35:43.24 ID:LlKegIdi
武家にとって「面目」ほど大事なものはないからな

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 08:25:55.08 ID:48bwMSsm
武家でもなかったラスボスの落とし子が名とな(笑)

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 09:02:17.23 ID:5oOzv4vq
秀吉なんて小牧長久手の講和の時は、信雄には土下座をし家康には妹と実母を人質に出すなど面目も何もあったもんじゃないが、
ある意味だからこそ、あの強烈な独裁権力樹立してるわけだしなあ。

メンツを大切にするのは武士にとって必要なのだろうけど、それは君主の素質ではないわな。

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 09:51:48.29 ID:OzdzEf1W
>>503
そういう場合は尚更じゃないのかな
足軽階層の出身でありながら天下人の父と覇者の姪の母
当然ながら帝王学も教育されてるわけでしょ?

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 03:49:44.76 ID:GWekeBUv
>>501>>505
机上の空論になってたんじゃないのかね。
名を残そうとした割には、武家としてクソみっともない最期を選んだよな。

慶長20年の軍評定

2014年12月26日 18:37

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 05:48:19.24 ID:JvE4goeo
慶長20年(1615)、関東と大阪の再合戦が起ころうとする時、豊臣秀頼は諸将を集めて軍事評議を開き、
「各所いかにせん」と諮問した。この時、長宗我部盛親が「真田殿、まず所存を申されよ」と
発言を促した。しかし真田幸村は「いや、長宗我部殿から先に語られよ」と遠慮し、互いに譲りあったが、
諸将も幸村に進めた。このため幸村

「そういう事ならば所存を申し上げます、去る冬の合戦では、城郭も固く兵糧も多くありましたので、
日数を経る内に、西国衆の中に必ずお見方に回るものも現れようと量っていたのですが、存外に速く
御和睦になり、かつ堀も埋め立てられましたので、今は籠城すべみ手立てはありません。ただ打ち出て
戦うより他ありません。

然れば、君(秀頼)の御出馬がなくては叶いません。
それには先ず、宇治瀬田の橋を落としこれを要害として固く守り、その上で、合戦の様子によって
また手立てを考えます。そうして、御運所は天に任せ、ともかくも御上洛あって、一度は天下の主と
なられ洛中の御政治を行わば、末代までの名聞、これに過ぎたるものありません。」

これに盛親はじめ後藤、木村、速水その他の諸将も一同に「然るべし」と同意したが、大野修理(治長)一人
「秀頼公の御出馬あること然るべからず」と幸村の提案に同意しなかった。
このため諸将は心中に疑いを生じ「修理の母は現在関東に人質に出ているので、修理の心中は図り難い。」と
評議もまとまらず、決定のないまま終わった。
真田幸村は後で嘆息し言った。
「修理は秀頼公を大事に思い、出馬あることを危ぶんで同意しなかったのであろうが、結局は
軍事に疎いゆえそうしたのだ。是非に及ばぬ。」

その後修理の母は関東より帰り、引き続き関東の大軍が伏見の到着したと聞こえ、秀頼はまた諸将を集め
評議に及んだ。盛親はまた、幸村に発言を譲った。幸村は語る
「大御所は昨日伏見に着陣し、軍兵の疲れも休めず茶臼山に陣を移したそうです。
伏見から13里の行程ですから、軍兵もいささか疲労することでしょうから、明夜は関東勢、たとえ甲冑を
脱がないとしても必ず熟睡に及びます。ここに夜討を成功させる条件は整っています。
私が夜討をして、勝負を決します。」

ここで後藤基次が進み出て発言した
「真田殿のご意見は、私の考えていたことと全く同じです。明夜必ず討たねばなりません。
さりながら、真田殿が行って向こうで万一のことが有れば。当城に軍師がいなくなってしまいます。
軍師がなければ合戦が出来ません。されば、真田殿は城に残られよ。私が貴殿に変わり馳せ向かって
勝負を決します。」

しかし幸村は「いや、私が馳せ向かって大御所を打ち取る!」と言い、基次も「後の合戦が大事であるから、
幸村殿は無事に当城に置かれるべきである!」と譲らず、ついに口論となり夜討することなく終わった。

この両人は、本来私の口論で合戦の大事を取り外すような人物ではないのであるが、どういう訳かこの時は
夜討を諦めたのである。これも関東の御運が高かった故であろう。

(明良洪範)



