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美濃国に於いては、諸人、先祖の奉じた所を重んぜず

2020年10月23日 16:48

669 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/23(金) 12:31:13.63 ID:7OBGeLbI
美濃国の住民は、生来甚だ良く事理を解し、大いに救いを望むことを示している。
右の坊主が当所(堺)に於いて語った所によると、美濃の王(斎藤龍興)は甚だ有名なる
禅宗の坊主を師としていた。この坊主は三十三問を列記し、これに解答を与える者があれば
その宗派に服従すべし、と云った事は昨年の書簡にて通信したが、同国にこれと意見を事にする
他の学問有る坊主あり、王は彼等を呼びその面前に於いて両人に討論を命じたが、三十余問の人が
負けたため、王は他の宗門の門弟と成った。

この第二の人はその後、同国及び多数の学者の面前に於いて。禅宗の他の一派の坊主と議論を成して
負けたため、王はこれを捨てて第三の人の宗派に入門し。これを己の師となした。

この話を伝えた坊主(今はキリシタンとなった)は、「これによって美濃国に平和があり、国王が
デウスの事を聴くに至れば、彼、并びにその国の大部分をキリシタンと成ること、甚だ困難ではない」
と云った。

この坊主は信頼すべき持参人であるため、私は同所にあるキリシタンの武士に書簡を送り、
もし機会があれば王に語って聴聞を勧め、王がその意を決するに至れば、デウスのことを説くべき人を
同所に赴かせるため、私にこれを通知することを求めた。

美濃国に於いては、諸人、先祖の奉じた所を重んぜず、最も道理に適したことを尊重するが故に、
道理の作者を信奉する傾向が少なくない。
最も愛する者よ、主が彼等に知識と恩寵を与え、救われるに至らしめ給わらんことを祈れ。

『一五六七年六月十二日附、パードレ・ルイス・フロイス書翰』(日本耶蘇会通信

美濃について。
龍興の、禅宗などの師を取り替える云々と言う話は、義龍の時代の、法華宗から禅宗に転じたことや、
美濃国内における快川と別伝宗亀の対立などの事を現しているのかと。



670 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/23(金) 13:05:40.94 ID:qrBf/VJQ
信長と敵対したのに非常に有能で思慮深いと評されてるから信長がカスだったんだな

671 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/23(金) 13:16:50.01 ID:wHTOLy3/
もともと義龍のわがままで幕府を巻き込んで別伝の乱を起こしてすぐ死んだから
龍興にとってはどうにもならないことです

672 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/10/23(金) 14:24:05.92 ID:3JjE8KMV
>>669
こういう、諸国の人の気風を紹介する話は非常に興味深いな。
義龍・龍興期の美濃は、旧来の幕府体制の権威によった統治だから
どちらかといえば前例主義なのかなと想像するんだが、その実気風は合理主義というのはどういうことか。
幕府の権威を利用しながら内実は道三譲りの実力主義だったりするのか、
あるいは単にフロイスが見聞きしたのがそういう人が多かっただけなのか。
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斎藤龍興の没落

2020年01月27日 17:11

759 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2020/01/27(月) 14:05:59.36 ID:evGfP5sX
織田上総介信長はその心中に様々の計略を働かせ、美濃の旗下である稲葉伊予守(良通)を始め、
氏家常陸介(直元))、安藤伊賀守(守就)、不破河内守(光治)を味方につけて内通せしめ、
永禄七年九月朔日(実際には永禄十年)、大軍を率いて濃州へ討ち入り、稲葉山城東西南北に
火を放って焼き立て、息もつかせず攻め戦った。この時葦手の正法寺も兵火の余炎に掛かり
灰燼となった。土岐家数代の旧跡はこの時焼亡し、その後再興する人もなく、正法寺の名のみ残り、
退転した。
この時、瑞龍寺も焼亡したが、この寺は悟渓一派(悟渓宗頓:瑞龍寺開山。大徳寺52世住持、妙心寺
11世住持、妙心寺四派の一つ東海派の開祖)の旧跡であったので、再び再興された。

稲葉山城中は信長の攻勢に叶い難く、斎藤龍興は降を乞うて城を明け渡し、近江へと落ち行き、
浅井備前守長政を頼った。大伯父である長井隼人佐道利も関城へと落ちて、龍興とともに江州へと
落ち、後に越前へ越えて朝倉義景に与し、永禄天正の間、所々にて武功が有った。

龍興は天正元年八月八日、姉川の軍に討ち死にした。(姉川の戦いは元亀元年。実際には刀根坂の戦い)
また長井道利はその後将軍義昭公に仕え、摂津にて討ち死にした。その子は稲葉能登守(信通ヵ)の
家に奉公したという。

(土岐累代記)

