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田中吉政と垣屋摂津守

2022年09月17日 19:09

397 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/09/16(金) 21:01:41.73 ID:70ioijqF
朝野雑載」から田中吉政と垣屋摂津守(垣屋光成?)

http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-8387.html
のように農夫をやめて、宮部継潤にはじめ草履取りとして仕官したが、すぐに継潤により「草履取り程度の器ではない」と認められ徒士となった。
そののち才能・武功により家老として二千五百石が与えられた。
秀吉公が因幡の垣屋摂津守を攻めた時のこと、すでに城の包囲は突破されたため摂津守は覚悟を決めて自刃しようとした。
そこへ城中一番乗りした田中吉政は摂津守に対して槍をついた。
摂津守も槍で応戦し、勝負がまだ決しないうちに秀吉公の使いが来て
「このたび垣屋が城をもちこたえさせたのは見事である。
これまでの咎を許し、本領十二万石を安堵しよう」と言ってきた。
そのため吉政も摂津守も戦いをやめた。
摂津守は秀吉公に謁見し、吉政の功績を述べた。
秀吉公は大いに感じて吉政を召し出し、そののち三河刈屋城主として四万石を与えた。
田中吉政が十八の時に農夫を辞めて、四万石を領するまで、わずか六年ばかりであった。

(田中吉政は普通1548年生まれとされているが
朝野雑載」の記事では「田中吉政が十八の時に宮部継潤(二万石)に仕えた」としているため
宮部継潤が1580年に但馬豊岡城主として二万石取りであることから考えると、「朝野雑載」では田中吉政の生年は1563年頃としているようだ)



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武夫たる者が苦を嫌い死を畏れて

2022年07月17日 15:28

545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/07/17(日) 13:02:25.89 ID:2ndILS+1
ある本に、明石氏(全登)の子である某は、大阪落城の後、田中筑後守吉政が匿い置いていたが、
その事が上聞に達し、御検議あらん為に、その家臣一人を奉行所へと召された。

忠政はこの事を重臣である平野長門と協議したが、長門は「最大事ですから、他人を遣わすべきでは
ありません。愚臣が赴きます。」と申した。

これを聞いた筑後守は落涙して、「余人を遣わさん!」と言ったが、長門は留まらず奉行所へ出て
陳弁した。そして御疑いがあり、拷問に及んだ。しかし平野はそれを嘲笑し
「申し上げるべき事無し!たとえ又あったとしても、武夫たる者が苦を嫌い死を畏れて言うものか!」
と動ぜず、遂に責め殺された。そしてそれ故に筑後守は災いを免れ、明石の子もまたその跡を
晦ます事ができた。

新東鑑




わざと深いかのように

2019年01月12日 13:51

587 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/11(金) 23:28:08.89 ID:SWd6cAfG
関ヶ原の役の岐阜城攻めの際、田中吉政は郷戸川を渡ろうとする時、中間の中に水練を良くする者が
おり、これに瀬踏みをさせた。
このとき川は大雨の後、増水しており浅瀬が解らず、田中家を始め、諸勢渡りかねていた。
かの中間は川に飛び入ると、或いは浮かび或いは沈んで、その水深は甚だ深いと見えた。
ところが彼が帰ってこう報告した「浅く候。」
これを聞いた吉政は尋ねた「汝が渡った様子では、深い様子であったのに、今帰ってきて浅いとは
どういうことか。」
かの者これに答えた
「浅いという様子を見れば、他の部隊の備から、先を争って渡り始めるでしょう。ですのでわざと
深いかのように泳いだのです。」

こうして田中吉政の部隊は浅い場所を渡って先登の功を立て、かの中間はこの功により、郷戸三郎左衛門
号し、武士の列に入れられ、後に細川家に使えて病死した。

(常山紀談)



588 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/01/12(土) 01:49:31.82 ID:Z2aRHrOi
すげぇ

589 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/12(土) 05:34:49.51 ID:8ZBw+Cjw
敵を欺くにはまず味方からやな

622 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/01/12(土) 23:23:31.88 ID:7h0NDeq2
>>587
コレってむしろ良い話じゃね?

