FC2ブログ

由良国繁・長尾顕長兄弟幽閉

2019年10月23日 17:36

534 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/23(水) 13:33:11.48 ID:Nqs6PsjL
天正十三年正月五日、元旦に仇敵である佐野宗綱を討ち取った長尾但馬守顕長は、居城である館林に
家子郎党を招き祝宴をひらき、まず須山城を守っていた小曽根筑前守に抔を与え、二番目に宗綱を
討ち取った豊島七郎左衛門を近くに呼んで「宗綱誅伐の手柄第一である」と抔を与え、感状と褒美が渡された。
(中略)
しかしここで、重臣である江戸豊後守が顕長へ諫言をした
「申し上げます、第一に佐野殿を討ち取ったこと、早速小田原へご報告なさるべきであるのに、御延引
なされているのは何故でしょうか。当家は北条の幕下であり、また小田原は関東無双の大名、油断は大敵
かと存じます。

第二に彦間、藤坂の両城に加勢の人数をすぐにでも差し向けるべきなのに、それも未だ行われていません。
諫言耳に逆らうと申しますが、世俗に勝って兜の緒を締めよとも言います。私が本日顔色のすぐれなかった
のは、この二つが気にかかっていたためです。」

この言葉に長尾顕長も深くうなずき
「その方の言葉も尤もである。しかし小田原への注進はさほど遅れているとは思わない。また
彦間、藤坂への加勢も、佐野方は主人を失い、混乱こそすれ弔い合戦など思いも寄らないはずだ。
しかし勝手兜の緒は締めねばなるまい。」
そう言って、ほどなく彦間、藤坂へ加勢を入れ、また小田原へも、久米伊賀守、金山の由良氏からは
横瀬勘九郎が使いとして立った、北条氏政父子は両人を引見し、懇ろな言葉があり、引き出物なども賜り
帰国した。
(中略)

同年二月二十五日、小田原の北条氏政・氏直父子より、山上郷右衛門という武士が由良、長尾両家へ
使者として差し向けられた。その趣は、先年に金山の武力を以て桐生又次郎重綱を追い払い、また
当春佐野宗綱を討ち取ったこと神妙であると褒め称え
「この上は佐野、栃木、結城、小山辺りまでも手中に入れられたく、出馬に於いては小田原よりの加勢も
参らすべし。だからといって、当方には切り取った領地に対しての野心はない。各々の心次第に
宰領されたい。ただし両家の軍法、采配について、小田原の軍勢との調整が必要であり、
由良国繁長尾顕長同道にて、小田原へお出向きくださるよう、この山上を案内に立てたのである。」
との内容であった。

そこでこの兄弟(由良国繁長尾顕長は兄弟)は打ち連れて上州を発ち小田原へと向かった。
由良国繁は林越中守、同又十郎、今井大蔵少輔、鳥山伊賀守、江田兵庫介、小金井十郎兵衛、細谷勘九郎、
堀江彦助、長島外記、金井田伝吉、以下騎馬三十名、弓鉄砲の者百名。
長尾顕長は南掃部介、新井図書介、山名主計介、貝原丹波守、高山右馬介、市川主水介、大岩大助、
芳野加右衛門、宮崎五太夫、江川海老介、斎藤作右衛門、小菅弥太郎、関口右馬介、岩崎弥助、以下
騎馬三十名、弓鉄砲の者七十名を召し連れた。

両家は小田原に到着すると町家に旅宿を定め、それより氏政父子と対面のため城へ上った。
その彼等に、山上郷右衛門に多米主膳正が付き添い、氏政父子の言葉を伝えた。それは意外の
言葉であった

「各々の来臨祝着である。であるが、そもそも当春に佐野宗綱を討ち取った事、早速に注進あるべき
なのに、延引したのはその意を得ず。また秩父新太郎、岩築十郎などが成田左馬介を案内として
栃木の城を攻めた時、両家は何故に加勢をしなかったのか。そのため両勢は土地不案内により
若干の討ち死にが有った。これは両家が見殺しにしたのも同然である。
それだけではなく、近頃両家は小田原を蔑ろにし、あれといいこれといい奇怪の行為多い。
故に北条旗下の理由なく、この逗留の間に糾明するものである。」

