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細川政元は飯綱の法を行い

2021年10月12日 15:22

87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 20:41:39.46 ID:kFj4sQth
植松左衛門尉(資信)が曰く、

「私は乱世に生まれて諸々の道を知らない。しかしながら武士はただ
下手でも文武の道を学んでこれを行おうとして過ぎることはあるまい。

神道仏道は至って善とはいえども、これを行おうとして禍を得る者は
多い。細川政元は飯綱の法を行い、管領の家は断絶したのだ」

――『南海通記老父夜話記)』



88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/11(月) 23:38:24.08 ID:8WidEI55
>>87
なんか前段後段で文意がつながってないような気がする・・・ 

「過ぎることはあるまい」だと「いくらやってもやり過ぎではない」→「どんどんやりなさい」って意味だよね?

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 02:55:09.59 ID:LNSxAag1
>>87
魔法半将軍様の場合飯綱の法を行ったからというより
もっと別の因果からじゃないんですかね…?

90 名前:87[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 08:20:11.90 ID:QEbcGYk+
>>88
史料叢書版の原文は「文武ノ道ヲ学テコレヲ行ントシテハ過アルベカラズ」
武士には文武を学び実践する以上のことはなくて他の道にとらわれると家を滅ぼすってことかと
ちなみに史籍集覧版だと単に「武ノ道」とあって植松は武辺の人だからこっちの方が正しいかもしれない

91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 13:21:50.44 ID:2E9AxWS5
過=あやまち

学テ 行ントシテ と動詞には送り仮名付けてる書き方してる以上
送り仮名がない時点で 過 は名詞と解釈するのが自然

92 名前:87[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 20:31:59.24 ID:QskEwL65
>>91
ご指摘ありがとうございますm(_ _)m

93 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/12(火) 21:01:03.28 ID:SVFHvk5E
>>89
南海通記の見解では
飯綱に凝る→男色に耽る→浮気を疑って無実の人間を罰する→そいつに恨まれて殺される
ってことらしい

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/10/12(火) 21:53:29.37 ID:LNSxAag1
>>93
あくまで南海通記の見解へのツッコミなんだけど
女人禁制で男色に耽るまでは関連性として判らんでもないけど
そこから先はやっぱこじつけでは…?

そもそも南海通記って香西氏が書いたもので
政元の暗殺って香西元長が首謀者だって言われてるよね
要因を飯綱に求める事で飯綱に凝った政元が殺されるのは仕方ない的な
祖先の所業の正当化のこじつけなんじゃ…?

95 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/10/13(水) 12:30:19.92 ID:6rFIMn48
香西氏の自己弁護が入ってる可能性や、暗殺が個人的な恨みかは疑わしい点は同意だけど
暗殺を招いた政治的混乱の原因が実子のいないことによる養子の乱立なら、実子がいない原因になった
飯綱の法を根本原因にするのは、全くの無理筋ではないと思えるけども
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永正の錯乱前の情勢

2020年05月09日 18:48

56 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/08(金) 22:51:57.48 ID:L7iFoqfE
永正元年(1504)十二月二十五日、畠山尾張入道卜山(尚順)と、同苗上総介義英と、両家和睦して
河内国富田の八幡宮に会し互いに和平の酒宴をして、年来の遺恨を忘れた。これは公方家(足利義澄)の
後下知によっての事であった。であれば、和平の驗として、この八幡宮に鎧、太刀等を両家より奉納して
誓約をあい堅めた。これにより紀伊、大和、河内の人々国民等まで和睦し、悦び合うこと限りなかった。
このため、五畿内は暫く安治されたのだが、兵乱の世となるべき妖怪は既に顕れていた。

同二年の春、天下大飢饉となり、餓死する者が道に満ちた。例えば十人の内九人まで死ぬほどであった。
同三年、諸国に億萬の鼠出て耕作の米穀、山林の竹木を悉く喰い損じさせた。これは凶年において
餓死した者の亡霊であろうと、諸国在々所々に於いて、餓死者の骨を取り集め、これを収めて寺を建て
弔い祭ったところ、たちまちこの鼠が静まったことこそ不思議である。
同年の秋、春日山の大木七千余本が枯れ果てた。これは藤原氏の人々にとっての凶事であると取り沙汰された。

ともかく、このような奇怪の上は、近日またいかなる乱が起こるのかと、諸人は安堵できず、いまいましく
見ていた。

そのような中、細川六郎澄元は、その頃未だ阿波国に在ったが、祖父の慈雲院入道成之は細川一族の
宿老であり、知恵深き人であったので、京都の有り様を察し、「政元の行跡、日を逐って昏乱している。
これでは当家の安否も計り難い、澄元は急ぎ上洛して養父の行衛をも見届け、一家の治乱をも執り計るべし」
との旨を下知され、澄元も「畏まり候」と、阿州を立って上洛した。この時四月二十一日であった。
この澄元は未だ十三歳の若輩故に、実父讃岐守義春より、三好筑前守之長、並びに高畠与三郎の二人が、
共に武勇の達者として選ばれ、澄元後見の執事として、補佐の臣に命じられた。

中でもこの三好は、阿波国の守護代であり、これも小笠原の末孫、名誉の者と聞こえ、後には改名して
長輝と号し、剃髪の後は希雲居士と称した。

また政元の家臣、香西六郎元近という者有り、武勇にも長じており、讃岐国の守護代として、一方の将と
成っていたが、常に三好と仲悪く、互いに確執の心をはさみ、それぞれの威勢を嫉みあっていた。
またその頃、薬師寺の三郎左衛門(長忠)は兄の与一(元一)の誅殺より、政元に寵せられ、重恩に耽り権威に
募って傍若無人の振る舞いをしていたが、今度三好之長が澄元の後見として在京して以来、香西、薬師寺の
非法の下知を用いず、威勢高く振る舞うほどに、これを見た洛中の諸人は我も我もと澄元を崇敬して
三好らに奔走した。これを香西、薬師寺の二人は共に大いに妬み憤って、その確執は日々に重なった。
それよりしてこの者共は、

「あはれ、六郎殿にいかなる事も出来るものか。三好等を滅ぼして、本意を遂げん」と思い巡らせた。
これぞ早くも、大兵乱の根ざしであった。

應仁後記

いわゆる永正の錯乱の前の情勢について



然るに政元は

2020年05月07日 18:23

52 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/06(水) 21:32:50.59 ID:ypGZd1q7
昔、皇胤二流に分かれ、北朝の持明院殿と南朝の大覚寺殿と天下を争いましましけるに、終に北朝一統して
南方は帰服ましましけり。

公方家、近年両派にして、今出川殿(足利義材系)と堀越殿(足利義澄系)と、大樹の位を代謝あり、
また応仁の乱前より、畠山も両派に分かれ、斯波家も二方に立ち並んで合戦互いに止むことなし。
ただ細川家だけは、先祖常久禅門(細川頼之)の遺徳深き故であろうか、今に仁孝を厚くし、一家も
睦まじく、六代まで繁昌して大名高家の手本とも成る家風であった。しかし世は既に澆季に及び、時運
衰微に至ったのか、この時の管領である右京太夫政元は行跡はなはだしく、思慮邪である故に、これも
子孫二流に分かれ、終に兄弟世を争って互いに戦いあった。その始まりは政元の不義無道、先祖の人々の
志を違えた故である。

