74 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/20(水) 21:02:57.43 ID:6jvJY+1A
その頃、伊勢の国司・北畠晴具卿は勢南の多気に住し、武威専ら盛んにして、和州へも討ち入り、
宇智郡の諸士を靡かせた。これに対し大和の国人、越智、十市、久世、満西等は畠山家の家人であるため、
これを防いで合戦に及んだ所、北畠氏の分国である勢州にまた一揆が勃興し、先ずこれを鎮めん為に、
和州への出陣成り難く、ただ勢州の中で戦い暮らした。
中でも、当国度会郡の山田庄は、大神宮(伊勢神宮)の神領なのだが、当所の禰宜、神主等が悉く横領して、
祭用を遂げず、国司の政事に違背してその下知を用いず、剰え一揆を起こし。国中へ討ち入って武士の領地を
相妨げた。その中でも、山田の住人である村山掃部助という神官は大剛の者にて、一揆の大将となり、
宇治、山田、湊、河崎、二見、朝熊の諸勢を催し、国中へ討ち出ようとしていた。彼に同心する神官は、
堤、春木、上部、久志、本龍、福井、益、三日市、喜多、山田、大路、檜垣、橋村、窪倉などという者達が
悉く一味した。
かくて天文三年(1534)の春正月晦日、国司晴具は南方の諸勢を催しかの一揆を攻めた。
一揆の輩は宇治山田に屯し、宮川の東川原に陣取って防戦をした所に、国司方の先陣である
澤、秋山らが川を渡って頻りに駆け入り、速攻にて討ち取ると、一揆等は忽ちに打ち負けて悉く敗北した。
彼等の頭領である村山掃部助は大神宮の社中へ逃げ入り、拝殿に腰を掛けて腹を切って死んだ。
浅ましいというもなお余れる事である。剰え火を放ち掛けて、終に当社は一片の煙として焼失した。
ここに、この村山は稀代の悪人、極罪の匹夫と成った。
それより一揆の残党たちは、二見、塩合など所々において撃殺され、終に手を束ねて国司家へ降参した。
そして徐々に恩免を蒙り、元の如くに神職を相勤め、その後数年を経て、社頭も再建成就した。
『續應仁後記』
伊勢での一揆との戦いについて。
その頃、伊勢の国司・北畠晴具卿は勢南の多気に住し、武威専ら盛んにして、和州へも討ち入り、
宇智郡の諸士を靡かせた。これに対し大和の国人、越智、十市、久世、満西等は畠山家の家人であるため、
これを防いで合戦に及んだ所、北畠氏の分国である勢州にまた一揆が勃興し、先ずこれを鎮めん為に、
和州への出陣成り難く、ただ勢州の中で戦い暮らした。
中でも、当国度会郡の山田庄は、大神宮(伊勢神宮)の神領なのだが、当所の禰宜、神主等が悉く横領して、
祭用を遂げず、国司の政事に違背してその下知を用いず、剰え一揆を起こし。国中へ討ち入って武士の領地を
相妨げた。その中でも、山田の住人である村山掃部助という神官は大剛の者にて、一揆の大将となり、
宇治、山田、湊、河崎、二見、朝熊の諸勢を催し、国中へ討ち出ようとしていた。彼に同心する神官は、
堤、春木、上部、久志、本龍、福井、益、三日市、喜多、山田、大路、檜垣、橋村、窪倉などという者達が
悉く一味した。
かくて天文三年(1534)の春正月晦日、国司晴具は南方の諸勢を催しかの一揆を攻めた。
一揆の輩は宇治山田に屯し、宮川の東川原に陣取って防戦をした所に、国司方の先陣である
澤、秋山らが川を渡って頻りに駆け入り、速攻にて討ち取ると、一揆等は忽ちに打ち負けて悉く敗北した。
彼等の頭領である村山掃部助は大神宮の社中へ逃げ入り、拝殿に腰を掛けて腹を切って死んだ。
浅ましいというもなお余れる事である。剰え火を放ち掛けて、終に当社は一片の煙として焼失した。
ここに、この村山は稀代の悪人、極罪の匹夫と成った。
それより一揆の残党たちは、二見、塩合など所々において撃殺され、終に手を束ねて国司家へ降参した。
そして徐々に恩免を蒙り、元の如くに神職を相勤め、その後数年を経て、社頭も再建成就した。
『續應仁後記』
伊勢での一揆との戦いについて。
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