FC2ブログ

【雑談】「肥前の熊」の異名について

2020年01月21日 14:15

553 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/20(月) 21:12:49.07 ID:RWxrI8n9
>>549
熊さんなの竜造寺じゃなくてむしろ鍋島直茂のおじいちゃんだったのか
肥前の熊って異名となんか関わりあるのかなー

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/20(月) 23:50:00.54 ID:2+LwDWWr
九州に熊ってほとんど居ないから本州文化の影響なのかね

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/20(月) 23:52:14.91 ID:DuVJHO1X
「肥前の熊」も、どうも斎藤道三の美濃のマムシとかと一緒で、昭和になって作られた異名らしいな

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/20(月) 23:58:47.12 ID:RWxrI8n9
昭和のその異名つけた人はなぜ熊チョイスしたんだろ

558 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/21(火) 00:19:00.76 ID:eElMHHi5
忠興ちゃんが熊千代
DQN四天王にふさわしい勇ましい幼名

559 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/21(火) 03:18:50.82 ID:8bAsiU6m
>>556
鬼うんちゃらとかも、基本江戸時代以降、多くは明治以降になってつけられているしね。

562 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/01/21(火) 10:54:30.58 ID:ROni4CC2
九州にクマがほとんどいないのは現代の話
こういうのをごっちゃにするやつってなんなの?

563 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/21(火) 11:19:47.17 ID:n9cUmE06
九州の熊が絶滅したのが1957年のことであるとか、調べてなきゃ知らん話でしょうし
そうごっちゃにしてると決めつけて頭ごなしに怒るのもどうかと思う

564 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/21(火) 11:53:04.36 ID:EExzsrvA
九州では江戸時代もそれ以前でもあんまり熊の記述がないし、居たとしてもツキノワグマだけ
武将の異名にどうなのってのが話の本題だろうに

565 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/21(火) 12:00:22.83 ID:3yl32f5F
>>564
そいえば、「肥前の熊」の出典ってなんなんだろ?
ちなみに、まとめ管理人さんのツイートによれば、
https://twitter.com/1059kanri/status/1210073140522442752?s=19
「羽州の狐、肥前の熊あたりはおそらく昭和以降です」
とのこと。
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)

566 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/21(火) 12:25:23.21 ID:KhRjUT6h
赤熊(しゃぐま)は幕末ドラマの官軍でお馴染みの赤く染めた毛を使った飾りのことね
ヒグマの異称である赤熊(あかぐま)と直接の関わりはない

全日本97kp級連覇中の「福岡の熊」こと赤熊猶弥(あかぐまなおや)や
鹿児島のかき氷でドラゴンフルーツを使った赤熊(あかくま)との混同にも注意

>>557
髭面の肖像や怪力の逸話からじゃない?
結構わかりやすい方だと思うわ

568 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/21(火) 15:17:43.85 ID:2KZGI64o
津軽の熊「」

569 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/21(火) 17:24:46.57 ID:nvyGDZHa
高校の時に龍造寺さんいたなあ
肖像画そっくりでこれは肥前の熊って感じの女の子だった

576 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/28(火) 14:27:55.85 ID:xekqG+9y
>>565
羽州の狐も創作だとは思ってましたが
狐って強いイメージもないしあんな異名つけるのもなかなかひどいなと
実際は総大将が正面切って突撃してんじゃないよと部下にキレられちゃうくらいなのに

577 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/28(火) 15:00:11.34 ID:5t8GTOhm
砂漠の狐みたいでかっこいいと思うんだ

578 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/28(火) 15:37:27.30 ID:UCUjJUQ7
羽州の狐は松本清張が初出とかなんとか

579 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/28(火) 16:58:58.81 ID:L/gtmMc6
>>578
というか、そもそもロンメルからの連想でつけられたものでそ。

580 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/28(火) 17:37:34.15 ID:SqQGnmEL
我らがロンメル Unser Rommel (日本語訳)
https://www.nicovideo.jp/watch/sm34355629

1. 我らはドイツ・アフリカ軍団(DAK)
総統の勇猛果敢な部隊だ
我らは悪魔のごとく猛進し
イギリス兵どもに苦杯を舐めさす
我らは酷暑も砂塵も恐れずに
喉の渇きにも灼熱の太陽にも抗って
太鼓に合わせて進むのだ
前進、前進
我らがロンメルとともに前進だ!
我らがロンメルとともに前進だ!

2. イギリス兵は我らを黒死と恐れ
燃える石炭の上にへたり込んでいる
我らはかつて卑劣にも略奪された
東と南西アフリカの仇を討つ
チャーチルとルーズベルトが激怒しようが
我らは如何なる場所でも敵に立ち向かうのだ
総進撃の太鼓は鳴り響く
前進、前進
我らがロンメルとともに前進だ!
我らがロンメルとともに前進だ!

3. 戦い、そして勝利を目指す我らは
イタリアの友軍と共に進軍する
平和の光が我らを照らし
そしてドイツへ再び帰還するまで
例え敵弾が我を貫いて
砂漠で永遠の眠りにつこうとも
今、太鼓は再び打ち鳴らされるのだ

581 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/28(火) 20:39:49.95 ID:E7gZZct6
ロンメルのいた北アフリカの砂漠にいる狐といえばフェネックなのだ
羽州の狐も一人で鉄棒振り回して突撃するのはやめるのだ



※参考「龍造寺隆信肖像」
龍造寺隆信
スポンサーサイト



龍造寺隆信「佐賀に来い」

2019年06月10日 14:25

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 22:00:08.11 ID:hwQ6Bi9R
当地方のキリシタン一同を驚愕させ、少なからぬ恐怖を懐かせた事は、龍造寺(隆信)が大村の領主
ドン・ベルチラメウ(大村純忠)に、その嗣子と共に佐賀(Sanga)城に来るよう頻りに求めたことである。

ドン・ベルトラメウおよびその一族は非常に困惑し、一方には、龍造寺の意図は、平和を口実として
ドン・ベルトラメウとその子、並びに領内の主要な人物を悉く集めて、日本の他の領主が成すように、
これを殺すことにあると言う者があり、また一方には、もし招かれても行かず、彼を信用しないということを
明らかにすれば、龍造寺は大いに怒って敵意を明示するであろうと言う者があった。
龍造寺が非常に有力であるのに対し、大村の武力はこれに対抗するのに充分ではない。
このため、二つの手段のどちらを取るかは容易に決定しなかった。