さてはますます勇士の機

2017年11月23日 13:06

448 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/23(木) 09:39:25.77 ID:mJcw9C4d
関ヶ原の時、田中筑後守(吉政)の家臣で田辺甚兵衛という者の子、父は早世して
甚兵衛の名を継いだが、10歳にて陣立てした。彼の家臣たちが敵を突き落とし、甚兵衛を
馬より抱き下ろして頸を取らせた。
幼少の子として比類なき儀であると、その頃世間で大変に賞賛された。

後に、黒田長政田中吉政を訪れた時、四方山の物語の中で、吉政がこの甚兵衛の事を語った。
長政はこれに大いに感じ入り、甚兵衛を呼び出し盃を与えた。この時、「甚兵衛を補佐した
家来どもも呼び出して様子を尋ねよう」という事になり、甚兵衛の家来たちも出頭した。

長政が当時の様子を具体的に尋ねると、彼らはこう証言した
「馬より抱き下ろした時、刀を抜いてかかりましたが、わなわなと震えていました。
それを家来どもに恥ずかしめられ、震えながら立ち寄りて頸を討ったのです。」

これを聞いて長政は再び大いに感じ入った。
「さてはますます勇士の機がある。震えずにかかったなら、十方無き故(頭がからっぽだから)と
言うべきであろう。恥ずかしめられてかかったのは、義をつとめて致すという行為だ。」

そう評したという。

(士談)

田辺甚兵衛の初陣・いい話

こちらに既出の逸話ですが、出典があり詳しかったので



この国の殿は

2017年07月09日 10:47

85 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/09(日) 01:30:12.47 ID:2VY1cRSN
 この国(筑後)の殿(田中吉政)は一般的にその発展を妨げずにいたところ、
眠ってはいけない悪魔は、その手下である数人の異教徒を通じて、
その発展を邪魔するだけではなく、殿が発した若干の言葉をきっかけにして
既にキリシタンになっている人たちを帰京させることさえ望んだ。
その言葉とは父祖の教法を変えるのは望ましくない、というものであったが、
彼らはその言葉の意味をねじ曲げて自分たちの邪な悪意に従って解釈した。
こうして、かの異教徒たちは、殿の公の役人であり、
キリシタンがいる数ヵ村を治めていたので、
既にキリシタンになっているものは回心せよとそれらの地区に布令を出した。
(中略)
 さて、キリシタンたちがこのような窮状におかれているときに、
殿がたまたま司祭たちの修道院に来て食事をし、そこにある楽器を見た。
その折、司祭に対してすこぶる愛想がよく、優しい態度を見せ、
(司祭は)彼に大いに敬意を表して厚くもてなした。
キリシタンは、自分たちがキリシタンたちに対し企んだことを殿がもし知ったならば、
よい結果にはなるまいと考えて、その悪企みを断念することにし、
キリシタンたちは自由に、平穏になり、敵たちは困惑し恥いった。

(イエズス会日本報告集1-4)


此度の功によって我が疑いは晴れた

2017年07月08日 21:07

83 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/08(土) 11:11:46.03 ID:PtOrjCfS
 三成は並の者ではないので、今日落ち人となりても明日は又様々な謀略を企むことも考えられる。
したがって田中を一人に捜捕させるのはいかがなものかと私議するものもいた。
しばらくして吉政は石田を捕らえ出て進じた。
その時、田中はかねてより治部と仲がいいゆえに少しも疑いがないとはいかなったが
此度の功によって我が疑いは晴れたと仰られた。
諸人は初めて盛慮の深淵を感じた。
(徳川実紀)


ここに松を植えたので

2017年07月05日 18:31

77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/07/05(水) 17:39:23.39 ID:qhAAv/+d
 毎日城を見廻っては普請などを命じ、朝飯は城より弁当を取り寄せて、
所構わず道端や堀の端で食事をし、その日の普請の当番には声をかけては話を聞いた。
侍屋敷の前では畳を一、二帖借り出して敷物とし、結構な仕立てを嫌って、いかにも質素であることを好んだ。
 寺の門前に無用な植木などがあれば、この木を掘り除き、茶を植えて信徒たちに茶を分け与えるよう指示した。
また知行所は残らず見て廻り、農家の周りに堀があれば用心は田中に任せよと言い、堀を埋め立てさせ稲や畑を作らせた。
年貢高を決めるための調査には自ら赴き、作柄の見立てを行って収穫のよしあしに従って年貢率を決めたので百姓たちは喜んだ
 また、罪人があると、首を切る代わりに荒地の開墾をさせるこのような仕置きは九州小倉の越中殿にも聞こえていた。
知立から西尾の間にある三里に及ぶにし野という芝原を囚人たちを使って開墾させ、
ここに松を植えたので後にここは松原となって毎年塩木として売る事ができるようになった。
(石川正西聞見集)