そう述べるや突然多勢で取り囲み、そのまま用意してあった座敷牢へ入れ、番兵を付けた。
従った家臣たちはこの思いもかけぬ突然の事態にどうすることも出来ず、ただ臍を噛むばかりであった。
色々と評議をしても、主人二人が虜になった以上いかんともしがたく、その夜のうちに急ぎ上州へ帰ることと
成った。金山の長島外記、館林の外丸源之允の二人はそれぞれ主人の馬に打ち乗り、小田原から
金山までの四十余里の工程を、五時(10時間)ばかりで駆けつけ注進に及んだという。
彼等の乗った馬は両方ともにその夜死んだ、

(関八州古戦録)

佐野宗綱元旦討ち死に続く、由良国繁長尾顕長兄弟の小田原幽閉についてのお話



スポンサーサイト



神梅一党の事

2019年10月16日 17:06

517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/16(水) 14:21:58.97 ID:yXUU6QxE
東上野勢多郡神梅郷は、松島式部入道古柏、愛久沢能登入道有伴の二人が頭として、
地侍たち数代の暮らしを支えてきたが、彼等が仕えているのは桐生大炊介直綱(助綱)であった。
しかし桐生家が衰えてからは小田原の北条氏の幕下に入り、一年の内一、二度、小田原へ参勤する
他は、他家との関わりは一切なかった。

ところが天正七年、由良信濃守国繁が
「神梅の郷士たちが、一番に近い我が金山に服さず、小田原に参勤するのは奇怪至極である。」
と言い、攻め寄せてきた。

当時、元々の主家であった桐生家は、伊勢崎の荻田備後守に乗っ取られようとしたのを、金山の
由良氏に救援され今もわずかに虫の息を保っていたが、所詮金山の先方たらざるを得ず、
その桐生の兵とともに、金山の藤生紀伊守(善久)、金谷因幡守に率いられた兵に、新田、山高、
津戸、吉次、広沢、荒戸、本宿の地下人百五十人余りも加わり、塩原表へと打って出て、明神の
森に陣を取った。神梅一党を討ち滅ぼすためである。

金谷因幡守はその他の諸士、郷士一千余人を引き連れ梨の木坂の上に陣を進め、後陣の藤生紀伊守との
連絡のため、伊藤右京亮、木村縫殿介に弓三十人を塩原の陣に置いて出撃した。そしてこの部隊は横瀬山の
峰を越えて元原へと出ようとした。

神梅勢より出張っていた強戸、高草木の者達がこれを見て「桐生、金山の勢が押し出してきた!」と、
神梅の松島入道に報告した。入道は「来たか。小勢ならば討ち取って神梅の土産にせよ。」と命じた。

神梅勢はもとより地形に詳しい強みが有り、敵が小勢ならばとたかをくくっていたのだが、最初のうちこそ
勝利したものの、徐々に敵の圧力に押され、だんだんと討ち取られていった。
そこで松島入道、愛久沢能登守以下の者達は神梅に寄り合い評定し、松島入道はこのように言った
「敵はわれら神梅党本来の成り立ちを知らないため、このような事が起こったのだ。」

そもそも鎮守府将軍源頼義が、奥羽での前九年の役にて安倍宗任、貞任兄弟を討ち、京へ報告するため
嫡男八幡太郎義家を代官として差し向けた折に、降参の夷賊七百三十人余りが旧主の名残を惜しんで
この国まで来た。この時、義家が「かねて朝廷で定められている数、百人以上を連れることが出来ないため、
これより皆奥羽に戻るように。」と言った。しかし松島、愛久沢の党八、九十人は、今後奥羽との飛脚の
中継としてこの神梅の山中に残ることと成った。その後桐生家の配下として安堵を得たが、本来は
鎮守府将軍の旗下であり、それ以外の誰の命も受けぬ者である、というのが彼等が先祖より言い伝え
られてきた事であり、この松島入道、愛久沢能登守の二人の老人も自任し、また神梅衆全体の
誇りでも有った。