パードレ達はドン・ベルトラメウとその一族が自ら敵の手に投降するのは不可であると考えた。
この下の地方(九州)の長老であったパードレ・ガスパル・クエリヨは危険に陥ることを慮って龍造寺の元に
行くことを喜ばず、龍造寺を満足させる手段を講じてこれを断るべきであると主張した。しかし龍造寺は、
ドン・ベルトラメウとその一族が彼の招きに応じなければ満足する様子がなく、ドン・ベルトラメウは敵の
勢力と悪意に大いなる恐怖を抱き、一族とよく協議した上で、己を彼の手に委ね、それによって彼の意を
和らげることに一縷の望みをかけて、その嗣子および領内の主だった大身達と共に、五百人の武士を従えて
龍造寺の居城、佐賀に向った。

事の成功を予知することも、またこれを避けることも叶わず、もしドン・ベルトラメウとそれに同行した
武士たちが悉く殺されれば、全領土は敵の所有に帰し、ドン・ベルトラメウも一族も帰って来る望みは
無いのでなないかと、我等(宣教師)の恐怖が非常であったことは、尊師も諒解されるであろう。
さらに有馬の領地も同一の危険に瀕し。当地方のキリシタン教会は全滅に至る懸念が有って、この心配と
恐怖の間に二十日間を過ごした。

しかしながら主はこの苦痛より我々を救出し給い、ドン・ベルトラメウは龍造寺より歓待され、様々に
名誉を与えられ、相互の間に平和協定を成し、これを確保するため、龍造寺は一女をドン・ベルトラメウの
嗣子に嫁がせる約束をした。少しも期待されず、事後ですら信じられぬ程であったこの好結果は、諸人に
大いなる喜びを与えた。

これがデウスの特別なる御恵であった事を示すのは、間もなく起こったカマチドノ(Camachidono:柳川城主・
蒲池鎮漣)と称する、ドン・ベルチラメウに劣らぬ勢力を有する筑後国の異教の領主が、ドン・ベルチラメウと
同時に龍造寺に招かれた事であった。或いは両人とも殺すつもりだったのかも知れない。
蒲池殿は起こるべきことを懸念し、ドン・ベルチラメウの様子を見ることにして待っていたが、龍造寺は
ドン・ベルチラメウに好意を示し、蒲池殿はこれに安心してその招きに応ずることとし、一族及び武士たちと
共に佐賀に到着し、龍造寺からドン・ベルチラメウと同様の歓待を受けた。このため彼らが注意を怠り、
思いもよらなかった時、龍造寺は4,5千人を以て蒲池殿の居場所を囲み、彼とその一族を悉く殺した。
蒲池殿たちは勇敢に戦ったが、多勢に抗することは出来なかった。

その後龍造寺は兵を出して彼の領地を攻めたが、住民たちは何の用意もなかったため少しも抵抗出来ず、
彼は容易にその地を占領して非常な残虐を行った。貴婦人たちは夫が既に殺されていたので、龍造寺に
捕らえられて、最も恐れた侮辱を受けるよりも寧ろ死を選ぶとして自殺した。

蒲池殿がかくの如き不幸に遭遇したので、我等はデウスが特別の御恵を以て、同様なる運命から
ドン・ベルチラメウを救出し給った事を感謝した。
しかしこの敵(龍造寺)は生命有る限り、有馬及び大村の領主並びにキリシタン教会に対し害を加える
懸念があり、我等は常に恐怖を抱いているのである。

(1581年2月15日(天正十年一月二十三日)付、パードレ・ガスパル・クエリヨ書簡)

龍造寺隆信が「佐賀に来い」と要求したことへの波紋



137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/09(日) 23:29:16.21 ID:ZfkTXeho
龍造寺がキリスト教のバックを考慮したんなら、手前味噌ながら方向性は正しいな

龍造寺隆信「塚崎の湯」

2017年04月16日 17:57

821 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/15(土) 19:13:30.20 ID:GzosjAB6
なんか可愛いなと思ったので
我らが五州二島の太守、隆信公が弟長信に宛てた二通の書状をご紹介

─御書面被見せしめ、其心を得候、随って塚崎の湯の儀申し入れ候、一日成り共、早々しく参り候様御用意寛容たるべく候、恐々謹言

─先日塚崎湯の儀申し入れ候処、整え給い候、祝着候、何様是を持って快気たるべく候

前者は天正三─五年頃隆信が長信に武雄温泉の入湯の世話を督促した物で、後者は同じ頃と推定される書状の中に記された一節

隆信さんの湯船に浸かってちょっと気持ちのいい話



822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/16(日) 11:54:51.92 ID:u9FIza9O
慶次「なんと風呂に入りたいとな?」

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/16(日) 12:01:30.70 ID:i78KihVc
家定「同姓の誼で是非それがしに馳走くだされ」

824 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/16(日) 14:05:55.15 ID:F47w/3EZ
>>817
山全体を要塞化したら2万人位守備兵が必要だな
長篠城とか上田城みたいに小さくても守る場所が限定
出来て少人数で大軍を撃退出来る城こそ名城といえる

太閤さま曰く「龍蔵寺隆信という者は」

2016年02月10日 18:52

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 02:49:37.48 ID:CZ/ylyxq
太閤さま曰く

「龍蔵寺隆信という者は名将に違いないだろう。
その理由は、鍋島飛騨守(直茂)に政治を任せているからだ。
これは人を見る力があることに他ならない。
今、飛騨守に会ってみてそれがよくわかった。」

と申された。 【葉隠】



292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 10:32:56.23 ID:puLG6I4a
その時はとっくに戦死してるのに名将とは

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 10:49:45.71 ID:1yztIISX
いやだから会った事ないけどこんな男を重用していたならきっと名将だったのだろうという話だろ

294 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 11:47:43.77 ID:ynrpUDpY
愚者は諫言する家臣を左遷したり誅したりするものですからね

295 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 13:35:51.50 ID:3eHFHd6C
直茂を諫言で疎んで柳川に飛ばしたって話しも
筑後方面の司令官的な立場を考えると遠ざけたことと違うと思うのよね

296 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 14:28:39.15 ID:gqS1qBa7
普通左遷なら僻地だもんな
重要拠点なんかに配置しない