91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 06:52:39.35 ID:E/BfeLMc
大坂方の勝利を信じて戦った牢人って、どれくらい居たんだろうな

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 07:06:04.83 ID:yBRc+hLT
流石に夏の陣ではいないだろうなぁ

93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 07:41:47.96 ID:kbf2BkNS
秀頼はもうすでに死んでいてあれは影武者だったんだよね
外に出せば露見するんで出せなかったわけさ

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 08:17:14.34 ID:ovKzWd01
有名な話だけど改めて読むとなるほどって思うな。冬の陣が残念なのはわかった。

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 20:04:51.69 ID:1FGcX7IZ
温存しすぎて戦力を活かせないパターンか

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 23:14:56.05 ID:UBPhGHt0
FFでエリクサー勿体無くて使えない症候群の人は大坂方を責められんな

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/26(金) 23:26:41.89 ID:31wocBR8
大坂方は補充が効かないからなあ
「なくなるかも」でずっと身動き取れない

故太閤恩顧の血誓

2014年07月16日 18:53

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/16(水) 00:51:38.38 ID:i5spjsh6
慶長8年7月、豊臣秀頼と、徳川秀忠の娘・千姫との婚儀が行われた。
この頃大阪では、

「今度姫君のお輿入れがあり、ますます将軍家より秀頼公を輔導せられ、後見するという言葉も聞こえ、
四海いよいよ静謐となった。

しかし将軍家の威徳は年を追って盛大となり、事に将軍の重職を宣下された後は、諸国の要地は
尽く一門譜代の人々を封ぜられ、天下の諸大名は皆妻子を江戸に出しおいて、自身も年々参勤する。
これらを考えるに天下は終に、徳川家の天下となってしまった。

さりながら我々は故太閤に数年来恩顧を頂き愛育され、身をも家をも興した大小名である。
もしその深恩を忘却し、豊臣家に対して二心を抱けば、天地神明の冥罰を被る事をどうして免れるだろうか。」

そう会議して、故太閤恩顧の大小名を城中に会集し、今より後、秀頼光に対し二心抱くべからざる旨の
盟約書を捧げ、血誓した。
この事は福島正則が中心と成って申し行った事であると言う。

しかしこれは後年に成って、豊臣家滅亡の兆しであったと言われた。

(徳川実記:東照宮御實紀)




684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/16(水) 10:14:30.56 ID:4hbc6oyL
関ヶ原で家康につかなければなあ

687 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/16(水) 13:00:06.42 ID:QbjABYPw
大坂城が悪い。あんな強固な城じゃなかったらああにはならん。なまじ固い城はかえって悪いことにつながるとマキャベリ先生もいっておるな

688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/17(木) 10:09:25.25 ID:6w0AAzuP
>>687
出れば豊臣は滅びずにすんだ、という指摘は正しいと思うんだが、出ることは
滅びるのと同じ、というのが当の本人たちの実感だったんだろうなとも思う。

財力と武力で天下をとった人間のすべてが詰まっていたイメージ。

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/17(木) 14:03:15.51 ID:JqQbOXm0
旗印になる血統が悪いだけ
子供だからって許してたら平氏の二の舞

690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/17(木) 22:05:40.48 ID:x4tNtAoU
そう考えると頼朝がのちの武士に与えた影響は強烈だなw

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/17(木) 22:26:26.52 ID:n9WuWZaG
うつけの振りを演じてた直家や信長はしたたか

運命は既に極まりました

2014年07月12日 19:30

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 00:59:22.10 ID:pX+pr7dS
大阪夏の陣。
真田信繁、後藤又兵衛といった諸牢人も討ち死にし、大阪城もいよいよ落城間近となった。
豊臣秀頼は家臣の今木源右衛門に命じ、切腹の準備をさせた。
そして母公(淀殿)の前に立ち寄り
「御一緒に、自害のため殿主に上がりましょう」
そう進めて立ち上がり、殿主へ向かおうと立ち上がった所、淀殿は秀頼の袖にすがって言った

「今少し、心を落ち着けて聞きなさい。源氏の頼朝は朽木の中に隠れ、死ぬべき場所で死なず、
終に本意を遂げた例もある。なのにどうしてそんなに慌ただしく、腹を召そうと急がれるのですか?」

秀頼はこれを聞いて
「母上の仰ることは確かにその通りですが、私達の運命は既に極まりました。
命を永らえて我が世の衰えを見るよりは、私と同じ道に急ぎ、後世を楽しまれるべきです。
百年の栄華も、一睡の夢と成り果てるのが習いなのですから。」