聴く所によると細川家の先祖と云うは(以下細川氏歴代のの行跡が延々と語られるが略)

…(応仁の乱で)細川方の者共は、軍の仕様は鈍かったが、細川勝元の忠義に効き、御敵となる名を恥じて
一人も主人に叛く者無く、西陣へ降る人は無かった。これを以て莫大の戦功成就して終に勝元・畠山政長は
運を開き領国を失わず、一方山名方の一族は京都にも留まり得ず、散々に成って亡んだ。これはただ、勝元が
忠義を守り先祖の志を崇めていた故なのだ。然るに政元はその子として、亡父の志を引き違え、
上総介(畠山)義豊に一味して畠山政長を討ったのみならず、公方家の御敵と成って将軍の御位を
恣に替え奉ること、主君への不忠、先祖への不孝これに過ぎる物はないと見え、天下の人望に背いているので、
滅亡は近きに有ると、人々は皆囁きあった。

(中略)

細川政元の奢侈は世に超えたものであった。
聞く所によれば、政元は世の人とは違い、行年四十歳の頃まで女人に近寄ることを禁じ、
精進潔斎を繰り返し、魔法飯綱の法、愛宕の法を行い澄まし、経を誦し陀羅尼を呪し、さながら出家山伏の
如くであり、見る人聞く人、皆身の毛をよだてるばかりであった。
そうであるので、男子も女子も無く、家督を継ぐべき者が無かったため、家長(家老)の面々色々に、ただ
この事を諫言した。

應仁後記


細川政元について



53 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/05/07(木) 21:15:52.00 ID:/n7fNnNP
>>52
>この時の管領である右京太夫政元は行跡はなはだしく、思慮邪である故に、これも
子孫二流に分かれ、終に兄弟世を争って互いに戦いあった。

オーソン・ウェルズ「一人足りなくない?(第三の男BGM)」

永正の錯乱

2019年10月26日 20:59

539 名前:1/2[sage] 投稿日:2019/10/26(土) 11:54:57.21 ID:X38jfGoH
京都の管領であるある細川右京太夫政元は四十歳の頃まで女人禁制で魔法飯綱の法、愛宕の法を行い、
さながら出家の如く、山伏の如きであった。
ある時は経を読み陀羅尼を弁じ、見る人身の毛もよだつほどであった。

このような状況であったので、お家相続の子が無く、御内・外様の人々は色々と諌めた。
その頃の公方(足利)義澄の母は、柳原大納言隆光卿の娘であったが、これは今の九条摂政太政大臣
政基の北政所と姉妹であった。つまり公方と九条殿の御子とは従兄弟であり、公家も武家も尊崇した。
この政基公の御末子を政本の養子として御元服あり、公方様の御加冠あり、一字を参らせられ、
細川源九郎澄之と名乗られた。この人はやんごとなき公達であるので、諸大名から公家衆まで皆、
彼に従い奉ったので、彼が後継となった細川家は御繁昌と見えた。そして細川家の領国である丹波国が
与えられ、彼の国へ入部された。

そのような所、細川家の被官で摂州守護代・薬師寺与一一元という人があった。その弟は与ニといい、
兄弟共に無双の勇者であった。彼は淀城に居住して数度の手柄を顕した。
この人は一文字もわからないような愚人であったが、天性正直であり理非分明であったので、細川一家の
輩は皆彼を信頼していた。また先年、細川政元が病に臥せっていた頃、細川家の人々は評定して
阿波国守護である細川慈雲院殿(成之)の子、細川讃岐守之勝(義春)に息男があり、これが器量の人体
であるとして政元の養子と定めることを、この薬師寺を御使として御契約があった。これも公方様より
一字を賜って細川六郎澄元と名乗った。

この時分より、政元は魔法を行われ、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、後には御心も乱れ
現なき事を言い出した。この様ではどうにも悪しき事であると、薬師寺与一と赤沢宗益(朝経)は相談して
六郎澄元を取り立て細川家の家督を相続させ政元を隠居させようと、ここに謀反を起こし、薬師寺与一は
淀城に立て籠もり、赤沢は二百余騎にて伏見竹田に攻め上がった。
しかし永正元年九月の初め、薬師寺与一の舎弟である与ニ(長忠)が政元方の大将となり、兄の籠もる
淀城を攻めた。城内をよく知る与ニの案内が有ったために、城は不日に攻め落とされ、与一は自害することも
出来ず生け捕りにされ京へと上らされたところ、与一はかねて一元寺という寺を船橋に建立しており、
与ニはこの寺にて兄を生害させた。与ニには今回の忠節の賞として桐の御紋を賜り摂津守護代に補任された。
源義朝が父為義を討って任官したのもこれに勝ることはないだろうと、爪弾きに批判する人もあった。
赤沢は色々陳謝したため一命を助けられた。

このような事があり、六郎澄元も阿州より上洛して、父・讃岐守殿(義春)より阿波小笠原氏の惣領である
三好筑前守之長と、高畠与三が共に武勇の達人であったため。補佐の臣として相添えた。

540 名前:2/2[sage] 投稿日:2019/10/26(土) 11:55:20.60 ID:X38jfGoH
薬師寺与ニは改名して三郎左衛門と号し、政元の家中において人もなげに振る舞っていたが、三好が
六郎澄元の後見に上がり、薬師寺の権勢にもまるで恐れないことを安からず思い、香西又六、竹田源七、
新名などといった人々と寄り合い評定をした
「政元はあのように物狂わしい御事度々で、このままでは御家も長久成らぬであろう。しかし六郎澄元殿の
御代となれば三好が権勢を得るであろう。ここは政元を生害し申し、丹波の九郎澄之殿に京兆家を継がせ、
われら各々は天下の権を取ろう。」
そう評議一決し、永正四年六月二十三日、政元はいつもの魔法を行うために御行水を召そうと湯殿に入られた
所を、政元の右筆である戸倉と言う者がかたらわれており、終に生害されたことこそ浅ましい。
この政元の傍に不断に在る、波々伯部という小姓が浴衣を持って参ったが、これも戸倉は切りつけた。
しかし浅手であり後に蘇生し、養生して命を全うした。

この頃政元は、丹波(丹後)の退治のために赤沢宗益を大将として三百余騎を差し向けており、河内高屋
へは摂州衆、大和衆、宗益弟、福王寺、喜島源左衛門、和田源四郎を差し向け、日々の合戦に毎回打ち勝ち、
所々の敵たちは降参していたのだが、政元生害の報を聞くと軍勢は落ち失い、敵のため皆討たれた。

政元暗殺に成功した香西又六は、この次は六郎澄元を討ち申せと、明けて二十四日、薬師寺・香西を
大将として寄せ行き、澄元方の三好・高畠勢と百々橋を隔てて切っ先より火を散らして攻め戦った。
この時政元を暗殺した戸倉が一陣に進んで攻め来たのを、波々伯部これを見て、昨日負傷したが主人の敵を
逃すことは出来ないと、鑓を取ってこれを突き伏せ郎党に首を取らせた。
六郎澄元の御内より奈良修理という者が名乗り出て香西孫六と太刀打ちし、孫六の首を取るも修理も
深手を負い屋形の内へ引き返した。
このように奮戦したものの、六郎澄元の衆は小勢であり、敵に叶うようには見えなかったため、三好・高畠は
澄元に御供し近江へ向けて落ちていった。