後の反信長戦線の印象なんでしょうけど、斎藤龍興が浅井長政を頼って落ちていったという伝承もあったのですね。



西美濃三人衆の寝返り

2016年02月21日 18:53

202 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/21(日) 17:59:48.90 ID:BiwxmhRL
斎藤龍興の家臣である、西美濃三人衆と呼ばれた氏家常陸介(直元)、稲葉伊予守(良通)、
伊賀伊賀守(安藤守就)がある時会合し、伊賀守は言った

「今の斎藤龍興の所業を見るに、日を追いつきを経るに従って、諌めを行い国家の為よろしき人と言うほどの
人物には、皆出仕を停止させ、阿諛追従する者ほど威名盛んである。不順、これより甚だしい物はない。
このようにして滅んでいった国々は、指を折っても数えきれない。

一方、織田信長は仁義の道を行われ、武勇智謀、最も優れている。この人を頼んで武功に励み、
奮功した家臣たちを撫育しようではないか!」


しかし氏家は
「承った話は、何れも至当であり、これに異議を唱えるものではない。しかしながら一度も
諫言に及ばずしてこのような事をするのは、ただ自分の身を立てようとするだけで、義に非ず。
先ず諫書を上げて、もし用いられなかった時は、そのようにしようではないか。」

こうして彼らは諫書を作り、龍興に差し上げた

一、君たる道を真の儒者に能く問われて、行いを然るべくされますように。
一、近習に侍っている執権たちは、国家の為には鴆毒です。急ぎ薬言の臣を用いられますように。
一、幽悪を察し、微善を試み、お心持ち至誠に、賞罰を行われますように。


このように諌めたが、阿諛する家臣たちは、却って之を取り消させるように讒言したので、
翌年になって三人衆は信長に使者を出し、味方に参る由を申し上げると、信長も「願う所の幸い、
天の与えるところである。」と、村井民部丞、島田所助の二人を派遣し能く語らしめた。

永禄七年八月朔日、信長は三河に攻め込む旨を触れ、小牧山に勢揃いした所で、三河には一言も触れず
「美濃国において然るべきこと有るぞ!進めや!」と宣言し、出陣し、瑞龍寺山へと駆け上がった。

この突然の軍勢の出現に、稲葉山城の者たち慌て騒いで「こは何者ぞ、敵か味方か?」と怪しむほどであった。
信長は片端より火をかけ、即座に裸城にした。このような所に三人衆もはせ参り、臣従を許したお礼を申し上げ
「この城攻めも苦労すると思っていましたが、このように何の問題もなく押し詰められた事、誠に御名誉です」
と申し上げた。

その日は強風が吹き雨も降りだしたので、翌日諸方の手分けをして、鹿垣を二重三重に結い廻し、
「一人も漏らすな」と下知した。
城内は、兵糧の支度もなく逃げ入ったものだから、早くも以ての外に弱り、「命を助けて頂ければ
城を明け渡します。」と様々に詫び言を申してきた。
信長は家臣を呼び集め、どうすべきかを尋ねた所、
「先ず龍興の一命を助けられ、この城を請取あって、国々太平の功を励ますことこそ宜しいかと思います。」
と、人々一致したため、信長も之に同意し稲葉山城を受け取り、龍興を退去させた。

こうして信長の武威は、飛竜が天に上がるがごとくであった。

(甫庵信長記)
まあ実際に稲葉山城を退去した永禄八年でも、まだ17歳なんですけどね龍興。



斎藤龍興、キリスト教への疑問・いい話

2009年01月13日 00:10

86 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 17:54:45 ID:/Lh5eS9x
斎藤龍興の疑問に、宣教師はどんな顔をしただろう。稲葉山城退去から
人生の幕を引く迄の数年間、畿内各地を放浪し続けた"美濃の蝮"の末裔のお話。

斎藤龍興は奸臣・斎藤飛騨守を寵愛し、美濃三人衆や竹中重治らに愛想を尽かされ
美濃から追い遣られてしまった。その人となりは『愚鈍で吃音、小太りな風采の上がらない人物』と
散々なもので、まさに暗愚の象徴だと言わんばかり。信長飛躍の踏み台の様に揶揄される
そんな龍興であるが、伊勢長島や三好三人衆の元へと身を寄せるうち、キリスト教に興味を持った。

落ちぶれても『蝮』の孫だったらしい。キリシタンを目指した龍興はルイス=フロイスから
キリスト教の宗儀・世界の創造などについて説かれると聴聞した事を逐一書き留め、次に
教会へ姿を現した際にはその総べてを明白に、流暢に、一言一句の間違いなく反復することが出来た
といい、教会の信者達はとても驚いたそうである。

