786 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/05/30(日) 18:11:39.34 ID:XYUliaXg
岡崎城主の本多豊後守(康紀)は、元和年中に亀蔵と申す草履取りが
奥に仕る腰元のふくと申す女と密通したのを吟味した。
岡崎六本松にて2人とも搦め置き、10日に手爪を離し、10日に指
を切り、20日に足の爪指を取り離し、2日に両眼をくり出して2人
ともに成敗した。この2人は自らの科とはいえ七代の祟りをなさんと
言った。
この後、城にあらゆるケザヽをなし、これより六供で護摩を焼くとそ
の煙の内に2人がきっと立っている姿を、ありありと諸人は見た。
その頃、豊後守家中には新参古参があった。古参は岡崎能見山に愛宕
山と勧請申し、新参は龍海院山にて愛宕山と北南に勧請申した。この
時に亡魂収まり、これより愛宕の宮を“亀蔵宮”ともいうようになった。
さてまた豊後守殿には亡目の子が1人、両手の指が無い子が1人、口
の歪んだ子が1人いた。これらは亀とふくの業と沙汰された。今も若
宮ならびに新明、その後に立った両愛宕あり。業の程こそ恐ろしけれ。
――『三河東泉記』
岡崎城主の本多豊後守(康紀)は、元和年中に亀蔵と申す草履取りが
奥に仕る腰元のふくと申す女と密通したのを吟味した。
岡崎六本松にて2人とも搦め置き、10日に手爪を離し、10日に指
を切り、20日に足の爪指を取り離し、2日に両眼をくり出して2人
ともに成敗した。この2人は自らの科とはいえ七代の祟りをなさんと
言った。
この後、城にあらゆるケザヽをなし、これより六供で護摩を焼くとそ
の煙の内に2人がきっと立っている姿を、ありありと諸人は見た。
その頃、豊後守家中には新参古参があった。古参は岡崎能見山に愛宕
山と勧請申し、新参は龍海院山にて愛宕山と北南に勧請申した。この
時に亡魂収まり、これより愛宕の宮を“亀蔵宮”ともいうようになった。
さてまた豊後守殿には亡目の子が1人、両手の指が無い子が1人、口
の歪んだ子が1人いた。これらは亀とふくの業と沙汰された。今も若
宮ならびに新明、その後に立った両愛宕あり。業の程こそ恐ろしけれ。
――『三河東泉記』
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