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細川持隆謀殺

2019年05月30日 15:26

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/30(木) 15:18:13.68 ID:w6dJrsKv
一、細川讃岐守持隆の内室は、周防国の大内介(大内義興)の息女なり。この内室の妹を持隆は呼び越し、
  義冬(足利義維)の御台にした。義冬の行末のことを持隆は思って、このように調えたのだという。

一、細川讃岐守持隆がある時に家老と三好一族を呼び集めて申したことには、「義冬公を当国に長く置き
  奉ることは、いたましく存ずるなり。各々の知略をもって義冬を一度天下に据え申したいと念願して
  おるのだ。どのようにすれば良いか」と申せば、いずれの者も同心した。

  そんなところで三好豊前守義賢(実休)1人がこの事に同心せず、あまつさえ顔色を変え持隆を散々
  に罵った。持隆は言うに及ばず、座中の皆が案に相違すると思ったのである。

  持隆はこの事を口惜しく思い、まず義賢を討ち果たして憤りを散じようとして近習の侍どもに密かに
  内談し給うと、四宮与吉兵衛という者は義賢に返忠して、これを告げ知らせたのである。

  これにより義賢は思案して近習の者をもって申したことには、「先に持隆が仰せになられたことをそ
  の時に同心仕らず、私としてもその事で戸惑っています」との由を、持隆の機嫌の良きように申しな
  した。さてその後に手勢、また近き所の一族を義賢は密かに呼び寄せ、勝瑞に近いあちこちの村里に
  隠し置いた。

  義賢はかの四宮をもって持隆へ申し、「北の河原で御逍遥(散歩)なされませ」と諸々謀り申した故、
  持隆は逆心とは思いも寄らず、天文21年(1552)8月19日に見性寺の前へ出給う。義賢が隠
  し置いた人数は一度に押し寄せ、持隆を取り囲んで鬨の声を揚げた。
  
  持隆はかねて無勢の上、供の者どもは落ち散り防ぐ術もなく、どうしようもないところで星合弥三郎
  と蓮池清助という者2人が踏み止まって持隆を見性寺へ退かせた。

  義賢の弟・一存(十河一存)が込み入って持隆をただちに討ち取ろうとしたのを、清助が押し隔てて
  防ぐ中、持隆は切腹して星合が介錯した。この2人の者は常々持隆の厚恩もない者どもであったが、
  義を守り2人ともに立ったままで切腹した。

一、持隆の外戚腹に六郎という幼少の男子がいた。義賢が申すには「持隆を討ち奉ったのは身の災いを逃
  れるためである。六郎殿に恨みはない。主君に崇めん」として、六郎を育て置いた。細川六郎掃部頭
  真元(真之)これなり。この真元の母は阿波国西条村の岡本美濃守の息女である(小少将)。持隆の
  死後に義賢は真元の母を妻とし男子2人をもうけた。一男は彦次郎長治、次男は孫六郎存保という。

一、返忠の四宮与吉兵衛は「無道の者なり」として、義賢は四宮を翌年の春に誅した。

――『阿州将裔記』



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細川持隆の滅亡

2019年05月05日 17:30

979 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/05/04(土) 20:30:24.56 ID:ULCC/Ej6
さて、永義(三好長慶)はその時(三好元長死去の時)10歳ほどであったのを、三好宗三(政長)と
松永久秀が心を一つにして盛り立てた。17歳から弓矢を取り、武功は比類なくして畿内に打って上り、
摂津の木戸・近江の佐々木(六角氏)・越前の朝倉・紀伊の畠山と挑み戦い、度々名誉を顕したという。

また弟の三好実休は阿波に留まり、細川殿の家内を治めるところにその時の細川殿(細川持隆)、後に
徳雲院と申した人が、「実休を成敗するべきだ」と家老の四宮与吉兵衛に内談なされたのを、四宮はす
ぐに実休に告げ知らせた。

それ故、天文21年(1552)3月5日に細川殿が勝瑞龍音寺へ出られたのを聞きすまして、実休は
2千ほどで打ち出て取り掛けた。このため細川殿の衆は尽く落ち失せ、星合と蓮池清介の2人が残った。
細川殿は是非なくその辺りの賢昌寺(見性寺)へ取り入って切腹したのである。

蓮池は細川殿の政道が正しくないことについて度々諫言し、勘当を蒙って扶助にも及ばない折であった
けれども、心良く腹を切って死んだという。また四宮与吉兵衛には実休が過分に加増を遣わしたが、一
年あって成敗となったのである。

――『三好別記』