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『唐の頭に~』について

2023年05月17日 19:47

759 名前:人間七七四年[] 投稿日:2023/05/17(水) 11:52:46.46 ID:qnzlWpsu
まとめサイト過去ログ
唐の頭に本多平八
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-12224.html

まとめの過去分にもあるように『甲陽軍鑑』で、三方ヶ原合戦(の前哨戦の一言坂の戦)で、徳川方の多くが舶来品の
唐の頭(ヤク毛飾り)を甲冑に付けて戦い、中でも本多忠勝が勇戦したことで、小杉右近助という信玄近習が
「家康に過ぎたる物が二ツあり 唐の頭に本多平八」と詠んで坂に立てて称賛したという。

とした話が有名ですが、小杉左近(右近助)は実在が疑われる人物でこの逸話も信憑性が疑われていました。

『大日本近世史料「細川家史料二」』に、元和八年(1622)より寛永四年(1627)までの、細川忠興より忠利宛て書簡が編纂されています。
この中の寛永四年分に以下の内容があって、現在は「信其」という人物が実際に詠んだ作者ではないかとみられているようです。
信其の詳細は不明。

「信其ノ日々記、今朝よそより帰候て只今帋(かみ、紙と同意字)一二枚見申候、事ノ外数多キ事候間、奥まて見候事成ましき間返申候、
此内ニ本田(ママ)中書之若時ノ事ヲ、信其唐ノ頭ニ本田平八とうたニよまれ候由申傳候、御入候哉可承候、」



東京大学史料編纂所  『大日本近世史料「細川家史料二」』
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/5/pub_kinsei-hosokawa-02/



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我、若年より大君の御近習に侍り

2021年09月02日 18:23

475 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/01(水) 20:57:04.11 ID:OeDTsDxd
「我、若年より大君の御近習に侍り、幸ひに御心に合いて、隙なく相勤るを以て学問などするに暇なし。
文盲至極なりといへども、大君の金言を不断承りたれば、家を斉へ国を治る事、少しは心得たるやうなり。
大君天下を知召(しろしめす)に至って、我等も御慈意の御恵みにて、大身となし給ふ。
如レ斯御厚恩なれば、子孫の汝等忘れ奉らざるやうにと存じ、則承り覚たる所の御意※に、
大より小に至るまで先ず心得べき事あり」

 ※御意に 東大本ではこの所「御意を記して汝等に残し置所なり。能々一句々を守りて忘るべからず。
      大君の御意に」とある。

476 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/01(水) 21:12:49.18 ID:OeDTsDxd
「第一に、人としての恩を知らずんば人にあらずという事は、誰も誰もいふ事也。
然れども是に近道のある事を知らず。主を主とし親を親とすといふ事は、いかなる愚鈍なる主にても
無理なる親にても、やれいとしや、やれ笑止やと育てゝ、如何にもして主は主の道を立、親は親の道を
立てるやうに、寝ても起きても思ふが第一の事なり。
扨、左様に思ふに付ては、己が身持ちをたしなまずしてはならざる事は、勿論其中にあるなり。
一旦の欲心にて、莫大の恩を忘れ、おのれおのれが身を立る心にては、何とかしか我心を知って守らんや。
この心よりおこれば、譏(そし)るにも叱るにも皆欲心なり。此心を弁えざれば、褒めるもいとしがるもみな
己が欲心なりといふ事を知るべし。能々(よくよく)こゝを弁え、深く味わふべき事なり。」



権現様依仰 忠勝様御宗旨御改被遊候事

2021年07月05日 18:12

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/05(月) 01:38:30.42 ID:qTe29Ja5
権現様依仰 忠勝様御宗旨御改被遊候事

永禄5年之頃

権現様参州一向寺一揆乱逆の佐崎・野寺・針崎3ヶ寺破布遊さるべく思し召される由。
この時、御譜代の御歴々過半が宗門に属して御敵対。本多佐渡守殿(正信)、その時
は弥八郎殿と申して一揆の頭をなされて御敵対であったとの由。

この故に権現様にも御難儀遊ばされたが、忠勝様(本多忠勝)は少しも御別心なく御
味方にて御忠戦遊ばさる。忠勝様は御両親様より一向宗であったが、その節に浄土宗
に改められよとの上意に付き、御宗旨を御改め遊ばされたとの由。

