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しかるにその頃、斎藤道三という者あり

2020年05月08日 16:57

153 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 03:19:48.45 ID:f/1PIr3N
しかるにその頃、斎藤道三という者あり。その由緒を尋ねるに、元来その先祖は禁裏北面の武士である。
藤原氏にして大織冠鎌足公六代の孫・河内守村雄の子(中略)その子・左近将監基宗。その基宗の子が
道三である。松波は代々上北面の侍だったが、基宗の代に至り故あって山城国乙訓郡西の岡に居住した。

道三は永正元甲子年(1504)5月出生。童名“峯丸”という。生まれ付き美々しく諸人に優れ、幼
少の頃より智慮賢く、成人の後はしかるべき者ともなるだろうと寵愛甚だしかった。父の基宗は峯丸が
生まれ付き只ならぬのを察して、「凡下になし置くのも残念だ」と、峯丸11歳の春に出家させ、京都
妙覚寺の日善上人の弟子となし“法蓮房”と号す。元来利発の者なので日善上人に随身して、学は顕密
の奥旨を極め、弁舌は富楼那にも劣らず、内外を良く悟りすこぶる名僧の端ともなった。

(中略)

さてまた、法蓮房は常々南陽房を引き回すほどの者なのでもっぱら無双の名僧であったが、ある時いか
なる心が付いたのか三衣を脱いで還俗し、西の岡に帰って住居し、奈良屋又兵衛という者の娘を娶って
妻となし、かの家名を改めて“山崎屋庄五郎”と名乗り灯油を商いした。後に父の氏を用いて“松波庄
五郎”と号す。元来この者は心中に大志もあったのか、出家の間にも和漢の軍書に眼を晒して合戦の指
揮、進退駆け引きの奥義を学び、また良く音曲に達し、あるいは弓砲の術に妙を得ていた。

大永(1521~)の頃より毎年美濃国に来て油を売っていたのだが、かの厚見郡今泉の常在寺の住職
である日運上人は幼少の頃の朋友で、その知辺があることで数日常在寺に来たり、様々な物語りなどし
て当国の容体を窺った。

元来聡明英智にして武勇剛計を志し、身は賤しき商民なれども心は剛にして思い内にありといえど、時
を得ずして本国を離れ斯くの如く身を落として濃州に来たり、立身出世を心がけて川手・稲葉・鷺山な
どの城下に至り、日々灯油を売り歩いて行ったのだが、弁舌をもって諸人を欺いていた。

154 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 03:23:16.30 ID:f/1PIr3N
ある時、人に向かって申し「私めは油を測るのに上戸(漏斗)を使わずに、1文の銭の穴から通すこと
ができる!もし穴から外へ少しでもかかったならば、油を無料で進ぜよう!」と言えば、皆人はこれは
稀有の油売りだと城下の者どもは他の人の油はあえて求めず、ただ庄五郎の油のみを買った故に、しば
らくの内に数多の利分を得て大いに金銀を蓄え、なおも油を商いした。そのため稲葉山の城主・長井藤
左衛門長張(長弘)の家臣・矢野五左衛門という者は、この由を聞いて庄五郎を呼び自ら油を求めた。

すると庄五郎は畏まって銭1文を取り出し、件の油を四角の柄杓で汲み出し流れること糸筋の如く、細
く滴って銭の穴を通せば五左衛門大いに感じ、申して曰く「まことにこれ不思議の手の内なり。よくも
まあ手練したものだ。しかしながら惜しいことだ。これほどに業を良く得ていても賤しき芸である故に、
熟したところでわずかの町人の業である。哀れ、かほどの手練を私が嗜む武術において得る程であれば、
あっぱれ後代にその名を知られる武士ともなるだろうに、残念なことよ」と申した。

庄五郎はこれを聞いて、実に矢野の一言はその理に至極せりと我が家に帰り、そのまま油道具を売り払
い右の商売を止めて心中で思うには、「私はいささか軍書に心を寄せているといえど未だ熟していない。
いずれの芸を嗜むにしても、その極意の至るところは、1文の銭の穴から油が通る時に外にかからない
如く、皆手の内の極まるところにある。弓矢鉄砲で良く的当するのもこの理に等しい。それならば長槍
を手練しよう」と欲した。

庄五郎は自ら工夫して我が家の後ろに行き、藪のある所で銭1文を竹の先に釣り置き、3間半の長槍を
拵えて穂先は細い釘で作り、一心不乱に毎日毎日銭の穴目掛けて下から突いていたのだが、中々初めの
頃は掌定まらず突き通すことができなかった。しかし『極志も業も一心にあり』と兵書に言われる如く、
一心二業一眼二早速一心眼に入り早速心に入って業は定まり、後には終いにこれを突き通す程になった
ので、百度千度突くとも1つも外すこと無く、その術はほとんど一必定に止まったのである。

すなわち庄五郎はこれを旨として名師とさえ聞けばたちまち随身してこれを励み、切磋琢磨の功を積ん
で武術兵術一つとして欠けることなく、実に希代の名士となったのである。世に3間半の長槍が流布し
て用いたがこれより始まったのである。いかにもその徳はあまねく多かった。

また庄五郎は砲術に妙を得ていた。細やかにして、提針をも外さなかった。天正(1573~)の頃、
明智光秀が砲術に妙を得ているといってその名を知られたのは、初めこの道三を師としてこれを手練し
た故である。

――『美濃国諸旧記

麒麟がくるにも利政が銭を槍で突くシーンありましたね




155 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 03:30:29.79 ID:UkSAmB4F
雑兵物語だと長槍は叩くものだけど、三間半の槍で道三は突いてるのね

それにしても長槍の兵を組ませたのは信長って俗説あったと思うけど、あれはどっから生まれたんだろうか

156 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 12:45:36.26 ID:wR/yUS7S
商売の達人であり鎗の達人であり砲術の達人でもあるのに内政・人望0の男

158 名前:人間七七四年[] 投稿日:2020/05/08(金) 15:42:06.18 ID:ASHIDqPN
というかそれは国盗り物語以来の有名なお話じゃん
槍で銭突くの
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永井カ事 斎藤カ事

2020年05月03日 15:38

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/03(日) 14:51:56.49 ID:vyOfXi5D
永井カ事

永井(長井)と申すは初めは永江(長江)とも名乗った。美濃居益(今須)の城主なり。これも初めは
公方に奉仕し、京都に参勤した。嘉吉の頃、備中守高景と申す人は土岐殿の外戚で同国の豊島(富島)
を知行した。

斎藤と仲が悪くなって度々合戦があり、備中守高景と同子息・四郎左衛門景秀は討死したのであった。
その跡を永井藤左衛門が知行して斎藤に従った。石丸丹波守(利光)父子は明応5年(1496)、斎
藤持是院(斎藤妙椿。妙純の誤り)に滅ぼされた。

斎藤カ事

美濃斎藤は元は越前の住人、利仁将軍の末葉なり。代々美濃国革手(川手)の城主である。土岐は屋形、
斎藤は守護代なり。しかしながら、前代の時には“土岐斎藤”といって国人も一双のように思ったので
ある。元弘の昔にも、土岐頼員は斎藤利行の婿であった。その後、高氏(足利尊氏)の御代となっても
斎藤はなおも美濃に繁昌したのである。