297 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/10(水) 14:32:49.09 ID:wqpyLFKA
分かってねぇw
平和っていいなぁ

正月の一日二日の事なれば

2016年01月02日 17:32

136 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 00:04:55.88 ID:yriiHi8D
正月と言えば隆信が鏡神社の大宮司である草野氏を討伐した時に読んだ狂歌がこれ
「正月の一日二日の事なれば草野を焼きて鏡餅かな」
そんな熊さんのちょっと言語センスのいい話



137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 11:39:26.48 ID:szi0CsCr
正月早々に戦とかって足軽テンション駄々下がりだろな

138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 12:51:14.70 ID:zm4IvZ6I
道雪「だからといって戦線離脱する子は処断だよ」

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/02(土) 21:26:21.89 ID:xEHA5cdj
貴久「正月早々死にそうになりましたが何か?」

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 20:14:15.56 ID:po6e0zLa
>>137
隆信は何回か新年あけまして死ね作戦をやってる

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 20:20:51.12 ID:mQ13eeTc
毛利家臣「幕府を倒す準備が整いました」
毛利「今はまだその時ではない」

そうせい侯が「そうせい」と言うまで繰り返したんだっけ

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 20:35:53.03 ID:oM9JF4Bv
そうせい言うまで幾星霜

143 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 22:13:39.30 ID:N5kWQ7Ba
こんなのあった

佐野宗綱の、お正月だよ!足利侵攻!!悪い話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-1555.html

144 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/03(日) 22:22:36.57 ID:mQ13eeTc
>>126

145 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/04(月) 23:43:38.85 ID:E0f3ljj0
>>140
明けましておめで討か

146 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/01/05(火) 08:04:02.71 ID:Gt/NnWm1
コブラみたいなやつね
ありがと

龍造寺と大イチョウ

2014年05月23日 19:05

351 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/22(木) 22:46:29.40 ID:/3s+Jnr/
龍造寺と大イチョウ

筑後国三潴郡に、巨大なイチョウの木があった。
この木に朝日がさすと、その陰は筑後川対岸の肥前国寺井(佐賀県諸富町寺井津、北西に3kmは離れている)にまで届く高さで、切り倒すのに七日かかったほどの太さだったという。

村の名はこの大イチョウにちなんで「一木(ヒトツキ)村」と呼ばれた。

『南筑明覧』


この一木村、龍造寺家兼が、そしてその曾孫隆信が雌伏し、見事佐嘉に復帰を果たした。
龍造寺の家運興起の地だと言えるだろう。

ちなみに七日かけて伐ったのは、天正年間筑後に進出した龍造寺隆信の兵である。

隆信の末路はこの大イチョウのタタリか…




龍造寺隆信「織田信長は明智に討たれ甲斐無き事也」

2013年10月03日 19:29

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/10/02(水) 21:54:14.93 ID:d4Ijro18
うっかり戦国漫画かいこのブログからおもしろかったので引用

>藤龍家譜に引ける旧記に、
>「隆信公仰被候は、織田信長は明智に討たれ甲斐無き事也、
> 信長九州へ發向候半は、小倉に於いて面談いたし、盃事の時、我等大ワザト(蓋大盃の名)にて三盃飲差て猶豫致は、
> 四尺八寸の大刀にて、一刀に討ち果たすべしと仰被候由」トアリ
http://awabaya.jugem.jp/?eid=2239

隆信「信長は俺が殺そうって思ってたのによー、明智に討たれるとか残念でならんわ」
隆信公マジ肥前の熊、な話





私は義士と通じて家を立てる

2013年06月05日 19:58

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 06:04:18.24 ID:CPdK6HUg
弘治元年(1555)、中国の毛利元就・隆元親子は大寧寺の変によって殺された大内義隆の遺言を哀れみ、
陶晴賢並びに大内義長を滅ぼし威を中国に振るわれ、将軍家もこれに感じ入り大内の跡を給わった。

一方、大友義鎮(宗麟)は、先に弟義長に大内を継がせ、その光によって近年威を振るい、
肥前肥後、筑前筑後の侍でこれに与する者も少なくなかった。

このような時に、龍造寺隆信公は世の有様をご覧になり、重臣たちを集めてこう仰った

「芸州の元就は現在、陶の一党を滅ぼし中国を合わせんとしているが、これは大内義隆の旧好を忘れず、
義の槍を突いているのである。

一方豊後の大友が隣国に手出ししているのは、全くもって私欲の義である。

私は義士と通じて家を立てる!どうして大友の私欲に同調することがあるだろうか!」

そうして毛利元就のもとに遣いを立て、元就と通じたのである。
人は道を守るべきなのである。
(肥陽軍記)

龍造寺隆信毛利元就の義に感じ通ずる、というお話




399 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 07:38:42.03 ID:1sXLC15E
義はともかくとして、大寧寺の変の余波で城を追われて3年間の雌伏を余儀なくされたわけだし
その原因になった陶とそれに与した大友は認めるわけにはいかんよね

龍造寺隆信の相続

2013年06月03日 19:51

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 00:06:53.76 ID:OGuKHfpT
天文17年(1548)3月22日、龍造寺豊前守胤栄が卒去された。
この方は大内氏の推挙により肥前国の守護代を務められ、五千町を加封し人尽く従った。
胤栄公の夫人は龍造寺家門の娘であったが、胤栄公との間には姫が一人あるだけで、
家を継がれる男子は居られなかった。

このため重臣である小川筑後守や龍造寺播磨守などが相談し、還俗して水ヶ江龍造寺氏を継がれた
龍造寺胤信公に、龍造寺の嫡流を継がせるべしと迎え取り、先君胤栄公の未亡人と結婚させ、
龍造寺の御家督と仰ぎ奉った。

同18年、大内義隆より隆の偏諱を頂いて、龍造寺山城守隆信と名乗られた。
小川筑後守、納富左馬介、福地主計充といった人々が家老として支えた。

御一家は皆、隆信公に拝謁の礼を取ったが、公は普段から不敵な心を持った方で、
威儀を専らにせず事毎に軽々しく振舞ったため、一門の龍造寺鑑兼の周辺などでは
内々にこの新当主を侮る輩も多かった。

