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屍暴戦場唯是天

2021年03月28日 16:15

646 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/03/28(日) 13:37:51.94 ID:6RBK85DI
天正元年、織田信長との江北の戦に朝倉が敗れると(刀根坂の戦い)、信長の兵、撤退する朝倉軍を
追撃すること急であった。
朝倉の侍大将である山崎長門守(吉家)、託美越前守は柳ヶ瀬にて踏みとどまり支えると、
これに励まされて返し合わせて、討ち死する者も多かった。
山崎も大軍の中に駆け入って討たれた。

託美越前守はは矢立の硯を取り出し、師を一首書いて落ち行く者に頼んで、故郷に届けさせた。

 萬恨千悲有驀然、唯識今夜入黄泉、故園更莫灑愁涙、屍暴戦場唯是天
(萬恨千悲は急に起こるものだ、私はただ、今夜黄泉へ入ることを知っている、
 故郷の人々よ、嘆き涙を流さないでほしい、屍を戦場に曝すのも、ただこれは天の定めた運命だからである)

かくて散々に戦って討ち死にした。その間に朝倉義景は逃れ、越府(一乗谷)へ引き取った。

常山紀談



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朝倉家にも滅亡の時が訪れたと見え

2018年12月05日 16:18

498 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 14:57:37.13 ID:8cGYkPYR
去るほどに、栄える者は必ず衰え、生まれる者は必ず滅するの理の通り、朝倉家にも滅亡の時が訪れたと見え、
近年(朝倉義景の時代)多くの一族や被官が、或いは病死し或いは討ち死にし、家運の危うさは言うまでもなかった。

先ず右兵衛尉景高の嫡子次男が、一年の内に二人ながら死去し、その後景高も死去して末子孫三郎一人残命した。

九郎左衛門景紀の嫡男四郎左衛門景ミツは、加賀へ出陣した折、大将であった景高と相論して自害し、
その舎弟中務大輔景恒も死去したが、父景紀も程なく卒去した。

堀江左衛門三郎景忠は、朝倉義景の勘気をこうむって能登国に立忍び、伊勢左衛門太郎景茂は、
過酒して不慮に酔死したため、国の防衛も薄く心もとない状況になり、人々は只薄氷を踏む心地であった。

その外、玄蕃助景連、同次郎左衛門景高、前波藤右衛門景定、小林備中守、窪出九郎右衛門、黒坂備中守といった、
千騎二千騎の軍勢を引廻すほとの者共も悉く死亡して、その後に義景は少数の、若輩の佞人たちだけに世を任したため、
功のある者には恩賞無く、罪の有る者は誅伐されず、彼らは奢りを極め欲を縦にし、己を強くし君を弱めて、終に
国の禍を招いたのだ。
(朝倉始末記)

老巧の者たちが多く死んだ事が朝倉の衰運を引き寄せた、と言う朝倉始末記の記事。



499 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 15:38:02.15 ID:GC/GK0DC
救世主の登場まであともう少し

此輪の内になしと知れ君

2018年01月02日 20:59

427 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/01(月) 21:34:22.11 ID:DaFU5Q93
越前への織田信長の侵攻により、朝倉義景が一乗谷を棄てて大野に退く時、義景は
福岡石見守に二人の子を預けた。そして
「一人は女であるが、髪を下ろし、後々比丘尼として出家させよ。もう一人の喝食は
大阪(本願寺)との契約であるので、大阪に遣わすように。」

しかし福岡は
「私が二人の女子を預かり申すこと如何でしょうか?私はただお供つかまつり、
死ぬことを一途に決めているのです。」
と反論したが、たって命じられたため力なく、彼は急ぎ二人の女児を連れて宿所は帰り、
妻女にも告げず、一首の歌を書き付けて涙とともに出立した

『今日出て 廻りあはずば小車の 此輪の内になしと知れ君』

二人の息女を馬に乗せ、中間二三人計りにて豊原寺を目指して進んだが、野伏たちが
集まり押し留めた。
福原は目的をありのままに伝えた。
野伏たちは聞いてきた「殿は何者か?」
「私は福岡である。」