その初めの祖を越前守経永と号す。その子・利明、その子・越前守利永、その次・利藤。帯刀左衛門尉
は成人の子が無く、利明の二男・三位僧都妙椿(斎藤妙椿)が世を継ぎ給う。その人は武道・和歌の達
者で持是院大年公清法印とも申す。明応5年12月7日に逝去なされた。姪を養子として斎藤駿河守基
秀(妙純)と号す。また利国とも名乗った。この人に子無くして利藤の子・利綱にしばらく家督を譲り、
この人の時に斎藤家は断絶した。

しかるに、斎藤家の家僕は永井藤左衛門や同豊後守などであった。豊後守は山城国西の岡より牢人して
斎藤家に来たり、藤左衛門の与力となって度々合戦に労功を積み“永井豊後守”と号してかの家の家僕
となる。斎藤の家督断絶の時、かの家領を両人で知行した。

その頃、公方・義尹(足利義稙)と細川高国より斎藤を召されたのだが、上らなかったので公方より勢
を向けられ、永正17年(1520年)に近江勢が向かった時、革手の城はあまりに要害悪しきとして
稲葉山を取り立てこれを城となした。

その後、藤左衛門と豊後守は不和になって豊後守は病死し、その子・山城守利政の代になってやがて藤
左衛門を討ち取り、斎藤を名乗って自ら美濃半国を知行し、入道して“道三”と号す。

――『江濃記

老人雑話にもありますが、江濃記も父子二代の下克上を記述してますね。



斎藤山城先祖の事

2020年05月02日 17:55

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/02(土) 15:21:10.72 ID:2s/eWQiV
斎藤山城先祖の事

斎藤右京太夫龍興の由来を詳しく尋ねるに、三代以前斎藤山城守と申すはその昔、都において賤しき
笠張りであった人として生まれ、「ああ、むなしく朽ち果てるのも口惜しい。いかなる侍でもなって
小知をも汚したきものよ」と心中に深く思ったので、まず清水へ七月七夜籠ったのである。

満する夜の夢に「みのふまへてかさをはれ」という夢を見て、我ながらも不思議に存じ博士にこれを
尋ねれば、「なるほどこれは有り難き御告げなり。急ぎ美濃路へ御越しになって、良き大名を御頼み
なされ」と申したので、それならばと博士の申すに任せて美濃国を志して罷り下った。

するとその頃美濃国の大将を土岐美濃守時益と申して、大桑の城郭を構えていらっしゃった。笠張り
は便りを求めてこの君に仕え、中間奉公を勤めた。夢の告げは頼もしく、昼夜奉公は油断無く相勤め、
土岐の御気に入ること限りなし。

ある時、鷹野に御出になろうと催された。するとどうしたことか御鷹がそれて、かの中間の部屋梁9
尺長さ2間の長屋の中に3間柄の槍をかけてあったのだが、身の方2間は屋内に石突は外へ出ていた。
その槍の柄にかの鷹が止まった。土岐殿はじかに御居へなられ、「この小さき長屋の内に3間柄の槍
を嗜むとは只者にあらず」と感じ思し召し、御知行百石を下し置かれた。

それより立身して“斎藤山城守”と申し、御家老まで経上ったことこそ不思議なことである。それよ
り下々に情けをかけ、段々首尾を纏い時至り、土岐殿を打ち滅ぼし奉り国を押領し、「大桑は城内が
狭い」と井の口稲葉山に城を構え美濃国を切り従え、あまつさえ信長公を婿に取ったのも、かの夢の
告げであったのだろうか。(後略)

――『堂洞軍記




139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/02(土) 15:51:05.46 ID:UQtgzfg2
身延前で傘を張れ

法華宗に入信しろ、てことかと思った

斎藤道三の滅亡

2020年01月26日 16:28

756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/26(日) 11:54:36.87 ID:Khkap7O0
織田家との和睦が成り、その後尾濃両国太平と成って国民が安堵の思いを成す所に、斎藤父子の合戦が
たちまち始まり、終に当家滅亡の時至ること、天罰のいたる所である。故に国中兵乱起こり国民は薄氷を踏む
思いを成した。

斎藤道三は当腹の子・孫四郎を寵愛し、右京亮と名乗らせ嫡子義龍をいかにもして害し、右京亮に国を
立てようと企んだ。これは偏に、義龍が先の太守の胤であった故にこれを謀ったのである。
義龍はこれを聞いて大いに怒り。

「我斎藤の家名を継ぐと雖も実は先太守頼芸の胤であり、忝なくも源頼光の嫡孫である。一方彼は松波庄五郎
といって商家の下賤である。先の太守が次郎と呼ばれていた時、長井長弘の取り持ちによって鷺山に入り込み、
父頼芸に進めて伯父頼武を追い落とし太守とした。その功に依って寵愛に誇り、あまつさえ後には長弘を討ち
太守頼芸を追い失い奉った事、無動の至極と言うべし。そしてあまつさえ私を害しようと計ること、無念の
至りである。ならば此の方より取り詰めて今に思い知らせん。」

そう、密かに関の城主・永井隼人佐と相談し、家臣の日根野備中守弘就、同彌次右衛門両人に申し付け。
弘治元年の秋、二人の弟を鷺山より稲葉山城家の下屋敷に呼び寄せ、斎藤右京亮、同玄蕃允二人を忽ちに
討ち捨てた。

稲葉山の家中より此の事が鷺山に告げられると、道三は大いに怒り、国中の武士に下知して、「稲葉山城を
攻め落とし左京大夫義龍の頸を見せよ」と息巻いて下知した。しかしながら元来入道の悪逆無道によって
義龍に懐いた国勢共は悉く稲葉山に馳せ加わり、鷺山の手には十分の一も行かなかった。鷺山は老臣、
林駿河守通村・入道道慶、川島掃部助、神山内記、道家助六郎を発して長良の中の渡りに打ち出た。
稲葉山勢も大軍を川の東に押し寄せ、川を隔てて相戦った。

敵も味方も同じ家中であり、双方一族演者であった。義龍の旗大将・林主馬は鷺山の大将である林駿河入道の
甥であり、別して晴れがましい軍であった。然れども義龍勢は大軍であり、新手を入れ替え入れ替え、透きも
無く攻めれば、道三は叶わずして鷺山を去り、山県郡北野という所に古城が有り、鷲見美作守と言う者の居た
明城であったが、これに道三は引き籠もっら、林駿河入道は鷺山に在って日々戦った。

同二年四月、山城入道(道三)は手勢を率いて北野城より城田村へ出張し岐阜の体を窺った。この時に
時節良しと思ったのか、同月十八日に中の渡へ発向した。義龍も出馬し川を隔てて散々に戦い、終に道三
打ち負けて、同二十日の暮方に、主従わずかになるまで討ち取られ、城内を目指して引き上げている所を、
義龍勢長良川を押し渡り追い詰め、小牧源太、長居忠左衛門、、林主水の三人にて道三を取り込み、突き伏せて
首を討ち落とした。証拠のためとして、長居忠左衛門は道三入動の鼻を削ぎ取った。
斎藤義龍はこの頸を実検した後に長良川の端に捨てたが、これを小牧源太が拾い、土中に埋めた。
現在、斎藤塚として川の端にある旧跡である。この小牧源太は尾州小牧の者にて幼少の時より山城守の側近く
仕われたが、非道の扱いを受けたこと数度に及び、怨みを含んでいたため、人も多き中に優れて道三を
討った。然れども多年の恩を思ったのか、このように懇ろにその頸を取り納めた。