しかし今はそうも言っておられず、このように桐生金山の兵に攻められては一旦勝つことが出来たとしても
最後には負け、神梅は滅ぼされてしまうため、ここは事の次第を述べて和睦したほうが良いと、松島入道の
長男である松島弥四郎に、丈目、平沢などという郷士が付き添って高津戸の敵陣へ向かった。

高津戸で藤生紀伊守、金谷因幡守と対面して趣旨を述べると、この上は人質を差し出すべしとして
和睦が成った。そしてこの事を金山の由良国繁に報告する間、この三人は高津戸の陣に留め置かれたが、
神梅の者達は不安になって、三百人ばかりが徒党を組んで迎えに来た。

ところがこれを見た梨の木坂の金山勢が「すわ!敵が来た。」と思い、五百騎ほどで突撃し、
横瀬の北と南の表で合戦と成った。互いによく戦い、未だ勝負のつかぬ所に、金山より和睦が成立した
との伝令が届いた。『向後は互いに見方である。』との由良国繁の言葉に一同唖然とした。
この戦いで桐生の兵百七十人余りが死に、また坂の麓ではこの和議のため使いとして来た松島弥四郎も
討たれ、付き従った丈目、平沢も深手を負い、神梅に引き上げた後、二、三日で死んだ。

その後松島、愛久沢より小田原の北条氏政へ事の次第を通達し、返事はなかったという。
以後、神梅の郷士は金山の由良国繁の旗下となった。

(関八州古戦録)

現在の群馬県みどり市あたりに在った、神梅郷士たちについてのお話。



永禄八年上野国撰銭騒動

2012年10月08日 20:26

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 00:02:39.36 ID:ucQTLqwW
永禄八年(1565)のこと、上野国矢場郷(群馬県太田市)に住む、由良成繁の家臣・石橋与三衛門尉が、
平塚郷(群馬県太田市)の百姓から大豆を買い上げた。
ところがこの時石橋と百姓との間で、支払いを精銭(良銭)でするのか鐚銭(悪銭)でするのかで
対立した。そう、これぞ『撰銭問題』である。

この当時、同じ額面の銭であってもその種類や状態によって価値は大きく異なった。
精銭と鐚銭の価値の差は、5~10倍ほどもあったとされる。
少し解りやすく説明すると、日本で日本円の他に、価値としては日本円のほぼ10分の1である
韓国のウォン(漢字表記は円)が額面としては同等の貨幣として流通している、というようなものだろうか。

この時石橋は、代金を強引に鐚銭で支払った。すなわち5~9割引きで無理やり買い取ったということである。
百姓たちは石橋の地所まで出向き当然猛抗議をしたがなかなか会おうとせず、百姓たちは近隣にあった
長楽寺の住持・賢甫義哲に助けを求め、義哲は石橋に書状を送った。

ようやく帰ってきた石橋からの返事にはなんと、『精銭で支払って欲しいのなら計る升を大きいものに変えろ』
というものであった。こんな話に百姓たちも納得するはずもなく、義哲は再び石橋に、
『この地域では鐚銭での支払いは認められていないこと。升も過去から使い続けられてきたものである』
とのことを説明し、精銭での支払いを求めたが、かんばしい反応はなかった。

業を煮やした百姓たちはついに領主である由良氏の居城・新田金山城に押しかけた。これには由良氏の側も
驚き、役人を派遣し裁定を行うとした。しかし3ヶ月たってもこの問題の解決は一向に進まなかった。
そして、それ以後の記録は無く、これが一体どうなったのか、わかっていない。

関東における撰銭問題の実態を端的に表した、貴重な記録である。
(長楽寺永禄日記)





751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 12:29:14.17 ID:zZF9wQuo
あれだな、相撲大会

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 12:58:23.60 ID:dvSpoWsP
そうだな揉め事の解決には相撲大会だな

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 13:57:54.80 ID:PhOw4zrL
相撲大会なら円満解決

