fc2ブログ

何れの諸大名も、斯くの如く致している以上

2021年12月16日 16:44

242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/15(水) 21:23:09.42 ID:vX+zcGAJ
慶長十九年(1614)十一月二十日、大阪冬の陣の最中、
この日大御所(徳川家康)は本多上野介正純を召され、大阪城中の織田有楽・並びに大野修理(治長)方は
内状を遣わすよう仰せ付けられた。

これは先月より大野壱岐守氏治(治純)を以て、御和談の事を仰せ入れられていたのだが、重ねて秀頼公が
合点あるようにとの上意によって、後藤庄三郎を城中に遣わしたものの、大阪方では御承引の御請が
無かったため、このようにされたのである。
この時後藤庄三郎には御褒美として、銀子三十枚を給わった。

然るにその後、大阪方の落人を搦め捕ったが、かの者を尋問したところ大野修理亮の足軽であると申す故、
これを大野壱岐守に引き合わせたところ、壱岐守曰く「旧好の者にて、名は与助と申します。」との内容を
言上した。そのため速やかに縄を許し、壱岐守に預け於いて、城中の御使にこの者を仰せ付けたという。

(中略)

或る記に、二十三日、この日大野壱岐守に仰せ付けられ、先だって捕えた与助を御使の者とされた。
その御使によって、『兎角書状にては埒が明かない。口上にて申し入れたい事があるので、織田有楽
大野修理方より慥かな者を一人づつ差し越してほしい。』との本多上野介(正純)の考えを伝えたところ、
織田有楽より村田吉蔵、大野修理亮より米村権右衛門という者を差し越した。

本多上野介は彼等に立ち向かい、御和談についての事を口上にて申し渡した。その上で、今度の戦に際し、
秀頼公より諸大名に給わった御廻文と、それとともに織田有楽や大野修理などによって遣わされた
御請の留書を集め、かの両使に渡して言った

「何れの諸大名も、斯くの如く(豊臣家からの文書をそのまま幕府へ提出)致している以上、
秀頼公への忠節をいたす衆など一人も無い。諸大名の別心などを頼みに思召しても、詮無き事である。
この廻文をそちらでご覧になれるよう進呈する。」

と、残らず大阪城中へ遣わしたという。

新東鑑

大阪冬の陣で、秀頼が自分に味方するよう諸大名に送った廻文が、まとめて幕府から返されたというお話。



スポンサーサイト



大坂の陣前の怪異

2021年11月09日 17:36

168 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/09(火) 16:11:00.39 ID:48k5m+l/
慶長十九年(1614)二月五日申刻(午後四時頃)、大阪城の天守より黒気が龍の如く立ち上って矢倉に漂った。
殿中の人々はこれを知らなかったが、城外より見つけて、天守が焼けていると諸人周章し騒いで馳せ集まった。
これに城中の諸士も騒ぎ立って、人を天守に上らせてみた所、黒雲が漂っているのみにて異事は無かった。

黒気の立ち上る事は未詳であるが、或る本に。二月五日に大阪城の天守より羽蟻多く飛び去り、四月二日の
夕日の色は銅の如く、三日朝焼けの色が銅の如し、六日霰降りて寒天の如しと云う。

また叡山に一つの不思議が有った。学林房の奴である次郎が、天狗に掴まれ行方知れずになり、十日過ぎて
かの次郎は帰ってきた。そして彼は

「私はこの間、当山の次郎坊の使者として、愛宕山の太郎坊、上野の妙喜法印、鞍馬山の僧正坊、彦山の
豊前坊、大山の伯耆坊などが叡山に参集されるべきという内容の触れを届けた。即ち天狗たち各々が
集われる。」

と言ったため、皆不思議に思い八王寺の三宮に参詣してこれを見ると、天俄に曇り、甚雨疾風して大霰が降り、
その後に奴の次郎が三宮の社壇の棟に飛び上がり、そのまま落ちたが軒端に於いて起き上がり、その後は
足を揚げたり立ったりした。その他同類の者共大勢が、社の上において色々の不思議を成し、
扇を以て歌舞を行う仕草をした。また三社の扉で、尋常では二、三十人も無ければ持てないものを、
一町(約109メートル)ほどづつも投げたり上げたりした。然れどもこの扉は聊かも損じず、ただ虚空より
大礫を数多打たれたという。

或る記に、この事はこの年□月二十二日(或いは二日)、叡山南光坊の天海が駿府に来て申し上げたという。

またこの年、伊勢踊りと名付けて、庶民衣服を飾り、練絹を竹竿にかけて唱謡し踊った。
伊勢より始まって都鄙殆どで行われ、遂にこの踊りは遠州、駿州に及んだ。そして伊勢太神宮より
飛来し給うといって、幣帛を道路に飾り、これを集い見る人市の如くであった。
家康公はこれを聞き召され、巫蠱不詳の事は王者の禁ずる所なりと、堅くこれを制された事で、
伊勢踊りは止んだ。
この後、果たして大阪の乱があった、古より民の訛言、時の童謡が史書に掲載されているものだが、
この時のことも亦奇である。