これを聞くや野伏たち
「ならば通せない!先年鳴鹿の村と公事(裁判)の時、そなたは彼らの奏者をして、
我が村は負けとなった。今参り会った事こそ幸いである、その時の返報申さん!」
たちまち村々より軍勢が出てきた。福岡は今は叶わぬと思い、下人に持たせた薙刀を取って
大いに戦い、討ち死にした。

その後、二人の息女は方々流浪し、喝食は後に本願寺門跡の妻と成ったという。

(士談)



428 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 11:55:26.17 ID:jyp6Z660
娘たちには手を出さなかったんか
殺して身ぐるみ剥ぐのかと思ったわ

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 18:49:33.17 ID:isK3qbhd
だなぁ。女はそうそう殺さない気が。

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 19:04:58.13 ID:isK3qbhd
一揆衆根切りのときは女子供も殺すけど、基本は奴隷として売り飛ばす

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/01/02(火) 19:14:46.22 ID:jyp6Z660
娘だったかどうかは覚えてないけど姉小路のところは殺されてたはず
殺した連中だったかが、寺に着物とかを納めてる

英林塚の鳴動

2016年02月19日 14:49

175 名前:人間七七四年[] 投稿日:2016/02/19(金) 01:32:13.30 ID:nyJqeplz
英林塚の鳴動

越前朝倉氏が栄華を誇った夢の跡である一乗谷朝倉氏遺跡。代々の当主の住居であった
朝倉氏館跡の南東の高台に一つの塚がある。人呼んで「英林塚」、戦国大名朝倉氏の祖で
ある朝倉孝景の墓である。英林塚とは孝景の戒名「一乗寺殿英林宗雄居士」に由来する。

この塚は、昔から越前国に災いが起きる前触れに不気味に鳴動するという言い伝えがあった。
あたかも雷鳴、あるいは大砲の轟くような音がしたという。
現在では、「夜、塚の近くに行くと、『おぉ~…』って男の叫ぶ声が聞こえるんですぅ」なんて言う
怪談話も登場している。言い伝えが進化・変化を遂げたものだろう。

ところが、朝倉義景治世下の永禄12年(1569年)に記されたとされる『朝倉家伝記』では、
まるで上田秋成の「吉備津の釜」(雨月物語)じゃないが、「英林塚が鳴動したら国家安泰!」
と現代まで残る言い伝えとまるっきり逆のことが書かれている。御家が滅びるとこんなことになるのか。

時代により吉凶がまるで逆となってしまう英林孝景さんのお墓の悪いお話。


(きっと、義景さん切腹、ヒャッハー大暴れ、一揆皆殺しの頃、毎日鳴ってたんだよ、それで…)




181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 08:53:39.29 ID:7LoAwQos
>>175
そういや初代孝景と義景の墓はちゃんとあるのに、中3代の墓ってどこにあるのか知らんなあ。

182 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 12:06:46.75 ID:tq5yGm1d
名前が同じ人の墓は1つで間に合わせているとか

183 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/19(金) 15:58:41.47 ID:wkcWwOeQ
助けて!えーりん!

ひそかに聞いた所によれば、稲葉土佐は

2014年04月16日 18:54

996 名前:人間七七四年[age] 投稿日:2014/04/16(水) 17:13:05.69 ID:3O1NE2n/
敗軍の大将が、士卒からはぐれて、どれほど落ちぶれていても生捕るべきではない。
何故ならば大将が生捕りになるのは、その人のためにならない。
第二には生捕ったと言うよりは、首を取ったと言うほうが聞こえが良い。
稲葉良通の家来、稲葉土佐朝倉義景の首を取って天下に名を知られた。しかし田中吉政の家来、田中伝兵衛は
石田三成を生捕ったが稲葉土佐ほど名を高めなかった。
ひそかに聞いた所によれば、稲葉土佐朝倉義景の首を朝倉景鏡から受け取ったらしい。

武功雑記より。本当なら朝倉景鏡稲葉土佐の、ちょっとどころでは無い悪い話。




997 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/16(水) 17:58:07.62 ID:yt/GKHlU
西尾久作「くたびれた所を討ち取ったけど手柄にならなかったお。」