――『忠勝公御武功其外聞書』



槍下手の本多平八郎も面白し

2021年05月21日 16:58

744 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 13:13:57.45 ID:5HKrj848
本多家の譜代の士、小野某の家の記録に云う、

(本多)忠勝様は世に名高き蜻蛉切の槍にて数十度と功名、天下にその聞こえあれど、
槍術は至ってお下手なり。ご隠居後、桑名にて家中の若侍相手に槍の試合をなさる。いつも
入身をなさるに、殊の外拙にて、まだろくろく修行も積まぬ若者にも突かるる事あり。
ある時入身を突きたまうに、槍先不器用にて一向に利かず、遂にその時も負けたまう。

林氏の物語に
『忠朝様、表書院にて槍の師匠と頻りに稽古をなされ候。そこへ忠勝様御出なされ、かの者は
いずれの者なるや、家中には見覚えぬ顔なりと仰せらる。その者平伏して居れば、傍らより
忠朝様、これは槍の指南仕り候、何某と申す者にて、信州の浪人に御座候、と申し上げる。

槍の指南なら拙者相手なるべしと仰せらるる。世に名高き忠勝様の御事故、槍の師匠も遠慮致して
御相手を致さず。「是非立ち会い候へ」とひたもの御勧めにて、「少しも遠慮なく突き候へ」と
仰せられ、御立ち会いなされたるに、最初は互角の槍と見え候ところ、忽ち忠勝様胸を突かれ、
続いて槍をはね飛ばされ、尻もちをつきたまふ。

大いにご立腹して、「ヤア誰かある、蜻蛉切をもて参れ」と呼びたまふ。師匠吃驚したり、はや
逃げ出し候事に御座候』

とあり。槍下手の本多平八郎も面白し。

また信州の保科弾正(正俊)は、世に槍弾正と呼ばれ、戦場にてはこの人の槍先に向かう者、
必ず斃れずという事なし。然るに家中の者を集めて稽古するに、いつも勝ちたる事なし。
稽古は至極拙なりと承り候と、『長谷川運平筆記』にあり。
実地の事は全く別なりと知るべし。
道場で叩き合う剣術、槍術すべて華法なれば、実地に臨んでは何に役にも立たぬものなり。

伝説研究・歴史之謎



745 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/21(金) 20:32:13.92 ID:ZuSEJof4
>>744
可児才蔵には宝蔵院流槍術を学んだばかりの頃はむしろ槍が上手く使えなくなったって言う話があったかな。
道場の教えが本当に実地では役に立たないのか合わなかったのか?何なんだろね

746 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 21:44:39.04 ID:k7YOddEN
稲富「稽古で下手なのに実地で上手く出来るのかな?」

747 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 21:56:18.10 ID:+qedGPpg
>>744
こういう話はよく聞く。
戦国武将からは外れるけど新選組の近藤勇、
道場ではどっちかてえと不器用な竹刀捌きだったそうだが実戦では滅法強かった。

748 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 22:08:34.33 ID:BMBwzAZo
>>745
才蔵の場合は無手勝流の時は怖いものなしでガンガン突っ込んでいけたけど
なまじある程度槍を習ったら恐怖を感じ取れるようになってびびっちゃった
って事だったような

道場の教えが実戦で役に立つとか立たないという単純な話ではなく
個人戦と集団戦では強みが違ってくるという事だろう

749 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 22:16:41.06 ID:i6H2cVOe
>>747
どっちかっていうと、天然理心流は柔術や他の武具術も含めた総合的な体系だからじゃねえかな。
竹刀だけに特化した剣術家と竹刀で試合したら、そら分が悪い。

総合格闘技の選手とプロボクサーを国際式ボクシングルールで試合させるようなもん

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/21(金) 22:53:40.71 ID:By0VHP+h
>>749
なるほど。
良い喩えで解り易い。ありがとう。
本多忠勝の件も何かその辺のことがあるのかな。

751 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/05/22(土) 15:59:31.94 ID:YXS2jksv
加藤清正が吉岡憲法に全く勝てなかったが、実戦では違うと槍甲冑を持ちだしたら、恐れ入ったように
憲法が振る舞ったって話はどこで聞いたんだっけかな

