181 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/15(金) 18:51:02.51 ID:RLxOE1g1
一、大野郡清水の城主 稲葉伊予守良通入道一鉄斎 始めは安八郡曽根の城主なり。
安八郡大垣の城主 氏家常陸介友国入道卜全 元亀2年太田村にて討死。
厚見郡鏡島の城主 安藤伊賀守守就入道道足 天正11年に討死。
安八郡西の保の城主 不破河内守通定(光治) 天正9年に病死。
右の四家を“西美濃四人衆”と号して、土岐氏代々相恩の旧臣である。もっとも各々天文・弘
治・永禄・元亀・天正の頃の人々である。土岐頼芸より義興に属して龍興の代に至り、永禄
7年(1564)の頃より織田信長に随身した。右の内、稲葉は子孫繁昌、氏家は内膳・志
摩守が関ヶ原で終わる。不破は彦三郎より北国に果てる。安藤は関東にいるという。
一、さて通貞(不破光治)は土岐の旧臣にして、美濃の国四人衆の内より土岐頼芸・一色義龍・
斎藤龍興に属し、永禄7年の秋より心変わりして織田信長に属した。
この人は勇猛武功のことについてさしてその名は無い。しかしながら、その気質温和にして
人愛深く、その姿に威厳の相あり。殊に弁舌奇麗にして談合仲裁の事に良くその理明白の人
であった。しかしながら戦功においては、生涯の中で一立の優れた働きを知らない。時に天
正9巳年(1581)8月に亡くなった。
その子・彦三郎通家(直光)は柴田勝家の与力として北国征伐の烈将であった。よって越前
国に居住し、後には加州に移った。天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では前田家に組
し、度々武功をあらわした。子孫はどこにいるのか、その名を知れず。
今、濃州不破郡にも不破氏を名乗る小百姓など少々ありといえども、通貞の子孫とも見えず。
いずれにせよ彦三郎の子孫は北国にいると見える。今、西の保村にも少しの堀の跡、ならび
に小高き丘などのようなものが見える。これすなわち河内守居城の跡と見えたり。
――『美濃国諸旧記』
一、大野郡清水の城主 稲葉伊予守良通入道一鉄斎 始めは安八郡曽根の城主なり。
安八郡大垣の城主 氏家常陸介友国入道卜全 元亀2年太田村にて討死。
厚見郡鏡島の城主 安藤伊賀守守就入道道足 天正11年に討死。
安八郡西の保の城主 不破河内守通定(光治) 天正9年に病死。
右の四家を“西美濃四人衆”と号して、土岐氏代々相恩の旧臣である。もっとも各々天文・弘
治・永禄・元亀・天正の頃の人々である。土岐頼芸より義興に属して龍興の代に至り、永禄
7年(1564)の頃より織田信長に随身した。右の内、稲葉は子孫繁昌、氏家は内膳・志
摩守が関ヶ原で終わる。不破は彦三郎より北国に果てる。安藤は関東にいるという。
一、さて通貞(不破光治)は土岐の旧臣にして、美濃の国四人衆の内より土岐頼芸・一色義龍・
斎藤龍興に属し、永禄7年の秋より心変わりして織田信長に属した。
この人は勇猛武功のことについてさしてその名は無い。しかしながら、その気質温和にして
人愛深く、その姿に威厳の相あり。殊に弁舌奇麗にして談合仲裁の事に良くその理明白の人
であった。しかしながら戦功においては、生涯の中で一立の優れた働きを知らない。時に天
正9巳年(1581)8月に亡くなった。
その子・彦三郎通家(直光)は柴田勝家の与力として北国征伐の烈将であった。よって越前
国に居住し、後には加州に移った。天正11年(1583)の賤ヶ岳の合戦では前田家に組
し、度々武功をあらわした。子孫はどこにいるのか、その名を知れず。
今、濃州不破郡にも不破氏を名乗る小百姓など少々ありといえども、通貞の子孫とも見えず。
いずれにせよ彦三郎の子孫は北国にいると見える。今、西の保村にも少しの堀の跡、ならび
に小高き丘などのようなものが見える。これすなわち河内守居城の跡と見えたり。
――『美濃国諸旧記』
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