この時周防に在った前将軍・足利義材はこの報を聞いて大いに喜び、国々の味方を集め御上洛の準備をした。
中国西国は大方義材御所の味方となったが、安芸の毛利治部少輔(弘元)を始めとして、義材を保護している
大内氏の宗徒の大名の多くは京都の御下知に従っていたため、この人々の元へ京より御教書が下された。

(足利季世記)

永正の錯乱についての記事



541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/10/26(土) 20:58:53.41 ID:04mm58w+
この時の魔法って鬼道とか陰陽師みたいなイメージかな

己は正しく主君の敵である

2018年08月04日 16:50

112 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 13:45:24.58 ID:2hjMYhnQ
永承4年の夏、香西又六郎元長、薬師寺三郎左衛門(長忠)、竹田孫七、新名某などが寄り合って密謀した。

「我らの主君である細川政元は近年物狂わしく、行跡政道粗略である。この人が存命するならば、
当家は必ず滅亡するだろう。また六郎殿(細川澄元)の世とならば、彼に従う三好家は益々権威に誇り、
やがて世を傾けて覆すだろう。であれば、我々は彼らに先立って、政元を弑し奉り、丹波の源九郎御曹司澄之を
細川の家督に立て京兆家を相続して、六郎殿を退け三好党を滅ぼすべきである!」

そう謀反一決し、細川政元の右筆である戸倉という者を語らい置いた。

同六月二十三日、政元は例のごとく愛宕精進潔斎して、沐浴のためとして湯殿へ立ち入った所を、戸倉が
するすると走り寄って政元を刺殺した。時に生年四十二。無残と言うも言葉が足りない。

この時、常々政元の傍を離れず近仕していた波々伯部という小姓の少年が、何も知らず湯帷子を持ってきた所、
戸倉はこれも切りつけた。しかしそれは幸いにも浅手で、後に蘇生して一命を助かり、傷もすぐに癒えた。

さて、細川政元が滅びたことで香西、薬師寺たちは力を得、次は六郎殿(澄元)を討ち取ろうと、同二十四日。
香西又六、同孫六、彦六の兄弟、多勢を引き連れ澄元の館へ押し寄せた。澄元の家臣である三好、高畠といった
人々はこれを予想しており、百々ノ橋を隔てて対峙し、ここを先途と防ぎ戦った。

敵方には政元を殺した戸倉の一陣があり、この部隊が進んできたのを、あの政元の小姓、波々伯部が見つけ
キッと睨んだ

「昨日は負傷させられらが、己は正しく主君の敵である、逃すまじ!」

そう名乗りを上げ散々に突き合い、終に鑓にて戸倉を突き伏せ、その頸を郎党に取らせた。
天晴忠義の若武者かなと、人々はみなこれを褒め称えた。

(應仁後記)



113 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 17:35:27.06 ID:jGmxs8bD
>>112
義朝「湯殿はいいぞー」

薬師寺騒動

2018年08月03日 16:08

4 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 12:59:17.06 ID:wIiR5RyB
薬師寺は細川京兆家被官の中でも歴々の者であり、今の薬師寺与一元一は摂津の守護代で淀城に在し、
その弟与二(長忠)と共に、その頃の名高き勇士であった。度々の合戦で手柄を顕し、忠功は諸人に越えていた。
その中でも薬師寺与一は一文不通にて文才無き者であったが、天性正直で理非に厚い徳が有り、細川一門の
人々は、皆彼を重んじていた。されば、この元一ならばこそ、この年月、細川政元へ様々に諫言し、
終に一門である阿波守護細川家より澄元を養子とさせたのだ、

しかし近年細川政元は、政務を粗略にし、専念して魔法を行い、空の上へ飛び上がり空中に立つなど、
不思議を顕し、後々はうつつ無き事のみを喜び、時々狂乱のごとくとなった。

この有様に元一も、このままでは当家の滅亡は近いと諫言するも及ばず、赤澤宗益入道と相談し、
六郎冠者澄元を家督に取り立て政元は隠居させ、細川家を末長久に治めるべしとすぐに評議一決して、
永正元年九月四日、薬師寺元一は淀城に立て籠もり、同六日、赤澤宗益は京を落ちたが、巷説では
彼もまた多勢を催して淀、鳥羽へと攻め上がるのだという。
かつ又、西岡では土一揆が起こり、これも京へと攻め入った。
このようなわけで洛中では風聞頻りにして人々はみな騒動した。

細川政元はこの事態に驚き、薬師寺元一の弟である薬師寺与二を討ち手として多勢を遣わし淀城を
攻め囲んだ。与二はこの淀城攻めの案内者であり、兄に劣らぬ剛の者であり、彼は淀城へ攻め寄せたが、
城兵も能く防ぎ、同十日、寄せ手の一人、讃岐の守護代である安富某が討ち取られた。

同十四日、西岡の土一揆は散々に打ち負け、その指導者である四ノ宮という父子は淀城へ落ち入った。
そのような中、薬師寺たちが味方と頼んだ前将軍家(足利義材)勢力、細川慈雲院(成之)の阿波細川家、
畠山卜山(尚順) らの後詰めの出勢が遅れ、故に久しく持ちこたえること出来ず、同二十日、終に
淀城は攻め落とされ、四ノ宮父子を始めとして尽く討ち死にした。

城将の薬師寺元一は生け捕りとなり、かくして京勢は帰陣した。
この戦果に細川政元は大いに喜び、大将であった薬師寺与二に「与一は汝の心に任せて腹を切らせろ」と
命じ、与二は「畏まり候」と、兄与一元一を、彼が先年船橋の当たりに菩提寺として建立した一元寺という
寺へ送り、そこで腹を切らせた。

薬師寺与一元一は、最期にこう言った
「私は主君へ野心の企てがあったのではない。ただ細川家が長久にと思い、事を起こしたのだ。
私は一世の間、終に二心を持たなかった。故にその心を名に顕し、与一と言い元一と名乗り、
寺をも一元寺と名付けたのだ。

只今、腹をも一文字に切るべし!」

そう、腹一文字に切って死んだ。生年二十九歳であったという。

(應仁後記)

薬師寺騒動についてのお話



8 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 16:02:51.21 ID:JyAogICI
>>4
魔法に専念すれば空も飛べるのか
普通は滅亡話のフラグとして変な術に凝ってるとか言われるのに
少なくともこのエピソードでは普通に勝ってるしw

9 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 18:22:18.80 ID:DzoYyfFj
花の乱でも政元は魔法の練習してたな

11 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/03(金) 23:16:32.62 ID:sLqMHVzg
>>4
>しかし近年細川政元は、政務を粗略にし、専念して魔法を行い、空の上へ飛び上がり空中に立つなど、

⊂⊃                      ⊂⊃
        ⊂ \        /⊃
          \\ /政ヽ//
   ⊂⊃  ((   \( ^ω^)    ))
            /|    ヘ       空も飛べるはず
          //( ヽノ \\
        ⊂/   ノ>ノ    \⊃
             レレ   スイスーイ   ⊂⊃
           彡
\____________________/

