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大阪の陣の前兆っぽい事

2018年07月12日 10:56

925 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/12(木) 00:32:05.26 ID:dWRGVtRJ
大阪冬の陣は慶長19年の事であったが、その年の春より、下々が「門屋木戸屋」という言葉を
多く口にするように成った。また小歌に「十五にならば前に垣をめされよ」という歌が専ら歌われた。

5月の晦日に大雨が降り、摂津河内和泉全体が水害に見舞われた。この時摂津国の大堤が切れた事が
「今ぎれ」と呼ばれた。

6月末より、お伊勢踊りという踊りが流行り、諸国より集まった人々が大阪も通り、かまわずに踊った。

9月、天下輝くほどの光物が東から西へ飛んだ。暮れの六つ時ころ(午後6時ころ)であった。

10月15日、大地震が有った。

その他様々な事が、その年のうちにあった。

(長澤聞書)

大阪の陣の前兆っぽい事が沢山あったらしい、というお話。



926 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/12(木) 11:22:03.55 ID:ckxWvSyp
ただの認知バイアスだよな
災害なら平成の今でも毎年のように何かが起こってるし

927 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 08:36:07.35 ID:LVuhrboZ
お伊勢踊りは、政治的緊張をある程度反映している可能性があるけど・・・

928 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 18:21:14.87 ID:yKRA+Q2p
>>926
いまと違って天変地異には何らかの意味があると思われていたわけやん?

929 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 18:28:45.61 ID:BBT1hpwE
豪雨災害は麻原処刑のせい、と大真面目に語る奴が2018年の今いるぐらいだ
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伊藤武蔵守、馬験を拾う事

2018年06月30日 21:12

899 名前:人間七七四年[] 投稿日:2018/06/30(土) 12:04:43.19 ID:FfwUYCBs
伊藤武蔵守、馬験を拾う事

同じ日秀頼は楼門に打出でて、灑金を緋威にしたる物具著て、太閤の時より伝えられし金
の切っさき二十本、茜染の吹貫十本、玳瑁の千本槍を並べたて、太平楽と名付けたる七寸
有りし黒の馬引立てられし所に、先陣皆敗北しけると聞こえければ、今は是迄なり、敵の
中に駈入り討死せん、と進まれしを、速水時之、今打って出たりとも勝利候まじ、疾く本
丸に入らせ給え、とて引返す。斯りければ士卒散々になりて馬標を棄てたりしに、伊藤武
蔵守遅れて帰りは入りしに、是を見て、朝鮮迄聞こえし豊臣家の馬標を敵拾いなば、大坂
城中に男子は一人も無きと日本国中の物笑いとならん、と言う儘に、手づから振りかたか
けて、城中千畳敷に帰り入りけり。

(常山紀談)

 大坂夏の陣の終局場面、5月7日の話。
 数千の秀頼馬廻り衆が、戦わずして壊乱か。最終的にほとんどが討死したとされるが、どのように戦ったのだろう。

 玳瑁の槍千本って、ものすごく高価そう。キンキラキンの豊臣家らしい武装。

※玳瑁(タイマイ)


大阪方の人々

2018年06月22日 10:32

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 09:17:50.00 ID:+Vch1/Y2
豊臣秀頼公は、大阪冬の陣のおりには御歳23であった。世の中に無いほどのお太りであった。
木村長門も同年である。
大野修理はその頃、47,8くらいに見えた。
後藤又兵衛は60あまりに見えた。男ぶりは百人頭という風情の人であった。
真田左衛門佐は44,5くらいに見えた。額に2,3寸ほどの傷跡があり、小兵なる人であった。
秀頼の御子8歳と長宗我部の二人は戦後生け捕られ、京にて御成敗された。

(長澤聞書)

大阪の陣で後藤又兵衛に従った長沢九郎兵衛による、大阪方の人々の印象



32 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 10:47:30.98 ID:K53k58Oq
何でそんなに太っちゃったんだろう・・・

33 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 12:11:36.59 ID:tpZc7hd2
蒲鉾が大好きだったんだよね

34 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/06/22(金) 16:21:57.96 ID:L0H/Woxq
北の将軍様もお太りになってるよな

秀頼藪之事

2017年03月26日 19:26

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/25(土) 23:30:42.64 ID:BU1a2z98
〔領内志佐〕秀頼藪之事

 大坂落城のとき、秀頼は薩州へ逃れ行きその蹟があることを前に言った。
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9991.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10320.html
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-10623.html
実事だとみえる。

 そういったところこの頃ある話を聞いた。
領内の志佐地方というところに、秀頼藪と呼ぶ所が在ると。
もしかしたら薩州への道にしばらくここに隠れ居たのか。
訝しい。

(甲子夜話三篇)


種子島蔵人

2017年03月08日 11:27

707 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/08(水) 10:15:43.86 ID:b0jUgklp
或る本によると、豊臣秀頼は大阪落城の後薩州に下向されて島津家を頼み蟄居、
種子島蔵人と改名されたという。

寛永の頃、京都の具足師何某の所に、薩摩より鎧の修復が依頼された。
具足師はそれを見るや

「この鎧は常人の所持するようなものではない。かつて太閤秀吉公がお召になったという
鎧についての言い伝えと全く同じだ!」

そう思っていたが、その後再び具足の修復を依頼され、その具足には『先年秀頼公御召の具足』
と有り、先の修復の時の疑問が解決したと言ったそうだ。

また伊勢奉幣の目録に、『豊臣某』と書かれているものもあるとか。

(翁草)