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 14:46:52.35 ID:jB/Q2g6o
茶席を整えるようにと宇喜多さまが申しておりました
・・・というか西から信玄が攻めてきたからそれどころじゃなくなったのかもしれん


756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 17:49:19.36 ID:KIOp1hmP
この頃ってまだ貨幣を中国から輸入してたんだっけ?
暦も中国のパクリ。
現代でもいまだ中華暦パクリの悪影響が、まだ寒いのに立春、まだ暑いのに立秋で残ってる。
(大陸性気候の中国は日照時間の変化がすぐに気温に影響する。)

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 17:57:16.41 ID:eiQoRDUO
>>756
日本の独自貨幣は江戸幕府が慶長11年(1606)に公鋳した慶長通宝で待たねばならない。
というかまともな通貨制度が出来たのは全部江戸時代に入ってからだな。

ちなみに慶長通宝は、日本で皇朝十二銭いらいおよそ600年ぶりに政府によって公鋳された通貨

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 18:01:50.34 ID:Jaj5m+dt
この頃の良銭は永楽通宝だな。
暦は宣明暦ベースだが北条は三島暦だろうな。

気候に関しては戦国時分と現代は違うから、
今の感覚でどうこう言うのもおかしい話だ

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 23:23:26.60 ID:78zjey80
>>758
永楽通宝は西では悪銭、東では良銭

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 23:51:44.53 ID:wzVNTHRI
>750
永禄年間に「鐚銭」なんて用語はまだ無いだろ。
原文でなんて書いてあるか興味が有るんだけど。

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/09(火) 12:43:53.22 ID:cHbghv6Y
>>永禄8年(1565)伊勢大湊の「船々聚銭帳」には、港の税金を納めるお金で、
>>永楽銭1枚は”ひた7枚”に値するとの記述があります(この『ひた』がビタ=鐚の言葉の初出とされています)。

ちょっとググったら出てきたが・・・
俺は研究者じゃないので本当かどうか知らんが。

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/09(火) 23:26:12.71 ID:nHbFVm2X
>762
片仮名や平仮名で「ヒタ」「ひた」などと記述される銭種の呼称が
東海地方で1560年代に登場するのは間違いないけど、
しばらくは東海ローカルな用語なのよ。

その後畿内でもヒタ、比タ、比多といった用語の使用例が出てくるけど、
例えば奈良興福寺の多聞院日記だと初見が天正7年(1579)、
東大寺文書で初見が天正9年(1581)かな。
関東だと、例えば後北条氏領国だと永楽銭と対比される銭種は「並銭」などと
呼ばれていて、ヒタという用語の使用は家康の関東入部以降ではないかと思う。

さらに、ヒタに「鐚」の漢字が当てられるようになるのはおそらく17世紀に入ってからで、
今のところ文書での初見は慶長13年(1608)の江戸幕府の法令らしい。

だから永禄年間の上野に「鐚銭」は無いだろうと。

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 09:21:11.01 ID:Rb3K20Cz
出典出してくれてるんだから調べてみればいい

最も緩やかな下克上

2011年12月30日 22:00

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 17:43:25.04 ID:D/Uq39ik
最も緩やかな下克上


戦国時代の初期の頃、上野の国の新田庄の領主は新田氏の後裔である岩松氏であった。
しかし、岩松尚純の代に家宰である横瀬成繁・横瀬景繁親子の専横が目立つようになり、
尚純は明応4年(1495年)に兵を起こしたものの敗れ、子の岩松昌純に強制的に家督を譲らされた。

岩松氏の凋落はここから始まった。
昌純は家督を継いだ当初から横瀬景繁の傀儡の立場に甘んじていたが、横瀬景繁の死後に
子の横瀬泰繁を倒す計画を立てる。
しかしながら横瀬泰繁に計画が漏れ、横瀬泰繁が先手を打って岩松昌純を殺した。これが
享禄2年(1529年)の事である。

横瀬泰繁は岩松昌純の弟である岩松氏純を擁立したが、より専横の色を強め、もはや氏純には何の権限も無かった。
そんな横瀬泰繁も天文14年(1545年)に下野で戦死する。
しかし、泰繁の子である横瀬成繁は相続時既に40歳で政務への参加歴も長く、横瀬氏の支配は盤石であった。