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/22(土) 20:22:30.66 ID:/PHcjahT
黒田家家臣、野口一成の槍術・いい話
の逸話でもあるけど
ゴッツイ籠手付けて左手で敵の攻撃を受け止めて
頑丈で切っ先だけ鋭い太刀で突き殺すなんて戦法
こんなの剣術的には大問題だけど
戦場じゃ有効だった訳だしな

中務は小姓共ばかりにて

2021年04月03日 17:49

71 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/04/03(土) 15:55:34.81 ID:4Y2Pco0n
関ヶ原の合戦の時、本多中務大輔(忠勝)は、馬に鉄砲があたり、下り立って石に腰を掛けて
いたところ、兵部(井伊直政)家来の木俣清左衛門と申す者が馬にて通った。ここでは馬を
お貸しするべきだったのに、貸さなかったという。

中務は押合いのための雑兵も、四百に足らぬ人数であったという。
本多家の能き者共は美濃守(本多忠政)に付けられ、秀忠公のお供に参っていたため、中務は
小姓共ばかりにて天下分け目の御合戦の先駆けを致されたという。

慶長年中卜齋記



唐の頭に本多平八

2019年11月06日 17:21

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/06(水) 07:09:48.92 ID:gResndio
元亀三年十月中旬に、武田信玄の将・山縣三郎兵衛(昌景)は信州伊那へ打越、そこから東三河に出て、
武田信玄の遠州表への出陣についての準備をし、また現地の徳川勢との競り合いなどがあった。

信玄が十月中旬に甲府を立つと、遠州のたたら、飯田の両城たちまち落ちて御仕置があった。
乾の天野宮内右衛門に遠州定番の事、良きように申し付け、久野の城を御見回りの時、徳川家康
主要な侍大将たちが三ヶ野で太田川を渡って、四千の人数で打ち出てきた。

信玄は「あれを逃さぬように討ち取れ」と仰せになったが、徳川勢はこれが信玄の軍勢と知ると
引き上げ始めた。甲州武田勢は撤退を許さぬとこれを食い止めようとした。徳川勢に武田軍が迫ろうと
した時、家康の侍大将である内藤三左衛門(信成)はこのように言った

「家康様の八千の総人数の内五千がここまで出ている。そしてこのまま、武田信玄という名大将の、
しかも三万余の大軍と、家康様が出てこないうちに戦ってしまえば、敗北は必定である。
そしてここで負けこの軍勢が討ち取られてしまえば、家康様御手前のみの勢にてどうやって信玄と
合戦するというのか。ここは先ずもって引き取り浜松へ帰り、重ねて一戦を遂げたなら、その時はまた
信長様の御加勢もあるだろうから、それを付けて三河武者八千を以て無二の防戦を遂げる事が出来るだろう。」

しかしながら徳川勢の撤退については、既に武田勢が接近しすぎており、三左衛門の言うようにするのは
無理であると皆は申した。

ここで本多平八郎(忠勝)、この時二十五歳であったが、彼は家康の下で度々の誉れがあり、内々に
武田家でも名の聞こえりようになった武士であった。

平八郎は兜に黒い鹿の角を立て身命を惜しまず敵味方の間に乗り入れて、無事徳川勢を引き上げさせたので
ある。その様子は甲州にて昔の足軽大将、原美濃守(虎胤)、横田備中(高松)、小幡山城(虎盛)、
多田淡路(三八郎)、山本勘助、これら五人以来武田家に於いても多く見ることは出来ないものであり、
家康の小身の家に似合わぬ平八郎であった。

その上三河武者は、十人の内七、八人は唐の頭をかけて出ていた。これも過ぎたるものであると、
小杉右近助という信玄公旗本の近習が歌に詠み坂にこれを立てた、その歌は

『家康に 過ぎたる物は二ツある 唐の頭に本多平八』

(甲陽軍鑑)



316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/11/06(水) 12:54:26.21 ID:AkN9Xad1
なるほど唐の頭の平八郎ではなかったのか