この説虚実を知らず

2017年02月28日 08:08

625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/27(月) 20:29:57.84 ID:EACPwTQf
豊臣秀頼の最期については、異説が非常に多くて事実を分明できない。
おおよそ世の説を以ってすると、秀頼は大阪落城のあと薩摩へ退いたとされる。
薩州において客分として安居し、しかもかなりの長寿を得て、延宝か天和の頃(1673~83)
90歳あまりで亡くなられたという。

その頃、薩摩の太守が参勤の御挨拶の砌に、将軍家に対し御人払いをして言上する、という事が
あったそうだ。この時薬研藤四郎の短刀が献上されたそうだが、それ以外に何が語られたのか、
全く知られていない。(この説虚実を知らず)

また、この時の随員のなかに真田を名乗る武士がいたそうだが、彼は世を憚って「マナ田」と
称していたという。真田大助の子孫だろうか。(この説も虚実を知らず)

(翁草)



626 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/28(火) 01:26:27.42 ID:QzRy6CAa
昔読んだ小説に真田大助が主人公の話があったけど
武者修行中にチン子切り落とされてそれを哀れんだ実母とセクロスするとかって内容だったから
ずっと架空の人物だと思ってた

秀頼は毎度、惣構を巡って、

2016年11月24日 14:37

342 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 03:17:03.16 ID:vSSs2BW6
今回の籠城中(大坂冬の陣)、秀頼は毎度、惣構を巡って、小事でも
精を入れる者には、その身分に応じて、褒美を与えた。人々にこれを
美談とせぬ者はいなかった。

――『当代記』



343 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 08:46:31.68 ID:h78xrH/D
秀頼はぼんくらだったのかちっとは出来た人間だったのか
顔は秀吉の面影はあったのか似ても似つかなかったのか
実際がさっぱりだなあ

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/24(木) 09:06:12.48 ID:GifEEbwp
>>343
あの時代で20過ぎて個性がさっぱり見えないってのは、まあその程度の人物だったのでしょうよ。

北野天神の奇特

2016年11月16日 22:02

329 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/11/16(水) 02:56:44.66 ID:IXpkThrf
・この春(慶長13年2月)、秀頼公が疱瘡をお患いになった時、天神の御使い
によって、色々な吉瑞があったという。

・この頃、大坂の秀頼公は疱瘡をお患いになり、はなはだ危急であった。
西国・中国衆は密々に秀頼公を見舞った。これは家康公の前を憚りなさった
ものか。中でも、福島左衛門太夫(正則)は、急いで大坂に参上したという。

・秀頼公の患いがようやく本復した。北野天神が影向する奇特があったという。

――『当代記』



大阪が社稷を失う基

2016年09月02日 19:55

50 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/09/01(木) 19:03:25.11 ID:szwZYy7K
将軍秀忠の娘(千姫)と豊臣秀頼との婚姻の沙汰有り、この執成を行ったのは加藤肥後守清正であった。
肥後守はこの当時、肥後熊本に在城して本知行70万石、御預り地24万石を支配し、誠に秀頼にとって
補佐の臣であった。

この姫君が大阪に輿を入れた後、暫くの間は天下無為の思いをなした。

このお輿入れは慶長8年7月28日という説があり、また慶長10年7月28日だったともいうが、これらは共に
妄説である。徳川家の実録によると千姫のお輿入れ慶長13年7月28日、輿添は池田輝政、浅野幸長とある。

しかしこの時豊臣秀頼は、関東(幕府)の仕方を悪み、そのため御台所とも不和であり、淀殿も後々には
対面すらしなくなった。この事は関東が、豊臣家に対する感情を悪化させる最初の出来事であった。

加藤清正は秀頼と千姫の不和を聞くと大いに嘆き、数ヶ条の言葉を以って諫言をしたが、秀頼は
全くその意見を聞かなかった。そしてこれは、大阪が社稷を失う基となったのである。

(慶元記)




天命が既に然らしめる所であろうか。嗚呼。

2016年05月29日 13:07

658 名前:1/2[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 00:04:09.47 ID:BEJ0ECpz
大阪冬の陣の和睦後も、畿内の情勢は安定せず、大阪勢が京都を襲うとの風聞が流れると
京は大混乱に陥った。この知らせを受け取った徳川家康は大いに驚き、これは未だ豊臣秀頼
大阪城に在るために、大阪方諸浪人の者達の策動が収まらないのだと判断し、
秀頼に書状を送った

『連々考えるに、秀頼公が大阪城に在ることが、人々に疑心暗鬼を生んでいる。
であれば、国家安穏のためにひとまず大阪城を明け渡し、大和の郡山に移られよ。
その間に畿内を安定させ、大阪城も元通りに普請してお返しするだろう。
七十に余る私であるから、悪しきことは申し入れはしない。織田有楽、大野修理も
よくよく理解して秀頼公を諌めてほしい。

承知なければやむを得ず出馬となるだろうが、和睦から間もなく再び確執に及ぶのは
信を天下に失うに似たり。よくよく了解して、豊家の社稷を絶やさないよう計ってほしい。』