もはや岩松氏の出る幕の無いことを悟った岩松氏純は天文17年(1548年)、失意の末に自害して果てた。
そこで横瀬成繁は従来通りに岩松氏純の子である岩松守純を擁立し、権力を握った。
しかし、横瀬成繁は更なる野心家で、ついには「実質的な権力者」には飽きたらず、「新田庄の正式な支配者」
になることを志向する。

永禄8年(1565年)、ついに横瀬成繁は岩松氏の本拠である新田金山城の城主であると主張し始め、
岩松守純は桐生に幽閉された。
熱心な献金も功を奏して朝廷や時の将軍からも正式な領主として認められた成繁は
やがて由良成繁を名乗り、家系図を改竄して「新田氏の後裔」とまで主張する。

ここに足掛け4代、70年にも及ぶ期間を経て横瀬氏(由良氏)の下克上は完成したのであった。




539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 18:44:13.67 ID:3SW+FGis
由良成繁こんな奴だけど善政敷いてたので領民に凄い慕われてたらしい。


540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 19:09:51.62 ID:CIc4TCEk
そうして支持者が多かったのも下克上が成功した一因だろうな
上手くやったものだ

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 19:20:05.76 ID:SrjtQPKR
善政敷いて支持を受けてるのも自分だし軍事外交切り回してるのも全部自分なのに何でこの座ってるだけの奴に
主人面されにゃならんのよ、こいつ要らなくね?ってのが先だったかもね。

明確にどっち先てのは本人ですらはっきりしてなかった気もするけど

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 19:20:46.18 ID:Gi3e2PjE
善政敷いてくれるなら主君でも家老でもどっちでも良いんだろうな
その方が近代的か

由良氏誕生

2011年08月21日 22:59

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 19:11:55.41 ID:/tJ71kRE
由良氏誕生


横瀬氏は元々は新田氏の血を引く上野の名族、岩松家に仕える家柄であったが戦国中期の横瀬泰繁の代から
家中を牛耳り、やがて主家を凌ぐ権力を得ていた。
だが、専横を極める泰繁は天文14年(1545年)に下野壬生合戦で戦死し後を息子の由良成繁が継ぐことになる。
そしてこの成繁は父以上に容赦がなかった。

家督相続時、成繁は40歳という年齢で政務への参加歴も長く「家中法度」「百姓仕置法度」などを制定するなど
既に実績充分で家中の信任を得ており、
泰繁の死という絶好の機会が有りながらも既に梯子を外されているどころか当主が幽閉されてしまっている
岩松家は流れを変えることは出来なかった。
そして天文17年(1548年)頃、時の岩松当主である岩松氏純が長年の幽閉に精神が擦り切れたのか自殺し、
跡を岩松守純が継ぐとこれも成繁は幽閉した。

成繁は名実ともに新田荘の支配者となるべく時の将軍、足利義輝との関係を重視し、また関白近衛前嗣が
関東に訪れた際にはこれを持て成して義輝より賞詞を賜った。
やがて幕府との関係強化が身を結び、永禄7年(1565年)に成繁は幕府より刑部大輔に任じられ、
御供衆に加えられるとともに毛氈の鞍覆と白傘袋を免許された。
こうして横瀬氏の新田荘支配の正当性は幕府公認という事になったのである。

成繁はこれを期に姓を横瀬から新田荘は由良の地からとって「由良」と改めた。
また、この時より成繁は横瀬氏の系図を小野氏後裔猪股党から清和源氏新田氏後裔に改竄した。
どこから得たのか成繁は岩松家の系図を把握していたようで由良氏の系図はかなり新田氏の系図とシンクロしており、
あたかも本当に新田氏の子孫であるかもような系図が完成したのである。


こうして源姓由良氏は「作られた」。




514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 19:22:04.77 ID:A8v9Gtzt
明治時代に新田嫡流争いで岩松さんの方が嫡流と認められるんだよな、これ。