或る記に、慶長十八年九月より十月に至り、畿内近国で神踊を成すとあり、又別記に、同十九年八月九日、
伊勢において天照皇太神宮、野上邑に飛び遷り給うという託宣があり、これ兵乱の兆相であると云われた。

新東鑑

大坂の陣の前の、様々な怪異について



169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/10(水) 00:41:40.00 ID:crVLGK3A
集団ヒステリーみたいになってたのかな

170 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/10(水) 01:37:24.50 ID:Ol1jRi9E
秀吉存命時から秀吉の目が届かなかったら盗難割と頻発するくらいには風紀乱れてるようだしなぁ大坂城
それにプラスして上の逸話みたいに浪人どんどん入ってくるし雇うし、治安最悪すぎてみんなヒステリックになってそう

173 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/10(水) 21:54:36.74 ID:3P04p27p
>>168
天狗の仕業定期

174 名前:157[sage] 投稿日:2021/11/10(水) 22:55:44.33 ID:kAU9beHY
上野の妙喜法印以外は八天狗のようだ
妙喜法印は四十八天狗の一人、上野国妙義山の日光坊?
(東照大権現に日光山から追い出されて妙義山に移った伝説があるから違うかも)
なお菅原道真の師匠で、菅原道真の霊を退散させた比叡山の法性坊も四十八天狗にいるが、妙義山でも祀られてるからこちらだろうか
平田篤胤「仙境異聞」では天狗に拐われた少年・寅吉に平田篤胤が
「小田原最乗寺の道了権現、秋葉山の三尺坊、妙義山の法性房とお前の師匠の天狗は交際があるか?」と尋ねているようだし
妙義山の法性坊も天狗の中では有名だったようだ
https://i.imgur.com/3acca7H.jpg
(「北野天神縁起絵巻」を元にした漫画、坊主の方が法性坊)

177 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/12(金) 16:58:49.44 ID:juo7sUaB
>>168
林羅山「本朝神社考」p305-p306にもほとんど同じ話があった
(コマ番号154から155)
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040132
これを元にしたのだろうか

大阪周辺の治安が悪すぎる

2021年11月07日 16:13


153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/07(日) 15:15:45.44 ID:AjZrlMYF
去る慶長十七年の春、豊臣秀頼公の詰衆である津田出雲守、渡辺内蔵助(糺:此の頃は権兵衛と称すると)、
及び児小姓十人ばかりが、野田の藤の花を見に行った。終日酒宴沈酔して、或いは二、三人、或いは
四、五人づつ船を浮かべ、福島、海老江などに赴き逍遥した。
そのような中、林斎という盲人と出雲守が藤の辺りを遊観していた所に、薩摩のあぶれ者共六人、
刀の鐺(こじり:刀の鞘の末端)に小さな車を付けていたが、この辺りを徘徊していて出雲守と口論に及び、
この六人の者共は刀を抜いて切って懸かってきた、これに出雲守は十文字の鑓を取って野田の辺りまで
押し出したが、悪党たちもここで取って返しまた切懸った事で、出雲守は九ヶ所まで疵を被った。

林斎は盲人であったのでこれと戦うことは出来なかったが、浜辺に積み置いてあった割木を取って
隙間もなく悪党どもに投げ懸けた故に、悪党たちも少しく辟易して攻めあぐんでいた所に、渡辺内蔵助が
馳せ来て薙刀を以て敵三人に傷を負わせた。また出雲守の従者たちはこの時、野田近辺の在家に居たのだが、
これを聞きつるとようやくに走り来て、主の出雲守を助け出し帰宿したが、その疵が平癒せず終に死去した。

同十八年の春、大阪城内の秀頼公の寝殿と蘇鉄の間の中間、柳の間に於いて、田屋式部という者、予てより
詰合衆饗庭備後守に宿意あって殺害した。これによって営中大いに騒動して、検議の上式部には
切腹が仰せ付けられた、

またその後、渡辺内蔵助は私用あって天王寺辺りまで行った所に、その頃名に聞こえた関東の荊組という
あぶれ者の集団がここに徘徊しており、渡辺と闘争に及んだ。渡辺は奮撃して悪党どもを追い払うことは
追い払ったが、自身も這々の体で大阪へと帰った。またその砌、内藤新十郎玄忠、その他少禄の輩たちが、
生玉の社内に於いてこれも荊組と口論して刃傷に及び疵を被って帰ってきた。

