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傲慢なるゼザベルを罰するに

2019年04月29日 16:45

944 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/28(日) 22:12:33.03 ID:4q/y0leB
また国王(大友宗麟)は、邪悪なる王妃ゼザベル(奈多夫人)に対して憤懣を感じていたが、彼女によって
多数の子女を有していた故に、やむを得ず多年の間これを看過していた。そうして彼女による、デウスの教え
及びキリシタンに対する憎悪は益々加わり、キリシタンになろうと欲する者を引き止め、既に洗礼を
受けた者には転向を勧め、頸にかけているロザリオまたは彫像を無理に取って火中に投じ、デウスの教え
並びに会堂に対し、罪と偽りを重ね、その子である世子(大友義統)および国王の心を、我らに反対せしめんと
努力するが、かつてその目的を達したことはなかった。

我らの主デウスは正義の友である故に、傲慢なるゼザベルを罰するに、現世において与えることを得るべき
最も大いなる罰を以てし、生命が長引いているだけの死となされ給わった。
老王は長い期間をかけてこの処置の準備をなした。まず居住する家を新たに城外に作り、国の政治を
その子(義統)に譲った後、その家に移り、王妃のもとで仕えていた貴族の一婦人(林ジュリア)、すなわち
その子ドン・セバスチャン(大友親家)の妻の母にして、既に40を越え少しばかり病弱な人を密かに招いて
妻と成し、王妃は城内に留め置いた。

ゼザベルがこの時まで、数多の国の主として城中に於いては大いなる尊敬を受けていたのだが、たちまち
現世の栄誉を失い、以前に彼女に仕えた者が新たに王妃と成ったのを見て、親戚並びに大友家の大身たちは
再び彼女と共に住むよう王に請うたが、その目的を達することは出来なかった。
王妃はこのような不幸に耐えることが出来ず、しかし老王が一度決心したことはそれに固守することを
知っているがゆえに、短刀をそばに置いて自殺せんと計り、このため王女及び親類たちが昼夜これを
警戒した。

(1578年10月18日(天正六年九月十六日)パードレ・ルイス・フロイス書簡)

大友宗麟による奈多夫人離縁についてのフロイスの記録



947 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/30(火) 10:18:03.84 ID:o0dmuEcy
>>944
この奈多夫人って言う人は、大友の庶流家で国東半島の大豪族の田原氏の分家の娘。
同時に、奈多八幡宮の宮司の娘「要は名門の神社のお姫さま」なんですよ。

有力庶流家に対する政略結婚の意味合いが有ったんでしょうね。
田原氏からの人質の意味もあるし、もし反抗しても分家が大友に付くんじゃ勝てる訳が
無い訳ですよ。

更に、田原氏から見ても家格の問題では最高の相手だから悪い話でもないですし。

で、この離婚って大友氏の水軍が離反し兼ねない大問題なんだよな。
瀬戸内海はさんで、毛利方の村上水軍と睨み合ってる状態。
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この悪しきゼザベルは

2019年04月25日 15:05

918 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 20:42:49.55 ID:s59Jl9Ux
この頃世子(大友義統)が臼杵市外に在った時、新たにキリシタンと成った家臣の一人が、殿中に於いて
他の家臣と口論した後、剣を抜いて一人を傷つけ、死に至らしめた。よって大いなる騒擾が起こり、さらに
国王不在であったため事件は一層重大となった。殿中に於いて剣を抜いただけでも、本人並びに近親が
死すべきことは動かすべからざる規定であった故に、この青年はその父とともに逃げた。

彼がキリシタンであったが故に、反キリスト教である王妃(大友宗麟正妻奈多夫人)は、「キリシタンは
主君に仕えないだけでなく、叛乱を起こす者たちである。」と言って、この事件をさらに重大なものとしようとした。

この事件が起こって十五日後、他の新たにキリスト教に帰依した武士が喧嘩の後一人を殺した。この騒ぎの為に
大身および兵士が多数集まったため、国王(大友宗麟)自らこの事件に干渉して鎮圧する事となった。

