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『本多越前守利長家之覚書』にみる合戦討ち死に、負傷記録

2020年10月08日 17:23

402 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/07(水) 23:48:58.33 ID:GcERk3uE
『本多越前守利長家之覚書』にみる合戦討ち死に、負傷記録

・本多広孝、永禄6年東三河の戦い(首50余を挙げる)
広孝家人、雑兵30人討ち死に
・同、永禄12年今川氏真による掛川籠城戦(首8を挙げる)
畔柳又八が討ち死に
・元亀元年姉川の戦い(広孝は鑓で突かれたが、具足に当たって肌に傷はなし)
家人、長坂次郎太郎、尾崎彦五郎が討ち死に
・天正元年、遠州森の戦い(殿として武田軍と応戦)
家人、雑兵32人討ち死に
・本多康重、天正3年長篠の戦い
(鳶の巣砦攻防で)3人討ち取るも、自身は手傷を2カ所に負い、左のまたに当たった鉄砲玉は死ぬまでとどまることに
・天正6年遠州諏訪原城の戦い
敵の鉄砲が当たったが、さして痛くはなく、じきに平癒した
・天正12年長久手の戦い(羽柴秀次、堀秀政勢と交戦。敵を組み討つも手傷7カ所を負う)
家人、大久保久右衛門、平井善五郎、長坂外記はじめ計36人戦死
・康紀、元和元年大坂夏の陣(鉄砲が兜の真ん中に当たり、鉄砲玉がひしげたが無傷だった)
長坂勘三郎、阿部半左衛門、9人が手負い、そのほか足軽少々が討ち死に



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猶々御忠節仕るべき

2020年04月19日 15:47

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/04/19(日) 02:48:39.97 ID:/eXYOJJ0
永禄五年、三州一向宗の一揆が起こった時、本多広孝は土井の城に罷り在った。その近辺の、土呂、羽根崎、
岩松、大学、浦部、八面、佐々、木野寺、櫻井、この村々は皆御敵であり、かの土井城はその中にあり、
最も敵に挟まれてその中にあった。広孝は朝夕取り合い、御忠節を仕った。

三州の諸士は、一向宗ではない輩も御敵に罷り成ったが、広孝は「猶々御忠節仕るべき」と申し上げ、
当時九歳になる嫡子を人質として岡崎に差し上げた。権現様(徳川家康)はお悦びに思し召し、この嫡子の
元服を仰せ付けられ、「康」の御字を下され、「彦次郎康重と名乗るように」との上意であった。
さらに御召しの御馬を下された。

『本多越前守利長家之覺書』

やっぱり一向宗以外にも広がった反乱だったのか