去年に渡辺が野田の藤見で闘争したことから始まり、今日内藤等が喧嘩をしたのも、皆大阪城から
西南の方向であったため、大阪衆はこの方角で合戦をして敗亡するという兆しではないかと囁きあった。

このような所に、同十九年二月四日、彗星が東より出た。この時朝鮮の浪客であった李文長という者に、
焦氏易林(漢代に成立した中国最古の術数書の一種)を以て占わせた所、
『人面九口長舌為斧、劉破瑚璉殷絶後』という辞に当たった。また曰く
「『集兵争強、失其貞良敗我殺卿』という辞あり。大いに凶なり」と申すにより、秀頼卿は驚かれ、
近国の諸社寺にて祈祷を仰せ付けられた。諸人これを聞いて、唯事ではないと眉をひそめた。

新東鑑

薩摩やら関東やらのあぶれ者たちが彷徨きまくっていて、大阪周辺の治安が悪すぎるお話。



167 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/08(月) 16:43:00.79 ID:VPtiyG+d
>>153
個人的には饗庭備後守という人物に驚いた。ちょうど「室町幕府奉公衆饗庭氏の基礎的研究」という論文読んでたところなので。
尊氏の寵童饗場命鶴丸を中興に諸国に所領や将軍料所代官を得た饗場氏も、最後に残った丹羽の所領も明智光秀に奪われて歴史史料からは姿を消す、という話だったが。大阪状に潜り込んだ一族もいたのかな?

171 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/10(水) 18:23:53.08 ID:5L2Ib+fa
薩摩浪人はこれまた。
伊集院の残党かな。

172 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/11/10(水) 20:41:20.25 ID:Ivq4TMV4
江戸城も元禄の頃になるまで風紀乱れまくって
そこらで立ちションするやついたしむべなるかな

およそ首帳は

2021年02月26日 18:48

943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/26(金) 15:34:07.69 ID:PTbLLrIC
大阪冬の陣の時、大阪城中の千畳敷にて首帳が付けられたが、松浦彌左衛門が「今福表の一番首なり」として、
帳前に首を持参した。しかし帳付けの役人は「心得たり」としたが、帳に書き付けなかった。
松浦は重ねて「早く書きつけられよ!」と言ったが、帳付けは
「私はしっかり受け取った事、相違有りません。書き付けるでしょう。」
と言っている所に、堀田図書の組の、渡部清兵衛が首を取ってきて

「それがしが一番首であること疑いなし。松浦は馬であり、私は歩行であった。故に帳前に来ることの
遅速、このようになったのである。」

そう言うと、帳付けの人「心得たり。」と、二人ながら一番首に記した。

およそ首帳は、二番首を見ぬうちは付けないものであるとの古説があるという。

備前老人物語



944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/26(金) 17:18:03.14 ID:MmFIGxLy
>>943
何となく屁理屈にも聞こえる


945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/26(金) 21:29:20.69 ID:RC+O8SPs
毛利家でも首帳の話あったなぁ。こちらは手負の苛立った武将に首帳役がどつかれて流血沙汰になってるけど。
よくよく考えたら合戦中に自分の武功を申告に行くって非効率な気もするけど、休憩も兼ねてたんだろうか?

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4944.html

946 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/02/26(金) 21:34:37.80 ID:w26FOHiy
『武将感状記』
白井甚右衛門首帖を記す事

・首を取ったことは書き付けたけど一番首だとは書付けなかった
・遅れてやってきた浅部清兵衛と比較吟味の上、松浦の方は二番首と書き付けた
・松浦に直接「これが作法です」って伝えてる

武将感状記までに分かり易く脚色されてる可能性もあるけど
妥当な処理の仕方だったんでないかな
おなじ『武将感状記』に
「首取ったからといって本陣に戻って来ずに前線で戦い続けろや」
と怒る柿崎景家を褒めてる記事があるのはご愛嬌

947 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/02/26(金) 21:55:54.83 ID:SW/2Jl+I
>>946
時代
戦況
兵の立場の違い(大坂は戦功誇示に逸る牢人が多い?)

とか時代による考えの差や戦の規模の違いも
あるんだろうけど、査定する側の第一印象や忖度も少なからず有ったのではないかと思う今日この頃

大阪方の石火矢

2020年12月09日 18:52

477 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/12/09(水) 16:43:21.92 ID:ijx6Yt/R
大阪冬の陣の籠城の時、城内より石火矢を撃っていたが、これは修理(大野治長)屋敷より撃っていた。

ある時、この石火矢の火が脇に移り、修理屋敷は四ツ時分(午後10時頃)火事を出した。
それ以降、板葺きの屋根は何れも土塗りにいたした。

大阪城から石火矢を撃っていたのは難波六太夫という者で、秀頼公の所有する石火矢の中に、日本丸と申す
筒があったのを、車に仕掛けて撃っていた。しかし後に、修理屋敷に火事が出た故に、その後撃たなかった。