塩木(海水を煮沸し塩を作る際の薪用の木)

田中吉政、岡崎時代の統治


杉江勘兵衛を討ち取ったのは

2017年04月17日 11:34

829 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/04/17(月) 08:55:19.10 ID:8+na5zsz
田中筑前守(吉政)の家臣の内、関ヶ原の役、合渡川合戦において石田三成の家臣で武勇を知られた
杉江勘兵衛と鑓を合わせ討止めたという者が3名あった。
西脇五右衛門松原五右衛門尉辻勘兵衛の3人である。

実際には、西脇が杉江と鑓を合わせて突き合いをしていたが負傷した所へ、田中吉政自身も駆けつけ
声をかけ、西脇がさらに奮戦していた所、松原が来て突き倒し頸を挙げたのだ。
辻勘兵衛は通りざまに鑓を合わせただけであった。

しかしてその後、西脇と松原はこの時の功を争って止まなかった。
吉政が筑後拝領した初め、磯野伯耆守の所で吉政は、両人が未だに絶交状態であると聴き、
両人を呼び遣わし、その間に、杉江を討ち取った事についての、全く同じ文章の感状を二通したためた。
両人へこれを渡して、仲直りをさせたのである。

辻勘兵衛はこの合戦の時、他の敵と組み討ちの功があり、別途その功についての感状を与えられた。

田中家改易の後、松原五右衛門尉は三千石あまりにて越前へ、西脇は七百石にて肥後へ、辻は肥前と称し、
浅野但馬守の所へ参った。

(士談)


田中吉政、石田三成を捕える

2015年08月03日 18:34

147 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/08/02(日) 20:37:55.40 ID:10eOLgVS
徳川家康は関ヶ原で勝利すると、16日には佐和山を攻め落とし、明日は大津に出る、という時に、
田中久兵衛吉政が申し出た

「私は先日関東にて、必ず石田三成の首を取ると申しましたが、その甲斐もなく落ち延びさせたこと
無念に思っています。そこでお暇を賜り、近江は我が生国ですから、草を分けても三成を探し出し、
それでも行方が知れなければ越前北之庄あたりまでも逃れたのでしょうが、どこの国までも
探し出して参ります。」

その場より出立し、地理に詳しい伊吹山のあたりで200人、300人の落人を搦め捕り、切り捨て、
残る所なく探していたが、”かうつくま”という所に山寺があり、三成は幼少の時ここで手習いを学び、
その縁を頼んで寺の縁の下に2,3日隠れていたが、9月23日の月が出た明け方、寺の前に出て
月を詠み、どこかに落ちていこうとした所を、運の尽きか、百姓たちに見つかり、三成は色々言い逃れたものの、
逃れ難く縄をかけられ、田中吉政の前に引き出された。

その時三成は浅ましい姿であったが、吉政はその姿を見るや三成に近づき、その縄を解き捨てた
「侍の行く末というものは、誰であってもこのようになる事、珍しいものではありません。
ですのでどうか、何事もお任せください。徳川殿の御前で、私の今度の戦功に変えてあなたのお命を
申し受け、たとえ山の奥、島の中であっても、安全に送ります。」

このように謀り透かした

「舌があっても食事をしなけれな詮無きものです。」
そういって馳走し、その後落ち着くと、吉政は密かに三成に尋ねた

「あなたが送った、諸国の諸大名への計略の書状はどうなさったのですか?」

「それらはすでに、去る所において山田の中に入って捨てた。」

「では、あなたのお道具の類はどこにお預けになったのでしょうか?
もしお道具が誰かに取り出されれば、資産を無くしもはやあなたが再起する事は出来ないでしょう。
ですのでこの田中に教えていただければ、いかようにも取り計らい、あなたに進上致します。」

石田三成は本来流石の人物であったのだが、この時の境遇であったので完全に欺かれ、
「なるほど尤もである。」と、大阪、京都に残し置いた物、或いは彼が潜んでいた寺の下に埋めた物も
残らず掘り出させた。吉政はこれを厳重に梱包し、徳川家康に提出した。

そして「治部少輔が生け捕りになった姿をご覧に入れましょう。」と、今までは主人であるかのように
遇していた三成に縄をかけ、長持ちの中に入れた。三成はそれでも「とにかく、田中次第にしよう。」と
言うように成っていた。