斎藤義龍は帰陣してそれぞれに恩賞を施し、それより斎藤氏を捨て、一色左京大夫義龍と名乗った。
一色を名乗った故は、道三が実父では無いことを世間へ知らしめる故であった。また土岐氏に一色を名乗る
故事が有るとも、幼少の時に厚見郡一色に居られた故とも、また母の三芳の御方は一色左京大夫の娘で、
母方であるとも云われている。
先ずその心は、一色が母方であるという祖父は丹州宮津の城主で(一色義有ヵ)、武勇人に勝れ世に隠れ無き
勇将であれば、その武威を子孫に伝えんとする心なのであろう。

土岐累代記

斎藤道三の滅亡について。



757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/26(日) 16:44:08.08 ID:nZTiVtXX
信長にも道三にも老臣に林がいるんだね
どちらも通の字を通字にしてるし、何か関係があるのかな?

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/26(日) 17:01:05.07 ID:nZTiVtXX
駿河守通政と佐渡守秀貞は従兄弟か
元は稲葉姓

土岐頼芸追放後の斎藤道三

2020年01月25日 16:54

755 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/25(土) 12:51:57.67 ID:id9IS+DC
かくして斎藤山城守秀龍(道三)は、太守土岐頼芸を追い出し国を横領し、ほしいままに一国を悪逆し、
また前太守頼芸の舎弟である、土岐七郎頼光と、八郎頼香を始めより騙して両人共に聟となし、一族として
置いた。頼香は西脇に住して西脇与三左衛門光口と云った。

山城守は、土岐の氏族が終始よく従うことはないと思った。七郎頼光はその心武く、智勇の士であったので
容易く討てないと考え、毒害にて殺した。また八郎頼香は羽栗郡の無動寺村・光徳寺にて切腹させた。

この頼香には女子が一人あり、江州に住んで六角左京大夫義賢・入道承禎の妻に成ったという。

さて、山城守は長男新九郎を斎藤美濃守と名乗らせ大いに奢って国民を貪った。また日蓮宗常在寺は、
前々に一命を助かりし高恩の寺であったため、日運上人の世に、寺院を新しく修造して、数ヶ所の荘園を
寺領として寄付し、子を二人まで出家させ、日運上人の弟子とした。すなわち常在寺五世日饒上人、六世
日覚上人がこれである。

山城守は剃髪して、山城入道道三と号した。他に男3人、女子一人が同腹にて出生した。
斎藤勘九郎、後に孫四郎と改めた。次が斎藤喜平次、後に玄蕃と改めた。その次は斎藤新五郎と号し、
梶田の領主として近郷を領した。

またそれより、尾州織田家との合戦が始まって、折々合戦止まず、天文十五年、織田備前守(信秀)は
大軍を率いて濃州へ攻め入り稲葉山城を攻めた。秀龍入道は兵を出して瑞龍の西南に陣を張り防戦した。
織田軍は中々入り立てる事ができず、要害堅固の名城であるので攻めあぐんで、城下の四方、民家を
悉く放火した。瑞龍寺も兵火のために寺院一宇も残らず焼失した(後に再興したという)。
織田も兵を大半討たれ、尾州に引き退いた。

そのようであったのに再び、同十七年九月、備前守は大軍にて濃州に乱入し、稲葉山城下にて大いに戦った。
織田家はまた大いに敗軍し、兵数千が討ち死にした。一族である織田因幡守、同与三郎も討たれた。

斎藤道三はこの戦勝に乗じて、同年十一月、大軍を差し向け大垣城を攻めた。城には尾州勢の織田播磨守が
入れ置かれていた。そのうちに両方和睦有って、道三の娘を備後守長男・三郎信長に遣わした。

こうして道三は斎藤左京亮義龍に稲葉山城を譲り、その身は鷺山城を普請してこれに移ったというが、
実は義龍は先の太守頼芸の胤であり、道三は心中に、彼を害して次男である孫四郎に国を譲ろうと考えていた。

(土岐累代記)

土岐頼芸追放後の斎藤道三



斎藤道三下剋上のこと

2020年01月23日 17:22

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/23(木) 12:01:44.81 ID:AGp9/dHI
土岐左京大夫頼芸は、山城守(斎藤道三)が佞臣であることを知り給わず、朝夕膝下を離さず寵愛した。
そのような中、山城守は多年国家を奪うという志深き故に、諸将を懐け、国中の諸士に心を睦み従え置き、
太守を疎むように仕向けた。このため葦出の城中においては君臣の間も心々になって、太守を疎む有様に
成っていた。

秀龍(道三)「時分は良し」と、密かに大軍を集め、天文十一年、稲葉山城を打ち立て葦出城に攻め寄せた。
葦出城では思いもよらぬ事に慌てふためき、散々に成って落ちていった。太守頼芸も、防ぎ戦うことにも
及ばず落ちて行き、寄手は城に火をかけた。悲しいかな、先祖頼康より八代の在城が、一炬の灰燼と成った
のである。

頼芸嫡男の太郎法師丸は村山より一番に駆け付け、父と一手に成って山城守方の大軍を穫り破り切り抜けられた。
村山、國島といった人々もここを専らと戦った。揖斐五郎光親も手勢を率いて三輪より駆け付け、村山と
一所になって大勢を追い散らし武功を顕し、太守に見まえた。太守は法師丸も揖斐五郎にも、不義の無いことを
知って後悔され、すぐに両人に対する勘気を免した。
鷲巣六郎光敦は道程遠き故にその日の暮れ方に馳せつけ、残る大勢を追い散らし頼芸御父子が尾張へ
落ちるための殿をした。

かくして太守頼芸は、尾張古渡の城に入り、織田備後守(信秀)を頼んだ。信秀は彼らを熱田の一向寺に
入れ置き、それより濃州の国侍である不破河内守(光治)、稲葉伊予守(良通)、安藤伊賀守(守就)、
氏家常陸介(直元)と示し合わせ、多勢を以て濃州に打ち入ろうとした。この事を山城守聞いて、叶わずと
思ったのか、和談を乞い、揖斐五郎光親の三輪城へ頼芸父子を移し入れ、揖斐五郎、同弟與三左衛門は、
清水島両下屋敷へと退いた。その後、織田信秀の計らいにて、頼芸と秀龍の間を和睦させ給うにより、暫く
国穏やかであった。されども太郎法師丸は尾州に留め置かれ、織田信秀が烏帽子親となって元服させ、
土岐小次郎頼秀と名乗らせた。後に宮内少輔頼栄と改めた。その後、信秀の計らいで、頼芸父子を
大桑城を修復して移らせ給った。

(土岐累代記)