この知らせを受け取った大野治長は驚愕して秀頼に伝える。秀頼は諸士を千畳敷に集め評定を行ったが、
この時真田、後藤は思う所あって出席しなかった。

秀頼は今度の事態に「諸将の心底を聞きたい」と発言を促したが、一大事の儀であり、互いに目を見合わせ
誰も言葉を発せようとしなかった。

が、ここで長宗我部盛親が進み出た

「このように申すのは、思慮が短いかもしれません。ですが道理に合わなければ用いぬまでのことです。
去冬の扱いについて、天下の規範になるような証拠もなければ、和睦の儀は然るべからずと真田、後藤が
言っていたのは、つまりこの事であったのです。
あの時、和平が永く続かないことは、この私ですら解っていました。

今、関東の望みに任せてこの城を去って和州郡山にお移りあらば、一時的には穏便に済むでしょう。
しかし程なくまた難題を申しかけられ、さらに他境へ御座を移されることもあるでしょう。
そうなった時、七手組の者達は勿論、この城に集まった渡りの諸士たちまでも、郡山から他に移ると
成れば、どれほど志のある勇士であっても、望みを失い離散する者も多いことでしょう。
その頃になると今この城にある古老の者達は、寿命で尽く死に果てているでしょう。
であれば、一体誰があって君を守護するのでしょうか?御本懐を果たし申すべき者もなく、もはや
自滅より他ありません、

万一、十分な幸運を得たとしても、織田常真(信雄)と同程度の格式を得るくらいです。
秀吉公の時代、人はみな、この織田常真を卑怯の人として爪弾きにし、信長公の雄才までも、
この人のために罵られたのです。誠に口惜しきことではないでしょうか?

不義卑怯の名を被って生きるのは、武士としてこれ以上の恥辱は有りません。ならば潔く討ち死にして
武名を千歳に残すことこそ願うべきです。
ですが、この城の要害は既に破却され、ここで大敵を防ぐというのは不可能です。
去年、真田、後藤は、美濃尾張までも進出し、また宇治瀬田において防ぐと言上しました。
これも去年であればこの作戦で充分勝利を得ることが出来たでしょうが、今は勝利も覚束ない状況です。
同計同束にてその勝敗が変わることは時の勢いです。

ですが、もはや要害不堅固の城に敵を引き受けても、あたかも籠の中の鳥が殺されるようで無念の第一です。
ですから、何れも討ち死にと覚悟の上は、遠境へ切って出て、五度も十度も強戦して両将軍家の旗本と見れば
左右を顧みず駆け入って奮戦して死にましょう。
木村殿と森殿が言い合わせて二条城に向かえば、京都所司代の板倉も、頭を出すことすら出来ないでしょう。
伏見や茨木に至っては恐るるに足らず。
かくなる上は例えこの城で君には万一御生害あるも、豊家の御恥辱にはなりません!」

この言葉に一座の者達は目の覚めた覚えを成し、「潔し!潔し!」「しからばそのようにしよう!」
そう異口同音に言い合った。

659 名前:2/2[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 00:06:14.29 ID:BEJ0ECpz
が、ここに小幡景憲があった。小幡は松平定勝、板倉勝重と申し合わせて大阪城に入っていた。
彼は武田二十四将の一人、小幡昌盛の次男であり武田兵法を良くすること、大阪城中に知られ、
大野主馬介治房が取り持って豊臣秀頼によって召し出された。
新参ではあったが弓矢の智識(合戦の専門家)であるとのことで、大野治長は彼を評定の席に
召し出し、その末座に在ったのだ。

彼は先程の盛親の言葉が、関東のために甚だよろしくないと判断した。
そこで進み出て申し上げた

「古参の歴々を差し置いて末座から異見するのは憚りあることですが、心頭に浮かんだことをそのまま
差し置くのは不忠の至りですから、その一通りを言上いたします。

徳川家康公は近代の良将たちと、あるいは敵対しあるいは従い、大いにその兵法を学ばれ、
治乱盛衰の機微を察し、欲を抑えることを心がけ、権謀に通じ、その知識の高さは現在において
万々の上に出ています。

聞いた所によると、京都伏見方面には既に段々と軍勢が登っているとのことです。
これは能く状況を知っているということでしょう。
大御所は必ず、盛親殿のような雄偉の将が京都を抑え、美濃の近くまで進出すれば
事難しくなると推察された事でしょう。それを知ったからこそ早速軍兵を登らせたのです。
そのような所にもし諸国の假武者(傭兵)を以って向かえば、敵のために捕虜にされに行くような
ものです。

この大阪城は、城郭の破却こそされたと言っても、七重の曲輪などはなお残っており、敵を防ぐに
便利です。そして八万の兵にその兵糧、玉薬は何れも欠けることなく、ことに城兵の武勇は、去年
両将軍にもみせつけたのですから、敵も簡単には攻め掛かって来ないでしょう。

城兵たちはただ、心を一つにして九死に一生の合戦を遂げるのです。そうすれば、特に西国の者達は、
去年の大阪の勝ち戦によって我々への見方を変えていますから、今度も暫く持久戦を遂げれば、その結果
我らに加担するものも多く出るでしょう。であれば、頼み有る戦となります。

それにこの大阪城本丸は、太閤御苦労の縄張りをして残した物ですから、仮に1,2の曲輪が
破却されても、この城を守衛する事こそ孝子の御本意というべきでしょう。」

そう雄弁を以って語った。
この時、大野治長は元から他境へ軍を出すこと好まなかったため、小幡の意見に方針を決定した
のである。
これは秀頼公の不運であり、天命が既に然らしめる所であろうか。嗚呼。

