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雨森九太夫と観音岩

2021年09月26日 16:17

73 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/26(日) 15:40:16.03 ID:mrf8lI+2
雨森九太夫と観音岩

>>63で島原の乱参陣中に銃創を受け土佐へ帰国することとなった雨森九太夫であったが、その船路で重体になった時、一条の光が船を陸へと導き、九太夫はたどり着いた柏島で亡くなった。

この時船を導いた光はこの観音岩から発せられたと言う。

https://i.imgur.com/CVW7cY6.jpg
CVW7cY6.jpg
https://i.imgur.com/cxZpaCQ.jpg
cxZpaCQ.jpg


高知県観光サイトよさこいネット
https://www.attaka.or.jp/kanko/dtl.php?pcflg=PC&ID=6759
一般社団法人 大月町観光協会
https://otsuki-kanko.jp/tourism/content5



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雨森九太夫最期の戦い

2021年09月24日 16:58

63 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/23(木) 23:15:50.72 ID:uA6ewj70
雨森九太夫最期の戦い

元和偃武より22年が過ぎた寛永14年10月25日(1637年12月11日)、島原の乱が勃発。
幕府は板倉重昌を上使、副使として石谷貞清を任じて九州諸藩の軍の指揮を執らせ、原城址に籠った一揆軍の討伐にあたった。

この時、九州諸藩だけではなく多くの藩が使者の名目で名代の将に少数の兵を付けて島原に派遣し、討伐軍に加わった。

土佐山内家からは先ず、先代藩主・一豊の母衣武者を務めた板坂利正が代表として派遣されることが決まったが
利正が病に罹ったため(のちに死去)、代わりに雨森九太夫が代表となり鉄砲足軽30名と小頭2名(池田嘉兵衛と鈴木彦大夫)、
さらに九太夫預かりの弓足軽を数十名随行させて現地へと向かわせた。

山内忠義はさらに参陣した諸将への慰問の使者として中老の仙石但馬久勝父子と九州出身の馬周り・毛利久八吉次(父は豊前巌石城主の出羽守吉勝)を
後から派遣した。

12月29日に現地へ到着した雨森九太夫率いる土佐藩の部隊であったが、3日後の寛永15年元旦の板倉重昌指揮による総攻撃に参加した。

山内家資料所収の「南路志」と「御家中名誉」によって描写は異なるのだが、「御家中名誉」では三の丸まで攻め入ったところで、

そして「南路志」にては総攻撃で深く攻め入った板倉主水正(重矩)が進退ままならなくなってしまった。これを見兼ねた板倉重昌は
一揆軍へ掛出さんとした。九太夫はその鎧の袖を取って

九太夫「ここは大将が出る所ではありません。戦は駆け引きが肝要です。一旦引いて軍法を定め勝利しましょう。」

と、諫言した。しかし板倉重昌は

「その言葉尤もである。しかし、目の前で愚息の重矩が死なんとしているのを見捨てることが出来ようか!」

と叫んで九太夫の手を振り払って駆け出した。九太夫はこの老骨、力及ばずもお供申さん!と重昌に続いて駆け出した。
これを見た諸国の武士は、我劣らじと九太夫に続いて駆け出したが或は手負い或は討死し、重昌も遂に弾丸を眉間にぶち込まれて討死した。
この時、九太夫と共に参陣した山内家の鉄砲小頭池田嘉兵衛も銃弾で深手を負い、九太夫の郎党2名(若党・井澤仁左衛門と小者六助)も相果てた。

そして九太夫にも遂にその時が訪れた。

一揆軍の放った一発の銃弾が馬上の九太夫の股根を打ち抜いたのである。

幕府軍の総攻めは失敗に終わり、収容された九太夫であったがあまりの重傷であったため、翌一月二日に着陣した仙石久勝と代表を代わり、
一月七日に九太夫は土佐へ船で帰還することとなった。

だが、九太夫は徐々に容態を悪くし船が本国土佐の柏島に着く直前に船の中で亡くなり、同島にて埋葬された。

雨森九太夫氏康、享年七十五歳。戦国の世を生き抜いた男は安寧の世に突如起きた大乱で受けた戦傷でこの世を去ったのである。

参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意

続き
仙石久勝最後の戦い


64 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/23(木) 23:54:43.72 ID:WzdF+2m1
何でそんな老人を、と思うが戦を知ってる者って事なのかね
てか仙石久勝って仙石秀久の兄か、長生きだな