長澤聞書

大阪冬の陣、大阪方の石火矢について。



大阪夏の陣、戦闘が終わった後の出来事

2020年10月04日 17:10

394 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 12:11:40.63 ID:ODrWroWV
慶長二十年五月八日
辰刻(午前八時頃)、片桐市正(且元)の使者が言上した所によると、秀頼并びに御母(淀殿)は、
大野修理(治長)、速水甲斐守(守久)をはじめ、その他究竟の士と共に二之丸帯曲輪に引き籠もって
いるという。幕府(秀忠)は使いとして安藤対馬守(重信)に参上するように申し、彼に
「秀頼并びに御母、その他が帯曲輪に籠もっているが、彼らに切腹を申し付けるよう。」と仰せに成った。
午刻(正午)に井伊掃部助直孝を召し、秀頼母子、その他帯曲輪に籠もる者達は切腹有るべしと
仰せに成ったという。

(中略)

また戦場に於いて首実検があった、真田左衛門佐(信繁)首、御宿監物首、大野道犬首を、
越前少将(松平忠直)が持ち来たという。

十一日
長宗我部宮内少輔(盛親)が八幡あたりに置いて蜂須賀蓬庵(家政)の従者によって生け捕りにされ、
二条御所西御門前に、長宗我部は搦められたまま晒された。諸人これを見て「猪のようだ」と言ったという。

十二日
今回の大阪からの落人が国々に逃げ散っているため、これを速やかに搦め捕って引き出すようにと、
諸代官、守護、地頭に仰せ遣わされた。
今日、秀頼の息女(七歳)が京極若狭守(忠高)によって探し出され捕らえられたとの注進があった。
秀頼には男児が有るとのことも内々に聞き召され、急ぎ尋ね出すようにと、所々に触れられた。

十四日
今日、大阪奉行であった水原石見守が、二条御所の近辺に忍んでいるのを訴える人があり、
藤堂和泉守(高虎)が討手を遣わした所、石見守は覚悟を致してこれと戦い、寄手三人が切り伏せられ
戦死した。そして石見守の頸は西御門前に晒されたという。

十五日
今日、長宗我部宮内少輔が一条の大路を渡され、六条において梟首、三条河原に晒された。
また大阪残党七十二人が、粟田口、并びに東寺辺りで梟首されたという。

二十日
大野道犬が大仏の辺りで生け捕られ、真田左衛門佐妻が、紀州いとの郡に忍び居たのを、浅野但馬守(長晟)が
これを捕らえ差し出した。真田は黄金五十七枚を秀頼より給わり、また来国俊の脇差を所持していた。
これは御前に差し出されたが、但馬守が賜ったという。

二十一日
秀頼の子息(八歳)、伏見農人橋の辺りに忍び居た所を捜し出され、捕らえ出された。容貌美麗という。

二十三日
伏見より、将軍家(秀忠)が二条御所に御着きになり、御密談に刻を移され、午刻に幕下は還御された。
未刻(午後二時頃)、秀頼子息(八歳)、六条河原に於いて殺し給わった。
乳母の夫である田中六左衛門も同時に誅された。乳母は命を赦されたという。

二十八日
井伊掃部助、藤堂和泉守を幕府(秀忠)が御前に召され、金銀の千枚吹、分銅二宛が拝領された。
その上、御知行が下されることを直接に仰せに成られた。これは今度の大阪表、六、七日の合戦の
働きの功によるものである。

今日、片桐市正且元が病死した(歳六十)。駿府より申し来たという。

駿府記

大阪夏の陣、戦闘が終わった後の出来事



395 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/04(日) 12:27:43.11 ID:LT28x8Lw
大野道犬は2度死ぬ

大阪の豊臣秀頼が家康公に謀反のため

2020年09月12日 16:33

339 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/09/12(土) 12:08:21.19 ID:QHtbi35F
慶長十九年十月二日、雷が頻繁に鳴り響いた。美濃国加納の松平摂津守(奥平忠政)が逝去した。

大阪の豊臣秀頼が家康公に謀反のため、兵糧を貯め、去る八月、近国に金銀を遣わして相調えた。
福島左衛門大夫(正則)は大阪に八万石の兵糧が有ったが(この時江戸に在った)、秀頼より
借用したいと言ってきた。これに対し正則は飛脚にて『兎も角も秀頼御意次第』の旨を返答した。
その他、家康公の蔵米が三万石、諸国大名の米三万石、并びに町方の売買する米が二万石、
これらを大坂城に収納した。町人の米は代銀を以て速やかに決済した。