元亀三年夏・朝倉軍江北出陣

2014年01月21日 19:03

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 13:40:41.34 ID:CDx03HwY
元亀三年夏・朝倉軍江北出陣

元亀三年(1572年)七月、織田信長は北近江小谷城の浅井長政を本格的に攻めるため、
最前線の砦を固め、諸国の軍勢を動員し、まず浅井方に属する琵琶湖の浦々を放火した。

これを受けて浅井長政は越前の朝倉義景へ急使を遣わし越前勢の出陣を求めた。義景は
これを了承、七月中旬に一族の景鏡が先陣として兵五千を率いて小谷城に着陣、続いて
一万ほどの越前勢が先手として到着、七月二十日に信長が横山城に現れると、いよいよ
総大将義景の登場である。一族衆及び直臣からなる本体を率いて、二十八日に柳ヶ瀬に
押し寄せ、八月三日には小谷城最高峰である大嶽に陣を構えた。朝倉家総力を挙げての
出陣である。織田方も浅井・朝倉方も連日鬨の声をあげ、いまにも大合戦が起こるかの
ようであった。朝倉勢の中には決死の覚悟を示すため、小さな墓石を楯にして只一騎で
押し進み、信長を射倒そうとする者も現れた。越前勢の士気は決して低くは無かった。


だが、その兵を指揮する部将たちが既に調略されてしまっていたのだ。


八月八日、義景の奉行人を務める前波吉継とその子が前線へと進み出た。
前波は義景に無礼を働いてしまい、義景から未だ赦しがなかったため、一手柄立てて
赦免してもらうのだろうと皆が考えていたのだが、、、、

あれよあれよという間に敵方の虎御前山城に入っていってしまった。
白昼堂々衆人環視の中の寝返りである。朝倉陣中に衝撃が走った。


裏切りは止まらない。前波の寝返りの四、五日後、今度は「あの」富田長繁が毛屋猪介・
増井甚内らとともに織田方へ走った。朝倉軍首脳部は動揺を隠せない。次は誰か?
皆、疑心暗鬼となった。

九月に入り、第三の裏切りが生じる。外様衆の池田景久が内通しようとしたのである。
だが、今回は池田の家臣が内通を義景に訴え出たため未遂に終わった。激怒した義景は
越前本国にいた池田の二人の息子を呼び寄せ、父親と共に斬首、綱紀粛正を図った。

しかし、一度灯された疑念は簡単に消せるものではない。加えて寝返り先陣の前波は
義景奉行人であるだけに朝倉軍の内情をよく知っている。下手にこちらから動けば
手酷い反撃を受けるのではないか?こうして越前勢は行動の自由を奪われた。

(つづく)

352 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 13:46:13.67 ID:CDx03HwY
対陣して二ヶ月半経った十月半ば。朝倉出雲守の家臣、竹内三郎と上村内蔵助が相談し
「大軍を催しても睨み合うばかりでつまらぬ。ここは一つ自分たちが働いて現状を打破
しようではないか」ということになった。その夜、二人は風雨に紛れ敵陣に忍び込むと
小屋に火を放った。風にあおられたためか、大火事となり織田方の陣屋七百が焼け落ちた。
混乱に乗じて二人は脱出、夜討ちをかけられたと思った織田方は大騒ぎとなった。
織田勢が鬨の声をあげると、それに反応し浅井・朝倉方も鬨の声をあげる。いよいよ
本格的な夜戦となるかと思われたが、それで終わってしまった。やはり疑心暗鬼に
縛られていたのであろう。敵方混乱を見ながら兵力投入に至らず、夜は明けてしまった。
得意顔で帰還した二人にも、さして褒美は出なかった。上官に連絡せず、独断で行った
ことが評価に値しないと看做されたのだろうか。

陣所を焼かれた織田方では小屋を作り直すことをせず、横山城と虎御前山城の間に
連絡路を造り、その道の小谷城側に高さ一丈(およそ3m)の塀を築き、兵の移動が
見えないようにした。同じ頃、信長自身は美濃に帰国、大将が退いたら追撃しようと
考えていた越前勢だったが、塀のため退陣のことも分からず、ただ妙な物音がすると
思っていただけであった。

