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河田豊前守が勇智深き故に

2021年07月25日 17:18

345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/24(土) 23:51:38.51 ID:Gcr6Dmv+
天正十年の夏(筆者注・天正九年の誤りか)、河田豊前守(長親)は越中松倉城に籠もった。
織田信長の軍勢が五万余の兵で押し寄せたが、河田の武勇に恐れ、二方より遠巻きした。

この時、城中の神保肥後守という者、越中先方の侍大将にて、河田の相備えであったのだが、
彼には敵と内通しているのではないかという疑いがあった。しかしその証拠となるような
ものはなく、ここにおいて、河田は自分の家臣の中で頼もしき勇士を一人、下郎の出で立ちにさせ、
夜忍んで敵陣へ遣わした。即ち敵はこれを捕らえて怪しみ問うと、彼はこのように答えた

「私は城内の神保肥後守の透破である。どのような内容かは知らないが、佐々(成政)殿への
一通の書状を持って出た。城中の者に取られないようにして、佐々殿へ奉れと申し付けられた。
ところが近くの森の中の道にて若侍五、七人に出会い、彼らに刀、脇差、羽織、そしてかの書状を
入れた打飼袋まで剥ぎ取られ、ようやくここまで逃げ参った。あの書状がその後この陣に来ているので
あれば問題はないが、城中の者達に取られたのであれば大事である。このこと調べられるように。」

これに対し、敵方も警戒をし、後途の様子を見るまでとし、その上「心を許すな」と、彼を
搦め置き陣中の穿鑿をしたが、彼の言ったような者はおらず、如何と思案する内に、城中より
矢文が射られた。抜いてみれば、河田豊前守より佐々に宛てた書状であった

『当城の神保に対しての密議の計略は既に露見した。その身柄は獄に籠め、首を刎ねようと
欲している。これは武道不功、軍理未熟によるものであり、弓箭の恥辱、末代までの汚名となること、
どうして疑いがあるだろうか。
しかしながら神保は十年以来の新たに仕えた者であり、立場が定まっていたわけではない。
頻りに赦しを乞うており、その身柄をそちらの陣に引き渡そうと決まった。回答を待つ。』

これについて敵は寄り合い、返事をすべきか、ただ置いて返事をしないでおくか
決断しなかった。城内に於いては矢留の幕を打ち、二時ばかり返礼を待ったが来なかった。

河田の考えには
「返書が来たなら、その文体によって真偽を知ることは簡単であった。然るに返報が来ない以上、
神保の逆意は明らかである。何故なら神保が内通して居ないのであれば、さっそく返書し、その
文面にあやをなして、内部の和を破る手段として吉兆であると、急ぎ返事をするはずである。
そうせずに返答が遅いのは、どうにかしてこの陰謀が顕れないよう、事を誤魔化すべしと
談合しているであろうこと、疑いない。」

こうして、河田は神保を召すとこれを虜にし、その家老、身近の者合わせて七人、主従妻子ともに十三人、
城外の堀際でこれらを磔にした。神保が首に懸けていた守袋の中に、佐々、柴田(勝家)両判にて、
「今回の儀が終結した後、松倉城に五万石を添えて充てがうべし」との一状があった。
河田豊前守が勇智深き故に、この陰謀を察し擬慮を定めること、斯くの如し。

(管窺武鑑)



346 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/25(日) 07:26:47.45 ID:3Kt+VyKp
>>345
織田陣に入った河田方の勇士はどうなったんだよ えーっ?

347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/07/26(月) 18:44:33.74 ID:lfSNcW2A
>>346
勇士は荼毘に付したよ…
骨はある場所に置いてある

348 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/07/27(火) 07:24:20.51 ID:OvNmFwAu
>>347
ふぅん、そういうことか
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