そういって強く淀殿を振り払い、殿主へと上がっていった。
淀殿はこれを見て、たいへんに嘆き悲しんだ。
その時までは、秀頼母子には未だ男女600人も付き従っていたのだが、この有り様を見て、
皆散り散りに逃げ落ちた。

(秀頼事記)

秀頼の切腹直前の模様である。




659 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 01:17:25.45 ID:d0AYzX50
>>616
と同様、淀君は頼朝が朽木に隠れたことを言ってるな
しかし頼朝の頃から朽木谷は貴人の逃げ場所と考えられていたのか、とかいってみる

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 01:54:42.77 ID:w2TVAIiF
蔵で死んだのに殿主とな?まぁそういうことにしておこう。

661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 02:16:07.72 ID:4sWUb9Mh
>>659
いや、そうではなく、朽木隠れの故事にかこつけて貴人が隠匿や見逃しを強要したのだろう
教養(強要)のある奴だけがなせる荒業

662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 05:52:23.60 ID:5/eyLpzS
この場合は、まんま木の中に隠れたってことでいいんだよね

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 07:05:32.12 ID:SLtoAYvJ
石橋山合戦に敗れた頼朝が隠れたのは洞窟だけど
室町将軍の避難所朽木谷とごっちゃにしてる

作者の故意か勘違いかは分からん

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 08:15:50.18 ID:C+DddIdY
>>658
この一連の秀頼の言動みると、秀頼に本当に必要だったのは三河者ばりに
空気を読まない行動型の諫言役だったんじゃなかろかと思う。

天下人として死のうとする覚悟より、あるべきと教えられた天下人のイメージに
取り憑かれて破滅していくような危うさみたいなのが先に来る。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 08:25:10.57 ID:5/eyLpzS
ああ、頼朝は洞窟だったか
誰か木の洞に隠れた人おらんかったっけ?
ひょっとして小説だったかな?

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 09:04:24.08 ID:3LdqUCo0
かぐや姫

667 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 09:10:53.84 ID:HhKNA22e
親父のラスボスにそんな空気の読めない諫言したらどうなるかと考えるとねえ

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 09:13:21.81 ID:fkiG8AFP
諫言ができるような器量のある人達が早死するか、さっさと隠居しちゃうかだからね。
唯一、まともに物が言えたのが家康って時点でもうダメだろ。

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 10:04:17.13 ID:CJdbr5cr
>>665
ググったら源平盛衰記に朽木隠れとあるね
成立時期が鎌倉後期だし広く読まれていたんじゃないのか

670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/12(土) 10:14:57.17 ID:Peaeee37
自分で天下を獲りに行くっていう立場じゃなかったから、生に対する執着が違ったんだろう。
生きて大望を成すってことを考えていない。
信忠さんも同じ感じ。

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/14(月) 00:33:58.06 ID:+jq56KlR
>>658

ttp://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3704.html

の話を思い出すな。
浅井家が滅んだ後も生き残り、太閤御台にまでなった、生命があればなんとかなるという「一代目気質」の淀と、
親の名を汚すことを恐れる「二代目」の秀頼

後代に面目を失った事二つ

2014年07月07日 19:02

633 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 23:38:27.43 ID:cjYjj7kw
大阪冬の陣の講和のあと、豊臣秀頼は諸牢人に対し金銀百枚を配った。
この事を知った大野修理は3月3日、秀頼の御前に出てこのように諫言した

「秀頼様のこの頃のなさり様はどうしても心得がたいものばかりです。
去年の和睦のさい、大御所より仰せられたのは、牢人衆の頭たちだけはお抱えになり、
その下の者達は尽く召し放ち、兵糧の続くようにせよ、との事でした。これに関しては
今まで度々申し上げてきたのに、ご許容なさいませんでした。あまつさえこの頃は若き者共に
金銀百枚づつ与え、それで人を抱えるようにと言われているそうではありませんか。
これは一体何を意図されているのでしょうか!?