十一月に入り、目障りな塀を取り壊そうと行動を開始した浅井・朝倉方だったが、
留守居役の木下藤吉郎、寝返り組の前波・富田らに防がれてしまい失敗に終わる。
その後、一月の間、なおも様子を見ていた義景だったが、降雪により本国との連絡が
途絶することを恐れ、十二月三日(現在の一月半ばにあたる)、遂に越前へ兵を返す
こととなった。


小谷城を守るという目的は一応果たしたものの、寝返りは相次ぐわ、雌雄を決する戦は
できないわ(もっとも義景はそんなもの望んでいなかっただろうが)、結果的に味方の
士気を萎えさせ、疲労を蓄積しただけの長陣だった。

更に帰国後は武田信玄から信長包囲網の足並みを乱したと責められ、踏んだり蹴ったりの
義景さん、この後は滅亡への道をひた走るのであった('A`)('A`)('A`)。





353 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:15:29.32 ID:pwuJT5WU
義昭に尽くすでもなく
信長に味方するでもなく
まともに戦うでもなく
滅んでいった義景さん

凡人の鑑

354 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:31:47.39 ID:TQpS+d1D
親近感が湧くな

355 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 15:36:50.88 ID:GFeUwr/2
凡人からしたら、自ら戦場に出た上に小谷城を守ったんだから、
むしろ何で褒めてくれないの?って思っちゃいそう。

356 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 19:20:12.64 ID:MVuGoiUp
義景「戦らしい戦もしていないのに将兵が減った
   解せぬ」

357 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 19:26:10.91 ID:k52j1PeO
越前へのお帰りにはきっつい追撃が待ってるというおまけ付き

358 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/21(火) 20:21:25.94 ID:P5Kl50oq
決戦もせずに、とみんな責めるけどそれはそれでいいんだよ。
大局的に見りゃ敵を足止めにして他の戦線で有利な状況を作り出したからね。

問題はぼろぼろ寝返りを出した統率力の無さか。
でもこれは義景個人の力量のせいでなく、朝倉家の構造的欠陥に起因すると思うんだが…。


それにしても、あの辺りの冬の厳しさを知っている自者からしたら
半年間よく頑張ったと思うよ。
信玄の責めるのもわかるが、状況考えりゃ酷だと思う。

361 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/01/22(水) 06:37:35.59 ID:y85MqroD
>>352
朝倉軍の総大将は景健か景鏡なイメージ
余が珍しく出陣したらこれだよ!

朝倉義景と足利義昭、そして見事な駿馬 

2011年08月18日 23:01

452 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/18(木) 11:40:59.31 ID:JZ+QGsBL
永禄10年(1567年)11月、足利義昭は越前朝倉氏の本拠地一乗谷へ下向した。

朝倉家の当主義景は、義昭の懇望する上洛には難色を示したものの、妻を通じて
親戚にもあたる(義輝の室と義景の継室が姉妹)義昭を粗略には扱わず、国を
あげて歓待した。翌年4月には未だ元服を済ませていなかった義昭の元服式を、
自らが加冠を務めて執り行い盛大な宴を催した。そして元服の一月後、代々の
足利将軍が三管四職の館に御成りする際の形式に則り、義昭の自邸への御成りを
実現した。この行事のためにわざわざ京都より公家の二条晴良も下向、義昭に従う
御伴の衆の数百余人、塗輿に乗った義昭は朝倉家臣が厳重に警固する中、義景の館
に入った。

三献の儀が執り行われ、義景より太刀・弓・鎧など様々な武具が義昭に献上される。
そして、庭に見事な鴾毛の馬がこれも献上品として引き出されてきた。

「おおっ!」

さすがは衰えたとはいえ武門の棟梁足利家の血を引く者である。義昭は立ち上がって
馬をよく見ようとする。座敷に控えていた御伴衆も皆、庭に下りて馬を眺め讃嘆の
声をあげる。彼らも都を追われた落魄の身とはいえ、やはり武士である。

この時、義景は座敷にはおらず、かといって庭までは下りず、縁の下に置いてある
石の上に立っていたという。


見事な駿馬  立ち上がって眺める将軍(候補)  讃嘆の声をあげる庭の御伴衆
そして  将軍(候補)と御伴衆の中間で満足げに佇む管領(代理)  時は五月

なんとも絵になる構図ではないか!

