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軍八という名について

2021年07月12日 18:36

293 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/12(月) 14:48:58.57 ID:A0+ls0qT
私(著者・夏目軍八定房)の軍八という名について、藤田信吉が語り聞かせてくれた事によると、

「私に縁のある神保主殿殿が幼い頃、上杉謙信公の越中御発向の御備えに召し連れられ、
十七歳の春、御使番役で武功の者であった長尾甚左衛門討ち死にの跡を仰せ付けられたのだが、
これについて、使番の相役の衆一同が、このように申し上げた

「我々は御使番役を、御吟味の上で申し付けられたと存じており、忝なく思い、働いていたのですが、
そこに東西も知らぬような童を同役に仕ること、考えられぬことであります。
憚りながら我々を一人ずつ召し出されて、御穿鑿なさって下さい。為景公より御当代に至り、
戦場の数が十五度以下の者は無く、御感状も八つ、九つ、十通に余り頂戴致しております。

であれば、我々を御成敗されるか、御追放なされた後ならともかく、かの倅と同役など、罷り成りません!」
そう、御城へ詰めて、奉行衆を以て言上仕った。

謙信公はこれを聞かれると、彼ら全員を召し出され、直に仰せ聞かされた
「内々にこの事を言い渡そうと思っていたのだが、その前にその方共より言ってきた事、家の弓矢盛んなる
故であり、吟味深い。」と御悦びになり、物頭や奉行達何れをも召し集められ、聞き手とされ、
重ねて仰せに成った事には

「その方達申す如く、使番、物見番の使者は私の眼目、片腕とも思うほどの者でなければ申し付け
難いものであるから、随分吟味穿鑿した故に、前々より各々に申し付けた。

今回、甚左衛門の後役についての吟味をしたが、武役を勤める者の中に、残念ながら各々と同役に
すべきと思うほどの者を思いつかなかった。だからといって五度七度、合戦で首尾を合わせた程度の
若者に言いつければ、各々は相役に不似合いであるとして、腹立ちを覚えると思い、そこで未だ
そういった評価の一切無い若者の主殿を、私の眼力にて申し付けたのだ。各々が指導すれば、
後々は必ず仕損ずる事のない者であると思い、申し付けたのだ。」

と宣われた。これに対して御使番の者達は何れも「斯様の思し召しとは中々考えず、忝なく思います。
随分と指導いたします。」と御請け申した。

謙信公の眼力は相違なく、その翌年、永禄十一年四月二十日、加州に御発向して尾山城攻めをされると
して、垣崎和泉(景家)、吉江喜四郎、本越越前、甘糟近江(景持)の四人を頭として押し寄せた。

(中略)

翌日、十二度の攻め合いに、かの神保主殿十八歳、甘糟近江守の手の検使として、大石播磨と
両人で行き、三度は一番に槍を入れ、五度は五度ながら敵を討って首を取った。その二度目で
組み合った時には、自分の脇差を敵に取られたのを、また押し込んでその敵を討って、脇差を
取り返した。この時深手を負い、その後の二度の攻め合いでは、旗本に帰って敵と手を合わせなかった。

この戦いの落着の跡、神保への御感状には
『十度の攻め合いに十度合わせ、首尾の内三度は緒軍に先んじて槍を入れ、剰え高名八つ、
そのうち二つは采配首であった。千強を越え萬剛に勝る働き、無類の誉れである。
謙信の眼力が相違無かった事、併せて欣然莫大の至りである。』
との文章が、黒々と書かれてるものを頂戴した。その時、主殿の名を改め、「軍八」と書きつけて
下された。そしてこれを渡される時

「大唐の武備に八陣がある。これを知って用いれば、国法、軍法共に、この理に漏れる事はない。
即ち一心の神是である。であるが、その深理を会得して行う志が無い故に、弱人となり悪人となる。
これを能く胃に落とせば、心身明潔、治乱常変の善悪を知る。陣は軍であれば、八陣を自分の名に用い、
常に忘れず怠らず、心を砕き身を修め、鍛錬の二文字尤もである。」

と仰せ聞かされた。それ以後、数度武勇を顕し、天正五年、能州七尾城にて、大剛の働きをして
討ち死にされ、その名を残した。
その軍八に、似られるようにとの心である。帰陣の時、景勝公に呈上しよう。」
と、舎人に申し渡された。

(管窺武鑑)



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