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 19:27:45.51 ID:yBhJ4BtY
岩松守純って後に旗本になるんだけど、なんと
「20石」なんだよなあ
そのへんの足軽レベルじゃんこれ

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 19:32:33.37 ID:3mC0MeTQ
そりゃ得川さんからすればねぇw

由良氏顛末

2011年05月02日 00:00

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 12:22:58.80 ID:S23UAFMY
そんなこと言うなら、季節ごとに立場を変える、北関東の領主の皆様はどうなるんだよ・・・




310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 12:54:15.47 ID:zmah96Am
ちょうどこの前年に由良氏がそんな状況になってた。
由良成繁は下克上の後に謙信の小田原攻めにはやくからしたがって謙信から領土を与えられるが
謙信の勢力が衰えると真っ先に北条に帰参し関東諸侯が一斉に北条方へ雪崩を打つきっかけをつくり
謙信から第一の侫人と呼ばれた。
越相同盟を仲介して形式上は上杉の傘下に入るが裏では同盟に不満があった氏政に通じ氏政から
上野一国を進呈すると書状を送られた。
その後越相同盟が破綻すると周辺の上杉方勢力を攻め勢力を拡大した。
しかり成繁は謙信と同時期に世を去り後をついだ国繁には成繁ほどの手腕はなかったらしく
滝川一益退去後一人勝ち状態になった北条は由良氏を攻めた。
昌幸は由良に「上杉と佐竹が援軍に来るから頑張れ」と書状を送ったが
佐竹は援軍に来たものの景勝は上野の瀬下氏に関東に出兵することはないと言って援軍を出さなかった。
結局佐竹も途中で軍をひいてしまい、由良氏は居城を失って北条に屈服することになった。




311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 13:04:33.97 ID:8RyvYDu7
謙信は5回攻めたけど最期まで由良の新田金山城攻略できなかったね。

成繁も腹芸は確かに上手かったが防戦も上手い。

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 13:55:20.55 ID:crvr1eFn
地理的・地形的なものってあるよね。
小勢力は、大勢力に一旦従属したとしても、あくまで自家を保つことが最優先で、
主との間は双務契約的なものだから、攻められたときに後詰めに来てくれない
(来られない)なら、忠義を貫いて滅びなきゃならない義理はない。

関東に何度も入った上杉しかり、三河に何度も入った武田しかりで、山越えして
来る軍勢は、どんなに強くても、季節が過ぎたらお家に帰らなきゃいけないし、
お留守番をたくさん残していくことも出来ないし、一旦帰ってしまったら、せっかく
落とした小城を取り返されそうになっても迅速に後詰めに行けないし、で、結
局、長くキープできないから延々と取ったり取られたりのループになる。
板挟みになった現地の小領主はまたくたまったもんじゃないな。

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 13:59:56.70 ID:s6SEHbzx
>>309
高増「確かに周りはそんな人ばかりですな」
資孝「義理も無い人々に囲まれて疲れる」
綱清「全く」

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 14:57:19.64 ID:nTaZve+o
おまえらの血は何色だあ

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 15:03:45.71 ID:cXfoASMt
山家三方衆は徳川と武田だけだが
上野は上杉、武田、北条が争奪してるから小領主は悲惨。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 15:08:56.25 ID:Y/z4Zx80
関東地方唯一の一揆の国、上野は
戦国時代後期になれば隣国の強大な戦国大名権力に蹂躙されるのが宿命

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 15:38:00.35 ID:r+JAXZvE
異常に強い長野爺も居なくなったタイミングだしな

318 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/01(日) 17:59:14.60 ID:KGeeRxkF
>>312
前線で落城した城主の一家は、
親類の城にでも家臣を引連れて居候しながら、
再起を計るだけで
どこでも似たようなものでしょう?