                 (⌒)
                   ̄
                O
               。
          /政ヽ
   ⊂二二二( ^ω^)二⊃
        |    /       ブーン
         ( ヽノ
         ノ>ノ
     三  レレ


13 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 11:18:44.07 ID:DylmrFnz
このAA、春先も貼られてなかったかな

14 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 11:20:41.01 ID:2hjMYhnQ
>>13
きっと細川政元が空を飛ぶ度に

15 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/04(土) 16:54:12.41 ID:ZwjgR1TT
魔法の修行してたのは知ってたけど
普通に飛べるようになってるの草

政元養子の事

2018年08月02日 11:18

2 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/08/02(木) 10:47:04.16 ID:rEFEdP0l

その頃、公方足利義澄卿の御母堂は柳原大納言隆光卿の娘で、今の摂政九条太政大臣政基公の北政所とは
御連枝であった。故に公武の貴賤、おしなべて九条殿を崇敬した。

しかし細川政元は公方家の権を執り驕りを極める余りであろうか、あらぬ心出来て、九条政基公の
御未子の公達を己が養子に申し受け、自分の童名を付け聡明丸と号し、その後今年12月10日、
この聡明丸の元服の時は忝なくも公方御手づから加冠なされて細川源九郎澄之と名乗らせた。

こうして公家武家相共にこの澄之を崇敬しかしずき、九条殿も繁盛した。

古、鎌倉の征夷大将軍頼常卿と申すのは光明峰寺摂政殿(九条道家)の公達であったのを、
武家の上将となした。これも珍しい例であったが、それは右大将頼朝卿の親戚であったからであり、
右大臣実朝公の跡目であったから、軽々な話ではない。しかし、今の澄之はまさしく摂政相国の公達で
あるが、将軍家の執事である細川政元の子として、盛んな事とするのは、末世とは言いながら浅ましい
次第であると批判する人々も多かった。

その後、またどうしたわけか、細川政元は熟考した
「我家は代々公方の管領を相勤め親類も数多ある所に、他家の子を養いて家督を立てるのも
謂れなき所業であり、細川一族の面々も、他家の大名も、これに同心し挙用しないだろう。」
そのように突然考え、かの九郎澄之には丹波国の主語を譲り彼の国へ差し遣わし、永正元年の春頃、
家臣の薬師寺与一郎元一を使いとして阿波国へ差し遣わし、彼の国の一族である細川成之の孫で、
讃岐守義春の子である11歳に成る男子があり、これを養子にしたいと所望した。

成之も義春も細川一族であり、すぐに同意すべきであったが、政元の行跡見届けがたいと感じ、
何事か後難があるのではないかと、様々に辞退したが、薬師寺元一が古今の例を引いて様々に
理を尽くして説得し、漸く成之、義春も同意し、ならば養子に参らせると固く契約した。

政元は喜び直ぐにこの子を元服させた。彼にも公方家より御一字を申し受け、細川六郎冠者澄元と名乗らせ、
未だ若年であるとして、上洛もさせず阿波国の屋形に差し置いていた。

下の屋形とは阿波国の守護所である。昔、常久禅門(細川頼之)は大忠功の人であったため、摂津、丹波、
阿波、讃岐の四ヶ国の守護に任じられた時、自身は在京して管領職を勤め、守護する四ヶ国には一族を置いた。
中でも阿波国には舎弟讃岐守詮春を留め置いて分国の政事を執行させ、これを下の屋形と号した。
そして細川頼之嫡流の管領家を上の屋形と名付けた。現在の義春も詮春の子孫であり、上の屋形に
子無き時は必ず下の屋形より相続するのが筋目であった。

そのような由来がありながら、政元はどうしたことか、身の栄耀に飽き足らず、驕りを極めるあまり、
摂家の貴族を養子にして、ついに一家に二流を作り、後日の災いを招いた。その不遠慮の義、只事ではない。

政元は不忠不孝であったので、すなわち天罰を被って一家は滅亡するのだが、その先触れであったと
考えるべきだろう。

(應仁後記)


細川政元九条政基から澄之を養子にとった件、家格のことで当時から批判があったらしい、というお話


薬師寺元一の乱

2018年03月24日 21:13

623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/23(金) 20:47:41.65 ID:bBDupAtw
京の管領である細川右京太夫政元は、40歳の頃まで女人禁制にて、魔法飯綱の法、
愛宕の法を行い、さながら出家の如く、山伏の如く、ある時は経を読み陀羅尼を弁じ、
見る人身の毛もよだつものであった。

このようであったので、御家相続の子もなく、御内外様の面々より、色々と諌め申し上げた。
その頃、公方足利義澄の母は柳原大納言隆光卿の娘であり、今の九条摂政太政大臣政基の
北の方と姉妹で、九条殿の子と義澄は従兄弟であったので、公家も武家も九条殿の子を
尊崇していた。
そこで九条政基の末の子を政元の養子とし、元服の際、公方様によって加冠され、一字を与えられて
細川源九郎澄之と名乗った。彼はやんごとなき公達であったので、諸大名から公家衆まで、
皆彼に従い、これにて細川家はさらに繁栄すると見えた。そして細川家の所領である
丹波国に参られ彼の国に入部した。

一方で、細川の被官であり摂津守護代であった薬師寺与一元一という人があった。
その弟は与二(長忠)といい、兄弟ともに無双の勇者であった。淀城に居住して数度の手柄を
表した。彼は一文字不通(文字の読み書きができない)の愚人であったが、天性正直にて
理非のはっきりした人物であったので、細川家の人々は皆、彼を尊敬していた。

また過去に政元が病気を患ったとき、細川家の人々は評定して阿波国守護細川之勝(義春)の
子息が器量の人体であったため、これを政元の養子と定め、この事は薬師寺を通して契約された。
彼も公方より一字を頂き、細川六郎澄元と名乗った。

この時分より、政元は魔法を行うようになり、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、
後には御心も乱れ、うつつ無き事を宣うようになった。

この様では何とも良くないと、薬師寺与一は赤澤宗益(朝経)と相談し、六郎澄元を取り立て
家督を相続させ、政元は隠居せしめんとした。これにより謀反を起こし、薬師寺与一は淀城に
立てこもり、赤澤は二百余騎にて伏見竹田口へ攻め上がった。
しかし永正元年九月の初め、与一の弟である薬師寺与二は兄に同意せず、彼が大将となって
淀城を攻めた、与二が案内者であったので、淀城は不日に攻め落とされ、与一は自害も出来ず
生け捕りにされ、京へと輸送された。

かねて薬師寺与一は、一元寺という寺を船橋に建てたのだが、与二は其の寺において、兄与一を
切腹させた。与二には今回の忠節の賞として桐の御紋を賜り、摂津守護代に補任された。
かつて源義朝が、父である為義を討って任官したが、それすらこれには勝らないと、批判する
人もあった。また赤澤は様々に陳謝したため一命を助けられた。

(足利季世記)

主君が魔法使いな事を不安に思って挙兵した、薬師寺元一の乱について



625 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/25(日) 22:01:23.60 ID:IKpyqQxE
>>623
>この時分より、政元は魔法を行うようになり、空に飛び上がり空中に立つなど不思議を顕し、
> 後には御心も乱れ、うつつ無き事を宣うようになった。