(慶元記)



661 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 11:44:32.98 ID:kKdVXExc
大野主馬って悪い話ばっかだね。いい話といったら逃げずに死んだことくらいか。

生存したとて死と同じである。

2016年05月29日 13:05

660 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 01:45:53.35 ID:cAiDNTPK
 大阪落城のとき、秀頼が薩摩に行ったことは前にも言った。
(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-9987.html


 さてこの頃聞いたことに、初めは肥後の隈本に立ち退いたとのことである。
従者が五人いたが、三人はかの所で暇を出したそうだ。
肥後でも関東を憚り、薩摩に送り遣わしたという。
(この次第は、人名等を『白石紳書』に見えるという。予の書は戊寅(1818年・文化15年、文政元年)に焼亡したので、人がいうままに記す)


薩州でも関東を恐れて、内々にその実を申し上げると、

「すでに大坂落城して、秀頼生害と披露したので、生存したとて死と同じである。
そのままにしておけ。しかし他国へは出してはならない。」

との御沙汰があり、秀頼は91、92まで存命したという。
その子孫は、今四世ばかりになって、木下谷山村というところに住居して、次郎兵衛という百姓であるとのことだ。


 朝川鼎(善庵)が西遊したとき、まさしく会って聞いてきたという。
秀頼の墓というのも行って見てきたが、同村の普門寺という寺にあって、無銘の石塔であった。
(この谷山村は鹿子嶋から二三里にあるという)
 かの百姓の家に秀頼の鎧、太刀、刀が今でも残り、その他の物は一切無い。
それは、秀頼が亡くなった後、所持の品はことごとく売り払い、それで田畑を買い取り百姓になったためだという。薩摩からは前後手当て等はなかったとのことである。
以上も次郎兵衛が鼎に話したことだという。
これは関東を憚ったためであろう。


 これらを思うと、今の天下の御勢を観ることができよう。
また豊氏の全盛の成果も憐れに思われよう。
(甲子夜話)



662 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 13:07:00.87 ID:9kCyK6as
>>660
>薩摩からは前後手当て等はなかったとのことである。
創作なのに妙にリアルだw

663 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/29(日) 13:31:15.80 ID:T5Pmts09
護衛や監視役はつかんのか

片桐の忠言はこの時に顕れた

2016年05月26日 15:34

650 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/25(水) 22:58:06.80 ID:4/B3iYED
大阪冬の陣の講和に向けた動きが始まる中、大阪城の首脳である織田有楽、大野治長
豊臣秀頼の御前にて、このように講和の受け入れを勧めた。

「両将軍家より、御和睦の事を再三仰せ遣わっています。その上意疎意あるまじと、
神文を進ぜられるとの事です。

この度の合戦においては、日本国中の軍勢が雲霞のごとく集まり昼夜攻め戦いましたが、
我々にはさほどまでの負けもなく、これによって君のご威光は天下に秀で、人々はその武威を
皆恐れるほどです。然れば、また重ねて時節到来の時期が来れば、味方に属するものも多いでしょう。
また大御所も既に七十余歳。御余名も久しくはないでしょう。彼が薨去すれば必ず変があります。
その時は天下の大名2つに分かれ、合戦が起こり我らの存在が大きくなること疑いありません。」

秀頼はこれを聞くと
「お前たちが申すこと、一々道理が有る。だがその内容は結局、この戦が始まる前に片桐且元
私を諌めたものと同じではないか?

であるのに、その諌めを排除して今度の難儀に及び、ようやく今になって片桐の諫言に従うとは、
運の極まりである。
しかし運を天に任せ敵を討ち果たそうと思っても、今は皆和睦を好む。ここに至っては恥を忍んで
降を乞い、士卒の生命を継ぐ事を以って、軍勢の恩賞とするしかない。
早く和睦を調えよ。

片桐の忠言はこの時に顕れた。私は後世から嘲笑をうけ、その恥辱を雪ぐことも出来ない。」

そう、目に涙を浮かべて言った。有楽も治長も顔を赤らめたものの、秀頼が和睦を許諾したことに
喜悦して退出した。

(新東鑑)




651 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 00:09:41.77 ID:36WfMBtD
その恥辱を雪ぐことも出来ないって断定しちゃダメでしょう。
家康の寿命尽きたら合戦になるって話てるんだから勝てばいいんだし、
そして結果がわかってる後世に書かれたってわかっちゃうという二重の意味で

652 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:29:40.29 ID:kWfovEN6


653 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/26(木) 09:56:11.27 ID:o5U5k782
最初に且元の進言を退けたのに結局はそれに従うことになったからだろ
後に合戦に勝てばよいとかそういうことではない

三女下向

2016年05月24日 10:47

649 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/05/23(月) 23:49:54.24 ID:dNUJBjsC
大阪冬の陣の和議が整ったものの、豊臣家においては前年の旱魃によって摂津、河内は
甚だしい不作となり、年貢収入が殆ど無い状態となっていた。
その上、大阪冬の陣のため招聘した諸士頭分の者達、並びに武功有る者達は和議のあとも
そのままに抱え置いたため、物入り多く財政難に陥っていた。