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 18:15:59.01 ID:crvr1eFn
>>318
そもそも、敵の大軍が迫ったときに、「落城」云々というところまで戦うのか?というのが問題で。
援軍が来てくれそうなら城門を堅く閉ざして粘ってみようか?という気になるだろうけど、こりゃど
うしようもないな、と思ったら、戦になる前に城ごと降って所領を守ろうとするんじゃないかな。
その場合、たいていは元の主のところに人質を差し出してあったりするので、その人質を見捨て
る覚悟が必要になるんだろうけど。




320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 19:28:24.37 ID:ykCTw3hD
んだねぇ

321 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/01(日) 20:22:15.33 ID:731tBxiO
>>299
当時の上州は他国の動きをけん制できる要衝だから
そこを治める真田に対する扱いもおのずとね…

利用価値があればどれだけ恨みや貸しがあっても優遇
逆に言えば利用価値がなくなった途端それまでどれだけ尽くしてもポイ捨て
上杉、北条など使う側の周辺勢力も、使われる側の真田も
最初からそういう関係と割り切ってつきあってたんだろうな。
今でいう北朝鮮とその周辺諸国みたいなもんか

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 21:47:00.06 ID:S23UAFMY
>>321
殿、「幸村様と正男を一緒にするとは」と怒った鬼女たちが押し寄せてござる!!
我らが支えているうちに、早くお逃げくだされ!さあ!さあ、とく落ちられたまえ!!!

323 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/01(日) 22:07:14.91 ID:731tBxiO
まさおは嫡男だから信幸のほうじゃないのか?

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 22:24:36.88 ID:Y/z4Zx80
群馬県立歴史博物館(高崎市)の展示は、真田のことほとんどスルーしてたな。
高崎中心に見ると、真田の存在感ってほとんどないのかもね。

室町時代は上州一揆の上層に山内上杉氏がゆる~く君臨する統治形態だったが、
北条氏が上杉憲政を追ったことで上州一揆は切り裂かれる。
その後の謙信・信玄・勝頼・滝川一益らの相次ぐ支配者の交代と戦争で一揆は完全に解体し、
「沼田領」「新田領」「厩橋領」といった18の「領」と呼ばれるブロックに再編されていく。
小田原征伐で北条が滅んだ後、「箕輪領」が井伊直政に、「新田領」「館林領」が榊原康政に与えられる。
すごく大雑把に言うとこれが群馬の戦国史

関東の女傑、由良妙印尼・いい話

2009年02月18日 04:47

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 10:19:35 ID:vjs0PTdm
九州の女傑吉岡妙林尼の逸話がTV放映されましたが、関東の女傑由良妙印尼の逸話

上野国金山城主・由良国繁は成繁の息子で、妙印尼は成繁の妻であった。
成繁の死後、由良家の家督を北条一族の者に継がせようと北条氏政が画策した。
天正12年に北条氏から同盟の話を持ちかけられ、尼の息子である国繁・顕長の兄弟は
厩橋城で行われる茶会に揃って出かけたが、そのまま兄弟を監禁し家を譲るように強要した。

息子の監禁を知った生母妙印尼は、城主不在の金山城に赴き、城兵の指揮をとった。
北条氏は息子2人の返還と引き換えに由良氏の支配する4つの城を明け渡すことを要求して
金山城を包囲したが、妙印尼はそれに屈することなく、自ら具足を身につけ長刀を持ち、
場内の兵たちを激励し、食器に酒肴を詰めてくりだし、由良方を督戦しがら籠城を続けた。
金山城を攻めあぐねた北条軍は、「人質となった息子を磔にする」と脅したが、妙印尼は逆に
北条軍に向かって大筒を撃ち、ひるむ北条軍に向かって兵を出して反撃したという。

結局は北条氏から和睦を申し出、息子の命と引きかえに金山城・館林城を明け渡すも、
桐生城・足利城と2人の息子の命を救うことに成功した。
当時妙印尼は71歳だという。

さらに時は移って、小田原の陣。
由良国繁は北条方に同心して小田原城に籠城した。
しかし、北条氏を憎む妙印尼は国許に残り、貞繁(国繁の嫡男)と繁詮(国繁の弟)以下
300騎を連れて豊臣軍に合流、「孫の後見人」として松井田城攻めに参加するなど
各地を転戦して、北条方を攻撃した。

