754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/24(金) 02:22:41.06 ID:bm+Lmzcj
土岐左京大夫頼芸は、織田信秀の情けにより。天文年中、大桑に入城した。彼は山城守(斎藤道三)のやり方を
深く憤り、どうにかして彼を滅ぼそうと、父子共に密々に計略を廻らせていたが、その陰謀が山城守に聞こえ、
秀龍大いに怒って即座に大軍を率い、天文二十二年、大桑に押し寄せた。
大桑城では思いもかけない事態であったので防ぐことも出来なかった。その日は揖斐光親がたまたま参り合わせ、
これを見て一番に駆け出て防ぎ戦ったが、お目にかかりに参るためだけに率いていた人数でしかなく、
続く味方はなく、その上深手を負い叶わず在所へと引き退いた。
山城守は勝ちに乗じて城に火をかけ焼立てた。このため、頼芸父子の近習である山本数馬、不破小次郎、以下
七騎は、一旦越前へと落ちて頂き、その上で再び一戦を遂げるべきでありますと申し上げたことで、父子とも
城の後方、青波という所に出て、そこから山伝いに山本数馬の在所である大野郡岐禮という里に落ちられた。
山城守は逃さぬと追手を掛け、河村図書国勝、林駿河守通村を両大将としてこれを追わせた。
しかしこの時、林駿河守が心変わりをしたのか、佐原という場所からどこともなく落ちて行った。
また河村図書も、三代相伝の主君に弓を引く事は冥罪恐れ有りと思い、頼芸方の山本数馬へ密かに矢文を
射掛けて内通をした。山本数馬もこれを心得、やがて七騎の侍とともに後ろの山に登って喪服を着し、
「太守御父子は生害された!」
と披露して葬礼を執り行い、柴を積んで火を放ち、火葬の体に見せた。
また河村は川を隔てて戦うふりをして乱れ矢を射掛け、合図の勝鬨をあげて井ノ口に引き取り、稲葉山城に
入り、かくと告げた。
これにより頼芸主従七騎は越前の方へ落ちられ、朝倉義景を頼ったが、しっかりと取り合ってもらえず
甚だ疎略に扱われたため、ここにも永く有ることは出来ず、遥かに上総国に落ち行き、萬喜という所に、
幽なる体にて居られた。武運の突きた故だろうか、眼病を患って程なく盲者となり、入道して
名を宗藝と号した。
天正十年、稲葉伊予守良通入道一鉄が、この頃は大野郡清水に居住していたが、この頼芸の事を聞いて
いたわしいと思い、昔の好を忘れず、君臣の義黙し難しと、同国厚見郡江崎の里に忍び居たる、頼芸の
六男・一色蔵人頼昌を御使として遣わした。
天正十年二月十八日に江崎を出発し、その日に清水に参り、十九日に太田に泊まり木曽路を経て、
三月二日に上総国萬喜に到着した。彼は変わり果てた父の有様を見て涙を止めることが出来ず、
かれこれと日を過ごし、四月七日に岐禮の里に着いた。そこに、新たに小さな館を設え、下女二、三人を
置き、大変丁重に扱う様子が見えた。これに頼芸も有りし昔、この里を落ちたこと、また一鉄の志浅からぬ
事を感じ、御落涙をなされた。
それより直ぐに、一色頼昌は七郎右衛門を以て先立って清水の一鉄のもとに、かくと申し使わした。
一鉄法師も翌日参られ、懇ろに申され、山本数馬に委細を申し付けて帰られた。数馬は後に、山本次郎左衛門と
名を改め、頼芸に始終付き従い奉公をした。また稲葉一鉄公より合力として二百石、数馬に十人扶持を給い、
頼芸は心安く暮らしたが、程なく病に伏し、老病の故であろうか、同年十二月四日、八十一歳にして
卒せられた。庵室の号を用いて、東春院殿左京兆文官宗藝大居士と号した。
(土岐累代記)
