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さて通貞は

2020年05月16日 18:17

181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/15(金) 18:51:02.51 ID:RLxOE1g1
一、大野郡清水の城主  稲葉伊予守良通入道一鉄斎 始めは安八郡曽根の城主なり。
  安八郡大垣の城主  氏家常陸介友国入道卜全  元亀2年太田村にて討死。
  厚見郡鏡島の城主  安藤伊賀守守就入道道足  天正11年に討死。
  安八郡西の保の城主 不破河内守通定(光治)  天正9年に病死。

  右の四家を“西美濃四人衆”と号して、土岐氏代々相恩の旧臣である。もっとも各々天文・弘
  治・永禄・元亀・天正の頃の人々である。土岐頼芸より義興に属して龍興の代に至り、永禄
  7年(1564)の頃より織田信長に随身した。右の内、稲葉は子孫繁昌、氏家は内膳・志
  摩守が関ヶ原で終わる。不破は彦三郎より北国に果てる。安藤は関東にいるという。

一、さて通貞(不破光治)は土岐の旧臣にして、美濃の国四人衆の内より土岐頼芸・一色義龍・
  斎藤龍興に属し、永禄7年の秋より心変わりして織田信長に属した。

  この人は勇猛武功のことについてさしてその名は無い。しかしながら、その気質温和にして
  人愛深く、その姿に威厳の相あり。殊に弁舌奇麗にして談合仲裁の事に良くその理明白の人
  であった。しかしながら戦功においては、生涯の中で一立の優れた働きを知らない。時に天
  正9巳年(1581)8月に亡くなった。

  その子・彦三郎通家(直光)は柴田勝家の与力として北国征伐の烈将であった。よって越前
  国に居住し、後には加州に移った。天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では前田家に組
  し、度々武功をあらわした。子孫はどこにいるのか、その名を知れず。

  今、濃州不破郡にも不破氏を名乗る小百姓など少々ありといえども、通貞の子孫とも見えず。
  いずれにせよ彦三郎の子孫は北国にいると見える。今、西の保村にも少しの堀の跡、ならび
  に小高き丘などのようなものが見える。これすなわち河内守居城の跡と見えたり。

  ――『美濃国諸旧記



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心得ざる左近の言い分かな

2020年05月13日 18:15

62 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/13(水) 01:10:04.09 ID:6M4HJyPQ
安八郡西の保の城主・不破河内守通貞(光治)は、東美濃の遠山刑部允正元の孫であるという。
通貞の父は不破彦左衛門通直といって、西の保村の城主である。

一説に不破氏の先祖は山城国の松井蔵人直家といった者であるが、笠置の城没落の後に六波羅
の命に従い、後醍醐天皇を探し奉った。この恩賞として、美濃国に数ヶ所の荘園を六波羅より
賜って初めて当国に至り、不破郡府中村に居住した。その後に氏を不破と改めて、その子孫は
不破・多芸の両郡に数多おり、府中の住人・不破隼人直重は江州の篠原で討死した。

さてまた退翁軒法印の日記を見ると、天正元癸酉年(1573)12月、不破河内守通貞は滝
川左近将監一益に対し、刀傷に及んだことがある。これをもって見る時は源姓ではなかろうか。

その故は、滝川一益の長女を不破通貞の嫡子・彦三郎通家(直光)に嫁がせたいとの由を申し
入れたところ、滝川はどういうわけかこれを承諾しなかった。「我が娘は筋目正しき大名の内
へ嫁がせようとこそ思えども、不破などには得参らせ難し」と言ったである。これを聞いて通
貞は大いに怒り、

「心得ざる左近の言い分かな! 私は今は信長の臣であるといえど、その昔を言えば清和源氏の
後裔である土岐・遠山の正統にして、当国の本家である! 滝川は何程の者なるぞ! 彼はただ
江州佐々木出の浪人者とは聞いているが、祖父の来歴も分からない! 近年ようやく信長公の御
取立てに預かった者だが、今は勢いに乗って当家を侮るとは奇怪なり!」

と立腹して、その年の12月11日の夜に滝川の宿所へ打ち入り、刀傷に及んだと記してある。
しかれば、これなどをもって考える時は(不破は)当国の侍で土岐氏の庶流であろう。山城の
国から来たというのは不審である。

按ずるに土岐頼貞の末子に五郎頼之という者がいるが、不破郡府中に居住したと言われている。
これすなわち通貞の先祖だろう。しかしながら通貞までの来歴の次第は詳らかではないという。

――『美濃国諸旧記』




63 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/13(水) 13:17:44.63 ID:4JVWnVPW
由緒正しき清和源氏の流れだったら息子の嫁も良いとこから貰えよw
なお正室は北畠具教の娘らしいが