また隆信の夫人も、既に御歳も盛りを過ぎ、先公とのお別れで悲しみに沈む中、
公を弔いのため一心不乱の心であった所を、自身を隆信公の御台とされるべき、などと
聞こえてきて、なんと浅ましいことかと思い沈んだのであるが、老臣達によってこの旨が
決せられ、御家相続のためであるため、気分の気持ちを押し殺して隆信公の室と
なられたのである。

だが、夫人は先君のことを忘れられず、明け暮れに思い泣かれ、
隆信公とは親しむ様子もなかった。

このため夫人の周辺の人々にも、隆信公を侮る人々が集まり、これに家老の面々は、
これは御家敗亡の兆候であると嘆いたがどうしようもなく、
龍造寺播磨守などは妻女を通じて夫人に色々とご意見したものの、全く聞き入れようとはされなかった。

後に聞こえたことによると、龍造寺の老臣であった土橋伊賀守栄益などは、最初から
隆信公を侮り、龍造寺鑑兼を家督に立てたいと思い、夫人に対し様々に讒言していたそうである。
(肥陽軍記)

隆信が龍造寺家を継いだ時期の、その家中の不穏さを伝える逸話である。




776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/03(月) 09:18:35.50 ID:FcPZ+TnG
この後大寧寺の変で不満分子によって早速追放されたのは
復帰後に隆信派で固めることもできて
逆に僥倖だったのかもしれないかな?

777 名前:人間七七四年[] 投稿日:2013/06/03(月) 11:01:26.18 ID:0qGhBGw1
後家になって自ら鍋島清房に嫁いだ慶誾尼とは対照的だな

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/04(火) 06:47:26.20 ID:psKLVZ+m
我が子の為、との思いの有無が大きいんじゃね?
あと当の慶誾尼とソリが合わなかったとか


龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話

2013年04月23日 19:52

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 13:39:00.96 ID:VpP9+GPo
先日『戦国大名の四天王列伝』という文庫本を買った。

ちゃんと(?)龍造寺四天王が5人いて、人数がおおいい話。

・・・スレ違いでゴメン。




99 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 15:50:02.41 ID:5QSpVB8x
それじゃあここで意外と今まで出てはいなかった、
龍造寺四天王それぞれの死にざまの忠烈な話でも簡単にまとめるか

成松信勝
龍造寺四天王の筆頭
今山夜襲の折には敵大将の首を取る大功を立てており、その槍は今も現存している
沖田畷の戦いでは隆信の討ち死にを知ると、名乗りを上げ敵陣に切り込んで討ち死にしたと言われる

百武賢兼
もとは戸田と名乗っていたが、その武勇を隆信から讃えられ「百人にも勝る武」という意味で百武という姓を与えられた
志摩守を名乗っており龍造寺家中で武勇に優れる四人「両弾二島」の一人にも数えられる、奥さんが剛腕で大薙刀を振るっていたことでも有名
沖田畷の戦いでは主君隆信を守り勇戦し果てた

江里口信常
元は直茂が千葉家から鍋島の家に戻る際につけられた12名の家臣の一人で、後に隆信に直参となった
沖田畷で隆信が死ぬと、味方の死体から首を切り取って単身島津家の本陣へ潜入し、島津家久のふとももに刀傷をくわえるも、あえなく討ち取られた
家久には「無双の剛の者」と称されて、一族の者がいれば召し抱えたいと言わしめた

円城寺信胤
名門千葉氏の一族である、この円城寺と下記の木下は史料によってどちらかが四天王に加わる
沖田畷で自陣が崩れると、龍造寺隆信を名乗り影武者となって隆信を逃がそうと奮戦した

木下昌直
京の出身であるが、龍造寺隆信の武名を聞きはるばる仕えに来たと言われている
隆信の戦死を知った昌直は、山の手を攻めていた政家、直茂の軍の殿を務めた
その際に命を落としたとも言われるし、ともに逃げ延びたとも言われ、生死が定かではない




100 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 18:08:31.89 ID:2UmPyGJY
百武さんの子孫には百武兼行がいて、分家の子孫と言われてるのが旧軍の百武三郎(海軍大将)、源吾(海軍大将)、晴吉(陸軍中将)なんだよな

101 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 19:49:32.10 ID:Zc0/cTF9
四天王、みんな死に様がかっこ良いな

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/04/23(火) 20:13:20.07 ID:g26aoxZV
てっきり沖田畷で死んだのが後世四天王扱いにされたかと思ったら
みんな相応の武士だったんだな

太閤様も認める九州の強者竜造寺

2012年04月24日 21:29

776 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 11:39:31.49 ID:j7ofBqol
太閤様も認める九州の強者竜造寺

山本常朝
『太閤様が薩摩を攻めておられたとき、
軍奉行の人たちから、先陣の竜造寺、鍋島の佐賀勢が軍法に背いた進軍をしているので、
けしからないことでありますから、どうか軍列を正すように、と太閤様に申し上げた。すると、

秀吉公
「戦をするのに決まった型や軍法というものはない。敵に勝つことを軍法とするのだ。
竜造寺は九州でも有名な強者たちである。
きっと、あのままで自信があるのだろう。
なまじ下手なことを言うと恥をかくぞ」

とお叱りになったとのことだ』


関連
鍋島の行列がみっともないのは
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4623.html


777 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 11:41:23.35 ID:lDpP4tws
鍋島の者どもはくそ弱いので壊走するだろう
そこで加藤主計がかかっていき(ry

778 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 11:50:48.12 ID:h79d/JCj
竜造寺さんの反応早すぎてワロウタw

779 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 11:59:52.42 ID:WeBW0wgi
まぁ九州征伐終結後に鍋島は軍隊の体をなして無いと
秀吉から、軍事顧問を派遣され軍制改革を強いられちゃうんですけどね
その後の史実にまでつなげちゃうと悪い話になっちゃうなw

780 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:08:50.15 ID:4GNPk3x1
軍制改革なんてものがあったのは初耳

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:17:11.53 ID:l29HL47o
鍋島さんちには、軍制というか、
軍団長の規定がない(常に殿が同伴する、分隊を編成できない・しない)、
殿からの命令伝達の方法がいいかげん、伝令が大物の前を乗馬のまま横切ったら斬られるw
背命の処罰の規定が敵前逃亡以外まっったくない
などなど、なかなかワイルドだったみたいだよ。