-------------------------------

義景「いやあ、うちの庭じめじめしててさあ、足汚れるの嫌だったの
    だからどーしよーかなーと思ったけど庭に下りるのやめちゃったあ」


朝倉義景亭御成記」にはここまで書いてござりまする…
なんか執筆者の悪意感じられるのですけれども…





457 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/18(木) 18:41:47.84 ID:bRnA5TpI
>>452
なんでこの人はいつもやることが中途半端なんだ

サイン変えました('A`)

2010年12月05日 00:00

869 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 17:08:04 ID:szztXoxH
サイン変えました('A`)

永禄8年、京で将軍足利義輝が三好・松永勢に襲われて落命する。いわゆる「永禄の変」である。
義輝の弟で奈良・興福寺一乗院門跡の覚慶は、近臣の活躍により奈良を脱出し、伊賀次いで近江へ
逃れ還俗して義秋と名乗る。この一連の動きに尽力したのが、義輝の相婿にあたる朝倉義景である。

その後、若狭から越前へ移った義秋は、義景の加冠で元服、名も義昭と改める。義景は義昭を盛大に
もてなしたが、義昭の悲願である朝倉氏の武力により上洛、そして征夷大将軍へ任官、という構想
には同調しなかった。

朝倉家の当時の状況を見れば無理もない。
外様の有力家臣である堀江景忠が本願寺に通じて謀反を起こし、鎮圧まで義昭は一乗谷へ迎えられず
敦賀に留まったままであった。義昭の斡旋により本願寺とは和睦したものの気を許せる状態ではない。
義景の代になってからは上杉謙信と連合して、それまでより積極的に加賀一向一揆を攻めていたので
ある。

一族内では大野郡司の景鏡(義景の従兄弟)と敦賀郡司の景紀(義景の叔父)が対立していた。両者は
数年前の加賀攻めの折、景紀の息子景?(景みつ)が景鏡と大将争いをして敗れて自害して以来、険悪な関係に
あったが、義昭の敦賀滞留がそれに火を点けてしまった。敦賀滞留の折、義昭は景紀の次男景恒を
中務大輔に任官して重んじたが、景鏡がその後巻き返し、義昭が一乗谷へ移る際にその出迎えを務め、
式部大輔に任官される。一乗谷での饗宴の際、景鏡と景紀は席順を争って、片方が出席すれば、もう
一方は欠席する有様であった。

三好・松永に同調する勢力との差もあり、京都制圧の自信は持てなかった。むしろこのまま駒である
義昭を手中に置いて、周辺勢力との外交交渉に使おうとしたのだろう。越前公方の設立を考えたのかも
知れない。

そうこうするうちに、義景の嫡男阿君丸が死亡する。真相は不明だが京都から毒が調達され毒殺された
ともいい、義昭周辺が下手人との噂も立ったという。

一乗谷滞在9ヶ月にして、義昭は織田信長の元へ去る。義景は反対したが止めることは出来なかった。

「最後まで義景を見捨てない」言い残して義昭は去った。


大事な跡継ぎを喪い、一族の結束は更に乱れ、あまり当てに出来ない本願寺との和議だけが残った。

この直後、義景はおのれの花押を変更している。「足利様」と称される武家様の花押を家督相続後
20年にわたって使用してきたが、全く別の公家様の花押に変えたのである。

「新しい花押に変えたのでよろしく願いたい」

薩摩島津氏に宛てた書状で義景はわざわざこう断りを入れている。義景の心境や如何に…




870 名前:869[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 17:09:28 ID:szztXoxH
文字化けした('A`)

「景?」は「景みつ」ね

orz

871 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 18:32:09 ID:nilzV520
薩摩の島津に書状なんて送ってるんだね。
内容はなんだろ

872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 19:22:56 ID:olN5UzYT
義景「いちどあそびにきてください。」

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/04(土) 21:30:29 ID:AfsV1lOK
>>872
酷えw
鉄砲の取引なんじゃない?