形の好みから武士道に入れ

2019年06月19日 15:12

21 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/06/18(火) 19:54:49.11 ID:XHJKzrW+
「侍は首は取らずとも手柄をせずともそれを言わず、事の難に至っても退かず、主君と枕を並べて討死を遂
げ忠節を守ることを指して、侍と申すのである。

義理・恥を知らぬ輩は物の吟味をしないために、幾度の機会があったとしても1つも関心を抱かない。禄を
もって招く時は、譜代の主君を捨てて二君に仕える輩がいる。そもそも心は物に触れて移りやすいものだか
ら、仮初にも侍道の他は見聞きせずに、朝夕身を慣わしとして武芸を心掛け、たとえ学問をするとしても忠
義と大功を聞き、冑の緒を締めて槍・長柄・太刀を揚げ、天下の難儀を救わんと志すことが侍の役目である。

世間の武士道の教えでは、形はどうであれ「好みはあってもどのような事をもせよ。武士は只々志さえ正道
で武芸を嗜み、勇猛であれば良き武士である」と教えている。これも悪いことではあるまい。しかしながら、
某の家人へ教えることは違っている。某の家人などは、形の好みから武士の正道に入れ。形の好みを見れば、
その人の心根も見える。それは心で好んでいることが外に表れるからだ。言葉もそのようなものである。

例えば烏帽子・狩衣を着ている心持ちと、具足・兜を身に着けている心持ちは皆相違することである。髪の
結い様や衣類の着様、刀脇差の差し様まで手軽く健に嗜み、器物などをあるがままに任せ、諸事を軽くして
激しいことをもって、某の家人の教えとする。合印なくとも某の家人と見えるように嗜むべし。

公家殿や上人の玩びを必ず真似してはならない。大いに禁制とする。武道が甚だ弱くなるものである。それ
よりは三味線に歌は構わないだろう。出家と深く出会えば愚痴になるものである。町人と出会えば利欲にな
るものである。(それらの人々と)密事を語るものではない」

以上の教えに背く家人はすぐに扶持を放し、また首をも刎ねて仕置きを見せるものである。その家中の者ど
もは形の好みから武士道に入れというのが、忠勝(本多忠勝)の常の教えである。

――『鈴林扈言』



君のなさけの今はうらめし

2019年02月08日 17:58

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/08(金) 17:15:27.10 ID:NxXWbqM3
本多平八郎(忠勝)死去の時、家臣の大谷三平という者が、追腹を切って殉死した。
その大谷の草履取りがさらに追腹を切ったのだが、このときの辞世の句

『死にともな あら死にともな さりとては 君のなさけの今はうらめし』

(安斉随筆)

追腹の追腹というのは、仕方ないけどさすがに不本意、みたいな感じだったんだろうな。



733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2019/02/09(土) 18:45:55.75 ID:vR7mGeIJ
>>731
まとめの1047
「殉死と本音・悪い話」
で出典不明で一応既出

平八稲荷

2018年12月06日 17:39

501 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/05(水) 22:41:22.91 ID:pN4nt+mo
豊臣から徳川へ時代が変わった頃、大坂の池田の町で奇妙な事件が起きた。
ひとりの男が寺にやってきて、亡くなった人の弔いを頼んできたのだが、
寺の僧侶が頼まれた場所に行っても誰もいない。
 寺だけでなく、葬儀屋も同じような目にあった。葬式道具をかついで
依頼された場所に行っても、該当する家がなかったのだ。
 そんな出来事が色んな寺や葬儀屋で起きたものだから、たちまち評判となった。
その話を耳にしたある寺の和尚が自分のところにそのいたずら者がやってきたら
捕まえてやろうと意気込んで待ち構えていると、ひとりの男がやってきて
弔いをお願いしてきた。
 その男の様子を見て「さては こいつに違いない」と決めつけて、和尚は
男を捕えて縄で縛り上げた。そして、和尚が「このいたずら者め!」と
怒鳴りつけて尋問すると、男は最初のうちは何とか誤魔化そうとしたが、
とうとう観念して白状し始めた。
「俺は元々大坂城に住んでいた古狐だ。侍どもが勝手に戦をしたせいで
大坂城は焼け落ちて、俺も重傷を負ってここまで逃げ延びたが、ついに
力尽きて死んでしまった。徳川の世になってから皆は戦で亡くなった人の
ことを忘れて暮らしてやがる。俺はそれが許せなかったから、こんな
いたずらをしたんだ」
 和尚がその話を感心しながら聞いていると、古狐の亡霊はこう言った。
「もういたずらはしないから、俺をお稲荷様として祀ってくれ。俺は
侍の中でも本多平八郎という奴が好きだった。強いし、気のいい男だ。
頼む。俺に平八という名前をつけて祀ってくれ」
 そう言い残すと男はすっと姿を消してしまった。和尚には古狐の気持ちが
よくわかったので、さっそく菩提を弔って稲荷の祠を建てた。
 これが今でも池田に残る平八稲荷の祠である。
 