三成を入れた長持ちが大津の陣所に入ると、一方は村越茂助に持たせ、後のほうを吉政が担ぎ
家康の御前に参ると、三成の身柄を確保したことに家康は殊の外喜んだ。
「先日の小山での言葉に相違なく、一層神妙である。」と、北近江を、瀬田の橋を境として
吉政に与えるとした。吉政は「私の生国でもあり、別して辱い次第です。」と感激して
申し上げた。

ところがここで、彦坂小形部が反論した。
田中吉政は、以前は石田三成の腹心ともいえる人物でした。
そんな彼に大国である近江を与えるというのは、次に乱が起こった時、彼がどんな行動を取るか
大変心許なく思います。」

それでも「今度の田中の働き比類なし」ということで、内談の上、彼に筑後一国が与えられた。
石田三成は、小西行長、安国寺恵瓊と同様に、京の市中を引き廻され三条河原において斬られた。
38歳であったという。

(明良洪範)




近江の田中村に九兵衛と言うが農夫いた。

2014年04月13日 18:44

956 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/12(土) 22:53:24.85 ID:1KcdLE+o
有名な話ですが朝野雑載より。

近江の田中村に九兵衛と言うが農夫いた。
18歳の時に
「俺はこのまま農夫で終わるのは嫌だ。いまはこんな時代だし、侍になって出世して、
金持ちになって有名になるんだ!」
と思い立ち、妻に離婚を言い渡した。
いきなりのことに驚いた妻は
「わたしが何かしましたか?何で家を出されなきゃいけないんですか?」
と訊ねると、九兵衛は
「いや、何にも悪いことしてないよ。ただ、俺はビッグになるから明日出ていきます。
ご飯をたくさん炊いといて。」
と有るだけの米数升を炊かせて、友人を呼んで宴会をした。
「ビッグになるぜ!フェイマスに!( ̄∀+ ̄)キラッ」
みたいな志を語った後、本当に家を出て行った。
その後、宮部善祥坊に草履取りとして仕えた。


後の田中吉政である。

いい話ではないなと思ったのでこちらに




957 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/13(日) 00:15:29.00 ID:q6o0kaFC
でも本当にビッグになったのはすごいw
同じような事して埋もれていった人間も大勢いたんだろうなぁ

958 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/13(日) 22:37:45.83 ID:R/VeEKGy
ビックになったからこそ話が今にまで残ってるんやろうね~

草履取りだとやっぱり嫁さん養えんのかね・・・
立身して離縁した嫁を迎えにいったとかになるともう物語りとかになっちゃうんやろな~

960 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/04/14(月) 01:09:28.46 ID:q7JWBRtX
>>958
草履とりじゃないが重耳は迎えにいったのかな?

961 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/04/14(月) 16:31:08.01 ID:s7lc4QLE
そんな逸話あったっけ?と調べてみたら、
重耳と孟嘗君がごっちゃになってたわ・・・

永勝寺の薬師如来

2014年03月05日 19:19

522 名前:人間七七四年[] 投稿日:2014/03/05(水) 12:49:56.28 ID:/+e5qil0
福岡県、久留米にある永勝寺の御本尊である薬師如来には大変ないわれがある。
天武天皇のお后さまの病を癒したと伝わり、白河天皇に保護されたため、永勝寺は日本三薬師の一つと呼ばれるほどに繁盛した。

戦国時代、豊後の大友宗麟が筑後に乱入した時の兵火で永勝寺は焼けてしまったが、不思議なことに薬師如来は無傷で山陰に隠れていたという。
「薬師如来が自ら歩いて火難を避けたのだ」
と村人は仏力に感じ入り、仏堂を再建した。

何年かの後、久留米を領した毛利秀包は無道であったため、領内の寺社仏閣を壊し、放火した。
永勝寺も焼けてしまったが、またしても薬師如来は山陰に隠れ無事であった。
これを見た村人たちは不思議な仏力に感じ入り、毛利秀包の目を逃れるために、山中の洞穴に薬師如来をかくまった。

その後に田中吉政がこの地を領した。
すると毎晩、山が五色に光るので吉政の家来が調査すると、この薬師如来が見つかった。
その家来が村人から話を聞き、吉政に報告すると、吉政は
「勿体無いことである」
と言い、堂の再建を許可した。

永勝寺は廃寺になったこともあったが再建され、今も薬師如来を御本尊としている。



523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 13:21:59.60 ID:qe3dCNG+
神仏習合で八幡大菩薩の本地が阿弥陀如来、東照大権現の本地が薬師如来
西方極楽浄土と東方浄瑠璃界をそれぞれ受けもっているわけだ