⊂⊃                      ⊂⊃
        ⊂ \        /⊃
          \\ /政ヽ//
   ⊂⊃  ((   \( ^ω^)    ))
            /|    ヘ       空も飛べるはず
          //( ヽノ \\
        ⊂/   ノ>ノ    \⊃
             レレ   スイスーイ   ⊂⊃
           彡
\____________________/

                 (⌒)
                   ̄
                O
               。
          /政ヽ
   ⊂二二二( ^ω^)二⊃
        |    /       ブーン
         ( ヽノ
         ノ>ノ
     三  レレ

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/26(月) 23:42:43.20 ID:WS7TdV3k
>>623
なお、童貞のことを魔法使いと呼ぶようになったのはこの故事に由来する
(民明書房刊「戦国魔法使い大全」より)

628 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 00:10:33.93 ID:uQ7lCX9E
民明書房版ウィキペディア
の「魔法使い」の関連項目には細川政元がすでに入ってるのだった

629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 00:23:53.40 ID:4d9A1EEK
でも男はやってたわけやん?
童貞というんか?

630 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 08:11:22.19 ID:6zrOuqmt
男色はノーカンであると弘法大師も言っている

631 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/03/27(火) 16:04:08.23 ID:p77ZQlKn
管領という要職にありながら宗教にはまって妻帯せず
複数養子をとったせいで後継者争いは血で血を洗う始末
家臣もしょっちゅう謀反を起こすし
ほんとひどい奴だよな

上杉謙信

永正の錯乱

2018年02月25日 17:26

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/25(日) 05:53:09.00 ID:oc9UB2Xe
同2年(1505)乙丑夏の頃、六郎澄元の御迎のためとして薬師寺三郎左衛門(長忠)が
御使になり阿波国へ下された。御約束のことなので澄元は御上洛し、

御供には三好筑前守之長、高畠与三などを召し連れなさって御上洛された。京童たちは
これを見て「これこそ細川の2つにならんずるもとぞ」と、ひそひそと申した。

そして政元は九郎殿(細川澄之)へ丹波国を差し上げ、かの国へ下向させ申されたので、
九郎殿はいよいよ無念に思召されたところに、魔の業ではないだろうか、

政元42歳の時、永正4年(1507)丁卯6月23日の夜、御月待の御行水をなさっていた
ところを、御内の侍である福井四郎と竹田孫七新名という者たちが、薬師寺三郎左衛門、
香西又六(元長)兄弟に同心して政元を誅殺し奉った。

そのため都は誰もが「これはさてどうなってゆくとも分からない」と騒ぐことは、中々申し様
もない有様であった。さてこの頃の政元は近国を切り取らんと、赤沢宗益(朝経)を御許し
になって丹後国へ遣わされ、この他に軍兵を相添えなさっていた。

河内国へは摂津上下の国衆を出立させなさって切り取り、大和国へは宗益の弟・福王寺、
また喜島源左衛門、和田源四郎を遣わせて切り取りなさっていた。

ところが、政元御生害のことが風聞したので国々の諸陣は破れ、国々にて大将格の人々
は腹を切って討死した。その数は3千余人と申す。

しかしながらこの企みは薬師寺三郎左衛門と香西兄弟が談合して、丹波にいらっしゃる
九郎殿を御代に立て天下を我等がままに振舞おうとの企みにより、かの3人が相語らい、
政元を誅し申したのである。

同じく六郎澄元をも誅し申すべしと、澄元がおられる御屋形へ明くる24日、薬師寺と香西
は押し寄せて終日に渡り合戦した。両方の手負い死人は数を知らず。

上京の百々橋では、澄元方の奈良修理亮が名乗って香西孫六と渡り合い、太刀打ちして
孫六は討死する。修理亮は手負いて屋形の内へ退いたのだった。その高名の振舞いは、
澄元や筑前守を初めとして感心しない者はいなかった。

合戦が夜に入ったので両方は互いに退き、澄元はここでは叶わないと思召してその夜に
近江の甲賀へ三好筑前守之長の御供で落ち行きなさった。案の定、相手方は九郎殿を
都へ上らせ奉り、細川の家督へ据え申した。

――『細川両家記』


細川の流れが2つになってしまう原因

2018年02月20日 16:23

544 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 04:19:24.31 ID:pTzW/K4q
さても世間の有り様を見聞すると、その道のならぬこと多し。

諸法をもっぱらに行うべき僧形は兵具を帯び、また弓箭を旨とすべき大俗は顕密の
両流に立ち入り、座禅の窓に心掛けている。まことに風変わりな時節である。

さて、この類ここにあり。

細川右京大夫政元と申す人は都の管領の職をお持ちになり、天下の覚え隠れなし。
しかしながら、細川の流れが2つになってしまう原因であったということだ。

40の齢に及ぶまで夫婦の語らいなきゆえ、御子は1人もいらっしゃらなかった。
常には魔法を行って近国他国を動かし、またある時は津々浦々の御船遊びばかり
行っていたのである。

そのため家子や老衆は詫言し、ある時に皆々相談して、かたじけなくも九条関白殿
の末の御子(細川澄之)を申し受けなさり養子となし奉った。すなわち政元の幼名と

同じく聡明殿と申した。光陰を送り程なく御成人され、御元服されて九郎殿と号し、
皆々深く慕い申し上げた。さて政元は何と思召されたのか、御心中は相変わって、

「よくよく物事を考えると、我が家は一門中の誰かが持たなければ良くないであろう」
と思し召した。阿波国に住みなさる細川讃岐守(成之)は御出家なさって慈雲院殿と
申し、この御孫に六郎澄元という人がいた。

政元は「この人を養子にして我が家を譲りたいものだ」と思し召し、摂津国守護代の
薬師寺与一元一を御使にして阿波国へ差し下した。与一はたいそう畏まって兵庫の
浦より船に乗り、絵島明石を打ち眺め、鳴門の渡りを漕ぎ過ぎて阿波国へ到着した。

慈雲院殿へこの由を申し上げると、入道殿は聞こし召して「どうしたものか」と、暫く
御思案されたが、与一は武略を巡らせて漢家本朝の例を色々と申されたので、

斟酌ながら御了承されたため、与一は御返事を頂き、時の面目を施して都へ上った。
この由を申し上げると、政元は御悦びになること限りなし。

――『細川両家記』



545 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 11:21:32.09 ID:/W40+KPc
あれ?一人足りないぞ?

546 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 13:54:30.42 ID:QeNsa6BB
俺のことか!