 平八稲荷となってから、さすがに古狐はいたずらをしなくなったが、
池田の町にある他のお稲荷さんに喧嘩を売って迷惑をかけたようである。



502 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/06(木) 14:34:12.75 ID:z0zI1XyY
>>501
オチw

503 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/06(木) 21:24:00.56 ID:cjWmIg7g
狐と猿って相性悪くないのかな

505 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/06(木) 23:25:07.67 ID:o0R9xr8o
>>503
知り合いの姫が狐憑きになった時に、出て行かないと日本中の狐を絶滅させるぞ、と稲荷大明神を
脅迫する程度にはフレンドリー<サル

506 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/12/06(木) 23:47:35.75 ID:U7W3U1dT
狐もワンワン吠えるから相性悪いはず

古老どもも古者だから捨てたか!

2018年10月29日 17:28

378 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 13:27:42.46 ID:2F6DKB/B
(長篠の戦い敗走の時)

武田勝頼は馬場信房の殿と討死の間に落ち延びたが、この時に相伝の旗を捨てたのを本多平八郎
(忠勝)の属兵・原田弥之助が拾い取った。梶金平(勝忠。忠勝の与力・家臣)は大声を揚げて、

「どうした武田四郎! たとえ命を惜しみ敵に押付を見せようとも相伝の旗を敵に取られるなんて
ことがあるか!」と散々に罵った。武田方の旗奉行がこれを聞いて、

「その旗は古物だから捨てたのだ!」と言えば、金平はなおも声高に「山県・内藤・馬場などの
古老どもも古者だから捨てたか!」と声を放って大笑いした。武田方はこれを聞かぬふりをして

落ちて行った。神君(徳川家康)はこの事を聞こし召し「金平、当意即妙の申し様なり」と仰せ
になり、金平は御感心に預かった。

――『改正三河後風土記(四戦紀聞・東遷基業・武徳大成記・家忠日記・甲陽軍鑑・武家閑談)』



379 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 15:04:30.49 ID:v5Mmkc9X
>>378
>古老どもも古者だから捨てたか!
煽りがうますぎるw

380 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 15:18:21.27 ID:Omn6ajDG
佐久間、林も古者だったな

381 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/10/29(月) 23:36:56.88 ID:c7+IdzTp
当意即妙の口ぶりなのを見ると三河者じゃなくて駿河か遠州出身なのかなとか思ってしまう

井伊直政本多忠勝西軍ノ挙動ヲ評ス

2018年07月13日 18:15

76 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/12(木) 15:31:24.37 ID:m3mAOga4
井伊直政本多忠勝西軍ノ挙動ヲ評ス

関ケ原にて、井伊兵部少輔(直政)へ永井右近(直勝)が見廻りに参られたところ、

兵部が申されたことには、「内々に思っていたのとは違い、上方衆はぬかっている。
あまり先を取ろうという気遣いがない」とのことであった。

(内々存候と相違上方衆は、ぬかり候中々先を致され可申との気遣なし)

また本多中務少輔(忠勝)の方へ見舞い申されたところ、中務が申されたことには、

「上方衆は先を取ろうとの気遣いがなかったが、この頃の様子を見申すに思いのほか
違って、まばたきの内にも先を取っているように相見える。

左様に御心得なされ」と申された。

(上方衆先を被致可申との気遣無之處此中の様子を見申候に思の外相違瞬目の内にも
先を取り候様に相見え候左様に御心得候へ)

