309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/08/05(月) 15:43:00.35 ID:8z59+Ygy
小督の局、名は於万の御方。永見志摩守小野吉英の娘で、第二の御子・結城殿(秀康)の御母上である。
一説に永見志摩守は三河国池鯉鮒の人である。於万の方はあどけない時から徳川殿の北の方・築山
殿に宮仕えしたところ、君(徳川家康)の御慈愛を受けて身重くなったが、築山殿は知りなさると
ある夜に於万殿を赤裸にして縄で縛め、浜松の城の木深き所に捨てさせなさった。
折しも本多作左衛門重次が警備しており、女の泣く声を訝り探して来た。この有様を見ると急いで
縛めを解き、事情を聞いて密かに自分の家に伴い帰って介抱した。その後、君にそっと申したとこ
ろ(家康は)何と宣ったのか、重次はそのまま(於万を)大切に養って、天正2年(1574)の
2月に浜松の城外有富村という所で御子を産んだのである。これすなわち於義丸殿でいらっしゃる。
このような事なので、しばし御対面もなく重次が万事育み参らせたのである。
また一説には、於万は身重くなったので、北の方に漏れ聞こえては憂き目を見るだろうと恐れて密
かに忍び出て、本多豊後守広孝の家の老臣・本多半右衛門の家に走り入り、しかじかの事であると
言ったので本多作左衛門に付けたところ、重次は密かに君に申して自分の家に迎え取り介抱したと
いう。いずれが真なのであろうか。
結城殿が越前国を賜りなさると局も越前にいらっしゃったが、慶長12年(1607)の4月8日に結
城殿は先立たれなさって悲嘆に堪えず、たちまち出家したことは気の毒なことである。法号を長勝院殿
という。元和5年(1619)の12月6日、福井で亡くなられた。73歳であったという。敦賀の孝
顕寺に葬られた。
永見の家も越前に仕えて忠直朝臣(松平忠直)の時に家は滅びた。その後、忠直は豊後の配所で生まれ
た子たちを永見と名乗らせて(永見長頼・長良)その家を立てなさった。これも中将光長朝臣(松平光
長)が流された時に罪を蒙って、ついに家は絶えたのである。
――『以貴小伝』
小督の局、名は於万の御方。永見志摩守小野吉英の娘で、第二の御子・結城殿(秀康)の御母上である。
一説に永見志摩守は三河国池鯉鮒の人である。於万の方はあどけない時から徳川殿の北の方・築山
殿に宮仕えしたところ、君(徳川家康)の御慈愛を受けて身重くなったが、築山殿は知りなさると
ある夜に於万殿を赤裸にして縄で縛め、浜松の城の木深き所に捨てさせなさった。
折しも本多作左衛門重次が警備しており、女の泣く声を訝り探して来た。この有様を見ると急いで
縛めを解き、事情を聞いて密かに自分の家に伴い帰って介抱した。その後、君にそっと申したとこ
ろ(家康は)何と宣ったのか、重次はそのまま(於万を)大切に養って、天正2年(1574)の
2月に浜松の城外有富村という所で御子を産んだのである。これすなわち於義丸殿でいらっしゃる。
このような事なので、しばし御対面もなく重次が万事育み参らせたのである。
また一説には、於万は身重くなったので、北の方に漏れ聞こえては憂き目を見るだろうと恐れて密
かに忍び出て、本多豊後守広孝の家の老臣・本多半右衛門の家に走り入り、しかじかの事であると
言ったので本多作左衛門に付けたところ、重次は密かに君に申して自分の家に迎え取り介抱したと
いう。いずれが真なのであろうか。
結城殿が越前国を賜りなさると局も越前にいらっしゃったが、慶長12年(1607)の4月8日に結
城殿は先立たれなさって悲嘆に堪えず、たちまち出家したことは気の毒なことである。法号を長勝院殿
という。元和5年(1619)の12月6日、福井で亡くなられた。73歳であったという。敦賀の孝
顕寺に葬られた。
永見の家も越前に仕えて忠直朝臣(松平忠直)の時に家は滅びた。その後、忠直は豊後の配所で生まれ
た子たちを永見と名乗らせて(永見長頼・長良)その家を立てなさった。これも中将光長朝臣(松平光
長)が流された時に罪を蒙って、ついに家は絶えたのである。
――『以貴小伝』
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