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【記事】壬生綱雄 天満宮の暗殺事件首謀者は誰?

2019年04月14日 17:35

853 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/13(土) 21:54:55.43 ID:2Cfosdtp
産経新聞の栃木限定の記事にてこんなものが紹介されておりましたので皆さんにもご紹介したいと思います。

https://www.sankei.com/region/news/190413/rgn1904130009-n1.html

【坂東武士の系譜】第4部・激動の時代(19) 壬生綱雄 天満宮の暗殺事件首謀者は誰?

鹿沼市中心部の天満宮は血塗られた歴史がある。天正4(1576)年2月25日、イチョウの陰から放たれた矢が宇都宮氏の宿老である実力者、壬生綱雄を射抜いた。
この暗殺事件の首謀者は何と綱雄の弟、徳雪斎(とくせつさい)(壬生周長(かねたけ))。「壬生町史」によると、この劇的な場面は「押原推移録」や「皆川正中録」に記されている。
討たれたのは綱雄の父である壬生綱房と記されているなど矛盾もあるが、この後、綱雄の嫡子、壬生義雄(よしお)が大いに驚き、大いに怒り、徳雪斎を討ち果たして話は落着する。

 現在の天満宮は住宅や店舗に囲まれた祠(ほこら)だけの小さな範囲で、近くの今宮神社(鹿沼市今宮町)の鳥居脇にある大木がその情景にふさわしいが、
日本城郭史学会委員の笹崎明さんは「まるで鶴岡八幡宮での源実朝暗殺場面。同時代の史料はなく、江戸時代に創作された話の可能性が高い」と指摘する。
そもそも綱雄の死去は、常楽寺過去帳によると、永禄5(1562)年5月である。

 笹崎さんは「綱雄の死に関与、裏で手を引いていたのは宇都宮氏。壬生氏に翻弄(ほんろう)された主君の意趣返し」とみている。
「鹿沼市史」収録の史料「宇都宮広綱宛行状(あてがいじょう)」によると、広綱は、綱雄暗殺について壬生氏の重臣・神山氏が「特別忠信に励み、奔走した」と褒め、神山氏との連絡役を担った家臣には所領を与えた。


 ただ、綱雄と徳雪斎が対立関係にあったことは事実のようだ。綱雄は宇都宮氏家臣の立場を離れ、力を増してきた北条氏に乗り換えることを画策。一方、徳雪斎はあくまで宇都宮氏に忠節を尽くそうとした。

 なお、江戸時代の「下野国誌」などの系図では、徳雪斎は綱雄の叔父とされているが、笹崎さんは「年代的に兄弟でないと説明がつかない」とみている。

                   ◇

 ◆壬生綱雄(みぶ・つなお) 1508?~62年。「つなかつ」と読む説も注目される。



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壬生家の御家存続の為に

2011年07月24日 23:01

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/07/24(日) 17:43:46.87 ID:VoXGSr6O

壬生家の御家存続の為に

天正十八年、豊臣秀吉が小田原北条氏攻撃の軍を率いて京都から出発した。
常陸の佐竹氏や下野の宇都宮氏らは秀吉に応じて、反北条の意を決した。
それに対して、壬生義雄と皆川広照は後北条氏の元に参陣して小田原城に籠城。
しかし、七月小田原城は開城、壬生義雄はその直後に病死した。享年四十六歳。
義雄は男子に恵まれず、娘の伊勢亀がいるだけで、義雄の死によって壬生家は所領を没収され滅亡してしまった。

しかし話はここで終わらない

壬生氏の旧領は結城領に吸収され、壬生の旧臣は他家への仕官より、帰農の道を選んだ。

江戸幕府が開かれ、京の藤原北家中御門流の「壬生」氏が権現詣で日光東照宮への道中、下野鹿沼の
壬生旧臣が粗末ながらも身形を揃え、京・壬生氏の道中警護を申し出た。
京・壬生氏はこれを断ったものの、道中の共や用事を下野壬生旧臣に許した。

京・壬生氏と下野壬生氏は「縁も所縁もない」、単に苗字が「壬生」であっただけである。

2年3年と下野壬生旧臣からの申し出から、道中の御供も当たり前のようになり、京・壬生氏からは
下野壬生旧臣に金子や酒が用立てされた。

壬生義雄の娘、伊勢亀の婚礼も決まり、所領は無いながらも伊勢亀の嫡男誕生を待ちつつ御家再興を願った
壬生旧臣たちだったが

そこは歴史のやるせなさ

伊勢亀には女子しか生まれず、壬生家の再興の願いは絶たれた