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故に我等は、一番に攻め入って

2022年01月17日 16:50

963 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/17(月) 14:26:17.50 ID:1irRVzBy
或る記に、真田伊豆守信之の家来である、矢澤但馬守、半田筑後、榊原石見といった輩は
度々武功のある者共であったので、大阪冬の陣において、敵の鉄砲が雨よりも猶繁く降り注ぐ
場所でも、一番に進んで仕寄を付けた所、この日、将軍家(秀忠)が御巡見あり、

『真田河内守(信吉)の仕寄は他に異なり、甚だ城に近い』

との御諚があった。これに御目付衆が畏まって申し上げた

「この事、私共も先達て真田家に対し批判した所、河内守はこのように申しました。

『この手は城中の木村長門守(重成)の持ち口です。もし今にも総攻めとの御触が有れば、
ここで木村は手痛く働くでしょう。

かの長門守と私の叔父である左衛門佐(真田信繁)は、刎頸の交わりであると承っています。
故に我等は、一番に攻め入って長門守と勝負を決する覚悟をしており、そのために諸陣に勝れて
仕寄を付けたのです。もし御咎めが有れば、この事を言上し、切腹仕ります。』

そのように申したために、我々もそのままに差し置きました。」

と言上したという。

新東鑑

大阪方に付いた叔父の親友の持ち口だからこそ決死の覚悟をしていたという、真田信吉のお話



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三左衛門はいかが致したか

2020年03月01日 15:18

870 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/02/29(土) 21:14:03.53 ID:kvEn4uQ7
大阪夏の陣の事。

幕府方である真田信吉の陣では、合戦前に諸侍座陣し、鑓を膝に載せ、兜の錣(しころ)を傾け備えていたが、
この時城方より撃ち懸かる鉄砲の音は、百千の雷の如くであった。
そのような中、湯本三左衛門は頭を振り上げて、大阪城を睨みつけ、左右を見廻して声高に言った

「朋輩衆は、何れも定めて我も我もと思っているだろうが、この三左衛門に於いては、秀頼の首を!と存じているが、
ともかく大方は、この中で一番の高名を仕るであろう!」

傍に居並んでいた、三左衛門の端方の伯父である横矢惣右衛門はこれを聞いてたしなめた
「やい三左衛門、ここに歴々が御座有る中で、未だクチバシも青い体にて、推参慮外の言を云うものかな!」

三左衛門はそれに言い返した
「何を惣左衛門殿は言いなさるのか。合戦がいま始まれば…」

と、この申しばなを言った所で合戦が始まり、この口論は止まり、面々は我劣らんと働いた。
(三左衛門答テ曰ク何ヲ惣左衛門トノハ謂ナサルナ軍ハ今初リ申ハナ聴テ軍初リケレバ面々吾ヲトラシト働ク)

そして湯本三左衛門は、言葉通り一番に高名した。

一方の横矢惣右衛門は、敵陣へまっしぐらに乗り込んで鑓を合せ太刀打ちをして、数ヶ所の鑓傷、太刀傷を
手負いて働き難くなり、このため自陣へと引き返した。
既に半途まで帰った時、味方に会い併せ、彼らは惣右衛門を「高名をはせた朋輩たちの中でも殊の外見事である。」
と讃えた。惣右衛門は彼らに尋ねた

「湯本三左衛門はいかが致したか?」

「彼は一番の手柄にて、しかも折付きの首(兜首の事か)を提げ、只今旗本へ参っております。」

惣右衛門はこれを聞くとハラハラと涙を流し
「朋輩衆よ、親の左近と、せがれの新五郎とに目をかけて下されよ。」
と言い捨てると、馬を進め敵陣へ再び駆け入り、討ち死にをした。

(眞田氏大坂陣略記)



871 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/02/29(土) 21:33:23.59 ID:5YMD1mBS
この今日の3つの逸話、戦国時代の人死に急ぎ過ぎやろ… 恩に報いたいとか、申し訳ないとか、自らの言や負傷を恥じた?とか理由があるのは分かるけど…

夫婦地蔵の伝説
義士塚の由来


872 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/03/01(日) 02:58:06.82 ID:vZ/swqht
大坂夏の陣は仕方ないよ
自分達の存在意義が否定される時代がすぐそこまで来てて、この先はもう死に場所すら無いんだよ
関ケ原から大坂冬の陣の間に、皆がそれを実感したんだろうと思う