土岐頼芸の後半生について。
土岐左京大夫頼芸は、織田信秀の情けにより。天文年中、大桑に入城した。彼は山城守(斎藤道三)のやり方を
深く憤り、どうにかして彼を滅ぼそうと、父子共に密々に計略を廻らせていたが、その陰謀が山城守に聞こえ、
秀龍大いに怒って即座に大軍を率い、天文二十二年、大桑に押し寄せた。
大桑城では思いもかけない事態であったので防ぐことも出来なかった。その日は揖斐光親がたまたま参り合わせ、
これを見て一番に駆け出て防ぎ戦ったが、お目にかかりに参るためだけに率いていた人数でしかなく、
続く味方はなく、その上深手を負い叶わず在所へと引き退いた。
山城守は勝ちに乗じて城に火をかけ焼立てた。このため、頼芸父子の近習である山本数馬、不破小次郎、以下
七騎は、一旦越前へと落ちて頂き、その上で再び一戦を遂げるべきでありますと申し上げたことで、父子とも
城の後方、青波という所に出て、そこから山伝いに山本数馬の在所である大野郡岐禮という里に落ちられた。
山城守は逃さぬと追手を掛け、河村図書国勝、林駿河守通村を両大将としてこれを追わせた。
しかしこの時、林駿河守が心変わりをしたのか、佐原という場所からどこともなく落ちて行った。
また河村図書も、三代相伝の主君に弓を引く事は冥罪恐れ有りと思い、頼芸方の山本数馬へ密かに矢文を
射掛けて内通をした。山本数馬もこれを心得、やがて七騎の侍とともに後ろの山に登って喪服を着し、
「太守御父子は生害された!」
と披露して葬礼を執り行い、柴を積んで火を放ち、火葬の体に見せた。
また河村は川を隔てて戦うふりをして乱れ矢を射掛け、合図の勝鬨をあげて井ノ口に引き取り、稲葉山城に
入り、かくと告げた。
これにより頼芸主従七騎は越前の方へ落ちられ、朝倉義景を頼ったが、しっかりと取り合ってもらえず
甚だ疎略に扱われたため、ここにも永く有ることは出来ず、遥かに上総国に落ち行き、萬喜という所に、
幽なる体にて居られた。武運の突きた故だろうか、眼病を患って程なく盲者となり、入道して
名を宗藝と号した。
天正十年、稲葉伊予守良通入道一鉄が、この頃は大野郡清水に居住していたが、この頼芸の事を聞いて
いたわしいと思い、昔の好を忘れず、君臣の義黙し難しと、同国厚見郡江崎の里に忍び居たる、頼芸の
六男・一色蔵人頼昌を御使として遣わした。
天正十年二月十八日に江崎を出発し、その日に清水に参り、十九日に太田に泊まり木曽路を経て、
三月二日に上総国萬喜に到着した。彼は変わり果てた父の有様を見て涙を止めることが出来ず、
かれこれと日を過ごし、四月七日に岐禮の里に着いた。そこに、新たに小さな館を設え、下女二、三人を
置き、大変丁重に扱う様子が見えた。これに頼芸も有りし昔、この里を落ちたこと、また一鉄の志浅からぬ
事を感じ、御落涙をなされた。
それより直ぐに、一色頼昌は七郎右衛門を以て先立って清水の一鉄のもとに、かくと申し使わした。
一鉄法師も翌日参られ、懇ろに申され、山本数馬に委細を申し付けて帰られた。数馬は後に、山本次郎左衛門と
名を改め、頼芸に始終付き従い奉公をした。また稲葉一鉄公より合力として二百石、数馬に十人扶持を給い、
頼芸は心安く暮らしたが、程なく病に伏し、老病の故であろうか、同年十二月四日、八十一歳にして
卒せられた。庵室の号を用いて、東春院殿左京兆文官宗藝大居士と号した。
(土岐累代記)
土岐頼芸の後半生について。
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