65 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/24(金) 10:10:52.54 ID:8xw8xQ9O
>>64
当初派遣予定の板坂利正も掛川以前からの歴戦の士だったみたいだし、雨森九太夫と仙石久勝も資料には旧主の石田三成や福島正則の元での武功の評価されてるからそう言う所を期待されてのことでしょうね。

67 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/24(金) 12:53:12.46 ID:EadEZBQZ
>>64
補足として九太夫の山内家部隊はこの総攻撃の時、御家中名誉では松倉長門守勝家の仕寄りを借りた(板倉内膳重昌の仕寄りとする書もあると補足有)とされる。

また、負傷した九太夫は参陣していた長崎奉行・榊原職直の医師・道與から薬を出され、一報を受けた国元の家老・野中兼山からも休齊という医師が派遣されることとなったが、帰国の船路にて亡くなったとのこと。

雨森九太夫の強弓

2021年09月23日 16:26

567 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/23(木) 08:51:07.75 ID:uA6ewj70
雨森九太夫の強弓

慶長5年(1600年)9月の関ヶ原の戦いの後、山内一豊の新規家臣召し抱えに応募して採用された雨森九太夫であったが、14年後の慶長19年(1614年)、大坂冬の陣に主君・山内忠義に従って出征した。

城中に向けて矢を射込む際、九太夫は矢柄に自身の姓名を漆書したものを放ち、その内の一本が城内に届いた。

大野半次(南國遺事では或は天野仁之助)という大坂方の武士がこれを見つけ、

「か樣の矢は奇特の嗜に候、大阪には珍らしく候」

と書き添えて直に打ち返した。

このことによって九太夫の強弓の名が敵味方に賞されたという。

『続 土佐偉人傅』『南國遺事』『土佐武道史話』より

568 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/23(木) 13:42:37.54 ID:uA6ewj70
>>567
ちなみにこの大野半次、天野仁之助については土佐武道師話によると、随筆「笑い草」に置いては土佐へ流れて来て武士に弓術を教え、九大夫の弓の師となっていた天野半之助(尾張徳川や松倉、広島藩に仕えたのと同一人物?)とする話があるようである。

この天野半之助、その名声を聞いた山内忠義から召抱えの声が掛かったけど、知行に不足を感じて承諾せず姿を消したと言う感じの話があるようなので、資料を探して詳細が分かればまた書き込みしたいと思う。



568 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/23(木) 13:42:37.54 ID:uA6ewj70
>>567
ちなみにこの大野半次、天野仁之助については土佐武道師話によると、随筆「笑い草」に置いては土佐へ流れて来て武士に弓術を教え、九大夫の弓の師となっていた天野半之助(尾張徳川や松倉、広島藩に仕えたのと同一人物?)とする話があるようである。

この天野半之助、その名声を聞いた山内忠義から召抱えの声が掛かったけど、知行に不足を感じて承諾せず姿を消したと言う感じの話があるようなので、資料を探して詳細が分かればまた書き込みしたいと思う。

569 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/23(木) 16:08:40.36 ID:CmRyn9h7
>>568
徳川家や浅野に仕えた天野半之助は元の名が中根左源次と言い、年齢的に関ヶ原で12歳だし、大坂では松倉麾下で後藤又兵衛隊相手に奮戦してるので後の名が一緒の別人だと思われる。

雨森ニテハ無之大盛ニテ候

2021年09月16日 15:10

539 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 22:46:33.25 ID:EnSSGzM9
雨森九太夫と大盛りの赤飯

>>530に書いたように、山内家に600石で召し抱えられた雨森九太夫であるが、
召し抱えた山内一豊とのエピソードを一つ。

慶長七年(一六〇二年)十月、土佐の山内家菩提寺・真如寺にて法事が催された時のこと

寺から出された赤飯を大盛りにて2杯、主君・一豊の眼前で食した九太夫であった。

これを見た一豊は

「雨森ニテハ無之大盛ニテ候」

と言い、九太夫にもう一杯赤飯を食べるように声をかけた。

九太夫はもう一杯赤飯を食べると

「此九太夫強勇ニテ戦場ヘ赴ク時ハ朝ニテモ晩ニテモ五人前ノ飯ヲ食シ二日程ハ無食ニテ相戦候者故三盛モ食シ候筈」

と言われたと言い、豪勇の士として主君・一豊にも親しく知られていたとのことである。

参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意
山内家資料 第一代 一豊公紀収 真如寺記録509頁
何処の廉頗やねん・・・