そこで大阪方では摂河泉三ヶ国に加えて加増をしていただきたいと、七手組の青木民部少輔(一重)、
伊藤丹後守(長実)の二人を駿府、江戸へと派遣した。

江戸では将軍秀忠より
「委細は大御所と相談し、宜しきようにお計らいなさるだろう。四月上旬には大御所は
上京されるので、その時にこれを解決されるであろう。両人が大阪に帰ればこの事を秀頼公に
申し上げるように。」

との言葉を頂き、これを受けて駿府の大御所家康も

「将軍がそのように言った以上、この件は事済んだ。早速大阪に帰り、秀頼公を安堵させるように。」
と仰せ下した。

両人は大いに喜び早速駿府を出立、道中を急ぐ所に、遠州浜松の入り口において
大阪より降ってきた三人の女性と行き会った。
大蔵卿局二位局正栄尼である。

彼女たちは、両人より駿府と江戸の様子を問い、彼らの首尾を聞くと安堵し
「我々は駿府に下り淀様の御口上を申し上げます。あなた方は帰路を急ぎ、大阪城に登り、
関東の様子を申し上げるように言った。

この時青木・伊藤の両人は思った

『去年、あの三女が関東に下向して、片桐且元を猜疑し、様々に讒言したことによって
終にはあの大乱が起こったのではないか。
それにも懲りず、またあの三女を下されるとは、是非もないやり方である。
今度もどんな災いを引き起こすか…』

二人はそう畏れ、「駿府に向かわず、あなた方もこれより直に大阪に戻るべきです!」と申したが、
「何故?」と三女は全く合点せず、青木・伊藤も持て余し、

「ならば、駿府においては御機嫌を伺う御口上のみも申し上げ、その他のことは一切秘密にして
話さないでください!何故なら秀頼公のお望みは既に落着いたしたからです!
絶対に他のことは申し上げないように。」

そう固く申し含めると、三女もついには納得して駿府へと下っていった。

本当に、去年の騒動もこの三女の口から起こったのである。なのにまた、今年も下されるというのは
浅智の極みではないか。前車の傾きは後車の戒めという言葉を知らないのだろうか。
二人はそう思うばかりであった。

(慶元記)



豊臣秀頼、幕府との再戦を決意

2015年10月06日 19:28

399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/05(月) 20:13:01.50 ID:bsliRp53
大阪冬の陣の和議の後、豊臣家の領地である摂河泉三国では百姓たちが逃げ出したまま戻らず、
大阪城内に集めた数万の軍勢に与えるべき兵糧も欠乏し、どうにも成らない状況であった。
そこで豊臣秀頼は、大蔵卿二位局に青木民部少輔(一重)を添えて関東に遣わした。

彼らは幕府に対し訴えた
『摂河泉三ヶ国の百姓たち、尽く退散し、未だにその家に安堵しません。
そのため牢人たちに与える糧も有りません。よって、関東よりの援助をお願いしたい。』

幕府はこれを聞くと
「先の和睦の後は、諸牢人の扶持を放ち、穏便の体にしてこそ和平入魂の顕れだというのに、
牢人たちに情けを深め、人を集めたままにしているというのは、秀頼公がその野心を
諦めていないこと疑いなしと言わざるをえない。」
そう考え、彼らに一切の返事をしなかった。このため使いの者達は、どうにも出来ないまま
無為に江戸に在府していた。

豊臣秀頼はこの様子を聞くと、
「この上は討ち死にし、名を後代に残すのだ!」
そういって木村長門守、大野主馬、諸牢人の頭などに内々に金銀数百枚づつを与え、
人を募集するように命じた。

しかしこのことを知った大野修理、織田有楽などは
「どう思われているにしても、日本中を敵に受けて叶うわけがありません!先ずは穏便にして、
時節を待つべきです!」
そう度々諫言したが、秀頼は毛頭許容せず、このため大阪は再びもってのほかの騒動と成った。

(豊内記)

豊臣秀頼が、幕府との再戦を決意したお話である。




400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/05(月) 20:32:05.69 ID:X5C2DS6f
そんな金があるなら米買えよ
霞でも食えってか?

401 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/05(月) 21:23:58.04 ID:tE7tVZPn
この時青木が板倉に拉致られて再び徳川方に仕えたわけか

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/06(火) 00:40:18.96 ID:eXeo6N2+
時節待ってもなぁ

秀吉の愛妾が秀頼という男子を生んだ

2015年10月06日 19:26

403 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/06(火) 00:47:37.43 ID:0a5oehs5
 賊魁(豊臣秀吉)には子がなかったので、妹の子を自分の養子にした。賊魁が、大閤と自称するに及んで、その養子を関白にし、伊勢・尾張などの州を分って領土としてやった。
 
 壬辰(1592)年の冬になって、秀吉の愛妾が秀頼という男子を生んだ。
〈ある者の言うには、大野修理大夫(治長)なる者が、秀吉の寵を得て、つね日ごろから寝室に出入りし、秀吉の愛妾とひそやかに通じて生んだのだ、と〉

秀頼が生まれてからというもの、関白(豊臣秀次)は、自然と心に疑いや懼れが生じ、暗に叛意を抱いた。石田治部(少輔三成)は、彼に従いながら、これを陥れた。
秀吉は、関白を自決させようとしたが、関白は紀伊州高野山に逃れ、剃髪して僧となった。秀吉は、ただちに、その所在で、またこれに死を賜った。
〈倭の法では、死罪に当る者でも、領土を捨てて僧侶になれば、通例として不問に付すのであるが、秀吉だけは、関白を殺してやっと満足したという。〉