斎藤道三下剋上のこと


かくして、斎藤左京大夫は日を追って権勢つのり

2020年01月22日 17:13

751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/22(水) 14:11:40.49 ID:9a4ADqU9
かくして、美濃土岐家において斎藤左京大夫秀龍(斎藤道三)は日を追って権勢つのり、左京大夫を改め
山城守を称したが、これは生国を思う故の名であると言われる。普段は葦出城に詰めて土岐頼芸の膝下に居た。
然るに山城守大いに驕り、好色にふけり、太守(頼芸)の妾に三芳ノ御方という美女がおられたのだが、
山城守は一途にこの御方に心をかけ、ある時近くに人もなかった時に、太守に向かってかの御方を乞うた。
その様子は、否と言えば忽ちに刺し殺す体に見えたため、太守も
「それほど思うのならば召し連れて参れ」
と言ったため、山城守も大いに悦び、稲葉山の城に連れて帰った。この人は既に懐妊しており、出産の後
男子ならば斎藤の家を継がせる旨を、くれぐれも仰せ付けたため、山城守の長子として、斎藤新九郎義龍と
名乗らせた。

太守には七人の子があった。長男は土岐猪法師丸であり、後に太郎法師丸と改めた。
次男は次郎といい、三男は三郎と申し、四男は四郎、五男は五郎、六男は六郎という。
この六郎は三芳ノ方の子で、斎藤新九郎と同腹の兄である。彼は三芳ノ方が山城守の館に入った後は、
殊の外頼芸より憎まれたため、頼芸のめのとである林駿河守通村が、彼を自分のニ男、当時三歳であった
林七郎右衛門通兼の後見として、自分の下屋敷の有る厚見郡江崎という所に匿った。
駿河守の在所は、同郡西ノ庄という所であった。

この六郎は、後に一色蔵人頼昌と称し、後に通兼を召し連れて岐禮に参り、父頼芸の老後を介抱して、
後に稲葉一鉄の情にて清水に住した。
七男は斎藤義龍であり、これ頼芸の種である。後に一色左京大夫義龍と名乗り、稲葉山の城に威を奮った。

ところで、頼芸の長男である太郎法師丸はその器量、伯父左京大夫頼継に似ており、国中無双の美童であった。
山城守は太守の寵にほこり数度無礼の働きのみならず、秀龍はこの太郎法師丸の男色を愛で、度々艷書を
送ったため、太郎法師は大いに怒り「主従の礼を失うこと奇怪なり。」と、ある時太郎法師丸をはじめ
氏族の面々、旗下の小童数名が、葦出城下にて的場の前を馬乗りして山城守が出てきたため、これに
太郎法師丸は怒って古里孫太郎、原弥二郎、蜂屋彦五郎以下若輩の面々、的矢をつがい、城内殿中まで
追い込んだ。(筆者注:的場の前を乗馬で通る事が無礼であると思われる)

太郎法師丸はこのような山城守の不義を戒めようと、或夜秀龍出仕の帰りを待ち受け、めのとの村山越後守の
末子市之丞という若輩者と語らい、殿中の廊下の暗い場所に待ち受け、一太刀斬りつけた。
しかし山城守は剣術の達者であり、抜きあい、受け流して這う這うに逃れて稲葉山に帰った。

こうして山城守はつくづくと考えた。「この太郎法師丸様をこのまま差し置いてはよき事は無い。
どうにかして彼を失わなければ」そう企み、それより折りに触れ太郎法師丸の大人しからざる様子を
頼芸に讒言した。ある時、登城して太守に申し上げたのは
「太郎御曹司は伯父揖斐五郎(光親)殿と御心を合わせ謀反の心が見えます。御曹司はまだ御幼少ですから
何の御心も有りませんが、伯父の揖斐五郎殿が御曹司を進めて御代を奪い取ろうと考えているのです。」
と様々に讒言すると、太守は元来愚将であるので、これを誠と思った。しかしながら流石に父子兄弟の
事であるので、そのままにして時が過ぎた。

それから幾程もなく、揖斐五郎が在所より参勤して葦出へ登城し、頼芸公に申し上げた
「先日、鷲巣六郎が同道してここから瑞龍寺へ参詣に行った折り、戸羽の新道にて山城守と行き合いました。
山城守は乗馬のまま礼儀もなさず、横合いに本道を駆け通りました。なんという奇異の曲者かと、六郎光敦が
諸鐙を打って追いかけましたが、山田ヵ館の辺りにて見失い、是非無く帰りました。
それだけではありません、法師丸に対しても常々無視をして甚だ無礼の仕儀、これも偏に御寵愛にほこり
自分が凡下であることを忘れ、御長男をはじめ我々に対してまで無礼を成すこと、無念であります。
願わくば法師丸、そして我々に山城守の身柄を渡してください。彼の頸を刎ね、今後の旗本の見せしめと
致します。」

そう、たって望んだが、頼芸はもとより山城守に騙され太郎法師丸についても揖斐五郎についても悪しく
思っていたため何も答えず、「さては山城守の申す所は尤もである。どうにかして法師丸も五郎も
失うべき。」と思し召されたため、その様子はただならぬ御不興に見え、五郎殿は甚だ面目無く三輪へと
帰った。

(土岐累代記)

大河も始まったということで、斎藤道三土岐頼芸に取り入った様子について



752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/23(木) 00:03:59.06 ID:wsaLouGR
何と言うか、これでもかと言うくらいの蝮っぷり

岩崎角弥が事

2019年04月06日 14:11

828 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/06(土) 01:14:22.25 ID:1F6JfVq7
岩崎角弥が事

美濃国の住人に、岩崎角弥という若き侍が有った。主君は斉藤山城入道(道三)であり、多年膝下を去らず
宮仕していたのだが、傍輩のそねみがあり、道三に彼の身の上について讒言された所、道三もこれを
まことと思い、直ちに出仕をやめさせた。これに角弥は迷惑し

「それがしが主君に対してどのような誤りがあったのか承りたい。」

と人を介して訴えたが、とかくの返事もなく

「もはや主君との縁も尽きた」と思い、本国を出奔して京都に至り、所縁を尋ねて、摂政殿(誰かは不明)に
奉公することと成った。この者は器量、骨柄、心様、他に超えて優れた人物であったので、摂政殿も
重用し召し使うこと、又並び無かった。

こうして年を経て、二年御所に有ったのだが、道三はこの事を聞き、やがて使者を以て、摂政殿下に
岩崎角弥を返還するよう申し上げた。摂政殿はこれを聞くと

「呼び返すほどおしき者を、どうして追い出したのか。そのような事叶うまじき。」と返事をし、
道三にそう伝えたが、道三からは重ねて「是非とも申し受けたい」と申し越した。
摂政殿は「千度百度そのようなことを言ってきても、この者を返すなど、致すまじき。」
と、はっきりと拒絶した。

この返答に道三は大いに立腹し、「その義であれば討手を上らすべし」と、山本伝左衛門、須田忠兵衛という
大剛の者二人を京に上らせた。そうして彼らは岩崎角弥の動静を伺ったが、なかなか見当たることは無かった。
しかしある時、節会の折、摂政殿が禁中へのお渡りに際し角弥もそのお供をした。この時山本、須田の二人は
角弥を発見し、角弥も二人を見つけ、互いに「あっ」と思ったが、摂政殿下の輿は前を長柄、力者、前駆、
随身などが厳しく警護し、また後ろは五位、六位の者たちが固めていたので、これに行き合った人は何れも
畏まり彼らを通した。