875 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/05(日) 11:58:06 ID:SH1J2ONJ
>>874
朝倉の琉球貿易に島津が協力してくれる事に感謝する内容の書状
の事じゃないか?

義景「今度俺、信長倒したら、薩摩にあそびにいくんだ」
義久「…と言う書状が届いて以降返事がありません、この間何故か信長に日向鷹をかつあげされました」

876 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/05(日) 12:29:52 ID:eM2psqAH
>>875
信長「はくだみにした杯やるから日向鷹くれよ」

義景の悪い話「東郷はどこじゃ?」

2010年10月26日 00:01

29 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/10/25(月) 00:34:00 ID:qIr7TxZi
義景の悪い話

朝倉義景は、信長に破れて落ち延びるとき、
一人の農民に「東郷はどこじゃ?」と、聞いた。
農民「あちらの山路を進めば東郷でございます」
その路を進み辿り着いたのは、越前大野だった…。
居城とは全く違う方向に進んでいたのだ。
側に居た、一族の景鏡は(ここまでか…)と思い
義景を裏切り彼を討った。

東郷は朝倉氏の居城の側にある土地だが、
幾つもの山を超えた山深い盆地、則ち大野にもあったのだ。





920 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 00:31:22 ID:gJIEWtTw
>>918
これは既出ではないな
が、どちらかといえば悪い話スレの逸話だ
まぁいいけど

嗚呼勘違い…としか言いようがないw

922 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 08:31:59 ID:B+2QoeZX
項羽と劉邦に似た話あったな


30 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 00:37:48 ID:YXF2yT/l
自分の領地の地理も把握してなかった義景の悪い話だな

31 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 00:38:27 ID:4iVBkwFC
地名にまつわる地元の逸話なのかな

41 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 21:19:10 ID:ZErkdQpE
>>29
大野に東郷なんて地名今は無いけどなあ。

42 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 21:21:55 ID:gJIEWtTw
字が住所上は省略されてるんじゃね?

43 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/25(月) 21:23:42 ID:5UyBIRCc
稲郷ならある。読みが一緒だからなw

義景頓智話

2010年01月25日 00:12

271 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/24(日) 12:47:35 ID:Jr9Cgzdx
義景頓智話

アレな滅び方をしたためか、アレな見方しかされない朝倉義景。
その義景さんのアレじゃない意外なエピソードの一つ。

ある日、朝倉家の菩提寺である心月寺の和尚と歓談した時のお話。

【義景】(牛の絵が描かれている扇子を和尚に渡し)
「この扇子を進呈いたしましょう。でも牛は返してくださいよ(ニヤニヤ)」

【和尚】(扇子を受け取ると、「叱」と言って地を叩く)

【義景】「??・・・和尚、牛は??」

【和尚】「足の向くまま気の向くまま何処かに行ってしまいました。早く追いかけなさい。」

【義景】「(そう来たか)」

【和尚】(船の絵が描かれている扇子を取り出し)
「では御屋形様、この船は何処へまいるのでしょうなあ(ニヤニヤ)」

【義景】(扇子を受け取ると、くるりと裏返して)
「この浦(裏)に着く」

【和尚】「なるほどお見事、わはははは」

【義景】「わははははは」




272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/24(日) 14:06:13 ID:S/DQszRj
>>271
くそう・・・義景公を讃えたいのに、最後の2行のせいで
「こやつめ!ははは!」のAAに変換されてしまう・・・。

273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/24(日) 15:42:23 ID:7FM3h20Y
義景って六角からの養子説があるんだっけ
六角系家臣を重用してるうち、本来の朝倉一族と養子義景が対立するようになって
家中ゴタゴタを引き起こし、あの優柔不断とも取れる出陣と撤退っぷりの一因になったとか

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/24(日) 15:59:48 ID:IGYCNWjq
それって秀吉が浅井一族で六角氏の元家臣とかいう話だろ。
あまり信憑性が無いな。

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/24(日) 16:01:39 ID:7FM3h20Y

なんで秀吉の話が?
提唱者が同じとかなのか?