 関白の屋敷も包囲し、その部下を一人残らず殺してしまった。その屋敷は没収して、加賀大納言(前田利長)の与えた。

(看羊録)

秀頼出生にまつわる浮名が朝鮮の捕虜にまで耳にしているということは、当時でも有名なゲスネタだったのかも



404 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/10/06(火) 07:52:40.25 ID:ipxYJqjU
スキャンダルはいつの時代も盛り上がるんだねえ。

織田勘七郎と赤星内膳

2015年05月23日 15:58

839 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/22(金) 23:43:07.91 ID:+/6/Q1lC
秀頼公の旗本である織田勘七郎(織田信長の甥・津田信澄の孫であり
明智光秀の孫)と赤星内膳(親武。元・加藤清正十六将の一人)が、
淀殿の侍女たちの東大寺へのお参りに護衛として同行したことがあった。
玉造から十三峠道を通って若江まで至ったところ、そこにたむろしていた
者どもが汚い言葉を発しながら侍女たちにふざけかかった。
勘七郎がこれを制しようとしたが、無道者(無法者)たちは言うことを聞かない。
おもむろに内膳が進み出て大喝すると、無道者の頭をいきなり槍で突き殺した。
驚いた無道者たちは逃げ散ったが、内膳は逃げようとした小者の一人の
足を突き、これを捕まえた。
そして、その素性を問いただしたところ、内膳が殺した男は土井大炊(利勝)の
家中で、主命で浮浪(牢人)を装って大坂の様子を探りに来た者であることが
わかった。
これを聞いた内膳は、「関東は秀頼公を滅ぼしに来るつもりだろう」と嘆息し、
勘七郎は「その時には必ず功をたててみせる」と憤った。
この次の年、大坂の陣が起き、関東からの軍勢が十三峠道を通って
攻め寄せた。
内膳も勘七郎も秀頼公のために戦い、命を落としたということである。
                                  十三街道記



豊臣秀頼、出馬の事

2015年04月08日 18:44

656 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/04/07(火) 21:50:14.35 ID:dL07ArE8
慶長二十年五月七日、この日は大阪夏の陣における最期の戦闘となった天王寺・岡山合戦があったが、
豊臣秀頼は天王寺に出陣し、一戦を為して討ち死にすべしと言い、桜の門より出た。

ここに大野修理(治長)が御前に参り
「御出馬の事、先ずは前線にいる真田(信繁)と確認を取るべきでしょう。私が先に行って、
彼と会ってまいります。」
これに秀頼も「ならば遺書いで状況を聞いてこい。」と仰せになり、床机に座って桜の門に待ち居た。

大野が左衛門佐(真田信繁)の元に行くと、左衛門佐はこう言った
「現在、敵と5,6町(およそ5,600メートル)を隔てています。今、船場に備えている
明石掃部(全登)の人数を、幟をしぼって、この西の崖の影を密かに廻って、茶臼山より一町ばかり
先に張り出します。その合図を定めて、この陣より合戦を始める、明石の軍勢が横合いから掛かれば、
十に一つは利を得ることが出来るでしょう。
秀頼公の御出馬、一刻もお急ぎあるべし。」

これを聞き、大野は逸物の馬に乗って数十人を引き連れて駆け帰ったが、前日の合戦で生き残った
大阪方の軍兵たちは、これを見て敗軍したのだと思ってしまい、備も大いに乱れた。

大野は御前に戻ると、左衛門佐の指図の趣を申し上げた。その時、左衛門佐と一緒に居たはずの、
真田の子息である大助が御前に参った。そしてしばらくして「御味方、敗軍いたしました!」との報告が来た。

秀頼はこれを聞いても「出馬するぞ!」と言ったが、速見甲斐守(守久)御前に出て、
「御方敗軍と見えます。今、御出馬されたとしても大軍が崩れ掛かり、大敵を受けて何も出来ません。
御馬を戻し、御本丸だけを固く守り、時至らばお腹を召されるべきです。」
そう申し上げたところ、「その儀尤もである」と同意し、千畳敷へと入っていった。

しかし大阪城内は、このような状況であったので、軍兵多しといえども、皆気色を変え、心々に
落ちていった。秀頼はそのような光景を見ながら、奥の御所に入った。
しかし、かつて名高かった千畳敷も荒れ果てていた。その姿は、ここが完全に消滅した跡も想像させ、
なおいっそう哀れであった。

(豊内記)

豊臣秀頼が、出馬を断念した場面についての記事である。




雑談・大阪の陣の豊臣秀頼について

2015年03月05日 18:35

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 09:06:29.45 ID:59L9f9Rt
信長に気に入られる為、創意工夫で仕事に励んだり時にはゴマをすったり
派閥争いに勝ち抜くため、ライバルを貶めたり仲良くしたり
部下を統制する為、ひとたらしとして褒美を与えたり、ラスボスとして恐怖で支配したり

何不自由なく育った秀頼に出来る訳無いだろうが

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 18:28:11.05 ID:M6wVdTWP
>>488
自分で苦労して築いたものじゃないから、
是が非でも守ろうって気にもならなかったんだろうな

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 03:55:47.78 ID:CDlr8/Rz
>>495
いや、「名」を守ろうとしてるだろ。
当時の武士としちゃあ平均的な考えだ。

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 08:25:55.08 ID:48bwMSsm
武家でもなかったラスボスの落とし子が名とな(笑)

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 09:51:48.29 ID:OzdzEf1W
>>503
そういう場合は尚更じゃないのかな
足軽階層の出身でありながら天下人の父と覇者の姪の母
当然ながら帝王学も教育されてるわけでしょ?

