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桶狭間、長篠(と本能寺)裏話

2020年08月21日 16:50

458 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/08/20(木) 21:59:40.40 ID:96SZy5U2
『湯浅甚助直宗伝記』
桶狭間、長篠(と本能寺)裏話

今川義元と信長の合戦の時、湯浅甚助は14歳で(小姓として)供奉していたところ、「少年の出陣は無用である」と仰せられたので、尾州笠寺の法印に預けられた。
桶狭間で合戦が始まったところ、鬨の声や鉄砲の音がおびただしく聞こえてきた。
そこで笠寺に残っていた小姓衆は信長公の替え馬に乗って戦場にはせ参じ、甚助は敵と槍を合わせ、練り倒して取った首を信長公の御前へ持参した。
すると、信長は「若輩者が戦場の騒がしいところに、なぜ軍法を破って現れたのか」とご立腹だったので、本陣へ帰った。
すると、敵の大将、義元を討ち取り、合戦に勝利したので信長はとてもご機嫌になり、笠寺へ帰陣した。
法印が合戦勝利に祝いの言葉を捧げ、飛び出した小姓衆のことの顛末を子細に話し、「武勇の励みがあったので少年まで手柄を立て、言葉がありません」と詫び言を申したので、みなが許された。
その後、三河長篠の合戦のときに、信長は甚助を呼び、「先手の滝川一益の備えへ参れ。敵は色めき立っている。早く敵の備えを崩し、どっと攻めかかれと伝えよ」と命じた。
これによって一益の陣所にはせ向かい、信長の命令を伝えたところ、信長の命令の通り、(同じ先手の)家康公が敵の先手に挑みかかり、敵の侍大将、馬場信春の備えを崩した。
このとき甚助は、甲州方の采配を手に持った武者と槍を合わせ、(馬から)突き落として首を取った。采配を添えて首実検に供した。
この委細は一益が見届けており、後日、信長公へ披露した。
これによって信長公から感状をいただき、「先手への軍使に向かって首尾よくこなし、さらには首を取って猛威を振るってから帰ってきたこと、神妙である」と声をかけられ、加増された。
これらは信長公記に記されていないが、甚助家来の倉知道珍という侍が詳細を知っており、語り伝えている。
(中略)
天正10年6月2日、明智光秀が謀反の時には、甚助は町屋に泊まっていたが、光秀の逆心によって京中が騒動になっていたので本能寺にはせ参じ、猛勢をかき分けて寺内に駆け込み、討ち死にした。
本能寺で死んだ面々の石塔が阿弥陀寺にある。



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