雨森九太夫のこと

2021年09月15日 17:42

530 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/14(火) 22:39:53.85 ID:eGQD6OyZ
雨森九太夫のこと

土佐雨森氏の初代である雨森九太夫氏康は元は近江の人で親子で石田三成に仕え、小田原の陣から朝鮮の役など
秀吉の数々の戦に参加した兵である。

石田家に仕えた時分は九兵衛と名乗っていた。隙を見て契約を迫る白いアレではない/人◕◡◡◕人\ボクトケイヤクシテマホウアシガルニニナッテヨ。

関ヶ原の合戦でも当然西軍に属し、前哨戦である九月十四日の大垣表の戦では2つの首を取って島左近に称賛されたという。
翌十五日の関ヶ原本戦でも奮戦したが苦戦し、そして彼の属する西軍は敗北・潰走する。

生き残った他の西軍将兵と同様に戦場を離脱しようとする九兵衛であったが、落ち武者を捕えんとする東軍の検閲は厳しく多数の元仲間たちが
次々と囚われていた。

そして九兵衛の前に立ちはだかったのは・・・
人斬り兵部が率いる井伊の赤備えであった。

(# ゚Д゚)「何者だ!?」

赤鬼どもに強く詰問される九兵衛。絶体絶命である。

(;゚Д゚)「そ、それがし・・・」

(# ゚Д゚)「あぁん!?」

(;゚Д゚)「山内対馬家中の者でござる!!!」

九兵衛は己が知己に山内家の者がいたことを思い出し、思いっきり嘘をついた。

( ゚Д゚)「なんだ味方か、よし通れ。」

(;゚Д゚)「失礼仕る」

こういうやり取りだったかどうかは定かではないが、いずれにせよ山内家の家臣を詐称したことで彼の命は関ヶ原の露と消えることはなかった。

雨森九兵衛氏康はのちにこう語っている。

( ゚Д゚)「山内家の御威光を借り不思議と命助かり申した。」

そして戦の論功行賞も終わり、慶長六年(1601年)山内一豊は遠江国掛川・5万1000石から土佐一国・9万8000石への加増転封となった。
この時、雨森九兵衛は山内家に仕官し関ヶ原の縁があってか召し抱えられることとなった。

石田家時代に450石だったが600石での召し抱えであったという。

九兵衛は九太夫と改名し、山内家によく仕えてのちには大坂冬の陣や福島家改易の際の広島城受け取りなど、大いに働きその天寿を全うすることと・・・

はならなかった・・・。

今宵はここまでに致しとうござりまする

参考:島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合
https://www.shokei-gakuen.ac.jp/univ/wp-content/uploads/sites/2/2019/07/86509874ddc951b05fc5872251d94c78.pdf
※PDF注意



532 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/14(火) 23:45:30.33 ID:oB2QnFu8
土佐の酒乱王となんかあったのかな

533 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 07:23:51.13 ID:EnSSGzM9
>>532
アル中とは特に何もないけど主命に殉じたと言う感じかなぁ。

534 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 07:48:23.10 ID:aPQMpRJM
雨森って見ると、はだしのゲンを思い出すのう

おどりゃクソ森! ギギギ…

535 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/15(水) 11:00:26.27 ID:4zUx+g5Y
バカボンパパの声を・・

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/15(水) 13:47:38.18 ID:kME7rw3o
雨森って言ったら浅井氏のトリオユニットの一員だけど
元近江の人って事だし親族だったのかな

537 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/15(水) 14:16:33.21 ID:r3+yBC2H
雨森氏といえば、キッセイ薬品の創業者は雨森氏だったそうな
雨森氏の紋が橘紋なのにちなんで橘生化学研究所
のちに読みを改めてキッセイに

538 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 15:17:12.95 ID:bttUh3TW
近江なら山内一豊も長浜にいたことがあるし、その時に何か縁が既に有ったのかも知れないなぁ。

山内家仕官にあたっては山内康豊の推薦もあったみたいだし

540 名前:人間七七四年[] 投稿日:2021/09/15(水) 23:45:05.51 ID:j9vATaNG
>>536
>>537

https://kijidasu.com/?p=30981

恐らく一族に間違いはないと思う。