また秀頼は去る慶長五年(関ヶ原)の敵方の士、所々に隠れ居た所を、今これを招き、数百人扶持した(但し
人質を出さない者は抱えなかったと云々)。

これらに対し大御所自ら、大阪に使者を遣わした。それは大野修理(治長)の弟で、大野壱岐守(治純)であった。

当代記

大阪冬の陣直前の様相について



秀頼と家康の二条城会見について

2020年08月31日 17:17

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/31(月) 13:27:20.93 ID:ybV1B4VU
慶長十六年三月二十七日、豊臣秀頼公が大阪を発って淀に到着され。これの迎えとして
右兵衛(家康公息、年十二歳(義直))、常陸介(家康公息、年十歳(頼宣))、并びに
池田三左衛門(輝政)、加東肥後守(清正)が淀に参向した。
秀頼公が大阪を発つ時、虚空が光ったと云々。

二十八日辰の刻(午前八時頃)、秀頼公は入洛され、すぐに家康公の御所である二条に御越しになった。
家康公は庭上まで出られ、秀頼公も慇懃に礼謝された。

家康公が座中に入られた後、秀頼公は庭上より座中に上がられ、先ず秀頼公が御成の間に入られ、
その後、家康公の出御があった。
互いの御礼有るべきとの旨を家康公は仰ったが、秀頼公は堅く斟酌有り、家康公が御成の間に
出奉り、秀頼公は礼を遂げられた。

膳部はかれこれ美麗に出来ていたのだが、還って隔心があるだろうかと言うことで、ただお吸い物
までであった。
大政所(これは秀吉公北の方也)も出られ相伴された。

その後、秀頼公はすぐに発たれ、右兵衛督、常陸介が途中まで送った。
秀頼公は直に豊国社に参詣され、大仏を見られ、伏見より船にて、その日の酉刻(午後六時頃)、大阪に
帰着された。大阪の上下万民については申すに及ばず、京畿の庶民の悦びはただこの事であった。
この時も大阪に光が出たと云々。

当代記

秀頼と家康の二条城会見について



大阪城開かずの間

2019年06月07日 16:28

121 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 20:49:45.58 ID:ePlAaJVM
大坂の御城内、御城代の居所の中に、明かずの間というものがあるそうだ。それは大きな廊下の側にあるという。
ここは(大阪夏の陣による)5月落城の時から閉じたままにて、今まで一度も開いたことがないといい、
代々のことであるので、もし戸に損じた所があれば板でこれを補い、開かぬようにと成し置いていた。

ここは落城の時、宮中婦女の生害した場所と云われ、そういった由来の故か、今なおその幽魂が残って、
ここに入る者があれば必ず変異災いを成すという。また、その部屋の前の廊下で寝る者があっても、また変異の
事に逢うという。

観世新九郎の弟宗三郎、その家技の事によって、稲葉丹州が御城代の時これに従って大阪城に入った。
ある日、丹州の宴席に侍って飲酒し、覚えずかの廊下で酔臥した。

翌日、丹州が彼に問うた「昨夜怪しいことはなかったか?」宗三郎が、そういう覚えはない事を答えると、
丹州曰く「ならば良し、ここはもし臥す者があると、かくかくの変がある。汝は元来この事を知らず、
よって冥霊も免す所あったのだろう。」
これを聞いて宗三郎は初めて怖れ、戦慄居るところを知らずという。

またこの宗三郎が語る所によれば、天気快晴の時、かの部屋の戸の隙間から覗い見ると、その奥に
蚊帳と思しきものが、半ば外れ、なかば鈎にかかっているのがほのかに見えた。また半挿(湯水を注ぐための器)
のようなもの、その他の器物などが取り散らしている体に見えた。であるが数年久しく陰閉の場所故、
ただその状況を察するのみであると、いかにも身の毛もよだつ様子で話した。

また聞いた話では、とある御城代某候がここをその威権を以て開いたことが有ったが、忽ち狂を発せられ
それを止めたという。誰のことであろうか。

この事を林氏(林述斎か)に話した所、彼は大笑いして
「今の大阪城は豊臣氏の時代のものではなく、元和偃武のあとに築き改められたもので、まして家屋のたぐいは
勿論みな後世のものです。総じて世の中には、そういった実説らしい作り話が多いものです。その御城代という
人も、旧事の詮索がないばかりに、斉東野人(物を知らない田舎者)の語を信じたというのは、まったく
気の毒千万です。」と言っていた。

林氏の説はまた勿論なのだが、世の中には意外の実跡というものもあり、また暗記の言は的證とも成し難い
もので、故にここに両端を叩いて後の確定を待つ。

(甲子夜話)



122 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 21:51:35.32 ID:48Km5ZhF
>>121
面白いwいつの時代も人間は変わらんなぁ。

123 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 22:49:04.93 ID:5yCAa8rV
林氏「なんだこれ、創作乙ww」
松浦静山「いや、でもこれ本当の話かもしれんよ?」