547 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/20(火) 23:20:28.14 ID:jlZaj6kt
???「なんか足んねぇんだよなぁ」

明応二年四月二十八日の怪異

2016年06月16日 12:26

722 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 21:08:19.93 ID:0Q9E5mRm
明応2年(1493)4月22日、明応の政変が起こり、将軍足利義材が細川政元によって廃され、義澄が新将軍となった。

4月28日、新将軍義澄が細川政元の邸を将軍御所として移った事を祝う宴が行われ、それが終わり人々退出し、
四半時ほども経った頃である。

大館尚氏がこの屋敷から出て半町ほど過ぎた頃、退去した屋敷の方から、数百人が騒ぐような声を
尚氏とその供の者達全員が聞いた。しかし程なく、そのまま静かになった。
ところがこの騒ぎの中、尚氏の被官である松本蔵人という者が、主人の太刀を預かっていながら
忽然と姿を消した。

翌日、尚氏は人を出して方々を探させた所、松本蔵人は京の外れの野の中にある、小さな庵で
発見された。何故こんな所にいるのか尋ねたが、松本は「鞍馬の僧正が、谷に所用がある」と言い捨て
出て行ってしまった。探索の者達は松本の後を追い捉えると、松本は

「僧正は谷まで行ってまた戻ってきたが、その時、桐の小枝を持っていた。彼はそれを指し示し
『これは枝が枯れている。細川家に難儀が降りかかるであろう。』と言った。」

そう語った。

この後、松本蔵人は京に連れ戻されたが、一向に正気を取り戻さなかった。これらはすべて天狗の所業であると
言われた。

(後法興院記)



723 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 21:19:44.81 ID:ZSZT4DHF
>>722
わけわからんwそりゃ天狗のせいにするわ

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 22:29:25.01 ID:ktDOEWmB
京兆家では良くある事

725 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 22:29:32.40 ID:3H7wGKyS
細川政元→飯綱の法→飯綱三郎天狗→八天狗→鞍馬山僧正坊


なんとなく話は繋がってる

726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/15(水) 23:47:26.13 ID:rHhvGcTa

     )、._人_人__,.イ.、._人_人_人
   <´ 天狗じゃ、天狗の仕業じゃ! >
    ⌒ v'⌒ヽr -、_  ,r v'⌒ヽr ' ⌒
// // ///:: <   _,ノ`' 、ヽ、_ ノ  ;;;ヽ  //
///// /::::   (y○')`ヽ) ( ´(y○')    ;;|  /
// //,|:::     ( ( /    ヽ) )+     ;| /
/ // |:::     +  ) )|~ ̄ ̄~.|( (       ;;;|// ////
/// :|::       ( (||||! i: |||! !| |) )      ;;;|// ///
////|::::    +   U | |||| !! !!||| :U   ;;; ;;;| ///
////|:::::       | |!!||l ll|| !! !!| |    ;;;;;;| ////
// / ヽ:::::       | ! || | ||!!|    ;;;;;;/// //
// // ゝ:::::::: :   | `ー-----' |__////
          松本蔵人

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/06/16(木) 00:17:28.80 ID:/6VPyBFD
>>726のAAが出てきて一安心

明応2年閏4月。このごろ怪鳥が出没し

2012年06月30日 21:00

241 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 01:39:19.44 ID:nurx7Nrg
明応2年閏4月。
このごろ怪鳥が出没し、細川政元の家人がそれを図にした。

陰涼軒日録には次のように記されている。

「世間に化鳥あり」という話を聞いた。
その頭は馬、尾は蛇、蹄は牛のようであり、「無常引導骨積天」という鳴き声を上げるそうだ。
その図は右京兆屋形(細川政元邸)より出でて、天竜寺に在るという。

また、昨日20日、右京兆屋形の辺りで羊角風(つむじ風)が大いに吹き荒れ、人々を驚かせた。
その羊角風の中には鳶が居て、火を纏って飛行していたという。
(後鑑)

よ、呼び出してしまったのですか・・・ 管領様・・・。




242 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 01:44:00.74 ID:5eQHhM/Q
右京兆様の逸話独特の禍々しさは何なんだろうなw

243 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 05:09:04.41 ID:sP8V6lEQ
さすがや!!

244 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 08:34:45.33 ID:A6gePg3A
ま~た半将軍が召喚したんか

245 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 10:09:35.19 ID:AW0Zc9N9
この前湘南に現れたアザラシみたいに
珍しい動物が中世に出現したら漏れなく妖怪認定されるのかな・・・

246 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 10:12:52.32 ID:NvhdMRCN
権現様が駿府城で見たという肉人の正体はなんだったのか

247 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 10:14:23.52 ID:k9LnvroQ
本物の徳川家康

248 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 12:15:15.30 ID:jEcZJefm
>245、大王イカのゆるくなってるのとかだとまずそうなるだろうね・・・


249 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 12:28:24.78 ID:3zG53xIi
ダイオウイカは同時期の西洋でも魔物認定されてたな

250 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 12:43:34.97 ID:NvhdMRCN
クラーケンも北斎にかかればhentaiに


260 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/06/30(土) 23:58:23.92 ID:rEKRKzUO
>>246
妖怪「でびっどはっせるほふ」ぢゃ

将軍・細川政元を憚る

2012年04月05日 21:43

556 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/04/05(木) 12:47:15.27 ID:RLW00KF+
永正3年(1506年)7月、細川政元の武将赤沢朝経は奈良において大規模な荘園の横領を行う。
これを恐れた興福寺は28日、関白九条尚経に、これを止めさせるよう訴え、尚経は天皇を動かし、
勅諚をもって将軍足利義澄に、赤沢朝経を京に召喚するように命じた。ところが…

『8月1日、一昨日の申し渡しについてだが、大樹(将軍)は細川京兆(政元)にその事を伝えていないらしい。
もし伝えて、それを政元が聞き受け無い場合が不安だから、という理由だという。
勅答に対して全く不誠実な態度、天魔の所業、言語道断とはこの事である!』
(尚経公記)


”半将軍”細川政元に対し、将軍すらこれほど憚っていた、という記録である。



応仁の乱後の、京の治安

2011年11月17日 22:09

26 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/17(木) 13:03:06.86 ID:+HAiG0aj
応仁の乱以来、非常に治安が悪化したとされる京。その模様を「陰涼軒日録」の延徳元年(1489)の記事より
見てみましょう。


・5月3日
数日前上野玄蕃頭殿が盗人を誅したそうだ。
この者は延念寺の前で傘張りを営んでいたのだが、実は夜盗の頭目だったそうだ。
玄蕃殿は昼間、この家の傘張りを見張っていた。
彼らを捕えるため兵士たちが派遣されたが、この傘張りはこれを見て逃げ出そうとした。
そこで玄蕃殿は素早くこれを斬り、その妻を捕え盗賊の仲間について尋問した。
盗賊の仲間は70人にも及んだという。

・6月12日
上乗院に夜盗が入ったそうだ。その日寺では外で公事の事があり、盗賊の入った時間には
未だそれが終わっておらず、そのため寺に帰って居なかったと言う。

ところで今日の申の刻(午後4時頃)、”天下の夜盗の長”と呼ばれた小河四郎左衛門が、
細川政元の家臣、物部神六(上原元秀)の邸宅で討ち取られたそうだ。
討ち取ったのは神六の被官であったという。

この小河四郎左衛門は応仁の大乱中、浦上美作守(則宗)の被官であった。
これを聞いて洛中は、これに過ぎることが無いほどの歓喜に湧いた。

・6月13日
聞いた話によると先月のはじめごろ、匿名の何者かが京兆(細川政元)の寝所に巻物を投げ込んだそうだ。
そこには、洛中に盗賊が出没していること、その悪事について詳しく記され、「これらを成敗しなければ、
ご当家も滅亡してしまうでしょう」と書かれていたそうだ。