義景相談・悪い話

2008年12月20日 00:00

484 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/19(金) 23:11:34 ID:ks54dbSc
義景相談  悪い話

越前ではかつて会議が紛糾して物事がなかなか決まらない「小田原評定」のことを
「義景相談」と呼んでいたという。

天正元年7月、近江の浅井長政より信長出陣のため、援軍要請来る。

義景「景鏡に出陣を命ぜよ」
景鏡「ここんとこ出陣が多くて疲れちゃって・・・」
義景「じゃあ魚住景固、代わりに」
魚住「この前、近江で城番したばかりで人も馬もくたばっちゃいまして・・・」
義景「チッ仕方ない。わし自ら兵を率いていくわっ!馬をもて!」

全軍率いて先ずは敦賀に到着。
義景「敵は大軍、だが、このままだと浅井が危ない。近江へ出陣すべきかどうか・・・」
宿老「兵が少のうござる。敦賀に留まった方が賢明でござる」
側近「浅井との義理を重んじ行くべきです」
義景「う~ん・・・・・・・・よし行ってみよう!」

8月6日、近江柳ヶ瀬着陣。続いて地蔵山に移る。
(先に近江入りしていた)山崎吉家「え?お館様ご出陣?まずくないか?」
物見「浅井方の阿閉淡路守、浅見対馬守、月ヶ瀬忠清が裏切りました!」
物見「我が方の大嶽城、丁野城、敵の急襲で落城しました!」
義景「いかん!浅井との連絡が完全に断たれた!陣を立て直さねば・・・兵を引くぞ!」

8月12日深夜、大雨の中、朝倉軍撤退。柳ヶ瀬へ向かう。
義景「さて、ここで陣を立て直しt「敵襲!敵襲!敵襲!」エッ?や、山崎、如何する」
山崎「敦賀におればお館様を止めておったに・・・殿軍仕ってお館様を逃しまする!」
義景「あ、もう行っちゃった・・(おろおろおろおろおろおろ)た、詫美越後はどう思う?」
詫美「漢詩を書きましたので読んで下さい。さらば殿!(席を立つ)」
    萬恨千愁有驀然 誰図今夜溺黄泉
    古郷公莫成愁涙 屍曝戦場野外辺
義景「またこのような縁起でもない詩を詠みおって・・・(おろおろおろおろおろおろ)
   朝倉掃部助、如何いたそう?」
掃部助「追手はすぐそこに迫っています!こう長々と評定しても無駄かと!
    早く疋田の城まで退くべきかと!」
義景「う・・・(おろおろおr掃部助「早く殿!」)そ、そうする。馬引けい」

貴重な時間を無駄にして、結果、大将は退く、部将は立ち向かうで朝倉軍は大混乱となった。
山崎、詫美、掃部助らは奮戦したものの討死。
途中、織田軍をかく乱しようと軍勢を二手に分け、雑兵を別ルートで退かせたが、織田軍
その手に乗らず、本隊とともに退いた義景を目指して一直線。
兵力が減じたところに突撃され、朝倉軍の中核3000が斃れた。

義景「木の芽峠まで退いて全軍集結!天嶮に拠って反撃する!」
朝倉景綱「われらはもう殿の分別についていけません。これにて御免」

景綱の言葉に吊られて軍勢離散。わずかに伴廻り5、6騎。
最早、組織的な反攻を行えず一乗谷へ逃れ、その後、景鏡に騙されて大野で自害。

柳ヶ瀬でああでもないこうでもないと議論などせずに、真っ直ぐ敦賀まで撤退していれば、
たとえ敗れるにしても、もう少しまともな形で敗れたであろうと後世の人は思うのでした。

「変ニ望ンデモ事ノ決断モナク、世ニ云義景相談トテ日ヲ送リ、其内ニ兼テ諸家中モウトミ果テ」
(『越藩拾遺録』より)