戦国ちょっといい悪い話スレ・まとめブログみたいなw

124 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/06(木) 23:33:00.37 ID:hBrP2F1J
火薬で鉄砲撃つ時代に何言ってんだと思うが当時の人的にはそうなんだな

125 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 07:45:07.39 ID:fzkd+7XF
>>123
そういうやり取りがこうして>>121残ってるのもまた良いなぁ

>>124
電灯もない時代は今よりずっと夜が怖くて不気味だったろうし、いろいろ違うんだろうね

126 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 08:12:05.47 ID:AktD/lec
>>125
肝試しに行って背後の気配に振り返り打ちかかって逃げる
翌朝になって確かめると地蔵だったなんて定番だし

今日の明け方、パンパンパンと濡れタオルを広げるような音をさせながら何かが近づいてきて俺の布団に潜り込んだところで目が覚めた
金縛りにもならんかったし普通の夢なんだろうけど、近づかれているときはちょっと怖かったなあ

127 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 12:45:53.27 ID:6P9hJ6Th
現代の学校や廃墟ですらみんなキャッキャ言ってるのに、大坂城という実績ありの場所じゃしょうがない

128 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/07(金) 14:29:58.48 ID:8rE4HOLf
国会議事堂でもあるのかな

生死の気

2019年05月31日 15:24

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/31(金) 13:29:29.80 ID:FGlWUgeb
陣中においては人気が立つものと云う。その気に生死吉兆があり、物慣れた人はこれをよく見分けるのだそうだ。

大坂御陣の時、冬陣に城中の気を見ると、晴天でも薄暗く、ものの見分けが出来ないほどであった。
しかし夏陣では曇った日であっても、これを見るに城中白けて良く見え渡ったと云う。
これは生死の気と云う。

(甲子夜話)



秀頼は5歳の時に参内され、伏見より行列をなす

2019年03月18日 18:27

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/18(月) 17:52:35.05 ID:/+YEHpXf
秀頼は5歳の時に参内され、伏見より行列をなす。太閤は2,3日前に入洛されて中立売最上殿の屋敷に
おられ、参内の日に迎えに御出になり室町通を南へ目指す。これに見物人が群集した。

太閤は立髪の馬に乗り、むりやうの闊袖の羽織に鳥を背縫いにして襟は摺箔で、底なしの投げ頭巾を着て
いた。馬の左右には50人ほど徒立がおり、半町ほど間があって又者1千人ほどが従った。

大仏辺りで秀頼公に御出合い、太閤は輿に乗り移って秀頼を前に置いた。銭を箱に入れると舞る(回る?)
人形を輿の先に持たせ、諸大名は大房の馬に乗って2列で供奉した。

これは聚楽の城終わりて後、中一年あっての事である。

――『老人雑話』



さて、因果というものは

2019年01月20日 19:05

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/19(土) 21:30:54.95 ID:r3vm1I6O
さて、因果というものは有るものだろうか。太閤秀吉、いにしえは松下嘉兵衛の草履を取っていた者であったが、
織田信長の御取立を以て人となり、今太閤の地位にまで至ったというのに、信長の御恩を忘れたか、
その御子である三七殿(信孝)をぬまの内海にて御腹を切らせ給い、尾張内府(信雄)の御知行を召し
北国に押し込め、御扶持の宛てがいもなく置いた。

さて又、太閤の御子秀頼も、相国様(徳川家康)を打ち奉らんと、大阪にて一度(家康暗殺騒動)、また伏見
にて諸大名に仰せ打ち奉らんと二度目(婚姻問題騒動)、会津御陣の御跡に諸大名を催して伏見の城を攻め殺し、
相国へ向かわせ給い、これが三度目(関ヶ原)、また去年謀反の企てをし諸牢人を扶持して敵対したこと
四度目(大阪冬の陣)、又当年手を出し合戦をし給う事五度目なり。(大阪夏の陣)

相国は御慈悲の有る方なので、四度目まではゆるしたが、助けたいとは思われたが、この上は是非無き次第、
助け置くものならば、又謀反を企てるだろう、よって腹を切り給えとて、御腹を切らせ給ふ。
これを見る時には、因果と言うものは、有るものだと感じる。

(三河物語)


その儀ならば別心か。

2019年01月18日 09:50

658 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 00:10:47.32 ID:ePlVzHXh
慶長19年、豊臣秀頼は諸国の牢人衆を抱え、分胴をくずして竹を割り、そこへ鋳流して竹流しと名付け、
牢人たちに与え、十万余りを扶持していると徳川家康にも聞こえた。
そこで家康は「そういう事なら秀頼の御袋(淀殿)を江戸へ下すように。」と仰せ遣わしたが、
「思いもよらず。」との返事であった。そこで「そうであれば他に国を遣わすので、大阪を空けて
新しい領地へ国入りをするように。」と仰せに成ったが、これについても「思いもよらず。」と返答し、
さらに家康のもとには、大阪においていよいよ諸牢人を抱え、大阪城の普請を行い、鉄炮を磨き
矢の根を磨いているとの情報が入った。