ご存知のように、籠城している間から諸大名の心を色々と引いてみましたが、同心するものは
居りませんでした。ことさら今日に至っては堀を埋め石垣を崩した以上、天下の塀を引き受け
合戦を行うなど、考えもできない状況です。

只今はとにかく御身を全うして、時節をお待ちに成るべきです!」

秀頼はこれを聞いて
「お前の指図により、私が後代に面目を失った事が二つある。

籠城の時私は、諸陣を廻って軍勢の労を慰めたいと度々言ったのに、古老の者共と申し合わせて
これを留めた。

また今回の和睦についても、私は同意していなかったのに、古参新参の者たちが揃って私を諌めた。
これもまたお前の心より出たものである。

諸大名の心を引くなどというのは、それ以前の話である。こうなった後、誰が私に与しようと
考えるものがあるだろうか。

現在の状況に至らしめた事を、勧めたのも汝であり、留めたのも汝である。
そして今その責めは私一人に帰して、逃れる所は無い。
もはや屍を軍門に晒し、名を後代に上げるより他はない。」

そのように答えたのである。

(秀頼事記)




634 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 00:00:52.99 ID:JBdcBEB8
秀頼公は大柄ポッチャリで母方祖父の浅井長政に似てるけど
一人っ子で大事に育てられてるのが残念

635 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 06:52:42.87 ID:R4ebbHnZ
>>633
さんざん相手の行状並べ立たてた上で「すべて俺の責任だ」で締めめるって、
なんかこうイラッとくるものがあるなw

636 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 07:51:09.41 ID:xRrlgk3Q
質問に答えられないから逆ギレしてるだけにしか見えん

637 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 08:25:45.28 ID:c1SHK/0x
お前の言うこと聞いてたらどうにもならなくなっちまったじゃないか
て、あほ抜かしてるだけなのがなあ

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 08:28:51.84 ID:KLB8Vucs
でも大野に言われたら、お前が言うな!と腹立つのもわからんでも無い。

639 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 08:48:00.22 ID:Zucshz/v
やれる土地もないのにどうしろと
無報酬というわけにもいかないだろう

640 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 09:26:18.22 ID:2+zIaawC
外様に対する嫉妬でしかない

641 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 18:33:17.48 ID:P0qED9OS
冬の陣の結果、講和を遵守して豊臣の生き残りを図る治長と、
すでに覚悟を決めちゃって戦力保持を図る秀頼ちゅうとこやね

642 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 19:23:49.18 ID:scKGX57h
大御所って家康か?
なんで家康が秀頼に「兵糧が続くようにせよ」なんて言うんだ???

643 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/07(月) 19:28:51.52 ID:GqZ2slP2
もう講和してるのに浪人衆抱えこんでたら台所事情苦しいままになるから、召し放たないと食料持ちませんよ
っていう気遣い&それに見せかけた戦力削り?

豊臣秀頼、冬の陣の和睦について

2014年07月05日 18:54

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 14:50:12.30 ID:tSQ34vPY
大阪冬の陣の講和の後のこと。

その頃、才覚に優れ、軍法を弁え、また文学にも造詣が深く世の理もよく知ると言われる、
宗夢という老人があった。彼は近江の住人で、俗名を高木仁右衛門といった。

彼のことを豊臣秀頼は耳にし、密かに御前に召した。そしてこのように言った

「私は若年の頃父に生き別れて以降、年月を積んで23歳となった。
花に遭っては暮れゆく春の名残を惜しみ、秋を迎えては更けゆく月に思いを寄せ、
徒に心のみを動かし、武士の家に生まれてその業を学ばず、合戦というものに至っては
耳に聞いたことがあっても、目で見たことはなかった。

しかし、去年の9月18日、片桐且元が関東より帰ってきて申すには、今度大仏供養についての
問題はもはどうしようもない。将軍と私との末代までの入魂の証として、三ヶ条を受け入れるよう
諌めた。しかしその内容はいずれも、叶い難きことであった。

この上は亡父の遺言に任せて、この城を墓所と定め籠城の策を廻らせていた所、
思いもかけず、外より牢人衆が軍兵として馳せ集まり、雪夜に寒さを厭わず武功を励まし、
日本中の軍勢を敵に受けて一度も味方の利を失わなかった。
これは私の力ではない、諸軍勢の勇功である。

そうであるのに、私にはその恩に報いるべき便りはなく、あまつさえ和睦の後、
新参の軍兵は扶持を放つべきであると、周りはしきりと言ってくる。

この和睦のことは元より私の好む所ではなかった。しかし新参の諸人には別儀あるまじという
約束を固めて和平をしたのだ。そうであるが今、豊臣家には諸牢人に割くべき兵糧はない。

尊い身分に生まれたのも、卑しい身分に生まれたのも、それはたまたまその身が授かり受けた
事にすぎない。人として違いなどあるだろうか?
恩を受けて恩を知らないのは禽獣に劣れる。人としてどうして、禽獣と同じで良いだろうか?