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 03:49:44.76 ID:GWekeBUv
>>501>>505
机上の空論になってたんじゃないのかね。
名を残そうとした割には、武家としてクソみっともない最期を選んだよな。

514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 19:11:03.19 ID:0XDZwj8l
>>511
武家としてみっともない最期というのは、戦わずして降伏したとか、敵前逃亡したとか、
約束なしに土壇場で寝返って寝返りを受け入れられず斬られたとか、そういうのを言うんだよ。具体的な例で言えばな。
落城して自害するのは武家として何ら恥じる最期ではない。

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 19:30:33.71 ID:hlFtmwOQ
いや、負けまくっても生き残れば勝ちだろう。天庵さまを讃えよw

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 19:48:18.49 ID:VBTUscm7
醜い奴が生き残っても何の価値もないけどな 本人以外は

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 21:38:42.25 ID:Uq3ysvBY
武威を見せつけた後は潔く降伏して家門を後生に残す、一般の武家だったらこれで面目は立つが
豊家だとそうもいかないかもね

518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 21:50:19.93 ID:xuqqVNw0
どうせ暴れるなら、関が原の後に豊家単独で徹底抗戦しておけば良かったんだよ。
秀頼が幼すぎるのが辛いが

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 22:30:24.86 ID:FqBxDv60
そういえば今年は大坂夏の陣後ちょうど400年だな。

520 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 23:10:08.97 ID:Uq3ysvBY
平安遷都1200年のときに合わせて京都へ遊びに行ったのを急に思い出した、何もかもが懐かしい

521 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 01:26:40.69 ID:n2yDtp3b
>>517
後北条はその「武威を見せてから降伏」をやろうとしたけど彼我の戦力差があり過ぎてそのまま滅びた…
そんな後北条を下した豊臣が同じ負けパターンにはまるとは何とも皮肉だ

522 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 02:12:05.57 ID:kUSoEhf+
家、領地、名
武士が守るべきものといえばこの3つだが、うまくいっている時は3つとも順調に増えていくからいいが
ピンチになった時にどれを優先するかでその人の個性が出るな

527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 09:28:20.19 ID:TXtmmAQq
>>521
大坂城と小田原城が鉄壁過ぎて、この城があればなんとかなるって
判断を誤らせてる。

城を守るのは所詮、人なんだから落ちない城は無いのに

528 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 12:06:51.55 ID:KJsq2Akq
そりゃ軍神や信玄も落とせない小田原城ならだれが来てもおとせないお!と思うのは仕方ない

529 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 15:54:22.40 ID:WGljER3w
小田原城は軍神、信玄の攻撃受けた時よりも数倍レベルアップしてた

ラスボスも小田原城に触発されて、上方に帰還してから京都に御土居
大坂城に障子堀を構築したりしてる

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/05(木) 19:51:39.12 ID:iXDrqSY4
>>528
殿といっしょの氏康が真っ先に頭に浮かんだ

常高院よ、二度と私の前に出てくるな

2015年03月04日 18:43

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 00:14:37.29 ID:PEzwStB5
慶長20年(1615)、豊臣秀頼が誓紙を違え和睦を破り、再び諸牢人を募集し、これにより
京大阪に大きな騒動が起こっていることが関東に聞こえると、大御所徳川家康は、4月4日に
駿府を立ち、同18日、京に到着した。大樹徳川秀忠は4月10日に江戸城を出て、同21日に
伏見城に入った。これにより、貴賎南往北来の混乱をしていた洛中も落ち着きを取り戻した。

前の冬の陣に従軍した軍勢はようやく本国に帰り、未だ弓も弓袋に入れていない有り様であったが、
再び両御所により上洛するよう命が下ると、日本の諸大名は、今度こそ軍功をなして
天下の誉れを得ようと、夜を日に継いで駆け上がった。よって五畿内の内は、野にも山にも諸軍勢が
満ち満ちて、未だ秋ならぬ都の景色も、色めいて紅葉を吹き散らしたようであった。

両御所は京に到着すると常高院(淀殿妹・初)を召して言った
「我々は秀頼公の御為を浅からず思い、この和睦を整え誓紙を取り交わしたというのに、
再びこのような事を思い立つとはどういう事だろうか。
しかし、この上でも大阪の城を明け渡しさえすれば、代わりにどこの国でも望みに任せて
参らせるであろう。このことを、伝えて頂きたい。」

常高院は大阪城に入り、秀頼達にこのことを伝えると、秀頼母北方(淀殿)、大野修理亮(長治)らは
その提案に同意し
「どう考えても叶わないのですから、虚しく朽ち果てるよりも、身を全うして時節を待たれるべきです。」
そう主張したが、秀頼はこれに、以ての外に怒りだした。

「時節を待てと!?今の世の人心を知りながら、そのように計らうというのは、臆病心のする業である!
そもそも弓矢の事に女が口を出すなど、ろくな事に成らない!(弓矢ノ事ニ女ノ指出、墓々布事侍ラス。)
常高院よ、二度と私の前に出てくるな。どうしてもというなら、この扱いの事は、私の髑髏に逢って伝えよ!」