524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/03/05(水) 13:22:24.49 ID:5s7Zj3cG
山陰を「やまかげ」と読まずに普通に「さんいん」と読んで毛利氏とかの庇護を求めたのかと

ある説には田中吉政は

2013年06月05日 19:57

400 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/05(水) 19:15:28.07 ID:5eUFZbTX
ある説には(田中)吉政は浪人で美濃岐阜辺りを徘徊し、
やっとの事で木綿島の袴一具を買出し、これを着て信長の足軽に出て、

仕物、取籠者などの手柄を多く立てて、ついに士となり、
太閤に仕えてもなお戦功が多いので、ついには岡崎五万石の城主となったという。

私が考えるに、吉政は信長の時、足軽に出て武勇が多かったので宮部の与力に附けられ、
二百石を領せられたのであろう。

山内対馬守や堀尾帯刀などの類は皆信長より秀吉へ附けられた与力であったから、
吉政もこの類であろう。

――『筑後国史 筑後将士軍談』

吉政の系図を見た人が言うには

2013年06月01日 20:01

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/06/01(土) 18:57:07.56 ID:MVfrbMaw
また諸家深秘録によると(田中)吉政の父は田中伯耆守といって信長へ仕えて
近江八幡山三万石を領した人というが、

柳川の真勝寺(吉政の菩提所)に今ある吉政の系図を見た人が言うには、
吉政は信長の足軽に出られたということが家系の中にあるという話だから、深秘録の説は
でたらめであろう。また(http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-7579.htmlに続く)

その上、真勝寺の先住は吉政の四男で今に血脈相続し、
今の住持は吉政の玄孫であるから、系図の説が事実であることは明白である。

まして惣見記や信長記にも田中伯耆という人は見えず、好古の人の考えもこれと同じだ。

――『筑後国史 筑後将士軍談』




よって、元足軽であることは明らかである

2013年05月30日 19:55

374 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/05/30(木) 18:34:39.07 ID:REgp+8SU
当州の野民村翁の伝話によると(田中)吉政は筑後入国の時、自ら扇を開き、
「一石取った兵部が一国取った。見さいな」と言って舞ったのだという。

よって、元足軽であることは明らかである。

――『筑後国史 筑後将士軍談』






田中吉政「そういうこともあるだろうと思って」

2012年12月31日 19:56

901 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/31(月) 17:46:22.93 ID:AaHORiM6
岐阜城の戦いの折、田中吉政の家臣・田中采女は村の入口で
敵を突き落とした。吉政はこれを見て「采女は今日の一番首だ。
首を取るのだ」と言葉をかけた。

その次に川淵九郎左衛門が高名をあげた。吉政はこれを見て
「鼻をかくのだ」と言った。戦後、二人の間で一番首をめぐって
争いが起きた。

吉政がこれを聞いて「そういうこともあるだろうと思って、
わしは采女が敵を馬より突き落とした時に今日の一番首なり首を
取れと言ったのだ。その後に九郎左衛門が高名したゆえ、
鼻をかけと申し付けた」と言うと、争いはすぐに収まった。

――『名将言行録』




領主・田中吉政

2012年10月10日 20:12

852 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 00:25:54.04 ID:ecHO9i5m

田中吉政は岡崎城主であった頃、毎日城を見廻って普請などを命じ、
朝飯は城より弁当を取り寄せて、所構わず道端や堀の端で食事を取っていた。

また、侍屋敷の前では畳を一、二帖借り出して敷物にした。
結構な仕立てを嫌って、いかにも粗末であることを好んでいた。

寺の門前に役に立たない植木があれば「この木を掘り除き、茶を植えて旦那方に
音信を贈るとよい」と住持に意見した。また知行所は自ら残らず見て廻り、

百姓屋敷に堀のあるところは「警備は男に任せて、堀を埋めて田にして稲を作る
がよい。畠のほうが向いているならそれでもよい」と教えていた。

年貢高を決めるための調査には自ら赴き、稲の善し悪しを綿密に調べて賦課率を
決めたので無理もなく、百姓たちは喜んだという。

――『名将言行録』





853 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 01:23:24.23 ID:Rb3K20Cz
さすが元農民

854 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 01:55:58.98 ID:D+VVUjpm
内政は的確だよねえ


855 名前: 忍法帖【Lv=30,xxxPT】(1+0:8) [sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:05:58.48 ID:m1bcJpYc
流石筑後75万石

856 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:32:54.66 ID:+LtVpcB6
これはいい話