小田原の陣の後、豊臣秀吉は2度も北条氏に抵抗した妙印尼の功績を称え、
繁詮に三万石を与えた。
一方で尼の助命嘆願を認め、北条方に与した国繁は領地没収に止めたという。翌年、
その国繁も許され、常陸国牛久に5400石余りを与えられた。
この時、妙印尼は77歳。知行朱印状は「妙印尼宛て」だったという。




910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 10:43:25 ID:X3jsr7qd
>>909
すげえ婆さんだなw
婆さんがすごいのか氏政がへたれなのか

939 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/02/17(火) 17:45:11 ID:FqmpF4K2
>>910
この婆さんの孫が「のぼうの城」でお馴染みの甲斐姫だったりする。

由良成繁、弱小大名の生きる術・いい話

2009年01月01日 00:22

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/31(水) 05:03:45 ID:hdnF34KC
いい話というか弱小大名の生きる術を

上野国に由良成繁という戦国大名が居た
元は(新田)金山城主の若松氏の家臣であったが、
若松氏を討ち果たし、城を占領して下剋上でのし上がった戦国大名である
しかし周りには上杉氏やら古河足利氏、
一たび西を向けば武田氏で南には北条氏と
周囲を強敵に囲まれて大変苦しい状況だった
そこで成繁は上杉氏に従い、領土を維持していたが
謙信は関東の諸大名がしきりに越山を求めているのに
中々これに応じようとはしない
例え了解して遥々三国峠を越えて越山してもとっとと帰ってしまう
次第に関東の諸大名・豪族は上杉謙信に失望してゆき、
また由良成繁もこの中に漏れなかった
やがて成繁は上杉謙信を見限って北条氏に属すようになった
それに大激怒したのが当の裏切られた上杉謙信
成繁の治める金山(かなやま)城は重要な要衝で、
当の謙信も成繁のことを信頼していたため、
本当に成繁が北条方に寝返ったのか、何度も佐竹に情報の正誤を
確認する書状を送っている

しかし上杉を見限ってよいよ北条に味方した成繁ですが、
もしも上杉謙信が再び関東に越山して真っ先に狙われるのは自分
以前自分と同じように上杉を見限って北条に属したすぐ近くの佐野氏も、
居城の唐沢山城を謙信に攻撃されて幾度と無く窮地に陥っています
なんとか謙信の目を自分以外に向ける方向はないか…
成繁はしきりに思案します
そしてしばらく経った後、関東に激震が走ります
長年敵対してきたあの上杉謙信と北条氏康が手を結んだのというのだからさあ大変
勿論この同盟の締結に手を尽くしたのは成繁
「敵として狙われるなら、味方になればいいじゃない」
の如くこの同盟の締結のために東西奔走し巧みな外交手腕で見事実現に至らせることができます

その後由良氏は周囲を強敵に囲まれながらも御家をなんとか存続
御家は明治維新まで士族としてちゃんと続いていったんだそうな

※ちなみに三男の渡瀬繁詮は三好秀次に仕えて遠江横須賀3万石を領している
しかし秀次切腹事件に連座して繁詮も切腹
その後を継いだのは有馬豊氏でした
ちなみにその豊氏は後に筑後久留米21万石など破格の出世をしています
もし連座して切腹していなければ繁詮がこの領地を…?なんて…、ね




690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/31(水) 05:21:37 ID:yZIjTRuZ
>>689
若松じゃなくて岩松じゃない?

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/31(水) 13:21:37 ID:U0osLOdS
しかし「関東管領なのに」関東支配を目論む北条氏と越相同盟したせいで、
関東の国人や反北条方の大名にめっさ疑われて勢威を落とした謙信。

挙げ句に、北条から養子という名の人質に入れた三郎を妙に気に入って景虎名乗らせるは、
自分の死後は甥っ子景勝と三郎景虎が内乱おっ始めて上杉家ガタガタ。北陸を織田に切り取られるは。


>>689うぉ、さいご有馬記念に繋がったぞ w
マツリダゴッホ…゙ゴッホはいずこにおはす!?…コネーー!!('A`)ーー