地方豪族のまま(運よく)大きくなった、という事なんだろうな。

782 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:22:33.41 ID:uRlci31j
多少なり組織立ってた部分があっても沖田畷できれいさっぱり崩壊しちゃってただろうしな

786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:41:26.47 ID:aGLi9qSg
織豊ですらやっと昭和後期になってから現代人が理屈こねくり回して
軍団制だ職業軍人だというようになったんだから

研究する人がいない地方大名の軍制なんて殆ど分かってないだろうに

787 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:45:08.82 ID:ozBaKjyZ
最高機密である軍事制度を含んだ軍事全般って、当時は口伝が主じゃないの?
軍学とかを江戸期にでっち上げる連中がたくさん出たが、これが空論ばっかで役立たずだったのは周知。

788 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:47:16.72 ID:c+WrngzQ
九州の周りの大名の軍制はどうだったんだ?というのが気にかかってくる

789 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 12:48:34.80 ID:h79d/JCj
そんなに無理矢理繋げたつもりはないが・・・
おねへの手紙や乞食への情けは信長の気遣いの話でしょ。
天下一称号は経済政策や技術者の能力向上の話だから

790 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 14:32:18.97 ID:tTZ3T335
領主とその支配民の寄せ集めにすぎない軍で、きちんとした編成とか戦術とか無理だと思うが……。

791 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 15:16:05.36 ID:4GNPk3x1
封建君主制はどんなに大きくなっても「領主とその支配民の寄せ集め」にすぎないわけだけど

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 15:26:16.47 ID:76wVVDVV
アメリカ陸軍は州兵の寄せ集め

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 15:28:04.77 ID:tmxNn1P1
州兵と陸軍は別系統じゃなかったっけ?

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 15:33:15.73 ID:tTZ3T335
>>791
だから江戸時代で制度が停滞して、いきなり近代化した日本はともかく。
欧州だと国王が常備軍そろえるように変化していったんじゃ?

>>792
州兵も国防総省の管轄下にあるアメリカ国家の軍組織。装備、訓練も統一されている。
歴史的経緯から、平時の指揮権が州知事にあるぐらいじゃ?

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 16:42:39.44 ID:4GNPk3x1
>きちんとした編成とか戦術
という物を用いず個人技や現場の判断といった物を突き詰めていくのが大名軍のような封建制
厳格に制度化規格化を進めていくのが律令軍や国民国家軍のような集権制という違いがあるのみで
優劣はそれこそ技術革新や陳腐化、人口の増減といった時代の流れで変わっていく

796 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 16:55:34.24 ID:zgDSmMTs
農民までキリングマシーンが存在した時代適当に戦ってる軍が弱いとは限らんからなぁ・・・

まぁ弱将の元の軍が弱いのはいつの時代も変わらないというのを体現した方がおいででもあったわけだが

797 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 17:10:01.74 ID:/lvlPHF+
日新斎のせんn……教育のお陰で、薩摩兵児は死を恐れないからそんなの無用です。

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 17:14:07.07 ID:tmxNn1P1
薩摩と土佐は比喩抜きで修羅の国

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/24(火) 17:28:30.75 ID:BY1Y6njQ
>>787
城の石落としを本当に石を落とすものだと思ってたらしいなw

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 12:37:31.89 ID:ey9X4Nto
まとめブログの管理人さんの紹介していた本を読んでいたら
フロイス「日本史」西九州編第52章には、沖田畷の戦いに出向く龍造寺軍について
「その隊列は見事に配分されていて、まるで彼はヨーロッパの戦術図、ないし(戦術)計画を
入手しているかのようであった。彼は一万二千の戦闘員を率いていたが、彼らは豪華(に装い)、
また清潔で気品があり、戦場で練磨された兵士たちであった。」
と書いてあるらしい

>>776や
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4623.html
の権現様やラスボスの感想とずいぶん違う気がする

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 13:20:51.48 ID:ey9X4Nto
上のは両方ラスボスの感想だった
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-4624.html
島原の乱の時の話もあったか

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 13:59:11.72 ID:VenOIFOI
幕末、西洋風近代軍隊の装いの長州勢をみて、
勝海舟「奴らは紙屑拾いのような格好でやってきた」

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 14:30:12.64 ID:r628FkdX
>>908
要は沖田畷以前と以後とで変わったってことでそ。

912 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/30(月) 16:13:22.40 ID:7mCOxMCs
完璧なるものは、わずかなほころびで崩れるのだ(ドヤァ

夢を語るには早すぎた隆信

2012年04月22日 21:51

746 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/04/21(土) 22:09:24.68 ID:VHzgB3G8
竜造寺本家の当主である胤栄が病死した際、竜造寺から攻められ筑後に亡命していた
少弐冬尚が、復権の好機とみて肥前に侵入してきた。これを受け、家中の話し合いにより胤栄の跡を
継いでいた竜造寺隆信は、重臣を集め

「我が代で国が乱れるのは許せぬ。すぐに出兵しよう。そして少弐家を討ったら東を得よう。次に有馬家を
 討てば西は治まる。それが成功したら、今度は隣国に出陣し菊池家や島津家をも従えて、中国、四国にも乗り出すのだ。」

と宣言した。所が家臣から

「まだ国内も治まっていないのに、諸方へ手を出しても敗れるだけです。」

と諌められ、隆信もこの意見に激怒して軍議の場から退出してしまった。この一件で、重臣からは

「あれでは国を治めることは出来ない。」

と嘆かれてしまったという。しかもこの後、かねてより隆信の本家相続を快く思っていなかった土橋栄益
謀反を起こされてしまったという。 夢を語るには早すぎた隆信の悪い話。




747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/22(日) 06:57:34.20 ID:UiDyQwDU
>>746
肝心の大友家忘れてますよ隆信さん

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/22(日) 10:33:44.01 ID:JYQ44lJM
元就「天下統一を願って、九州統一」

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/23(月) 18:50:35.87 ID:x5GWsWje
>>746
まず朝鮮を討ち、その後は明に討ち入る。
明を制覇した後は天竺だ…


権力者が夢を語るのは時と場合による

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/23(月) 19:51:28.77 ID:bKLn3Mc/
秀吉の場合、朝鮮や明との仲介に立った部下が
「アホくさい……でも素直にそれいったら首が飛ぶし」
と、本当の事を秀吉にも朝鮮にも伝えなかったせいでさらにややこしくなった気がする。
最初の申し入れも、一回目の講和もそうだし。