光成を捕らえて突き出したのは農民ってか農村文化の悪い面がでたかも・・・

857 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:36:51.63 ID:9QLSOV3Y
>>856
三成をかくまう文化ってどんなんだよw

858 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 02:42:55.84 ID:+LtVpcB6
>>857
誤字失礼
友人であるならお上に突き出さない文化というか共同体もあれば、
共同体のために人身御供を出す文化もあるじゃん
そりゃ同じ共同体に育っても個人で考え方や性格の違いもあるけどね

859 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 07:32:45.14 ID:9QLSOV3Y
>>858
反乱の首魁を匿うか否かを文化のせいにすんのは無理だよ。

860 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 09:35:55.94 ID:GWfFz1Tr
戦場から落ちるところを見逃すとかなら有り得たかもしれんが、
あの状況じゃ仕方ないんじゃないのかな~

861 名前:人間七七四年[] 投稿日:2012/10/10(水) 09:37:50.98 ID:cBiiaKz2
>>852
風流を解せぬお方じゃ…


862 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 11:16:12.51 ID:wlTnMlnq
吉政までいくといっそ農民の風流な気もする
きっと祭りになったら人一倍はしゃぐ

863 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 11:26:40.44 ID:2k798HK/
1、無理だと分かっていても、三成捕縛の手柄と引き換えに三成助命を嘆願してみる
→実質西軍総大将だし絶対に不可能。

2、家康に三成は賊将だけど、自分の恩人なので菩提を弔う為に寺を建てる許可を貰う。
→寺は無理かもしれないが、墓建てて弔う事くらいなら許されたかも。

3、家族を家康に内緒で匿う。
→バレると処罰されるので、歴史の闇に埋もれ逸話にならず...



恩人に対して2くらいはしてもいいような気がするけど

864 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 11:30:39.32 ID:OIfizZjb
>>852
真ん中2つはちょっとどうよと言うか余計なお世話と言うかそんな気がしないでもない

874 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 20:22:44.59 ID:il8RfwRb
>>852


「百姓屋敷に堀のあるところ」
従兄弟とか叔父さんが徳川の家来という家もあるだろうに・・

882 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 07:17:30.39 ID:eBpfyK8M
>>863
3は津軽がやってるな。

そもそも三成って本当に吉政の恩人なのだろうか?

883 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/11(木) 07:36:13.28 ID:brrbDoes
三成が田中吉政を助けたって、秀次事件の時、秀次の宿老だった吉政に「命助けてやるから俺の言うとおりにしろ」と
言ったって奴でしょ?三成の秀次事件への関与自体諸説あるので、単純に事実といっていいものやら。

「侍でなければ人ではないのだ」

2012年09月29日 20:29

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/29(土) 17:28:55.88 ID:yc+atVTf

田中吉政は初め久兵衛という名で、近江の民衆の一人だった。
ある日、畑の畔で久兵衛が休んでいたところ、ある侍が若党五、六人を
引き連れ、槍を持たせているのを見かけた。

「侍でなければ人ではないのだ」

侍一行をまじまじと見てそう言った久兵衛は百姓を辞めることにした。
久兵衛は宮部継潤の若党となったが、その頃はわずか三石の身分であった。

はれて武士となった吉政に、伯母方の織った麻布一端が贈られてきた。
そこで紺屋に袴を染めさせると、巴の紋が付いていた。これを縁にして
巴を定紋としたのだという。

吉政の働きぶりは礼儀正しく勤勉で、過悪もなかった。豊臣秀吉が秀次を
養子とし、師傅に相応しい人物を選んだが吉政よりも適任の者がいなかった。
よって吉政を秀次の傅とし、近江八幡山城三万石を与えて兵部大輔に任じた。

――『名将言行録』




681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 09:41:19.28 ID:q/AyMoqe
>>677
農民から大名にまで成り上がったミニ秀吉なのにイマイチマイナーなのは、
江戸時代に田中家が断絶してるのと、大恩人の三成を捕まえたり
してるからかね

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/09/30(日) 10:10:23.54 ID:G8uDJ1+k
でもあの時に三成を見逃すわけにはいかんでしょ・・・

三成の発見者の、その後

2011年02月05日 00:00

624 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/04(金) 02:25:05 ID:J/np1n0Y
関ヶ原の決戦の後、逃亡した石田三成を発見したのは、田中吉政家中、
田中傳左衛門であった。