また、ガスパル=ヴィレラ司教に対してはこんな質問もしたと言う。

斎藤龍興>>人間がデウスによって祝福され、万物の霊長であると保障されて居ると師は言う。
ならば、なぜ人間界にかくも多くの不幸が満ちており、戦乱の世は終わらないのか。
万物の霊長たらんと創造されたのなら、なぜ人間の意志に世は容易に従わないのだろうか。

こんな荒んだ世の中を一生懸命、善良に生きている者達が現世では何ら報いも受けられないのは、何故なのか。(..´・ω・)

ヴィレラは龍興の疑問に対し『その総べてに納得がいく様な道理を上げて説明した』と記録されて居るが、どうなのだろう。
龍興が疑問に思った"なぜ"は、本当に解決したのだろうか。

1573年(天正元年)8月13日、龍興は朝倉義景の食客として刀禰坂の合戦で討死した。
祖父・斎藤道三が美濃国を奪い下克上大名になりあがってから、31年の月日が流れていた。

そんな斎藤龍興の、(実は)いい(才気の持ち主だったという)話。




87 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 18:00:29 ID:xrae+U1J
歴史上の人物ってのは一方からのあるいは一面しか語られないことが少なくないけど
龍興も若い頃はアレだが大器晩成の人物だったかもね

88 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 19:24:27 ID:b4rwt1OJ
フロイスの日本史によると黒田長政も入信してからもキリスト教に数々の疑問を持ってたとか

>特に人間が救われるためには、洗礼を受けてキリシタンになる必要があると
>いうことが納得できなかった。彼には、人間は道理に従って正しく生きさえ
>すれば、いかなる宗教によっても救われると思えたからである。

この疑問も日本人修道士が解いた、ということだが…。
しかし現代人としてはその後黒田長政が弾圧側に回ることを知っているからか、
龍興の疑問からは純粋さとか真摯さが感じられるが
この長政の疑問からは「結局あんたらの勢力を拡張するために都合のいいこと
言ってるんじゃないっすかー?」という問いかけを感じ取ってしまうw
後の政治家ぶりを窺わせるものがあるというか。

89 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 19:36:18 ID:5DuivToW
ザビエルが日本にキリスト教の布教に来たとき農民に
「全知全能の神であるならば貴方がはるばる遠くまで布教に来なくても我々に伝える事も出来るのではないか」
と聞かれて返答に困った

ザビエルが道端でキリストの教えを説いていると一人の男が質問してきた。
「キリストの教えを信じない不信仰者は死後に地獄へ落ちるそうだが、それなら、去年亡くなった
うちの祖父はキリストの存在自体知らなかったのだから地獄へ落ちてしまうのか?
祖父はとても良い人で周りから尊敬されていたのにおかしいではないか。あなたの説く教えが
それほど素晴らしいものなら、なぜもっと早く来てくれなかったのだ?」
この質問にはさすがのザビエルも返答に困り、後に本国への手紙で、日本において布教するには
論理学の知識が必要である、と報告した。



有能と評判のザビエルですら困ってんのに86の司教が答えられるとは思えないけどなぁ

90 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 19:51:13 ID:rLI9LeI5
スレ違いだけどキリスト教がゲルマン人に布教する際にも同じ問題があって
それで煉獄(キリスト以前の聖書登場人物とか異教徒の偉人が罪を贖って天国にいくための場所)の概念が出来たとか。


91 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 19:58:23 ID:5DuivToW
それも変な話だけどな
地獄と言うほどでもない辺獄で家族が一緒にいるならそっちのほうが楽土って人もいるだろうし
いずれ天国に行けるならわざわざ信仰に従わなくても道徳的に生きてれば問題ないし
天国にいるが辺獄や地獄にいる先祖を気に掛けながら暮らすのは幸福か?って問題が出るし

92 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 20:03:23 ID:jD7waOZE
ちなみにこの斎藤龍興の事も、フロイスは『日本史』に記録している。
曰く、『非常に有能で思慮深い。』との事。

まぁ尤も、このおっさんに掛かるとアンチキリストはみんな莫迦で残虐で低脳に
されてしまうわけだがw

>>89
後年になって、宣教師達は『実はデウスも毘盧遮那仏も同一体だから、日本国民が昔から信奉してた
神様はキリスト教の神様と一緒だったんだよ!!(AA略)とかいうかなり苦しい言い訳を編み出したらしい
ヴィレラの頃には、突っ込まれた際のテンプレートみたいなものがもう出来てたのかも知れない。
流石はイエズス会、イタリア語のスラングで『詐欺師』という意味があるのは、伊達じゃないw


93 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 20:06:45 ID:OrQOsDPc
本地垂迹と大差ないけどもw

94 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 20:07:04 ID:ymayBMY4
>流石はイエズス会、イタリア語のスラングで『詐欺師』という意味があるのは、伊達じゃないw