こうなった上は再び合戦に及び、骸を山野にさらして、諸軍禅の恩を報ずべきと思っている。
汝が存ずるところの合戦の手立てが有れば、残らず語って聞かせよ。」

と、聞いた。
これについて宗夢は、大将にとって智信仁勇厳の大切さを語り、秀頼と終夜語り合った。
(秀頼事記)

豊臣秀頼の、冬の陣の和睦についての思いを綴った一説である。




629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 15:43:32.15 ID:kMUrFP58
理想の名君過ぎるだろ
そりゃ命狙われるわwww

普通なら鼻毛伸ばしてバカ殿演じて、家康死ぬまで雌伏するだろ

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 01:22:21.45 ID:1ea63mQ/
いい人として振る舞うのは必要だが本当にいい人じゃダメ

秀頼の、和議受け入れまで

2014年07月04日 18:52

616 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 09:33:02.32 ID:E2O7/VxD
大阪冬の陣
幕府軍による備前島からの大筒による攻撃で、大阪城内の櫓が破壊されると、豊臣首脳陣は
これ以上の抗戦は不可能と見て、旗本である七手組の頭たち、そして織田有楽は揃って幕府との
和議を受け入れるよう豊臣秀頼に迫ったが、秀頼は

「この籠城を決断した初めから、私は自分の運を開くつもりはない。父の遺言に任せ、この城を
墓所だと思っている。それなのに何故お前たちは和議を受け入れよと申すのか?」

これには皆言葉なく立ち下がり「秀頼公は、古参の者達の申し分は聞き入れてくれない。この上は
新参の者達の考えを申し上げ、その上で諫めるのだ。」そういって長宗我部、真田、後藤、明石を始めとした
浪人衆に、「この事をどう思うか」と尋ねたが、その評議はそれぞれにまちまちな意見であった。

ここで後藤又兵衛はこういった
「諸大名に内通しているものがあると言われますが、一人も御味方に参るものは居ません。
弾薬も兵糧も限りあるものです。一体、何を頼りにこの和議を受け入れないと仰っているのでしょうか?」

次に真田左衛門佐(信繁)は言った
「籠城というものは、諸人心を一つにしてすら覚束ないものです。であるというのに、この頃の
南面の持ち口の状況を注意して見れば、運生寺(織田頼長)の持ち口では、鉄砲を撃つことを固く
禁止している。先日など誤って発泡したものを斬首し、その頸を晒しさえした。そんな状況であるから
敵は早堀の際まで仕寄せてきている。

また目立つ白い吹貫を、3度まで色々に染め替えるという不審な行動もしている。

そのうえ先日4日には、敵が柵にまで手をかけ、我々はその防御のため、童女に至るまで石を運ぶほどの
危機に陥り、諸人は息を呑んでいたのに、かの織田頼長殿はその前夜から「風邪を引いて咳が止まらない」と
家に入り、傾城(遊女)に身体を揉ませ深夜まで遊んで居られたと、そんな話も承っている。
彼といい此れと言い、疑念が晴れることはない。

この織田頼長殿は有楽斎殿の嫡子であり、秀吉公の御一門、南面の総大将です。そのような人物が
斯くの如くの有り様では、どうしてこの籠城が叶うでしょうか?
相手が和議を言ってきたのを機会として、時節をお待ちに成るべきです。」
そのように申し上げた。

この意見に他の浪人衆も同意した。
織田有楽、大野修理はもとより和議への賛成派であったので、古参新参の者達の意見を合わせて、
先ず、母の北方(淀殿)にこう申し上げた
「形のごとく計略をめぐらし諸大名の心を引いてみたというのに、一人も味方に参るものが居りません。
あまつさえ我等に野心を抱くものも、未だ城中にいると承っている。その上兵糧弾薬も徐々に
尽きてきています。

敵の家康は名将であり、日本中の軍勢をもってこの一つの城を攻めているのですから、味方につこうと
思うものが居ないのも当然なのです。今は、ただ一筋に、秀頼公が御母もろともにお腹を召されて
諸軍勢をお助けになられるか、この和議を許諾して、時節をお待ちに成るか、二つに一つです。」