細川政元はこれを家臣の杉原に8枚写させ、波賀部兵庫助(波々伯部盛郷)を召してこれを読ませた。
このために最近は政道謹厳になっているということである。


応仁の乱後の、京の状況についての記録である。





27 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/11/17(木) 18:32:57.02 ID:VPl5Mdad
鬼平犯科帳を見たくなって来た

細川政元私邸の怪異

2011年09月30日 22:04

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 00:53:27.11 ID:jUa+jXr/
長享2年(1487)7月7日の事

細川政元の私邸の庭の池の上に、何者かが浮かんでいた。
よく見るとそれは、何と人の頚であった。

その色は白く、不思議なことに近くからは見えないが、離れると見えたのだという。
全くもって妖怪であった。

この事について、細川家の安否に関わる予兆であろうか、と囁かれた。
また他にも、最近世の中に風狂の相が現れていることもあり、何か不吉なことが起こる
兆候ではないか、とも言われた
(蔭涼軒日録)

ちなみに7月14日にも政元の邸宅に再び様々の怪異があり(親長卿記)、
8月15日にも禍々しいものが現れたと記録されている(大乗院寺社雑事記)


奇怪にもほどがある魔法半将軍様の私邸についてのお話





138 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 05:58:37.07 ID:we/YdPxc
後のけ…凶兆家である

139 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 09:15:27.89 ID:Adb7yLi8
後に騒がれる人面魚…である?

140 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 13:25:05.32 ID:N38zTaFQ
見えたり見えなかったりするシュレディンガーの首である

141 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 13:36:37.27 ID:lSDcbpOm
怪異があっても細川家は21世紀まで続いているんだから
実はたいした意味はなかったんじゃね?

142 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/09/30(金) 13:51:10.67 ID:KFTD2Wxc
残ったと言っても半将軍から東北の一陪臣だからご利益十分じゃね

今日は細川政元の誕生日

2010年12月21日 00:00

108 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/12/20(月) 17:50:35 ID:Bz+orXp5
今日は天狗になろうとした管領・細川政元の誕生日らしいので彼にまつわる話を。

細川政元は八幡神と愛宕の観音の申し子、更には聖徳太子の化身である。

元々は政元の父である細川勝元が臨終の際、秋庭備中守元明に語った話だ。
曰く、
「私が死んでも九郎(政元)がいるので心配はいらない。
なぜならあの子は愛宕の観音に祈願した日の明け方、あの子の母の夢枕に聖徳太子が立たれ
「我は聖徳太子である」と仰せになって口の中に飛び込まれた夜から七日目に授けられた子だからだ。
故に必ず威勢があるだろう」
そう、密かに語られたそうだ。

また、蓮如上人が弟子に語った話がある。

曰く、
細川政元殿のことを、人々はみな、聖徳太子の化身と申している。
というのは、政元殿は、愛宕の観音と八幡神とに祈請して授かった子であるからだ。
その九郎政元殿が十二の年に、一宮大輔が九郎殿を奪って丹波へ下ったことがあった。
その夜の明け方の夢に、愛宕の観音よりの歌で、

 君が代を 久しかれとぞ 祈りける 念彼観音の 力にまかせて
(君が代が久しく続け 観音菩薩にそのように祈り託するばかりである。)

とあり、九郎殿は夢に返歌をされて、

 白妙の 雪は積もれど 八幡山 ゆくへ久しく 神にまかせん
(真白な雪がたとえ八幡山(男山八幡)に降り積もったとしても、我が代の行方は遠い将来まで、
神の御意向にお任せすることにしたい。)

と詠まれた。そのような不思議なお方であった」

これらの話から、特に本願寺では細川政元は聖徳太子の化身、観音と八幡の申し子と言われていたらしい。
出典は『蓮如上人行實』所収「空善聞書」。
何故か政元の出生に関して第四四条、第九三条と二度語られている。
細川勝元・政元親子の信仰心の篤さを語る話でもあるが、後々の政元の愛宕信仰の結果を考えると
ちょっと悪い話かもしれない。




細川政元は変なことを言い出した

2009年11月27日 00:02

677 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 15:24:46 ID:rx4PgaG3
 細川は応仁の乱では没落してないよ。

 守護大名にありがちなお家争いもなく四国をがっちり支配、勝元の子・政元は
幕府権力を独占してむしろ強くなってる(幕府自体が小さく、弱くなったから強いとは言えないかも)

そのままやってればいいのに、政元は変なことを言い出した。
「俺、魔法使いになる」

断食したり、とびあがったり、やおら真言を叫んだりと奇行をするようになった。
政務を怠ったわけではないが、その影響は政元が死ぬと現れた。

「女とすると魔法が使えなくなるのか。じゃぁ俺生涯童貞!」
といっていたからだ。

さあー、四国にも戦国時代がやってきた。
政元の後継者の座をめぐり、南北朝以来四国を支配し強い団結力を示した細川家も
分裂と凋落の時。

その後は家宰の三好、さらにその家中の松永が台頭するのはご存知のとおり。




678 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 15:27:06 ID:rx4PgaG3
すまん、悪い話スレに書くべきだった

679 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 16:47:19 ID:LEXgusa9
そういえばその伝説は戦国時代からの伝統だったなw

細川政元「魔法使いに俺はなる!」
上杉謙信「毘沙門天に俺はなる!」

北条氏照「そんな二人に憧れたら嫁がキレました」

680 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 16:50:49 ID:7FiLlgLs
実はリアルに、「上杉謙信は細川政元の影響を受けている」って説があるなw


681 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 17:12:39 ID:Fiq7Ik2Y
謙信は戦に勝つ魔法が使えたわけだが、政元はなんの魔法が使えたんだろう?

682 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 17:13:58 ID:sPvveicN
細川政元が信仰したのが愛宕権現の飯綱法で、謙信も愛宕権現を
信仰していた可能性があるんだっけか?

あと>677 の説明は、「女とヤらずに子供が出来なかったから養子を取り捲った結果、
政元死後に分裂した」
の解説の一文が欲しいな。

ちなみに、政元死後から信長による将軍義昭追放まで、畿内での戦争の根本原因は、
この分裂した政元の養子たちによる相続争いまで遡れる。
ほんっとハタ迷惑なことしたもんだ。

683 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 17:21:15 ID:b7Qr5cQ7
それでいて本人は優秀なものだから余計にたちが悪い

684 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 17:24:15 ID:7FiLlgLs
>>681
実は政元も戦争はかなり強かったし、配下の武将も強者ぞろいだった。
ただ異常に気分のむらの激しい人だったが。

あと、政元暗殺の後の京兆家分裂は実は、養子の澄之と澄元の戦いの結果、
澄元の勝利で一旦は収束したんだが、分家であり、澄元の勝利に非常に
大きな役割を果たした野州家の細川高国が突然

「実は俺政元様の養子だったんだよ!」
「ナ、ナンダッテー!?」

って、京兆家の家督を宣言して、これで畿内がしっちゃかめっちゃかになった。

ちなみに謙信の父親の長尾為景は、この高国のバックアップで
越後支配が出来た。
高国さんはこの為景に限らず、全国いろんなところに手を出して
戦国の混乱が深化する手助けをしてたw