そう言い放つと障子を乱暴に開け、奥の御所へと入っていった。

(豊内記)




507 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 01:00:59.56 ID:c5d7+/tD
こういう逸話見ると父親の栄光を吹き込みすぎたのかなって気もしてくる。
こういうのは強気で押せば良いってもんでもなかろうよ。

509 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 01:49:12.23 ID:aGWGO8D+
人の上に立つ人物が滅びの美学みたいなものに突っ走るとそれに同調してない配下は悲惨だね。
三成との友情美談みたいになってる大谷吉継の話なんかも。
やはりそういうこともあり得ると覚悟の上で奉公はするものなのだろうけど、そうはいっても配下下々の者にも家庭や生活があると思うと
なんとも悲しい。

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 08:27:03.30 ID:CN2rvlca
大坂方に残った将兵が戦うことで固まってしまったんだから
大将の秀頼が彼らを捨てて逃げることはできないわな。
それこそ末代までの恥さらし、偉大な秀吉への最大の裏切りだわな。

大阪は再び、以ての外の騒動と成った

2015年03月02日 18:27

486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 06:59:21.49 ID:qv6GP8+Z
大阪冬の陣が講和し、慶長20年(1615)正月3日、大御所徳川家康は京を立って駿府に帰り、
同25日には大樹秀忠が伏見を立ち武州江戸城へと帰っていった。

大阪は石垣が破られ平坦となり、鹿の伏せる野原となれば、名にしおう梅の香りもなく、
何もかも昔とは様変わりして、正月三日の若菜の祝言も、形ばかりに行われた。
豊臣家の領地の百姓は未だ耕地に戻らず、大阪城に集まった数万の軍勢に与えるべき兵糧も
絶えてしまい、どうにもやりようがなかった。

そこで大阪では、大蔵卿二位局に青木民部少輔を付け、関東に遣わし援助を願い出た。その内容は
『去年の大乱、および洪水によって、摂河泉三ヶ国の百姓たちは尽く退散してしまい、未だその家に
帰住しません。そのため軍勢に与えるべき糧もありません。従って援助をお願いしたい。』

関東ではこれを聞くと
「先の和睦の後は、諸牢人の扶持を放ち、穏便の体にしてこそ、それが入魂した現れとなるのに、
逆に諸牢人への情けを深め、人を集めたままにしているのは、秀頼公の野心が未だ止まっていない事
疑いなしと言わざるをえないではないか。」
そう答え、さらなる返事もなく、使いの人々はそのまま何も出来ず江戸に在府していた。

豊臣秀頼はこの有り様を聞くと、
「この上は討ち死にし、名を後代の残そう!」
そう言って、木村長門守、大野主馬助といった諸牢人の頭などには、内々に金銀百枚ずつ下し、
人を募集するようにと伝えた。

大野治長、織田有楽らはこの事を知ると大いに驚き
「どのように思し召しになろうと、日本全体を敵に受けられてその思いが叶うことはありません!
今は先ず穏便に済ませて、時節をお待ちになるべきです!」
そう度々諌言したが、秀頼は毛頭これを受け入れず、これによって大阪は再び、以ての外の騒動と
成ったのである。

(豊内記)

豊臣方の記録と考えられている豊内記でも、やはり「主戦派」は秀頼自身だという認識があったのですね。



487 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 08:31:05.23 ID:XtnwO/c2
父親の才覚をすがすがしいほど受け継いでないなあ

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 09:06:29.45 ID:59L9f9Rt
信長に気に入られる為、創意工夫で仕事に励んだり時にはゴマをすったり
派閥争いに勝ち抜くため、ライバルを貶めたり仲良くしたり
部下を統制する為、ひとたらしとして褒美を与えたり、ラスボスとして恐怖で支配したり

何不自由なく育った秀頼に出来る訳無いだろうが

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 12:33:51.95 ID:E7i5jg5g
真の権力者淀君と闘っている

495 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/02(月) 18:28:11.05 ID:M6wVdTWP
>>488
自分で苦労して築いたものじゃないから、
是が非でも守ろうって気にもならなかったんだろうな

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 03:55:47.78 ID:CDlr8/Rz
>>495
いや、「名」を守ろうとしてるだろ。
当時の武士としちゃあ平均的な考えだ。

502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 07:35:43.24 ID:LlKegIdi
武家にとって「面目」ほど大事なものはないからな

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 08:25:55.08 ID:48bwMSsm
武家でもなかったラスボスの落とし子が名とな(笑)

504 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 09:02:17.23 ID:5oOzv4vq
秀吉なんて小牧長久手の講和の時は、信雄には土下座をし家康には妹と実母を人質に出すなど面目も何もあったもんじゃないが、
ある意味だからこそ、あの強烈な独裁権力樹立してるわけだしなあ。

メンツを大切にするのは武士にとって必要なのだろうけど、それは君主の素質ではないわな。

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/03(火) 09:51:48.29 ID:OzdzEf1W
>>503
そういう場合は尚更じゃないのかな
足軽階層の出身でありながら天下人の父と覇者の姪の母
当然ながら帝王学も教育されてるわけでしょ?

511 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/03/04(水) 03:49:44.76 ID:GWekeBUv
>>501>>505
机上の空論になってたんじゃないのかね。
名を残そうとした割には、武家としてクソみっともない最期を選んだよな。