母の北方はこれを聞いて「源頼朝は朽木の中に隠れて本意を遂げ、越王は心を秘して会稽の恥を雪ぐと申す。
命を捨てるばかりを勇者と申すべきではない。秀頼のためであれば人質となっても関東へ下り、
いかなる目にあっても露ばかりも厭う心はない。古参新参の人々を語らい、秀頼を諌め申すように。」

そして有楽を中心に、秀頼を様々に説得し、秀頼も終に
「私は未だ若年であり、弓矢の道もよく理解していない。おのおの一同がそのように申す上は力及ばぬ。
宜しく計るように。」

と、終に和議の受け入れを許諾したのである。
(秀頼事記)

秀頼の、和議受け入れまでの経緯である。



620 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 19:13:05.96 ID:hb+FdUE6
これが本当だとすると秀頼は戦略眼はないにしても
気概だけはあったということか
しかし裏切り者はおいといて、淀君、豊臣首脳陣、浪人勢、秀頼
特に貶めてないのがなんかいい

621 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 19:21:45.64 ID:8LDaSUCl
左門「はいはい、ワシのせいワシのせい」

622 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/04(金) 23:49:19.92 ID:jTl8WvhA
>>620

最近の説では、淀君自身は人質として江戸に行ことを承諾していたが、
秀頼が母親を人質にすることは受け入れられない
と強硬に反対していたという見方が有力らしいからねえ

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 02:35:04.60 ID:9R7ZIt2m
秀頼は交戦、淀は講和と、いままでとは真逆になってきてるし

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 03:51:46.28 ID:+DRSuoeO
夏の陣の方はどうなんだ?

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 11:24:12.90 ID:l4p3lJTi
淀殿は最初から講和派だったのか
それとも大砲にびびって鞍替えしたのかどっちだろ

626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/05(土) 11:51:39.42 ID:Ht6XSUXc
冬の陣前→開戦派
冬の陣中後→講和派
夏の陣前→フェードアウト

お袋様専制と言われるくらい権力をもって居たから
戦前より講和派なら戦になってない可能性が高いくらいの話
いざ始まったら味方する大名ゼロで講和派転向
夏の陣前は秀頼が発言するようになり代弁者でしかない淀君はフェードアウト
真偽はともかく淀君関係を拾っていくとこんな感じ

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/07/06(日) 16:42:43.34 ID:0z3bdRYv
>>625

それ以前に、関ヶ原の時点で

通説

淀君 > 西軍
ねね > 東軍

だったのが、

淀君 > 東軍
ねね > 西軍(というか、宇喜多+石田派)

というのが有力になってる
その結果、淀君がお江の事もあって、家康や秀忠に託していたのが切り捨てられたという見方が強い

首帖の故実

2014年04月22日 18:48

838 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/22(火) 01:14:47.62 ID:IZdYzDZT
大坂の役の時、木村重成の兵士松浦弥右衛門と堀田図書勝嘉の従士浅部清兵衛
共に敵を斬って首を得た。

豊臣秀頼の右筆である白井甚右衛門はその日、首帖(首帳)の役だった。
松浦は早く首を持って来て白井に一番と書かせた。ところが、白井は
「首一つ松浦弥右衛門」と書いて一番とは書かなかった。

松浦は怒ったが白井は聞き入れない。そこに今度は浅部が首を持って来た。
白井がこれを正したところ、浅部は松浦よりも先に首を取ったけれど、
その場所が遠かったので遅参したということがわかった。

その証拠は明らかだったので白井は浅部を一番と書いて松浦を二番と書き、
松浦に向かって「ニの首を待って一の首を記すことは首帖の故実です」と言った。

――『武将感状記』





秀頼公御噂の事

2014年04月03日 18:59

867 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/03(木) 11:02:18.13 ID:aqIv4/qt
秀頼公御噂の事

当地御堂の鼓番に善右衛門という大男がいた。
この者は御旗の者で、秀頼公の事をよく知っているものであったが、
度々語って云うには、秀頼公は御心が愚かでござったということだ。
肴にはサザエを殊の外好物にしていて、夥しい数が敷かれていたそうだ。
有る時御養生の為と医者がこれを禁じた。
秀頼公は「此の程サザエを調理していないのはどういうことか。」とおっしゃられた。
御前衆は「片桐市正が悉く取り上げたので無くなりました。」と申し上げたので、
公は「其のサザエのなる木まで、市正が掘って取ったのか。」とおっしゃられたそうだ。
 