な、なんだってー(AAry

95 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 20:11:48 ID:AdBbZHpd
ほんちすいじゃくは異端もいいところだと思うんだが宣教師でもありなのか

96 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 20:20:33 ID:OrQOsDPc
>>95
ローマでは絶対に認められんだろうがなw清では典礼論争とかあったし。
異端と考えるのはやっぱり現代人だからだろうなぁ。
徳川家康=東照大権現=薬師如来
こんな民族ですから。

97 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 20:20:37 ID:5DuivToW
ホントは無しだけどアジアで布教するにはそれしか手段が無かった
これらの地域にはヒンドゥーや仏教、儒教といったキリスト教並みに体系化された宗教が既にあったから
現代のキリスト教の分布をみてもアフリカ、フィリピン、オセアニア等体系化された宗教の無かった地域
もっともそのせいで本国から糾弾される事になるが

98 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 20:21:35 ID:bTm4Q1iF
>>92
>宣教師達は『実はデウスも毘盧遮那仏も同一体だから
わざわざキリスト教徒になる必要性ねええええ

102 名前:86[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 21:22:45 ID:jD7waOZE

>>94
引用参考文献によれば厳密にはイタリア語でイエズス会=『ペテン師』というスラングらしい。

大航海時代、ポルトガルやイスパニアは航海の末辿りついた未踏の地で、まず
キリスト教を流行させ、狂信者を育成。後は彼らを適当にだまくらかして
武装蜂起させて現地政権を転覆させると言う手を何度も使ったそうだ。

つまり、宣教師顔して片手で聖書の教えを説きながら、もう片方の手では植民地政策を
振りかざして居たというわけ。よって、宣教師の顔した侵略者の手先=詐欺師とそんな感じだそうな

1542年にはイスパニアがフィリピンまで陥落させて居たし、秀吉が本能寺以後
信長の政権を受け継いだ頃には、フェリペ二世の統括する『陽の沈まない帝国』が世界を
席巻して居た。1580年のポルトガル併合後のスペインの領地はざっと説明しても
現在のイベリア半島・オランダ・ドイツ・イタリアの一部・シチリア・カリブ海及び中南米・アフリカ沿岸・インド・東南アジア。

そもそもフィリピンの国名の由来が『もう此処は"フェリペ二世のものだから"って意味なんだから
直ぐ隣だった日本の統治者、秀吉や家康がびびってキリスト教禁止にしちゃったのも頷ける話で
チラシの裏申し訳なす

103 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/12(月) 21:28:34 ID:5DuivToW
当時のスペインは太陽の沈まない帝国だしな
その座はイギリスに奪われることになるが
現代の西洋人は宣教師が侵略の先鋒だとは自覚してないらしいが
時代は下って清代末期の中国では裁判にまで口出すようになってる

111 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/01/13(火) 03:29:40 ID:Go//U01N
>>102
家康も伊達政宗も、遣欧使節だすまでにフランシスコ会のソテロはんだっけ。
耶蘇会以外の宣教師と出会ってけっこうマメに会っていたらしいし

家康はその前にウィリアム・アダムス(三浦按針)とか新教徒の当時いう紅毛人とも付き合いがあったんよね。

こう言ってはナンだが、耶蘇会に騙されるクラスの大名じゃ天下は狙えないよな

斎藤龍興の「それから」・いい話

2008年12月25日 01:19

523 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/24(水) 14:48:35 ID:18XEt6fK
美濃斎藤氏最後の当主斎藤龍興

稲葉山城を落とされて長島へ逃亡その後本圀寺で足利義昭を襲撃して返り討ちなったりと
大名時代とは打って変わって精力的に信長に抵抗するが刀禰坂の戦いで
かつての臣氏家卜全の子にたたっ切られて死亡(26歳)

一説によると死んでなかったという
彼は脱出し名前を変えて越中へ
現在の富山市のあたりで原野の開墾事業に従事
「仏様は見てるから」「お経の力でたくさん米とれるようになるから」などと
その辺の人たちを励ましながらいつの間にか開墾チームのリーダーのようになる
天正8年ごろにその事業もかたがつき元龍興は一帯を経力と名づけた
また鶴に導かれて地面を掘ってみると温泉がわいたのでここを整備した(霊鶴源泉)
その後彼は出家し興国寺の住職となり中興の祖となり寛永9年に87歳で亡くなったという
世はすでに徳川家光の時代であった



524 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/24(水) 18:57:20 ID:EhQ7Ma4m
九右ェ門伝説ですなぁ。

これが事実なら龍興の評価はうなぎ登りなのにw

525 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/24(水) 19:01:00 ID:mcD1Tz5r
龍興かは兎も角、その元となる人は居た訳だ・・・夢のある話だな