――『日本戦史 関原役補伝(永井直清筆記、武功雑記)』



77 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/13(金) 08:35:18.29 ID:LVuhrboZ
時間経過なのか、忠勝の方が細かい観察力が優れているという話なのか。

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/07/14(土) 09:38:24.86 ID:0uqXaRXi
そんなんだから突出して銃撃されるんだよ

正しく、素直でなければ、

2018年02月02日 18:13

526 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/02(金) 05:18:59.84 ID:4rWMnih/
本多忠勝が、北条家の朝倉兼也を招いて武義の物語をしたことがあった。
兼也帰って後、忠勝は言った

「朝倉兼也はなかなかの人物だと聞いていたが、武義の上の詮索、真に然らざるものであった。
何故かと言えば、彼は一度も遅れを取ったことはないと物語った。
名将と言えども、初めは万事落ち度無きとは行かないものだ。いわんや兼也程度の侍であれば、
善と悪が半々であっても、人々は盛んに褒め称えるものだ。

正しく、素直でなければ、武士の意地とは言わぬのだ。」

そう批判したという。

(士談)



527 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2018/02/02(金) 19:26:35.01 ID:7I1QUZnP
家康「そやそや」

「すわ、例の本多よ!平八郎よ!」

2017年02月14日 10:10

638 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 21:52:47.71 ID:X+1KO4ez
天正の初めの頃、甲斐武田家の部将、山県昌景が大軍を以て天龍川近くに進行してきた時、
この方面の徳川軍は少数であったので、天龍川を越えて退却した。
この時、本多平八郎忠勝が殿をし、ただ一騎、後から川に乗り入れ退却していた。

しかしここに、後ろより山県勢の先鋒百騎ばかりが追撃してきた。
忠勝はこれを確認すると同時に、河中より取って返し、これを攻撃した。
その勢い、まるで龍神が波を蹴り立てるような激しさであったという。

これに甲州兵たちは「すわ、例の本多よ!平八郎よ!」と叫び、尽く逃げ去った。
追う者がいなくなったので、忠勝はまた河に入り、心静かに向こう岸へと渡った。

河の中流から引き返すというのは、成し難いことだと言われている。それを安々と
行った本多忠勝の働きというのは、筆舌の及ぶところではない。

(武野燭談)



時節相応に主とする所を、

2017年02月13日 08:40

627 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 00:02:48.09 ID:X+1KO4ez
本多忠勝の嫡子・美濃守忠政がまだ平八郎と名乗っていた時、弟の内記忠朝と共に
鑓の稽古をしていた所、これを見た忠勝が言った

「私が若かった頃は小身であったがために、鑓の働き第一と心がけていた。
しかし今は御厚恩を以て大身となった以上、人数を取り廻す采配の取り様や備立てなど、
総じて大将が知らなくてはならない道こそ、専一に学ぶべきである。
かといって、鑓の稽古を止めろと言っているんのではない。時節相応に主とする所を、
専らに励むべきなのだ。」

そう戒めたという。

(武野燭談)



629 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/13(月) 02:27:47.87 ID:1F6Bnp81
>>627
父には遠く及ばないので新たな才能を開花せよ、と言ってます

本多忠勝、本丸の堀を腰の高さまで

2017年02月12日 09:27

593 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2017/02/11(土) 21:46:26.57 ID:p+eky8c1
本多忠勝が桑名城を拝領した時、本丸の堀を腰の高さまで埋めさせたという。
これは桑名城が海岸に築かれた城であったので、石垣の際まで敵が攻め寄せたところを、
下矢で射やすくするための改修であったそうだ。

(武野燭談)



本多忠勝は、槍術は下手であった

2016年07月04日 18:43

907 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/04(月) 07:11:19.34 ID:hZO7KWun
本多中書、老後学鑓事

本多氏譜代の士、小野某家の言い伝わる話に、
中書忠勝は世に強く勇ましいと知られているが、
槍術は下手であったというものがある。

中書は老後まで槍を殊に執心していて、家臣を相手にして、日々のように修行していた。
そこで相手をしている若士どもに中書は身を入れるが、非常に拙技で、逆に自由に突かれたそうだ。
また人が身を入れてきたところを突くにしても、槍先がきかなかった。
自身でも残念に思われたのか、ひたすら修練を怠らなかったとか。

常はこのようであるが、戦場に臨んでは敵と戦うときは、
その技の絶倫、世で言うところのようであったと。
思いのほかの話である。
(甲子夜話)



908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/04(月) 17:20:25.27 ID:fsj9O1ro
本番に滅法強いって話?