有る時御前衆が秀頼公に諫て、
「大将の御言葉は忝い言葉である。
ただ今諸人が御為に苦労をしています。御言葉でいたわってください。」
と申し上げると、
大勢の中へ出て、苦労と労のところを長々と引いて、大きな音で一言おっしゃられたと語った。
 
秀頼公の御事、愚かなる咄共数々言い伝えられているが、軍書にのっていることでは、
勇義がおありになるように見えて、覚束ない。

(河内屋可正旧記)





大阪には太閤様の息子がいるが

2012年12月16日 18:51

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 09:58:48.94 ID:oARWiNWo
『(1612年5月)伏見を通って16日に大阪の町についた。伏見は都とほぼ同じくらいの大きな町である。
都には王や領主が皆屋敷を構えており、多数の兵で守り固める大変大きな城がある。
皇帝(徳川家康)の娘婿(松平定勝)がその城の総督である。

大阪には太閤様の息子(豊臣秀頼)がいるが、こちらは皇太子(徳川秀忠)の女婿である。
彼は日本中で最良の城の一つに閉じ込められ、誰も彼との会話を許されない。
彼が何を簒奪されても誰も話せないよう、皇帝に戦を挑む気にならないようにである。
それで婦人たちが彼に仕え、夜会や劇を催し続けている。

あんなに武勇優れたものの子息が軟弱にしているのを見るのは残念なことである。
彼はたいそう肥満しており、30歳にもなっていないのに、もう身体が自由にならない。

(中略)

この国では皇帝や領主まで、何ら確実なこと、あるいは確定したことはない。
なぜなら他の者が各々の名目を手に入れるのは暴力により、力を他より持つものが多くを手に入れるのだ。

皇帝が死ねば、太閤の子息、あるいは他の権力を羨望する者が大変大きな戦争を起こすだろう。
武士は平和が来れば餓死するから、戦争しか望まない。
人々は武器を愛好する人間で、男の子は乳離れする前から帯刀させる程だ。
利害が絡むことでは、親であろうと子供にすら信義を守らない。』

(セバスチャン・ビスカイノ旅行航海報告書)

スペイン人による秀頼についての記録、及び日本人に関する考察である。




783 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 12:05:57.93 ID:WnokO+Fz
へー歴史小説なんかだと二条城で対面したころはまだ肥満してないことになってるけど
ほんとうはもうそのときからぶくぶくだったんだろうな

784 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 13:12:32.22 ID:dEcJ7a5n
そういえばそうだな
大抵の小説そのシーンは、すらっとしたイケメンだしなw

785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 13:16:22.53 ID:aco87qBs
>>783
豪奢なのもあるだろうけど侍の飯は軍人の食生活だからカロリー高目を心がけるだろうし、
その上で他の武士が日常こなしてる運動を制限されてたら太るだろうなぁ。
鷹狩りとか家康が絶対許さなそうだし

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 15:19:52.64 ID:MWWL6TV5
>>784
実像はそれと正反対といってもいいのでは…
秀頼が秀吉と違い背が高くて肥満体だった事については、実は結構多くの出典があるんだよな

「世に無き御太り」『長沢聞書』

「秀頼公勢(背)高ク顔ニクニクシク荒テ。力は不(普)通之人ノ拾人許有ケルガ。
太ク逞シキ御馬ニ召レシカバ。」『豊内記』

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 15:22:06.39 ID:JWRqHtvi
花のようなる秀頼様…

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 15:28:02.21 ID:MWWL6TV5
>>787
それは、大切に奥に隠して育てられた秀頼を見た事無い上方の町人が
淀の方が生んだ「関白様の御曹司」ということで勝手に想像して作った歌らしい

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 15:35:28.66 ID:f7zTcakh
>>787
ラフレシアだったとか

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 15:48:38.78 ID:MWWL6TV5
ちなみに秀頼について「世に無き御太り」と書いた『長沢聞書』の作者・長沢九郎兵衛は
大坂の陣で大坂方である後藤又兵衛の近習として参戦している

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 15:53:08.63 ID:qUwy2ZqE
薩摩に逃げ延びた秀頼が呑んだくれて乱暴な振る舞いをしていた、
て伝説があるが、案外本当だったのかもしれん
どうせ落人伝説つくるなら、もっと貴公子っぽくするだろうし