「その儀ならば別心か。」家康はそう言った。

この時秀頼の守役である片桐市之正(且元)は秀頼に異見した。「もはや議論をしている時分ではありません。
とにかくどのような事でも、家康公の御意次第にお従いに成り、御袋様を江戸に送られるべきです。」
そう申し上げたが、大野修理、同主馬之助、同道犬、真田左馬助、明石掃部、その他の牢人どもが寄り合って
申した「とにかく御袋様を江戸に送るというのは要らざる事です。市之正は家康に加担し、あのように
申しているのです。市之正を成敗すべきです。」

これに危険を感じた片桐且元は吹田へ引き退き、これによって秀頼の謀反疑いなしとして、東は出羽、奥州、
関東八ヶ国、東海道、五畿内、西は中国、四国、九国、北は加賀、越前、能登、越中、越後と、日本に残り無く
大阪へと押し寄せた。

(三河物語)

三河物語だと大阪の陣の原因は最初から豊臣家の牢人召し抱え問題なのね。



660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 11:46:54.74 ID:xxlwVxsQ
>>658
逐電したと思われていた真田信勝は大坂に潜伏していたのか!

664 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 16:23:39.52 ID:HuSd4Mb9
>>658
>分胴をくずして竹を割り、そこへ鋳流して竹流しと名付け、
>牢人たちに与え、
わざわざこんなことしたのはこっそり金与えたって意味?銅銭代わりなのかな。

665 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 20:45:30.78 ID:/cjd5+Sd
>>664
ここに出てくる分銅ってのは巨大な金塊の事だよ

666 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/18(金) 22:38:06.98 ID:HuSd4Mb9
>>665
もっとすごかった!ありがとう~。

668 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/19(土) 19:05:44.45 ID:ffQJv5Ep
>>664
竹流金でググれ

大阪の陣の前兆っぽい事

2018年07月12日 10:56

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/12(木) 00:32:05.26 ID:dWRGVtRJ
大阪冬の陣は慶長19年の事であったが、その年の春より、下々が「門屋木戸屋」という言葉を
多く口にするように成った。また小歌に「十五にならば前に垣をめされよ」という歌が専ら歌われた。

5月の晦日に大雨が降り、摂津河内和泉全体が水害に見舞われた。この時摂津国の大堤が切れた事が
「今ぎれ」と呼ばれた。

6月末より、お伊勢踊りという踊りが流行り、諸国より集まった人々が大阪も通り、かまわずに踊った。

9月、天下輝くほどの光物が東から西へ飛んだ。暮れの六つ時ころ(午後6時ころ)であった。

10月15日、大地震が有った。

その他様々な事が、その年のうちにあった。

(長澤聞書)

大阪の陣の前兆っぽい事が沢山あったらしい、というお話。



926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/12(木) 11:22:03.55 ID:ckxWvSyp
ただの認知バイアスだよな
災害なら平成の今でも毎年のように何かが起こってるし

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 08:36:07.35 ID:LVuhrboZ
お伊勢踊りは、政治的緊張をある程度反映している可能性があるけど・・・

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 18:21:14.87 ID:yKRA+Q2p
>>926
いまと違って天変地異には何らかの意味があると思われていたわけやん?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 18:28:45.61 ID:BBT1hpwE
豪雨災害は麻原処刑のせい、と大真面目に語る奴が2018年の今いるぐらいだ

伊藤武蔵守、馬験を拾う事

2018年06月30日 21:12

899 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/06/30(土) 12:04:43.19 ID:FfwUYCBs
伊藤武蔵守、馬験を拾う事

同じ日秀頼は楼門に打出でて、灑金を緋威にしたる物具著て、太閤の時より伝えられし金
の切っさき二十本、茜染の吹貫十本、玳瑁の千本槍を並べたて、太平楽と名付けたる七寸
有りし黒の馬引立てられし所に、先陣皆敗北しけると聞こえければ、今は是迄なり、敵の
中に駈入り討死せん、と進まれしを、速水時之、今打って出たりとも勝利候まじ、疾く本
丸に入らせ給え、とて引返す。斯りければ士卒散々になりて馬標を棄てたりしに、伊藤武
蔵守遅れて帰りは入りしに、是を見て、朝鮮迄聞こえし豊臣家の馬標を敵拾いなば、大坂
城中に男子は一人も無きと日本国中の物笑いとならん、と言う儘に、手づから振りかたか
けて、城中千畳敷に帰り入りけり。