龍造寺隆信の首の行方、異説

2010年08月14日 00:01

433 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/12(木) 21:58:08 ID:+of9BF9z
>>http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2265.html

クマーの首の行方ですが、実は異説もあります。

沖田畷の戦いに於いて討死にしたクマーこと、龍造寺隆信。
隆信の首は島津義久の元へと送られ、首実検にかけられる。

と、ココに肥前からの使者、葉治郎右衛門がやってくる。
島津家としても累代の仇敵というワケでもない。十分に礼を尽くして隆信の首を治郎
右衛門に引き渡す。

薩摩の重臣がズラリと並ぶ中、主君の首と対面した治郎右衛門、涙を流し、平伏して
言葉を搾り出す。

「重臣の皆様方があれホド止めたのに、話を聞かないからこーゆーコトになるのです。
敵に囲まれた状態で主君を失い、五ヶ国の上下男女がどれほど嘆き、怯え、辛い思い
をしているコトか……貴方様は大恩のある主君とは言え、今となっては五ヶ国の仇敵
であります。ですから貴方の首を肥前の地に入れるコトは出来ません!」

そう言うと、治郎右衛門、隆信の首を投げ捨ててしまう。
唖然としてそれを見ている島津家の面々。

「……とは言え、只投げ捨てられたままでは、あの世に行っても悔しくて仕方がない
でしょう。すぐにでもお世継ぎ政家公、鍋島飛騨守以下、五ヶ国の将兵を持って薩摩
を平らげ、この場に並んでいる方々の首は勿論、尼や法師の首まで撫で斬りにして御
供養とさせていただきます!」

そのまま義久の前を辞し、隆信の首は放り出したまま、治郎右衛門は佐賀へと帰って
しまったと言う。


前の逸話だと、首を送ってきた島津の使者に対して、首を突き返したという話になっ
ていますが、コチラはわざわざ薩摩まで乗り込んで行って首の引き取りを拒否しちゃ
ってます。(^^;
つか、首を受け取る受け取らないって使者じゃなくて、宣戦布告の使者じゃねぇのか、
コイツ。ww
なんで負けた側に挑発されなきゃいけねぇんだ。何となく腑に落ちない島津家の皆さ
んに取っての悪い話?




434 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/12(木) 22:19:39 ID:adbrIocv
島津家の皆さんに、「なにこのマジキチ。これが使者?肥前に手を出すのはやめよう・・・」
と思わせる作戦なんだよ

435 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/12(木) 22:21:28 ID:0j54NlJ+
島津の人にマジキチ扱いされるとかどんだけだよw

436 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/13(金) 02:13:45 ID:M07rGRiR
悪魔に勝つには…悪魔のファイトしかねぇっ!!
って額に米って書いてある超人が言ってた

437 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/08/13(金) 11:13:09 ID:WkAK6/R5
えっ!?「殺」じゃなくって?

龍造寺隆信の最後

2010年01月18日 00:14

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 11:00:40 ID:PQnFZS7k
「龍造寺隆信の最後」
沖田畷の戦いにより隆信の山駕籠を担いでいた6人は討ち取られ、駕籠から投げ出された隆信は
身動きが取れなくなった。
その間に川上左京亮忠智に首をとられるのだが、忠智にこう言った。
「汝、大将の首を、如何にして切るか知るや」
忠智それに答え
*「如何なるか、これ剣刃の上の事」
これを聞くと隆信、悠然と首を差しのべて言った
*「紅炉上一点の雪」
隆信の最後は見事なものであった

*「俺に一刀両断されたら、貴様は一体どうするのだ」
*「真っ赤におきた炭火の上に、どこからともなく、一点の雪が降る。雪は一瞬にして消え、跡形も無い。
 振り下ろされる刃の下でも、生もなく死もない、生への一かけらの執着もなく、死への微塵の恐怖もない」

書いてて思ったけどこれ、信玄と謙信の逸話にもあったような…




78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 12:05:29 ID:jaWZi4fI
名前に「信」の文字を持った男はみんな思考が似てるんだよw

79 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 12:26:48 ID:WglyZeOi
信雄「まったくだ」

80 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 14:05:25 ID:nzfDT6cQ
>信雄=おまえだけは別

「如何なるか、これ剣刃の上の事」
「紅炉上一点の雪」
禅書の中の有名な言葉で、切羽詰まった極限状態の中、死の覚悟を問うた川上忠智に
これほどの者になら首をくれてもよいと、同じく禅書の返答をした。
カッコ良過ぎるが、隆信も最後くらいは大物らしくと・・・


81 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 14:09:12 ID:PsyJKmLn
いやいや、隆信さんは最後どころかいつも大物でしょう。何の意味かは……わかるな?

82 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 14:25:21 ID:pKZXqgqj
話の主旨とはズレるが、これがクマーを「悪魔の手先」とか言ってるフロイスだと
「(隆信は)不快な思いをして、手を合わせて槍を受けた」

とか書いてるんだよな
なぜ近畿にいるバテレンが九州にいた死者の心情までわかるのかと・・・

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 14:36:51 ID:8jTvGoyI
有馬、大村あたりがお手紙したんでねーかな?

84 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 14:41:19 ID:DmEgY63A
竜造寺は鍋島に乗っ取られてカワイソス



85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 15:11:57 ID:cW/SGBO4
>>83
(・◎・)さすがいけめんのおおむらさんやで

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/17(日) 15:14:50 ID:PsyJKmLn
>>85
確かに「大村直之」って戦国時代でも通用しそうな名前だけど、プロ野球板に帰りましょうか

龍造寺隆信「分別も久しくすればねまる」

2009年08月06日 03:12

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/05(水) 10:24:55 ID:hnD/uAi1
分別も久しくすればねまる

ある時、龍造寺隆信が重臣たちを集めて言った。
「昨今の秀吉の勢いを見るに天下を治めるのはあの男
に違いない。斯くなる上は早いうちに秀吉のもとに行き、
我が領土を安堵してもらおうと思う」