その頃、世子が新たに帰依した一少年(教名エステバン)に対して不快に感じるところがあり、大身に嫁いだ
世子の姉妹の元に送り、これに仕えさせた。大身は仏の絵を求めることをこの少年に命じた。
しかし少年は答えて「私はキリシタンであるので、そのような絵を求めるために行くことは出来ない。」と
言い、他人を使わせるよう請うた。大身はこの返答を考慮して、遣いに別の少年を行かせたが、彼の妻である
王女は、その母(奈多夫人)と同じくデウスの教えを憎んでいたために、この事を聞いて好機であると考えた。

数日後、特にこの少年を呼び、坊主の僧院に行って、守(mamboris)と称する偶像の聖宝を求めてくるよう
命じた。少年はこれに「私が奉じているゼウスの教えに背く」と答え、他の者を派遣することを請うたが、
しかるに王女はこれを強要し、「もし自らこれを持ち来たることを欲さないのであれば、その家臣の一人を
遣わすように。」と言ったものの、少年は「悪魔のことであり、何の利益もないゆえにこれも成すことは出来ない」
と拒否した。王女は「守を求めに行かないのであれば、命を失うべし。」と言ったが、少年は「たとえ首を
斬られようともデウスに背いて罪となることは行えない。」と重ねて拒絶した。

この頃国王並びに世子は市外にあり、帰還は5、6日後の予定であったため、すぐにこの少年を殺すことは
無かったが、世子は既に国を治めていたため、彼の帰城を待ってこれを処分することと成った。
王妃はこの機会に世子に説き、国王並びに世子の家臣が悉くキリスト教より転向し、以後再びキリシタンに
成る者を無くそうと決意し、直接に国王の元に使者を遣わして、キリシタン一般について、彼らが神および
仏の教えを攻撃する以外のことは行わず、旧来の慣習を破壊し、臣民をして領主に背かせ国を滅ぼすこと、
その他それに類することを述べ、彼らがそのような事を教えているがゆえに、国を擾乱させないためにも、
キリシタンを国外に追放する必要があると伝えた。

この時王妃は、国王を怒らすために一切を出来だけ誇大に伝えたが、王はキリシタンの年来の友で
在ったゆえに、少しもその気持を動かすことは出来ず、王はむしろキリシタンのため弁明し、騒動の火を
消そうと努力された。

919 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/04/24(水) 20:43:33.68 ID:s59Jl9Ux
王妃は老王に頼っては何事も出来ないと見、一方世子はその母に対して従順であり姉妹とも親しかったため、
これに頼って目的を達しようと決心した。世子はこれまでもキリシタン及びデウスの教えに好意を示して
いたが、その母および姉妹、その他異教徒である武士たちが多くのことを語ったため、少年を殺すことを命じ、
「キリシタンたちはその主人に服従しないゆえに、今後キリシタンと成ってはならない。」と決定した。

世子が帰ってくる前、少年の父母、親戚及び友人たちは涙と道理を以て少年を攻め、「王女が彼に
命じたことを成し、坊主の僧院へ行って守りを求めるべし。しかれば罪は赦される。」と説得したが、
少年は目を既に天と永久の命に向けており、父母の涙を軽視し、親類友人らの勧告を顧みなかった。
彼らが「今回限りこれを成すと言えば、王女は満足し、以後再び命ずることはない。また臼杵のキリスト教会の
破滅の原因にならないためにも、命令に従うべきである。」とまで言っても、少年は「私は生きたる
石の上に固く立っており、悪魔に仕える者がキリストの建築を倒さんとして起こした風雨の力もこれを
倒壊させることは出来ない。不屈の勇気によって、デウスに背くことは決して承諾できない。」と答え、
創造主のために命を捨てることを大いに喜んだ。

彼は夜会堂へ来た。我らはこれを激励し勇気づけた。いや、彼が堅実なる信仰を以て我らを力付けたと
言ったほうが良いであろう。そして、世子の帰ってくる前にどこかに隠れるよう懇願したが、彼はそれを
成すことを欲せず、「デウスの愛の為死すことを回避しない。」と言った。
結局世子が帰り、その母及び姉妹たちの勧告に従い、彼を殺すことを命じた。
この悪しきゼザベル(奈多夫人への蔑称)は他の武士にも悉く転向する事を命じ、もしこれに応じないので
あれば殺して一切を解決しようと計った。この頃異教徒たちはこれに大いに喜び、キリシタンに対して
様々な事を言ったため、弱き者たちは少なからず恐怖を感じた。

(1576年9月9日(天正四年八月十七日)パードレ・フランシスコ・カブラル書簡)