486 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/19(金) 23:21:41 ID:uv01VBAh
>>484
心底イライラするお話ですな~(;´Д`)

496 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/20(土) 00:08:56 ID:y2zl3R4u
>>484
戦国時代を生き抜くリーダーとして致命的な欠陥を持ってるなぁ

朝倉武士の最期・壮絶な話

2008年12月19日 00:03

384 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/18(木) 21:08:57 ID:aZthn7NA
朝倉武士の最期  いい?悪い? とにかく壮絶な話

天正元年8月、小谷城救出に近江に出張った朝倉軍であったが、敗色が濃くなり越前へと
退却を始めた。しかし、国境の刀根坂で織田軍に追いつかれ、激戦の末、精鋭はほとんど
討ち取られてしまった。その時のこと。

信長が首実検を行っていると、一人の名の有りそうな武将が引き出されてきた。
前年、朝倉方から寝返った前波吉継に名を尋ねると、初代孝景からの譜代の家柄で府中の
奉行人を務める印牧氏の一族、印牧弥六佐衛門でございます、と答えが返ってきた。
前田、佐々といった若手猛将の部隊と戦っているうちに疲れ果て、動けなくなったところを
捕らえられたという。

信長「印牧の名は聞いたことがある。死を免じよう。縄を解いてやれ。」

印牧「ありがたきお言葉。しかしおのれは朝倉譜代の家臣。特に義景様に目をかけられ奉行
   まで任命された身。すぐに殺していただきたい。」

前波「何を言う。信長様がお許し下さるのだ。本領も安堵されよう。ただ畏まってありがたき
   幸せと申し上げよ。」

この言葉にかちんときた弥六佐衛門、大目玉を向いて前波を睨みつけると、
印牧「貴殿こそ何を言う!前波家こそ朝倉の筆頭重臣ではないか!
   お主が一番義景様のご恩を受けていると言ってもよい。
   それが一度勘気を蒙っただけで、敵に寝返るとは人の道に反しておる!
   さあ、即刻この首を刎ねよ!武士の最期を見せよう!」

最早、何を言おうと聞かないだろうと川原に引き出して斬ろうとすると、

印牧「待て待て、武士を殺すには仕来たりがあろう。腹を切るから脇差しを請いたい。」

意気に思った者が脇差しを渡すと、腹を見事に十文字にかき切って、腸をつかみ出した。

印牧「さ・さあ・・早く・・・」

催促されて、太刀持ちが素早く首を落としたが、その場にいる者皆この最期に感嘆したという。

一方、前波吉継はその後越前守護に任命され、一時栄華を欲しいままにしたが、まもなく失明。
同じ寝返り組の富田長繁に襲われ討死にした。刀根坂の戦いからわずか五ヶ月後のことである。


385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/18(木) 22:12:50 ID:FAKGNnh0
>>384
ホロリとする話じゃあないな。
でも、いい話に入るんだろうなぁ。しかし壮絶やな。

朝倉義景のいかにもな話・悪い話

2008年12月11日 00:03

243 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/10(水) 21:38:00 ID:yBmyIZnk
朝倉義景のいかにもな話

元亀元年8月、織田信長、河内・攝津に出陣。

姉川の合戦で苦杯をなめた浅井・朝倉軍は三好三人衆・本願寺等と
連絡しその背後を突いた!
浅井長政・朝倉景健率いる軍勢が坂本に出陣、宇佐山城を守っていた
森可成・織田信治を敗死させ、京都に迫る!
三好勢は摂津で踏ん張り、本願寺は全国に檄を発し各地で一揆勃発!
南近江で六角勢も気炎を上げる!
信長四面楚歌!

さあ、この時朝倉軍総大将の義景は何をしていたか!


竹生島参拝。


この後、堅田に行きましたけどね。



244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/10(水) 21:40:33 ID:zeTBILKr
>>243
流石すぎて逆に感心するw

253 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/10(水) 22:51:13 ID:F+nlcZhJ
>>243
景鏡の話の後で義景のこういう話聞くとほっとする。
いい人なんだけどね。