しかし、この考えに老臣たちは猛反対。長い議論が始まり、
一向に結論は出ない。すると隆信が言った。

「貴様らは分別がすぎる。考えすぎは好機を逃すだけだ。
今は決断の時なのだ。わしの言う通りにしてもらう」

こうして隆信は秀吉を出迎え、満足した秀吉は領土の安堵
を約束した。隆信の迷いのない決断が功を奏したのである。




89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/05(水) 10:35:45 ID:6u6GfyZj
              ∩___∩
            /  ノ   \  ヽ
            | ●    ● |   なにマジになってんの?
          彡   (_●_)    ミ
           /、   |∪|    ,\   この鮭の切り身やるから帰れよ
          /.|     ヽノ    | ヽ
       ,,/-―ー-、, --、   .|_,|
    r-、,'''";;:;;:;::;;;;:;;::;:;:;;::;:;`'- /_,l,,__ )
   |,,ノ;;:;r'" ̄ ゙̄^"`Y'-、;;;::;:;::;:;:;:;::;:|
    .ヽ,′       ;   `"";;;;;⌒゙')
     ´`゙'''''''''''‐-‐'"`‐-‐'"゛  `゙´
              |  .∥ /
            ("___|_`つ



隆信が老臣へ贈る言葉と鮭であった

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/05(水) 10:53:56 ID:sCAs2lIw
龍造寺家が秀吉と通じたのは、沖田畷の戦いでの隆信の討ち死後、鍋島直茂によってだと思うが、
「分別も久しくすればねまる」は、こんな形で伝わっているんだねえ。


龍造寺隆信の首・悪い話

2009年06月20日 00:01

430 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/19(金) 21:14:03 ID:QIXRI5Fj
これ元ネタが、光栄の信長の野望蒼天録か天翔記の武将ファイルに書かれている
ものだから、本当にこういう逸話が残っているのかよとかなり疑問ではあるんだが・・・

沖田畷の合戦において、肥前の雄龍造寺隆信は無念の最期を遂げた。
さて、この隆信、討ち取られた後、その首を持ってきた島津の使者に
「不運の髑髏に用は無し」と鍋島直茂に啖呵を切られたり、
島津の使者が首を持って帰ろうとすると、国境沿いで急に重たくなり、
島津の使者が哀れんで龍造寺領内に弔ったりした話は有名。
ところがこれにもう1つばかり逸話がある。

この討ち取られた隆信の首。首実検の後に赤星統家に下げ渡される。
赤星統家と言えば、子供2人を磔にされ、隆信に最も恨みを持つ者。
当然の事ながら、統家を始め、家臣一統隆信の首に悪口雑言を投げつける。
何よりも凄まじかったのは、殺された子供2人の母親で、隆信の首を蹴りつけたそうな。それも何度も。

さて・・・こうして溜飲を下げた赤星一党であるが、その行動にマジギレした奴がいる。
それは龍造寺政家でも鍋島直茂でもなく、何と島津義久。
実は義久。祖父である日新斎の薫陶よろしく、戦の後は敵味方関わらず
ねんごろに弔うべしと言う信条を持つ男。
そのため、赤星一党の振る舞いは、彼にとっては言語道断な振る舞いでしかなく、
「赤星は武者の心得も知らんのか」と、以後赤星に対して冷遇したそうな。





431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/19(金) 21:23:16 ID:44qFKqHg
>>430
怒る位なら何故下げ渡したんだって話だなw
しかし隆信さん、首になっても色々と難儀していますな。

432 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/19(金) 21:24:33 ID:Eb+o3Kze
>>430
だったら赤星に下げ渡さずに弔っとけよって話だな。


道雪の酒 肥前の酒・いい話

2009年06月18日 00:10

534 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/17(水) 13:20:20 ID:tDRRhX1q
道雪の酒 肥前の酒

「肥前の熊」と謳われた猛将、龍造寺隆信と
「雷神の化身」と称された大友家の勇将、立花道雪は
筑前、筑後の覇権を巡り激しく争っていた。

戦の陣中、隆信が昼食を食べている所に、道雪から和議の使者が来た。
隆信も(どうやら潮時か…)と思っていたので、和議に応じた。
道雪の使者は和議の祝いとして、道雪から贈られた太刀、馬、酒樽を
隆信に差し出した。隆信は喜び、贈られた酒樽に歩み寄ると、手にした
飯椀に酒を酌んだ。
隆信の家臣達はあわてて制止した。「まことに失礼ながら、その酒は
毒酒かもしれませぬ!飲んではなりませぬぞ!」
戦中の、しかも和議が成ったとは言え敵方が贈ってきた酒である。家臣
の言い分はもっともであった。だが隆信は笑って言った。

「道雪は手強い奴だ。もし敵将に毒酒を仕込むような輩であれば、今頃
筑前と筑後は俺のものであろうよ。」
と言って飯椀に酒を酌み、立て続けに三杯も酒を飲み干し、
「道雪殿の酒、まことに美酒であった。道雪殿にも肥前の酒を
一献差し上げる」と使者に自ら用意させた酒樽を渡して返した。

使者からこの事を伝え聞いた道雪は、「大将として剛勇の者だ。
まことに難儀な漢である。」と苦笑し、贈られた肥前の酒を
近習が止めるのもかまわず、椀に三杯の酒を酌み、飲み干した。




538 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/17(水) 16:35:59 ID:xKCyqQJg
>>534
三国志演義にも陸抗(陸遜の息子)と羊コで同じような話があったな
この場合は薬を贈られたんだったか

539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/06/17(水) 18:44:26 ID:B4sjYwER
宇喜多殿から和議を祝して茶が届きましたぞ

540 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/17(水) 19:04:25 ID:tmWsJFR+
直家に注がれた酒って、ロシアンルーレットみたいなもんだな。
もし酒に毒がなくても、安心した所をグサリとか…恐ろしい。

570 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/06/19(金) 08:24:06 ID:ZlK1hdef
>>534
山内二十六ヶ山の頭領、神代勝利の毒殺を謀って失敗したくせにw