685 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 17:46:17 ID:LEXgusa9
>>681
なんか「空も飛べるはず」って言って屋形の屋根から飛んでたらしい
魔法使いだし飛べたかもな

686 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 17:51:10 ID:uYeCOPoN
⊂⊃                      ⊂⊃
        ⊂ \        /⊃
          \\ /政ヽ//
   ⊂⊃  ((   \( ^ω^)    ))
            /|    ヘ       空も飛べるはず
          //( ヽノ \\
        ⊂/   ノ>ノ    \⊃
             レレ   スイスーイ   ⊂⊃
           彡
\____________________/

                 (⌒)
                   ̄
                O
               。
          /政ヽ
   ⊂二二二( ^ω^)二⊃
        |    /       ブーン
         ( ヽノ
         ノ>ノ
     三  レレ


688 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 17:56:48 ID:Nr24p3OJ
政元さん未来に生きてんな

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 18:38:50 ID:pifZ1gKr
>>684
高国さんの行動力は凄いよね。良いか悪いかはともかく・・・

690 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/11/26(木) 19:01:38 ID:6xDQyVQp
花の乱での勝元って
山名宗全が死んだあとの勝元の最後の描写では死なずに、
なにかを悟ったのような表情をしたあとに、
ゆっくり目を閉じてあぐらをかいたまま宙に浮かんで解脱したのか?
いきなりこの世から消えたよねw
野村万斎の演技力すげぇ。

691 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 20:31:11 ID:onk/wupr
>>682
直江兼継の愛の前立も愛宕権現の愛じゃないかって話があったけど
そういう事情があったんだね。

692 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 20:37:44 ID:PWxql8Iv
愛染明王よりもらしいよね

693 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/26(木) 20:42:45 ID:7FiLlgLs
あの愛の兜は、もともと景勝の所有していたものを、直江に
下賜されたものらしいそうで。
そう言う意味では愛宕権現のほうがそれらしいだろうね。

[ 続きを読む ]

徳政一揆の首領と阿波細川家、細川政之・悪い話

2009年01月03日 00:06

879 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/02(金) 17:13:50 ID:OI+KgOFr
盗人猛々しく

応仁の乱の終わった頃の京都。

ここでは、長引いた戦乱からの復興もままならぬまま、徳政一揆と称する、ゴロツキの集団
による略奪騒ぎが相次いだ。
これに業を煮やした幕府は、細川政元、一色義直、所司代多賀高忠の連合軍を編成、
一揆の大将、三好之長へ攻撃を行った。

しかし、それを察した之長は、一足先に阿波細川家、細川政之の屋敷に逃げ込んだ。
そう、この土一揆の大将、なんと阿波細川家の被官だったのだ。
当然引渡しを要求する幕府軍。が、この細川政之

「徳政一揆を行っているのは我が被官だけではない!京兆家や備中細川家の被官も
それに参加しているではないか。彼らを処刑するというのなら、こちらも三好を処刑しましょう。」

そう言って、之長をかたくなに引き渡そうとしない。
幕府軍は大軍である、この屋敷を攻め取るのは容易であっただろう。だが、そうはいかない。

大名の屋敷とは、現代の大使館のように、独立した法圏であり、幕府であっても簡単に介入することは
許されないのだ。そしてそのことが解っているからこそ、細川政之はこれほど強い態度に出るし、
三好之長もまた、主家の館に逃げ込んだのだ。

この態度に幕府軍はなすすべがなく、結局、仕方なくその場を撤収せざるを得なかった。

その同じ日の晩にはもう、平気な顔で京の街を歩き回っている、三好之長の姿が、諸方で
目撃されたという。

ちなみにこの三好之長、かの三好長慶の曽祖父に当たる。



884 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/03(土) 03:20:39 ID:ZaxjalTg
>>879
そりゃあ酒屋も有力守護や幕臣の被官になるわけだ……

(第二次大戦)戦後も京都で「前(さき)の大戦」といえば応仁の乱のことだったりして。
当時は世ン中荒れ放題、ボヤボヤしてっと後ろからバッサリだったんですな~

885 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/03(土) 05:44:02 ID:Qnu7Nug1
幕臣ガーかw

886 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/03(土) 09:48:18 ID:tt0MEuIC
>>884
京都の人間に聞いたところ、『「前(さき)の大戦」といえば応仁の乱』は京都人を貶めるための大阪人のデマらしい。
本当のところは、『「前(さき)の大戦」といえば禁門の変』らしい。

887 名前:人間七七四年[] 投稿日:2009/01/03(土) 09:56:30 ID:/gqYNJVm
細川元総理がギャグで応仁の乱って言ってたぞ

888 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/03(土) 10:32:47 ID:YUN/8JhH
あの人は熊本人じゃね?

889 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/03(土) 10:36:03 ID:qLsNUEZV
細川藤孝のころの話だったり

890 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/03(土) 10:40:22 ID:ZaxjalTg
>>885バクーフっすから、マジっすよね(

>>886アッー!
薩摩とちょーしゅーのいや~んな喧嘩を忘れていたわ・・御所を巻き込むなよ勤皇だろがきさんら('A`)

しかしリアルタイム幕末じゃ京の町童に評判悪かった会津保科家(松平ね)や壬生の新撰組に同情的な人もけっこう増えたような?

薬師寺元一、一の美学・いい話

2008年12月21日 00:05

416 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/20(土) 16:37:55 ID:GpaOE1Gt
一の美学

細川政元の家臣、薬師寺元長の甥が薬師寺家を相続し、摂津守護代となった。

この武将は「一の字」を無類に好み、薬師寺与一元一と名乗った。

与一は永正一年に主君・細川政元に謀反するも失敗し、自ら建立した一元寺にて
一文字に腹をかき切り、己の美学を全うした。

与一の最期の言葉は、
「皆々様がご存知の如く、我は一文字好みにて名も与一、名乗りも元一、この寺
も一元寺と名付けたり。されば腹をも一文字に切るべし。」

(細川両家記)




417 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/20(土) 16:39:16 ID:ax0FLUBI
仕えて二番手以下の立場にあるのを潔しとせず一なる立場を目指して謀反したのだな

418 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/20(土) 16:44:19 ID:N+4RJg9E
>>416
薬師寺さんに限らず、政元の家臣団はめちゃめちゃ個性的で面白いよね。

419 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/20(土) 16:48:29 ID:a9kBK4Ya
いつの時代も人材マニアはいるのかw

420 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/20(土) 18:03:05 ID:58xsIlZl
>>418
政元も十分に個性的だがw

421 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/20(土) 18:05:33 ID:N+4RJg9E
>>420
確かに。つーか政元に比べたら、信長や謙信もキャラが薄いなw
逸話的には悪い話系のほうが多いが。

422 名前:416[sage] 投稿日:2008/12/20(土) 19:02:21 ID:GpaOE1Gt
与一の辞世の句
「地獄には よき我が主(若衆)のあるやとて 
   今日おもひたつ 旅衣かな」

死ぬときまで政元の男色を揶揄しとるなwww

423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/20(土) 19:12:24 ID:N+4RJg9E
>>422
「あんたが子供作らないからー!」って気持ちもあったんでしょうなw