山本、須田の二人は力なく、その日は虚しく帰り、それより毎日角弥を伺った。これについて角弥も察し
「彼らは必ず私の討手として上ってきたのだろう。この事は殿下に御報告しておかねば。」と、
ある時ご機嫌を見計らい、この事を申し上げると、殿下は聞こし召して、すぐに奉行所へ
「かかる曲者が京都にある。急ぎ穿鑿して、洛中より追放すべし。」と仰せ付けになると。
奉行所の猶村長高、貞親といった者たちは承り、洛中に触れをし『この者たちを少しでも
匿った者には罪罰が仰せ付けられる。』と聞かせたため、山本、須田の二人は是非もなく本国へ帰り、
道三にかくかくと説明すると、道三にもどうにも出来す、そのまま有耶無耶と成った。

(室町殿物語)



829 名前:人間七七四年[] 投稿日:2019/04/06(土) 07:51:31.57 ID:vRR+okPq
一生一緒にいてくれやって言っておけば…

834 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/04/07(日) 23:23:09.67 ID:tN6cKz2F
摂政どののちょっといい話でした

斉藤山城守は、先手の兵士に三間柄の直鑓を持たせ

2019年03月09日 21:25

711 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/08(金) 22:31:21.26 ID:fDyNMKVL
斉藤山城守道三は、先手の兵士に三間柄の直鑓を持たせ、鑓の石突の端を縄で結んで手がかりとし、
鑓戦の前になると兵士はこれをかかげ、上より下ろしかけ、叩き立てれば、味方は則ち上鑓となり、
敵は自ずからそれを仰ぐ形になる。仰ぐ形になっては踏みとどまること難しいものであれば、多くは
これを以て突き崩し、勝利を得たという。

(武将感状記)

長槍の使用法について



713 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/03/09(土) 13:02:54.31 ID:FNk28PsE
>>711
おいおい
上に持ち上げて落とすだけかよ
それで勝てるなら全員真似するわ

妖刀”あざ丸”

2018年10月06日 19:06

272 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 18:49:49.54 ID:q4XVtgoD
天文13年(1544)、斎藤道三織田信秀方の大垣城を攻めた際のこと、
道三は近江国よりも加勢を請い、霜月(11月)の始めより大垣城へ押し寄せ、二重三重に
取り巻いて、持楯掻楯を突き寄せ突き寄せ攻めた。敵味方の鬨の声、鉄砲の音は山河を動かす
ばかりであった。

道三方の陰山掃部助という者、軍勢を分けて牛屋の寺院を焼き払おうとして向かったが、
床机に腰を掛けて諸卒を下知していた時、寺内より流矢が来て陰山の左目に二寸ばかり
射込んだ。彼はすぐにその矢を抜いたが、直後また流矢が来て今度は右目へ刺さった。
このため起きようとも起きられず、動くことも出来ず、ただ呆然としてそこに有った。

俄に両眼が射潰されるなど只事ではないが、その理由としてこのようなことが言われた。
かつて平家の侍大将であった悪七兵衛景清が差していた”あざ丸”という太刀を、去る
9月22日の大合戦(斎藤道三が稲葉山城に押し寄せた織田信秀を撃退した加納口の戦い)の
折、織田方で討ち死にした千秋紀伊守が最後に差しており、これを陰山が求めて差したのだが、
幾程もなく盲目と成ったことこそ不思議である。

その後この刀は、丹羽長秀の所有と成ったが、長秀もこれを所持して目を以ての外に患い、
さてはこの刀を所持した者は必ず目の祟に合うのではないかと沙汰され、熱田大神宮に進ぜようという
事となり、宝殿へ納めると、即座に眼病は平癒したという。

(甫庵信長記)

参考
「あざ丸」
怪刀痣丸・怖い話



273 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:20:01.23 ID:FUVuOp6w
>>272
景清の刀が戦国時代まで残って使われてこんな騒ぎまで起こすとかロマンだ…。

274 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:22:53.02 ID:wcyDn2+q
景清「頼朝を討とうとしたら果たせなかった。
源氏の世を見るくらいなら我が両眼をくりぬいて清水寺に奉納してやる!」
をネタにした「景清」という落語を思い出した

275 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:52:21.68 ID:aW8FcG6c
>>273
残っているのはさておき、実戦で使うとは…。
当時でも価値は文化財的なもんじゃないの?

276 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 19:56:27.77 ID:bWFQtJT4
源平討魔伝か

278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/06(土) 21:39:33.79 ID:Ymc/oMUE
>>272
千秋も眼をやられて討ち死にしてなかったかな

昔、この逸話「あざ丸」がスレにあがったときは寺を攻めるんじゃなくて、敵城を攻めるときに寺に陣を敷いてたことになってるね

ガラケーなんで前の逸話を貼り辛いので貼らんけど

居ながら尿を流すは、家の面目

2017年11月28日 15:49

341 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 13:26:17.99 ID:q/sq0uZp
斎藤道三が3人の息子を前に往昔の軍の手立てなどを語っていた所、嫡男の龍興が、
物語の半ばに立ち上がって用を足しに行った。
道三は不快に思い、龍興が帰ってくるとこのように言った

「武士にとって戦場の物語は、これ皆武義の教えである。志ある者達ならば好んで聞くべきなのだ。
志が有れば、物語の面白さに聞き惚れて、居ながらにして小用を致したとしても無礼とは言わない。
むしろ語り伝えに、『龍興は軍物語に聞き惚れて居ながら尿を流した』と言われるは、家の面目と
言うべきであろう。
お前はやがて家を失い、他の紋に馬をつなぐだろう。」

そう涙を流して諌めたという。

(士談)



342 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/11/28(火) 15:05:25.94 ID:+NX5BKfl
>>341
義龍「」

344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 15:16:38.50 ID:q/sq0uZp
>>342
原文ママなのですが、おそらく義龍の間違いでしょうね

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 15:35:25.79 ID:fMrCqu7j
竹中半兵衛「私が、小便をかけた斎藤飛騨守を美濃城乗っ取りの際に討ち取ったように
男子に小便、というのはあまりな屈辱。
先先代のお言葉とは思われません」

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 16:08:56.81 ID:VQeFYYED
竹中半兵衛でしょ

348 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/28(火) 16:12:24.89 ID:q/sq0uZp
>>346
有名なのがそれこそ龍興の家来だった竹中半兵衛が息子重門を叱ったやつで、
竹中半兵衛と座り小便・いい話
何故か伊達政宗にも同じような逸話がある
政宗、息子忠宗を叱る

350 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/11/29(水) 10:47:42.90 ID:mFIHIWzA
>>341
その話何パターンあんだよ?
武家の数だけあんのか?