竜造寺四天王の思い出

2009年04月26日 00:03

950 名前:竜造寺四天王の思い出[sage] 投稿日:2009/04/25(土) 02:35:36 ID:RnbeueR/
             ヽ 丶  \
    隆信様    \ ヽ  ヽ     ヽ
/  /    ヽ    \ ヽ   ヽ
 /   |  ヽ \     \  ヽ  ゝ           (宗麟)
ノ 丿       \   鮭 \   ヾ
 ノ  |   |  丶  \     \          (宗麟) 
   /          \     \/|               (宗麟)
 ノ   |   |      \       |         ↑
     /\        \      |         (  ↑
   /   \       /      |          )  (
  /      \      ̄ ̄ ̄ ̄ ̄         (   )
/_        \                    ) (           猫
 ̄  | な  四   | ̄         ノ⌒ ̄⌒γ⌒ ̄⌒ゝ           / /
   | い  天 4|         ノ     有馬   .  ゝ          / /
   | で 王 人|        丿              ゞ      _/ ∠
   | ね の に|       丿/|/|/|/|\|\|\|\|\ゝ     .\  /
   | ! 事 な|               │                V
――| と  忘 っ|――――――――――┼―――――――――――――――――
   / い れ てヽ  巛巛巛巛巛巛巛巛 人巛巛巛巛巛巛巛巛巛巛鍋島
    う    .も
    気
    持
    ち 



951 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/25(土) 02:50:52 ID:Uk5Qv9Kx
うかつにも「猫」でこんな夜中に爆笑してしまったw

952 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/25(土) 03:24:43 ID:tmmFTiek
コピペくせに的確すぎるぜw

953 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/25(土) 13:51:55 ID:72m+wc6p
五大老だって徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・小早川隆景の5にn・・・
あれ?合ってる・・・

954 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/25(土) 13:54:58 ID:wwtUAtpk
宇喜多秀家、前田年長

955 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/25(土) 14:52:17 ID:pcAba+0+
小早川→上杉
前田→前田
こちらは死んだら

959 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/25(土) 23:57:01 ID:SQVIpaHf
>>955
隆景生前に既に景勝の大老活動は始まってるから実際は六大老です。

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/26(日) 00:13:57 ID:izwvY4aM
>>959
隆景は死去ではなく引退による交代だろ。

竜造寺四天王、戸田賢兼の百武姓・いい話

2009年04月17日 00:08

775 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/16(木) 13:46:13 ID:9NRYJBL2
>>769>>774
竜造寺四天王の戸田賢兼は竜造寺隆信に武功を賞され百人分の働きに並ぶとして
百武姓を与えられた。
百武姓は百武賢兼が始祖になるわけなので、有名な百武彗星を発見した百武裕司さんとは
なにか関係あるのかな?
百武さんは海外では「名前の意味はhundred samurai」なんて紹介されたこともあるそうで
いかにも勇ましいかっこいい名前だよね。

それと比べると「長いから」という身も蓋もない理由で「原」に改姓させられた黒田家の
宝珠山さんの立場は……。




781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/04/17(金) 00:00:35 ID:F3uHhYz+
龍造寺四天王っつったら
江里口信常成松信勝百武賢兼円城寺信胤木下昌直で
人よんで龍造寺五天王

松浦党、波多氏の断絶・悪い話

2009年01月19日 00:05

531 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/18(日) 13:53:07 ID:sXbcr85K
九州北部、松浦地方(現唐津市周辺)・壱岐に勢力をもっていた松浦党の波多氏にまつわる悪い話

松浦党は後三条天皇の曾孫源久を祖とする水軍で栄えた一族であり、「松浦四十八党」の名で知られていた。
「源平壇ノ浦の戦い」や「元寇の役」で活躍、「南北朝の戦い」では少弐氏の与力として名を残した一族であり、
室町中期には「倭寇」の名で跳躍したが、戦国期には大内・大友・竜造寺など大勢力の前に衰退している。

「松浦四十八党」波多氏の戦国期の当主波多鎮(波多氏は祖源久を習って一文字名。鎮は大友義鎮の一字を受ける)の嫁の話。

波多鎮には臣下の青山氏からもらい受けた円子という妻がおり仲むつまじく過ごしていた。
しかし天正七年(1579年)、竜造寺家(波多氏が従属していた)より突然来訪した使者が事態を一変させる。
なんと使者は唐突に鎮夫人円子死去の弔辞を述べはじめ、その後香典料まで差し出したのである。
当然、鎮は驚き妻円子は健在であると使者に伝える。しかし使者は「自分は主命を果たすだけである」
と言って帰っていってしまったのである。

この事を知った円子は竜造寺家の腹を読み、密かに城を出て寺に入り尼になった。
波多家の浮沈を思い黙って城を去った円子だが、その後さらなる事態が波多家を襲う。
鎮の後妻として竜造寺隆信の養女(実父は前竜造寺家当主胤栄)安子が迎えられたのである。
しかしこの安子は小田鎮光と死別(隆信に謀殺された)しており、すでに38歳の年齢。
当然子をもうけるには厳しい年齢だが竜造寺家の手前、側室をもうける訳にもいかず、
最終的に波多氏は竜造寺隆信の孫を養子に貰い受けることとなり、波多氏直系は途絶えたのである・・・




532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/18(日) 13:58:38 ID:3oLUg/1K
行き先のない38歳の後家を押しつけられたのか。
はた迷惑な話だな。

533 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/18(日) 14:01:10 ID:i0RF8X8J
誰がうまい事を言えと(ry


535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/18(日) 14:20:24 ID:sXbcr85K

せっかくなので安子と前夫小田鎮光について。

安子は17歳で佐賀近郊の蓮池城主(現佐賀市)小田鎮光に輿入れした。夫婦仲は良かったらしい。
ところが隆信は突然、小田鎮光を多久(有明海沿いの長崎との県境付近)へ異動させる。
当然この処置に鎮光は腹を立て、密かに大友と誼を通じる。
それと気付いた隆信は鎮光を謀殺しようと佐賀に誘きよせる。
義父からの誘いをムゲに出来ずに鎮光が佐賀に来たところで謀殺。

まあ戦国時代には良くある話ですが、安子はショックで体調を崩し波多鎮に輿入れしたのは鎮光の死から10年後のことでした。

554 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/19(月) 02:52:45 ID:yQVSKw82
>>535
宇喜田直家「義理の息子を居城に招いて謀殺とか人間のやることじゃねーな」

555 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/19(月) 03:22:01 ID:R1uA5+09
>>554
信長「その通りだな」

556 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/19(月) 03:42:19 ID:lH3In+dM
家康「娘婿とは仲良くいきたいものだ」

557 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/19(月) 06:44:50 ID:/Se26a8V
光秀『裏切りとか信じられないっ!!』