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 15:57:43.66 ID:rysdjfOs
たしかに美化されたものより、
生々しい話のほうが真実味があるかもね

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 16:05:51.31 ID:9/T3kXL7
秀頼を騙った落人が無銭飲食ツアーしてたんじゃねw

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/16(日) 18:46:29.47 ID:xZJpsoOW
そんなでかい図体の人がどうやって大坂城の包囲を抜け出したのか

「三ヶ条の要求」と豊臣秀頼

2011年12月26日 22:02

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 18:02:11.44 ID:LdVEqifJ
慶長19年(1614)9月18日、方広寺鐘銘事件などで緊張した徳川・豊臣家の問題を駿府の家康と協議した
片桐且元は帰阪。秀頼に家康からの要求、

『秀頼が人質として江戸に下る、もしくは淀殿が人質として江戸に下る、もしくは国替えを受け入れる』

という三ヶ条を伝えた。

これを聞いた豊臣秀頼は、片桐且元を、休息を取れと私邸へ帰らせ。その上で、当時大阪にあった
織田常真(信雄)のもとに、大野治長、木村長門守、渡辺内蔵助を遣わして、この件に対して相談をさせた。

三人は信雄にこう主張する

「市正(且元)は今度の使いにおいて、いくら家康公の御指図だといっても、先ずは一応も二応もお断りを
申し上げ、その上ではじめて家康側の申し出を聞き届け帰国しこれを秀頼公に申し上げるべきなのに、
彼は秀頼公を差し置いて、この三ヶ条へ異見が無いと家康に申し入れ、自分一人の判断で、まるで自分が
家康の使いであるかにように、秀頼公に申し上げた。
これは我が君を見下げるような行為であり、その不正は軽くない!

この上は最早市正を踏み殺し、我々の方針をはっきりさせるべきと考える!」

信雄はこれを聞いて仰天した

「今、両御所を敵に受けて盾をつくなど、考えも出来ない事だ!
今回のことは全て、市正に任せて然るべきである!」

三人は秀頼に元に帰り、両者の意見を申し上げた。
しかし秀頼はこれを聞くと、いずれの意見を取るべきか解らず、ただ悩んだままであった。

大野ら三人はこの秀頼の姿を見て、「秀頼公には知らせず密かに且元を城に呼び出し、そこで
刺殺して方針をはっきりさせよう!」と示し合わせた。

しかしその動きをを察知した信雄がこれを且元に知らせ、且元は大阪城を退去。
これが大阪冬の陣勃発の直接の理由となる。

和平派もそうだが主戦派も、秀頼本人の意志を重視してはいない、片桐且元大阪退去に至るまでの、顛末である。
(秀頼事記)






499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:39:58.07 ID:Gb1JJCFD
何かで読んだのか戦国もののドラマか忘れたけど
且元はその時淀殿を江戸に送ることを承知しておいて
江戸屋敷の造営で一年二年と引き延ばしその後は淀殿病気といいさらに一年二年引き延ばし
家康が死んだ後挙兵すれば少しは勝ち味が見えてくると献策したとか言う話があったな
多分史実じゃないとは思うけど

500 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:42:56.60 ID:W9TthKzI
葵徳川だね

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 21:50:58.98 ID:gHUua3Pj
実際家康相手にそんな小細工無理だとは思う

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/26(月) 23:47:39.70 ID:HTcBDCI7
>>498

これじゃ、まるで開戦にいたるまでの先帝陛下のお立場ではないか?

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 00:05:13.68 ID:AGDGBLr/
こう見ると信雄さんは現実派だなぁと思うけど
やはり残り二人からは「このヘタレが!」って思われたんだろうな

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 08:15:30.85 ID:zgeD+M20
福島正則「だから!遅すぎたと言っているんだッ!!」

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 08:54:59.49 ID:3dub6oDn
信雄が優秀だったってのもあながち間違いじゃないよな。

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 09:04:44.29 ID:2Phlz4nt
お坊ちゃまだった若い頃は失策しまくりだったけど、
もう世間慣れしてるお爺さんだから保身感覚が身に付いてるよな

507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 10:15:59.08 ID:quNlbzpG
若いころから保身感覚抜群の連中がいたりするから見劣りしたりするんだよな

森家の連中とか池田家の連中とか…

508 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/27(火) 11:45:49.54 ID:rWPzNMBy
>>507 信雄様のおかげで早くに親父や兄がなくなったもので、若くして保身感覚を身に付けました。