909 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/04(月) 17:34:49.21 ID:xI1AscJ1
>>908
その通りだけど、戦であんなに強いのは衆知の通りだけど、何故か訓練だとグダグダなんだよって話し

910 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/04(月) 19:42:57.73 ID:72KDPah3
訓練だと反則技は禁止だからね~

911 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/07/05(火) 07:52:50.20 ID:MtvYi9nT
三谷幸喜がこの逸話を知ったら、訓練で小松姫にコテンパンにされる忠勝とか大河で描きそう

さても今日忠勝が味方の多勢を指揮して戦う様は

2015年09月25日 17:59

737 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 03:27:22.72 ID:qIR/GHLM
慶長五年の秋、東西で一時に戦が起こった。本多忠勝は仰せを蒙って井伊直正と共に味方の大名を連れだって美濃の国に行軍し、
九月十五日の合戦に諸軍を指揮して戦わせ、自分自身も島津を打ち破る。(この日忠勝は首九十余りを得たという)

戦が終わった後、福島左衛門大夫正則が徳川殿の御陣へ参り、
「さても今日忠勝が味方の多勢を指揮して戦う様は、左右の手をつかうよりもなおたやすく見えました。
あっぱれよき大将軍でというものですな。」
と感じ入った。

忠勝は嘲笑って、
「敵が妨げにならないほど弱くて、戦いとはなりませんでした。」
とあいさつした。

(藩翰譜)

関ケ原の戦いも東軍の前線の方では、手ごたえがなくてあっけなさすぎだろとか思ってたんだろうなぁ




738 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 08:12:32.46 ID:1ElstaQP
大将軍てのは全軍を指揮する者のことをいう。
忠勝にそんな将器はない。

739 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/09/25(金) 09:09:19.93 ID:xHqsQhLX
突然の三河アンチ?

天下三名槍の一つ、本多忠勝愛用の蜻蛉切がついに

2014年12月31日 17:46

461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 18:29:05.15 ID:pfgL1lxX
佐野美術館
天下三名槍の一つ、本多忠勝愛用の蜻蛉切がついに ――
ひとの縁は、ものの縁
―初公開の矢部コレクション―

平成27年1月9日(金)~平成27年2月15日(日)

織田信長が長篠の戦いでの功を賞して奥平信昌に与えた一文字の太刀や、天下三名槍の一つ「蜻蛉切(とんぼぎり)」。
静岡県沼津の実業家・矢部利雄氏(1905~1996)が一代で築き上げたコレクションを、このたび初公開いたします。
http://www.sanobi.or.jp/exhibition/yabe_collection_2014/



沼津の矢部氏が蜻蛉切を所蔵してるっていうのは事情通には有名な話だったんだが、本人が公開していないものを
無理やり押しかけて見ようとする人間が現れかねないので、ネット上でも配慮されてあまり名前は出てこなかったな




462 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 19:00:26.25 ID:e/bQGmQH
どっかで本物はもう無いって聞いたことがある気がするけど嘘だったのか
遠くないし行こうかな

463 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 19:26:00.11 ID:+spDRMKY
蜻蛉きりってまだ残ってたんだ

465 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 20:24:06.48 ID:RgTkWGL6
>>461
コレクションが初公開なだけで蜻蛉切は別に初公開じゃないよな?
蜻蛉切はむかし東博の特別展で見たぞ

466 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 20:34:08.15 ID:e/bQGmQH
東博所蔵のは江戸時代に作られた写しじゃなかったか

467 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/12/30(火) 23:20:07.10 ID:KRqa+E01
岡崎城にも蜻蛉切あるよ。レプリカだけど

474 名前:人間七七四年[] 投稿日:2015/01/01(木) 09:20:23.29 ID:oQ8MzIuR
>>461
本多家で経済的苦境から、蜻蛉切か鹿角脇立兜の甲冑のどちらかを手放さなくてはならなくなったとき、
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」といわれた甲冑を手元に残したんだっけか。
こっちは岡崎市博物館に本多家から寄託されてるよね。