後に剃髪して道三入道

2017年03月28日 12:44

704 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/03/28(火) 05:09:45.11 ID:aQunLHnl
明応年中の斎藤は法師武者で、斎藤持是院妙椿という。稲葉山の城に住んで武勇の名将だったが、
その心ばえも優美で、和歌・連歌にも名を得ていた。この時、同国郡上の城主・東野州平常縁や、
その他に宗祇法師、または三条逍遙院藤原実隆公などとその遊びを同じくして歌道で相交わった。

その頃、隣国の近江では両佐々木の仲が悪く合戦に及び、互いに斎藤を頼みにした。両佐々木と
いうのは六角家と京極家のことである。斎藤妙椿が六角左京大夫高頼と一味して京極を攻めると、
京極大膳大夫高清は一戦に打ち負け、その家臣が浅井を頼んだことにより、

浅井と六角はまた合戦に及んだ。しかし浅井は一身の微力により利運を開き難いため隣国のよしみ
を通じて越前の守護・朝倉を頼んだ。朝倉は同心して加勢し、浅井と両家の勢を合わせ六角・斎藤
を敵にして度々の合戦となるも、妙椿は一度も勝利を得ずということなし。誠に無双の名将であった。

ここにまたその頃、松波勝九郎という京家の者がいた。この者はもともと山城国西の郊の民人で、
当時、牢人武者であったという。あるいは油売りの町人であるとも言い伝えている。いずれにせよ
卑賤の素性である。この勝九郎はふと美濃へ来て妙椿に奉公した。

一段と小賢しき者で武勇にも長じていたので、妙椿は厚恩を与えて、身近く召し使われた。次第に
出世して早くも人数をも預かり、度々の武功をあらわして、その忠節は他と異なっていた。またその
時代に当国今須の城主に長井という大名がいた。

多勢の者で斎藤に従わなかったのを、かの松波がすなわち妙椿へもその意を得て、一身の才覚を
もって長井一家を退治せしめ、すなわち今須の城主となり、その名を改め長井太郎左衛門秀元と
名乗った。誠ににわか大名であるが、松波は元来抜群の剛の者で、自家をよく治め、

諸侍諸民をも懐け置いた。かくて月日を経たうちに、斎藤妙椿は重病に侵され死去した。嗣子なき
をもって家中は別れ別れになったが、秀元は押し掛けて切り従え異議を言う譜代の者を皆ことごとく
誅伐し、従う者どもはそのまま己の臣下にした。

さて斎藤の所領を収め、家を継いで名を変えて斎藤山城守利政と号した。後に剃髪して道三入道と
申したのは、この庄九郎秀元のことである。もとより武勇に長じ、その頃近国にも稀な程の荒者で
あった。それのみならず大欲無道で慈悲の心は少しもなかった。

しかしながら武勇の威は強く後には美濃一国を皆切り従え、あまつさえ近江の浅井、越前の朝倉、
尾張の織田を相手にして、戦に勝つことたびたびに及んだ。後には方々皆調停となって和睦した。

また、道三の舎弟を同国今須の城主にして長井の家を継がせ、これを長井隼人佐という。道三の
息女の1人は当国の守護・土岐大膳大夫頼芸に嫁がせた。その頃、国々の守護の筋目の人を
たとえ所領を離れても、その国の“御屋形”と称し、国人らは崇敬した。

この頼芸も同国の屋形で“貴人”と呼ばれ、婿ではあったが道三は頼芸をいぶかしく思って当国を
追い出した。道三の弟娘は信長公の御室家である。

――『織田軍記(総見記)』


斎藤山城守は、山崎の油商の子であった

2015年12月07日 14:23

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/12/07(月) 12:44:29.40 ID:asqd5g/2
斎藤山城守(道三)は、山崎の油商の子であった。この父が、妻を連れて美濃に移住し、そこで
山城守を産んだ。そして土岐(美濃国主)に取り行って仕えていたが、土岐氏は末に至り、国も乱れる中、
どのようにしたのか、遂に美濃の国主となった。その時の落書に

 ときはれと のりたちもせず四の袴 三のはやぶれてひとのにぞなる

と云ったそうだ、彼は信長の舅であった。

(老人雑話)

斎藤道三二代説、老人雑話にとっくに出ていたんですね。




美濃の住人に岩崎角弥という若侍がいた

2012年12月25日 19:30

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/24(月) 23:49:29.11 ID:UoAYNgIu
美濃の住人に岩崎角弥という若侍がいた。主君は斎藤道三で多年膝元にて宮仕した。
ところが傍輩の嫉妬によって讒言され、道三はこれを信じて角弥の出仕を止めてしまった。
角弥は迷惑して「それがしの誤りは何でありましょう。承りたい」と人を介して尋ねるが、
道三の返事はなかった。角弥は「もはや主君との縁は尽きたのだ」と悟り別の縁を求めた。

その後、角弥は摂政殿に奉公することになった。彼は器量・骨柄・心様ともに人よりも
優れていたので、摂政殿は角弥を最も重用した。かくして角弥は二年の間御所にあった。
道三はそのことを聞きつけ、摂政殿に使者を送り「角弥を賜りたい」と申し上げた。しかし、
摂政殿は「呼び返す程欲しき者をどうして追い出したのだろう。叶えられないことだ」と断った。
道三は諦めずに千度百度頼んだが、摂政殿は「この者だけは出すことはない」と断固拒否した。

大いに立腹した道三は「それならば討手を上らせる」と決意し、山本伝左衛門と須田忠兵衛
という二人の大剛の者を京都に派遣した。二人は中々角弥を見つけられなかったが、
ある御節会の時、禁中に渡る摂政殿に角弥も供奉していた。この時、二人は角弥を見つけ、
角弥も見合わせてお互いに「あっ」と思ったが、摂政殿の警固は厳重で両人は手を出せず、
その日は空しく諦めた。それからの二人は角弥を討つ機会を毎日窺った。

一方の角弥は「あれは討手に違いない。殿下にこのことを申し上げたほうが善いのではないか」
と思い、ある時摂政殿の様子を窺ってその旨を申し上げた。摂政殿は直ちに奉行所へ
「かかる者が京都にいる。厳重に捜査して洛中より追い払え」と命じ、長高と貞親が洛中に
「この者を一時でも抱えた輩は処罰する」と触れを出した。この状況に両人は是非もなく帰国し
道三に報告すると、道三もどうしようもなく、そのまま角弥殺害を諦めてしまった。

――『室町殿物語』




894 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/12/25(火) 20:57:29.83 ID:vJy29klx
>>888
斉藤家は京都に刺客送ると失敗するフラグでも立ってるのか?

美濃の蝮と尾張のたわけ、その邂逅

2010年01月20日 00:05

820 名前:1/2[sage] 投稿日:2010/01/18(月) 23:10:48 ID:DOyHMIQJ
美濃の梟雄、斎藤道三の婿は世に大たわけとの評判が高かったが、道三は信じなかった。
「皆が皆たわけと申すような者は、存外たわけでは無いものよ。俺みずから婿に会い、
事実を確かめてやろう。」

美濃と尾張の国境、正徳寺で婿と会見することになった道三は、婿を脅かしてやろうと、
寺の門前の街道に衣服を整えた八百人の家臣を並べて、自分は街道沿いの町屋に隠れ
婿の来るのを覗き見ようと、待ち構えた。

「こ、これはw」やって来た婿を見た美濃衆は、苦笑せざるを得なかった。

"…萌黄の平打にて茶筅の髪を巻き立て、湯帷子の袖を外し、のし付の太刀脇差、二つ
ながら長束に、みご縄にて巻かせ、太き芋縄、腕ぬきにさせられ、お腰の周りには猿使いの
様に火燵袋、瓢箪七つ八つ付けさせられ、虎革・豹革四つばかりの半袴を召し…''