(常山紀談)

 大坂夏の陣の終局場面、5月7日の話。
 数千の秀頼馬廻り衆が、戦わずして壊乱か。最終的にほとんどが討死したとされるが、どのように戦ったのだろう。

 玳瑁の槍千本って、ものすごく高価そう。キンキラキンの豊臣家らしい武装。

※玳瑁(タイマイ)


大阪方の人々

2018年06月22日 10:32

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 09:17:50.00 ID:+Vch1/Y2
豊臣秀頼公は、大阪冬の陣のおりには御歳23であった。世の中に無いほどのお太りであった。
木村長門も同年である。
大野修理はその頃、47,8くらいに見えた。
後藤又兵衛は60あまりに見えた。男ぶりは百人頭という風情の人であった。
真田左衛門佐は44,5くらいに見えた。額に2,3寸ほどの傷跡があり、小兵なる人であった。
秀頼の御子8歳と長宗我部の二人は戦後生け捕られ、京にて御成敗された。

(長澤聞書)

大阪の陣で後藤又兵衛に従った長沢九郎兵衛による、大阪方の人々の印象



32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 10:47:30.98 ID:K53k58Oq
何でそんなに太っちゃったんだろう・・・

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 12:11:36.59 ID:tpZc7hd2
蒲鉾が大好きだったんだよね

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 16:21:57.96 ID:L0H/Woxq
北の将軍様もお太りになってるよな

秀頼藪之事

2017年03月26日 19:26

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 23:30:42.64 ID:BU1a2z98
〔領内志佐〕秀頼藪之事

 大坂落城のとき、秀頼は薩州へ逃れ行きその蹟があることを前に言った。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9991.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10320.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10623.html
実事だとみえる。

 そういったところこの頃ある話を聞いた。
領内の志佐地方というところに、秀頼藪と呼ぶ所が在ると。
もしかしたら薩州への道にしばらくここに隠れ居たのか。
訝しい。

(甲子夜話三篇)


種子島蔵人

2017年03月08日 11:27

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/08(水) 10:15:43.86 ID:b0jUgklp
或る本によると、豊臣秀頼は大阪落城の後薩州に下向されて島津家を頼み蟄居、
種子島蔵人と改名されたという。

寛永の頃、京都の具足師何某の所に、薩摩より鎧の修復が依頼された。
具足師はそれを見るや

「この鎧は常人の所持するようなものではない。かつて太閤秀吉公がお召になったという
鎧についての言い伝えと全く同じだ!」

そう思っていたが、その後再び具足の修復を依頼され、その具足には『先年秀頼公御召の具足』
と有り、先の修復の時の疑問が解決したと言ったそうだ。

また伊勢奉幣の目録に、『豊臣某』と書かれているものもあるとか。

(翁草)


この説虚実を知らず

2017年02月28日 08:08

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 20:29:57.84 ID:EACPwTQf
豊臣秀頼の最期については、異説が非常に多くて事実を分明できない。
おおよそ世の説を以ってすると、秀頼は大阪落城のあと薩摩へ退いたとされる。
薩州において客分として安居し、しかもかなりの長寿を得て、延宝か天和の頃(1673~83)
90歳あまりで亡くなられたという。

その頃、薩摩の太守が参勤の御挨拶の砌に、将軍家に対し御人払いをして言上する、という事が
あったそうだ。この時薬研藤四郎の短刀が献上されたそうだが、それ以外に何が語られたのか、
全く知られていない。(この説虚実を知らず)

また、この時の随員のなかに真田を名乗る武士がいたそうだが、彼は世を憚って「マナ田」と
称していたという。真田大助の子孫だろうか。(この説も虚実を知らず)

(翁草)



626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/28(火) 01:26:27.42 ID:QzRy6CAa
昔読んだ小説に真田大助が主人公の話があったけど
武者修行中にチン子切り落とされてそれを哀れんだ実母とセクロスするとかって内容だったから
ずっと架空の人物だと思ってた

秀頼は毎度、惣構を巡って、

2016年11月24日 14:37

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 03:17:03.16 ID:vSSs2BW6
今回の籠城中(大坂冬の陣)、秀頼は毎度、惣構を巡って、小事でも
精を入れる者には、その身分に応じて、褒美を与えた。人々にこれを
美談とせぬ者はいなかった。

――『当代記』



343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 08:46:31.68 ID:h78xrH/D
秀頼はぼんくらだったのかちっとは出来た人間だったのか
顔は秀吉の面影はあったのか似ても似つかなかったのか
実際がさっぱりだなあ

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 09:06:12.48 ID:GifEEbwp
>>343
あの時代で20過ぎて個性がさっぱり見えないってのは、まあその程度の人物だったのでしょうよ。