というようなことが過去ログにあったような。

483 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/01/01(木) 22:29:13.51 ID:UMfbQ4oC
>>466
いや写しのじゃなくて藤原正真作の本物が97年の特別展に出たことがある
当時の図録もとってあるし確かなことだ

本多忠勝の「侍論」

2014年05月21日 18:42

991 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 21:16:06.85 ID:mfECj0EZ
埋め代わりに

侍は、首を取らずとも不手柄とは言わない。事の難にあたって、退かず、主君と枕を並べて討ち死にを遂げ
忠節を守るものをさして、さむらいと申すものなり。

義理、恥を知らぬ輩は、物の吟味をしないゆえに、幾度もの首尾があっても、一つも床しいとは思えない。
禄を持って招く時は、譜代の主君を捨てて二君に使える輩が出てくるものだ。

そもそも、心というものは物に触れて移ろいやすいものなのだから、仮初にも、侍道の外を見ず聞かず、
朝夕身を修練し、武芸を心がけ学問するとも、忠義大功を聞き、兜の緒を締め、槍長刀太刀を提げ、
天下の難儀を救わんと志す。それこそが、侍の役割なのだ。

(本多中書家訓)

本多忠勝の「侍論」である。




992 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/05/20(火) 21:18:52.53 ID:GXKdwK5m
死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば

「家康に過ぎたるもの」

2014年02月21日 20:41

422 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 06:11:38.07 ID:sezvsa4b
元亀3年10月中旬、武田信玄による、徳川領三河。遠江への侵攻が始まった。
信玄は遠州只来、飯田の両城を落とし、さらに久能城へと進んだ時、家康方の侍対象の率いる
4千あまりの兵が三ケ野付近に現れた。

信玄は「あれを逃さぬように討ち取れ!」と命じた。家康方は武田軍の攻勢を見て引き上げようとしたが、
武田勢はこれを食い止めようとする。家康勢がまさに危機に陥った時、家康の侍大将、内藤三左衛門(信成)
という者が言った

「我が軍の総兵力8千のうち、ここにいるのは5千人だけで、家康公もご出陣されていない!
この状態では信玄のような名称に率いられた、3万あまりの大軍と合戦しても敗北は目に見えている。
もしここで敗れようものなら、残った家康公直属の部隊だけで、どうして信玄と戦うことが出来るだろうか!
ここのところは、なんとしても退却して浜松へ帰り、改めて一戦を遂げよう。その時には織田信長公の
加勢も期待できるだろう。8千の三河武者にそれを加えて、無二の一戦を遂げようではないか!」

しかし、そうは言っても既に戦闘は起こっており、内藤三左衛門もその場から引き上げることの出来かねる
状況であった。

その時、本多平八郎(忠勝)は25歳で、家康の下で度々巧妙をあげていたことで、おいおい武田の家にも
知られていたが、この平八郎が黒い鹿の角の前立てを飾った兜をつけて、身命を惜しまず敵と味方の
間に乗り入れ、無事に徳川勢を引き上げさせた。

その様子は、かつての甲州の足軽大将であった、原美濃守(虎胤)、横田備中(高松)、小幡山城(虎盛)、
多田淡路(満頼)、そして山本勘助の5人以後は、信玄の家中でも多く見られぬ武者振りであった。
家康の小身の家には過ぎた、本多平八郎の働きである。

そのうえ、三河武者は10人の内7,8人までは唐の頭(ヤクの毛)を兜につけていた。
これも家康には過ぎたものだというので、小杉右近助という信玄の旗本の近習が、歌に作って
見付坂(静岡県磐田市)に立てた。その歌は

『家康に過ぎたるものは二つあり 唐の頭に本多平八』

というものである。

(甲陽軍鑑)

有名な「家康に過ぎたるもの」の逸話である。




423 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2014/02/21(金) 10:30:04.12 ID:l2Tpa5dM
後には厭離穢土欣求浄土の旗を見ると甲州勢が逃げ出すようになるわけだから奢る風林火山も久しからずだな