現代で言えば、舅との食事会に金髪無造作ヘアに上半身は裸の上にアロハだけ、下は
ポケットパンパン、アクセジャラジャラのハーフパンツで来たようなものだ。
さらに「老人雑話」によると、"広袖の浴衣に、陰茎の図を大きく染めて…''となっている。
裸アロハにチ○コのバックプリントとか、道行くオバサンに汚い物でも見るような目を
向けられるレベルである。

821 名前:2/2[sage] 投稿日:2010/01/18(月) 23:12:05 ID:DOyHMIQJ
だが、会見の場に姿を見せた道三の婿を見て、美濃衆は度肝を抜かれた。
"御髪折曲げに、一世の始めに結わせられ、何染置かれ候知る人無き褐色の長袴召し…''
先程までの金髪アロハが、黒髪オールバックにタキシードで現れたようなものである。

驚く美濃衆を尻目に、婿は広間を通り抜け、縁側の柱に背をもたせかけた。
道三が着座しても態度を改めぬ婿に、たまりかねた仲介役の堀田道空が声をかけた。
「こちらが、斎藤山城入道殿にござるぞ。」
「…で、あるか。」婿は道三に軽く一礼すると、席に着いた。
ようやく対面した舅と婿は、形ばかり食事を共にし、言葉を交わして別れた。

帰国の途上で、側近の猪子兵介が道三をなだめるように言った。
「いや、あの態度!やはりどう見ても、あれはうつけにござりましょう。」
「………」
あの早変わりも、無礼を承知で縁側に陣取ったのも、こちらを警戒し虚を突くため、入念に
準備してきたものだろう。
別れ際、美濃兵と尾張兵がすれ違ったが、尾張兵の槍の方が長かった。槍ぶすま主体の
歩兵の槍は、長い方が有利である。しかも長槍を整然と揃えて行軍するのは、かなりの
調練を必要とする。
…が、わが配下どもは、あの男の立居振舞いに気を取られ、そんな事は気付こうともせん。

"無念なる事に候。山城が子供、たわけが門外に馬を繋ぐべき事、案の内にて候。''
道三の苦い予言は、十数年後に現実のものとなる。




822 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/18(月) 23:19:31 ID:F7C5rwlq
有名な話だけど、この話まだ出てなかったのか…
この話で散々扱き下ろされてる猪子さんは、
本能寺の時まで信長の側近として仕えて死んでるんだよな
それだけ長い間信長の配下で居れたのだから、
結構優秀な人だったはずなんだけど…この扱いはかなり可哀想だ

823 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/19(火) 00:27:19 ID:un1BsL3u
一番かわいそうなのは義龍だと思うんだ。
このお話が広まった結果、
義龍時代は信長は美濃に足がかりも築けなかったこととかガン無視されることが多いし

825 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/19(火) 01:23:46 ID:3aXtO5nr
>>823
そりゃ、義龍時代の信長は美濃にはまったくノータッチなんだから
信長の視点で語るのなら、義龍時代が触れられないのは当然だろ

827 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/19(火) 01:33:53 ID:un1BsL3u
>>825
長良川合戦の後と永禄三年の桶狭間の後、
東側の脅威が少ない時期に頻繁にちょっかい出してるよ>信長

結果は得るところなく敗退してる
(長良川合戦の起きた弘治二年ごろは、三河で田峯菅沼氏や西郷氏、
奥平氏などによる大規模な反今川反乱が起きてて織田家はフリーハンドだった)

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斉藤道三の「虎の巻」

2009年09月18日 00:30

533 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/09/17(木) 01:33:19 ID:yVpyvjG5
斉藤道三の「虎の巻」

兵法書の六韜のうち「虎韜」はその極意といわれ、虎の巻の由来でもある。
しかし、斉藤道三が肌身離さず持っていたのはこの「虎韜」ではなく、
「武韜」であった。
この「武韜」は字に反して謀略に関する巻である。
曰く、

一、相手の歓心を買い、意を迎えて逆らわないこと。
二、主の信頼する側近に近づき、仲たがいさせること。
三、賄賂を周囲に渡して、仲良くなること。
四、酒色におぼれさせること。
五、忠臣を主から遠ざけること。




(原文はこちら、http://kanbun.info/shibu02/rikutou15.html)


道三は表裏に謀略をめぐらし、最終的に美濃守護の土岐頼芸を追放して
美濃を手に入れることになるが、
この「武韜」を自らの「虎の巻」として大事にしたという。

道三の(国盗りにおいて学問が役に立った)いい話。




536 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/09/17(木) 06:27:32 ID:pn19NlLH
兵法書はあれは今すぐ発禁処分にすべきだな
読んだ後に権謀術数どころか暗殺に対して抵抗がなくなる


斎藤道三と槍

2009年08月18日 00:07

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/17(月) 01:02:17 ID:ndt+Y0c8
稲富さんは本番になると指がプルプルするタイプ



517 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/17(月) 10:28:38 ID:hd7VlS60
>>507
孫には任せておけないと稲富祐秀がアップを始めたようです

とまぁ、何かの達人繋がり、というと少々苦しいが
まとめに載ってなかったようなので斎藤道三のお話でも

斎藤道三といえば戦国時代に名を馳せた下克上の梟雄、最近では
父・新左衛門尉から二代に渡った親子鷹だったとも言われているが、
何も謀略一本の人ではない。美濃でも屈指の槍名人でもあった。

若い時、各地を放浪し数多の合戦を目にしてきた斎藤道三、
阿鼻叫喚の合戦場で見出したことは、槍という武器の有能さだった。
合戦場でもっとも敵兵を殺傷したのは弓矢だと言われているが、遠巻きに
矢を射て大将を落としたとて首級が取れねば意味が無い
その点、槍は遠距離からの突き以外にも薙ぎ払い、叩き、騎馬突撃にすら
対応できる武器であった。

斎藤道三>>これからは、槍の時代だ。m9っ;・`ω・´)っ━━lコ三ヲ

それに勘付いた道三、その日から猛稽古を始める。
長さ3㍍はある竹竿の先に太い針を縛り付けると、家の軒先から糸で結んだ
一文銭を吊り下げ、それを催眠術よろしく左右に揺らす。一文銭の中心には
四角い穴が開いているが、この穴に先ほど造った稽古用の槍、その先端が
確実に突き刺さるように毎日数百回という気の遠くなるような稽古内容だった。

やがて、道三の槍は百発百中で一文銭の穴を突き抜くようになり
戦場に赴けば道三の往く処、胴丸の合わせ目や咽喉輪の隙間を一撃された
敵の骸が山を成すようになった。
そして、この武勲が美濃の長井家や守護職土岐家への仕官・栄達に繋がり、
はては美濃一国を掠め取る基盤となったのだった。

また、斎藤道三という人は自分の槍をとても大切に扱う人だったという。
戦国初期頃の当時、槍というものは嵩張るものなので普段は屋敷内に置かず
軒下に置いておくものだったそうだが、湿気や害獣がはびこる場所だけに
柄が腐ったり穂先が錆びることが多かったという。
道三はそうならないように、節をくり貫いた竹に槍を納め布袋に包んで
軒下に置くようにしていたといい、この心がけは主君にも多いに褒められたという。

…現代日本でも誇れる"サムライ"の一人にシアトルマリナーズのイチロー選手が
挙げられるが、彼は野球選手として栄達するのはどうしたら良いかと問われると
こんな教訓の言葉を口にするという。

イチロー>>練習をしろ、野球道具を磨け、宿題はちゃんとやれ。

達人の精神は五百年過ぎても先年経っても、変わらないもの。
そんな斎藤道三の、(成り上がるための心がけについての)良い話。




518 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/17(月) 11:56:42 ID:ItKTqfJ2
それがこうじて一文銭の油売りなんて芸当が出来たのかな?
逆か?