さて、「三成捕らわる」の報に、徳川家康は村越茂助を派遣する。村越は田中吉政

「三成を生け捕ったのは何者であるのか?内府様は御目見え致したいとおっしゃっておられる」

と伝えた。ところが吉政これに

「いえいえ、名もない者であり、その様なお心遣いは無用であります」

と断った。

ところがこの傳左衛門、名もないどころではない。
彼はかつて秀吉に仕えその後関白秀次の元で千石の足軽大将まで務めた、
堂々たる武士であった。

ところが秀次による千石堀普請の時、その工事内容がよくないと秀次の御意に触り、
牢人することとなった。

そこを田中吉政が引き取り家来のように使ったのだが、同時に傳左衛門は
豊臣家直参への復帰を強く望んでおり、折を見て秀吉などに許しを求め運動していた。
そのため家臣のように扱われているとは言え、吉政から領地を頂くようなことをせず、
合力米をその働きの対価として受け取っていた。

そのようであったため、田中吉政はこの時、もし傳左衛門を御目見えさせれば
直参に戻り自分の家中から出ていってしまうと思い、そうさせないために村越にそんな事を
言ったのだ、という。

後になってことことを知った傳左衛門は田中家を立退き、近江においてその生涯を終えた。
享年、62歳と伝わる。


三成の発見者の、その後に付いての話である。




628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/02/04(金) 03:22:31 ID:KnEpZaAX
>>624
この人はせこい逸話ばかりだな

田中吉政家来、坂本和泉、石田三成の鉄砲足軽を

2009年10月22日 00:10

781 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 02:01:20 ID:16+ulZD6
関ヶ原、東軍による美濃攻めの時の話である。
合渡堤の合戦で西軍は東軍に圧倒され、兵たちは逃走、
その中に石田三成の鉄砲足軽、勘右衛門と言う者の姿もあった。

さて、鉄砲を持って逃げる勘右衛門の姿を、田中吉政の家来坂本和泉が発見、
駆け寄ると、これを斃さんと馬上より槍を繰り出した。

勘右衛門とっさに避けると、坂本に向ってこんな事を言い出した

「ま、待て!味方を討ち取ると言う事があるか!」

自分を東軍側の侍だと言う事にして、この場を逃れようとしたのである。
これを聞いた坂本

「味方だと?何所の部隊の者だ!?」

そ、それは…

勘右衛門、東軍の者の中で田中吉政家臣である、西村五右衛門のことを
同郷であると言う事で見知っていた。そのため

「に、西村五郎右衛門の部隊のものでござる!」

と答えた。
これに坂本

「なんだ、西村殿の所の者か…。では行くがいい。」

助かった!勘右衛門がそこから離れようとしたところ、後ろから坂本が声をかけた

「あ、そうそう、西村殿の所の者だと言うのなら、お前が今着ているその羽織、
脱ぎ捨てていったほうがいいぞ?
石田三成の部隊の足軽は、皆そろいの羽織を着ているのだよ。今お前が着ているのと同じ物をな!」

そう言って他へと駆け出した。

坂本、この勘右衛門が敵方だと解ってはいたものの、同僚の西村の見知ったものだと悟り、
これを逃がしてやったのだ。
後に人々、「坂本は情けを知る人だ」と言い合ったそうである。





785 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 02:47:09 ID:BIOUozcF
>>781
「あ~、ワシは今、何も聞いてはおらなんだ、よってワシの預かり知らぬとことじゃ」
とか
「これから言うことは独り言じゃからな…実は○○は××であるのだ、おっとこれは独り言じゃぞ」
とか
「ワシは今こっちを向いておる、そっちは見ておらんからな、決して見ておらんからな」

こういうのけっこう多くない?

792 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 11:04:21 ID:4hRLmZGn
>>781
関ヶ原戦後には
揃いの羽織がいっぱい脱ぎ捨てられてたんだろうか・・・

793 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 11:25:18 ID:6ITPTRlI
そういや合戦の後の死体処理や武具の処分・リサイクルなんかは
誰がやってたんだろうか。
いわゆる被差別階級の人たちがやってたのかなあ。

794 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 11:33:05 ID:IixOd/zU
>>783
農民

795 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 11:45:06 ID:6ITPTRlI
>>794
ありがとう。
まあ落ち武者狩りなんてやるくらいだから
積極的にやってたんでしょうねえ。

その武具のリサイクルを生業にしてる商人もいたんでしょうね。
目利きが出来ればそれなりに稼げそうだし。

798 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 12:46:41 ID:bMZuhxzR
>>795
落ち武者から村を護る目的と、戦災から逃れるために大名との契約で落ち武者狩りしてたりもする

799 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 13:24:35 ID:jDa6reVU
>>795
一応、古金買い(戦場漁り)は違法なんだけどな、少なくとも武士からは良い顔はされない。
ま、戦場になるって事は刈田狼藉とか人災を被ってる可能性が高くて、
農民からしてみれば戦場漁りでもなんでもやって少しでも損害を補填する必要はあるんだけどね。
その結果、釘一本のこらないといわれる現在の業者も真っ青な廃品回収業者と化す。

800 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 14:46:09 ID:6ITPTRlI
>>798-799
ありがとうございます。
リサイクル率高そうですねw
きっと肝とか漢方として売られたりしたんだろうなあ・・・

807 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/10/21(水) 17:33:54 ID:ziUCgMWe
>>800
人肝を薬に使うのは江戸時代な。
戦国時代はまだ明から製法が伝わっていなかった筈。
伝わっても製法は広まらなかったと思ったが。

田辺甚兵衛の初陣・いい話

2009年03月30日 00:07

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/28(土) 23:11:52 ID:gldBVRyV
関ヶ原の時の話である。

田中吉政の陣中に、田辺甚兵衛と言う者がいた。この時10歳。そう、子供である。
彼は父が早くに死んだため、田辺の惣領として、この幼さで合戦に出たのだ。
そして何と、田辺家の家来達と共に敵の首を獲り、褒美をいただいた。

後に黒田長政が田中吉政と四方山の話をしていた折、吉政からこの話が出て、
lこれにいたく感動した長政は、吉政に頼んで甚兵衛とその家来を呼び出してもらい、甚兵衛には
自ら杯を与え、また、家来たちにその時の状況を詳しく語らせた。

家来達が言うには、自分達が騎馬の敵を、馬より抱き落とした所を、甚兵衛が刀を抜いて
かかったのだと言う。
その時甚兵衛、わなわなと震えていたが、家来達がその姿を辱めたので、震えながらも
立ち寄りて、首を獲ったのだそうだ。

長政はこの話に、さらに大きく感じ入って、
「この子はますます勇士の兆しのある少年だ。震えずにかかるような者は、頭が空っぽなのだと
言っていい。また、辱められてかかるのは、義と言うものを知っているからだよ。」と、
そのように絶賛したそうである。

それにしてもこの時代、武士の家に生まれるとは、これほどまでに過酷で大変なのだ。そんなお話。

関連
さてはますます勇士の機


275 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/29(日) 00:33:03 ID:yCFGe5t1
>>274℡元「まったくもって。親族一同にどれだけ厳しく(ry」

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 00:36:36 ID:1xXkyLcN
如水軒「震えずにかかるような者は、
    頭が空っぽなのだと言っていい。全くよのう長政」

280 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/29(日) 02:31:50 ID:pMYvY1AM
10才の初陣が関ヶ原って凄まじいな・・・

281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 03:26:43 ID:8fmZzRBz
>>280
で、いきなり首ちょんぱだもんなあ。
凄えわ。

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 04:32:50 ID:+WIa1psr
鬼武蔵に次ぐ逸材だな

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 08:09:19 ID:H7vKacCA
>>280
秀忠21歳「…」

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 10:48:40 ID:X2mgIeGo
浅野長政「初陣は26歳はオールドルーキーですが何か?」

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 11:11:45 ID:2tISk9Dl
>>283
あなた真田チート一族とバカップル走りしてたから、ちょいと武勲には足りないよね

「おのれー安房守め~!」
「ウフフ、捕まえてごらん?」


286 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/29(日) 12:22:03 ID:huzbjcmo
鬼武蔵にはかなわない
鬼武蔵にはかなわない

287 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/29(日) 12:55:08 ID:T4ChhoLG
なんか最近は新納さんが大人気だな。

288 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/03/29(日) 13:51:10 ID:kg5Ou1DT
ロバート・デ・新納ってくらいだからな

291 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 13:59:08 ID:kR++HK9F
南国の四兄弟
義久「初陣は22歳です」
義弘「初陣は20歳です」
歳久「初陣は18歳です」
家久「初陣は15歳です」

ちなみに、上の3人は二歳づつ歳が離れてるので
同じ合戦で一緒に初陣を果たしたそうな。

292 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/03/29(日) 14:29:50 ID:BBH496WM
>>291
へぇ、そうなんだ