519 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/08/17(月) 12:49:45 ID:xRhvI38n
>>517
その槍を入れた竹に土岐頼芸の鷹がとまった事から
頼芸と道三は知り合った、って話もあったよね。


道三は町末の小家に忍居て

2009年07月22日 00:08

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/21(火) 01:10:17 ID:jj4va/YI
道三は町末の小家に忍居て
 
 
斎藤道三と織田信長の、いわゆる正徳寺の会見。
正徳寺とは信長公記における表記で、正しくは七寶山聖徳寺というが、それはともかく。
舞台となったのは町家七百軒を数える富貴の地であったという富田。聖徳寺の門前町である。
道三は会見の直前、その町外れの小屋に潜み、信長一行の様子を覗き見たというのは
有名な逸話である。
ところが、これに異を唱えたのが聖徳寺の故地、愛知県中島郡の旧・起町が
昭和29年刊行した起町史だ。
 
「道三たるべきものが、即刻會見すべき信長を、(中略)その道中を隙見する必要は
ないかに思はれる――」
 
聖徳寺所蔵の羽柴秀吉制札によれば、富田には天正12(1584)年当時、月に6度の市が立ったという。
尾張と美濃の国境の町、また当時の水運交通の動脈である木曽川に面した町として
往時の繁栄が偲ばれる。
この富田に絹屋長者または日比野長者と呼ばれる豪商、日比野氏の屋敷があったと伝えられる。
そして地元の伝承では、道三が信長一行を見かけたのは、この日比野長者屋敷からであったという。
つまり、起町史によれば、道三は信長公記が描くように「町末の小家」にわざわざ「忍居」たわけではない。
美濃から「遠来の道三が到着の仮宿所として、当家を用ひたのではあるまいか」、
その際に偶然に信長一行を見かけただけではないか、というのである。
 
道三ほどの人物が、聖徳寺で待っていれば会える信長を、こそこそ隠れて覗き見る必要もねーだろ?
 
……いや、それはそうなんだけど、そもそも「正徳寺の会見」自体のソースが信長公記だし。
「小屋から覗いてうつけプゲラ」→「会見場での変貌にポカーン」のほうが話として面白いし。
地元の伝承以外に斎藤道三と日比野長者の繋がりを示すものもないわけで。
結局、道三の名誉回復には至っていないという話。
いまなら無難に「地元では~と言い伝えられている」程度で済ませるのだろうな市町村史の記述的に……






聖徳寺は何処に

2009年07月22日 00:08

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/07/21(火) 07:51:49 ID:W8CUIJ8N
聖徳寺は何処に
 
 
聖徳寺は寛喜年間(1229~32年)、尾張国葉栗郡大浦(現岐阜県羽島市)で創建された。
開基は信濃国出身の元武士で親鸞聖人の直弟子となった小笠原長顕、法名閑善。
山号は七寶山といって、親鸞から七つの寺宝を授けられたことに由来するという。
浄土真宗においては本願寺の直参と格付けられた有力寺院である。
その後、木曽川の洪水によって寺堂が流出したため尾張国中島郡苅安賀(現愛知県一宮市)に
移転。
さらに再び大浦へ戻ったが、永正14(1517)年、中島郡富田へと移った。
この富田は、先に「道三は町末の小家に忍居て」の逸話で紹介した旧愛知県起町に所在した。
(現在は市町村の合併により、旧尾西市を経て一宮市に属している。)
ここまでの移転の経緯は聖徳寺の寺伝で語られているところである。
そして真宗本山の本願寺側の文書や聖徳寺自身の所蔵文書でも、寺が移転を繰り返したことは
確認できる。
「苅安賀聖徳寺」「大浦郷聖徳寺」「富田寺内聖徳寺」「中島郡留田郷(=富田?)聖徳寺」
……等々。
 
ただし、各文書に記載された日付と、寺伝による移転の経緯は必ずしも一致しない。
寺伝では永正14年に聖徳寺は富田へ移転した筈である。
しかし本願寺側の文書では、天文12(1543)年時点の所在地を苅安賀としているのだ。
さらにややこしいのは、富田という地名自体は尾張国のあちこちに存在していたことである。
そして、苅安賀にも富田という土地があった。
このため史家の中には「正徳寺の会見」の舞台となった「富田」は苅安賀の富田だと説く者もいる。
起町史や尾西市史では、自身の行政区域に属した木曽川沿いの富田を聖徳寺の故地とする。
(尾西市は昭和30年、1955年に起町と朝日村の合併で誕生。)
だが、平成の大合併で尾西市が一宮市に編入された現在。
新たに一宮市史が編纂されるとすれば、「正徳寺の会見」の舞台をどこに置くのだろうか。
 
……まあ、一般的には旧起町の富田がそれだとされているので。
「苅安賀説もあるんだよ」と軽く紹介しておく程度が無難だろうけど。
 
ところで、その後の聖徳寺である。
天正12(1584)年当時、富田は月に6度の市が立つ繁栄ぶりであったという(聖徳寺所蔵羽柴秀吉制札)。
ところが天正14年、木曽川の大洪水によって富田は水没。
聖徳寺は三屋村(現岐阜県笠松町)へ移転することになった。
そこから一時、尾張国清州へ移り、寛永15(1638)年に現在の名古屋市中区錦町へ移転した。
そして近年になって、さらに名古屋市天白区へと移転したのである。
 
結構な由緒のある寺なのに、こんなにあちこち移転しまくっているのもどうなのだろう。
聖徳寺のなんとも収まりの悪い話。






斉藤道三への落書・悪い話

2009年01月10日 00:08

169 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/09(金) 19:10:11 ID:Z68yCiyN
斉藤道三と言えば、彼が生きていた当時の京都では、悪人の代表のように思われていたらしい。

当時の京の町に出た落書

・美濃の土岐頼次は、斉藤道三の婿であったのを、道三が騙して殺したとき

「とき世とて 婿を殺すはみのおわり 昔は長田今は山城

(”土岐”と”とき”、”身の終わり”と”美濃尾張”をかけている。長田は主の源義朝と婿の鎌田政家を
だまし討ちにした尾張の長田忠致)


・天文十一年(1542)土岐頼芸が斉藤道三に美濃を追い出されたとき

「ときはれど 糊たてもせぬ四布袴(よのはかま) 三布(みの)は破れて一布(ひとの)にぞなる

(”土岐はる”と”解き張る”、”三布”と”美濃”、”一布”と”人の”をかけている。)


で、道三関係はなぜか、このように後世まで残る傑作が多いw