623 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/09/28(火) 20:29:50.55 ID:7nwCmArB
予州の老父がまた語って曰く、
「世上の形勢を見るに盛んなる者は衰えて、衰える者はまた盛んとなるものだが、宇都宮
遠江守豊綱(伊予宇都宮氏最後の当主)は備後国で卒去した。
その子の豊治は零落し、その名を恥じて姓氏を変え、萩野与右衛門と称して小早川隆景に
陪従した。秀吉公は九州征伐をなされて、筑後の州半を小早川秀包(毛利秀包)に賜って
久留米の城に居住した。隆景は萩野与右衛門をもって領中の郡代とした。
この時、筑後国坂東寺村に蒲殿(源範頼)の虎月毛という馬がいた。その所以はというと、
むかし肥後国の菊池氏が源家の味方として忠があり、範頼はこれを感じて虎月毛を賜った。
この馬は寿命長くして、菊池家世々を渉って永禄年中においても生存した。
その頃、大友義鎮(宗麟)の武威盛大にして九州に冠たり。菊池氏はこれに服して婚姻の
好を結び自国を保守した。ここにおいて菊池家累世の宝器を出して大友氏に送る。虎月毛
もその一品である。義鎮はこれを受けて筑後国坂東寺村に居させ、田を給し飼口を付けて
これを育てた。その村が秀包の領となったのである。
萩野与右衛門はこの馬の由来を聞いて秀包に告げ、また田を増給してこれを養った。文禄
年中にこの馬は5百歳にして没した。郡中の凡民は葬の行粧をなして、野に出て弔う者は
1千有余人であったということだ」
――『南海通記(老父夜話記)』
予州の老父がまた語って曰く、
「世上の形勢を見るに盛んなる者は衰えて、衰える者はまた盛んとなるものだが、宇都宮
遠江守豊綱(伊予宇都宮氏最後の当主)は備後国で卒去した。
その子の豊治は零落し、その名を恥じて姓氏を変え、萩野与右衛門と称して小早川隆景に
陪従した。秀吉公は九州征伐をなされて、筑後の州半を小早川秀包(毛利秀包)に賜って
久留米の城に居住した。隆景は萩野与右衛門をもって領中の郡代とした。
この時、筑後国坂東寺村に蒲殿(源範頼)の虎月毛という馬がいた。その所以はというと、
むかし肥後国の菊池氏が源家の味方として忠があり、範頼はこれを感じて虎月毛を賜った。
この馬は寿命長くして、菊池家世々を渉って永禄年中においても生存した。
その頃、大友義鎮(宗麟)の武威盛大にして九州に冠たり。菊池氏はこれに服して婚姻の
好を結び自国を保守した。ここにおいて菊池家累世の宝器を出して大友氏に送る。虎月毛
もその一品である。義鎮はこれを受けて筑後国坂東寺村に居させ、田を給し飼口を付けて
これを育てた。その村が秀包の領となったのである。
萩野与右衛門はこの馬の由来を聞いて秀包に告げ、また田を増給してこれを養った。文禄
年中にこの馬は5百歳にして没した。郡中の凡民は葬の行粧をなして、野に出て弔う者は
1千有余人であったということだ」
――『南海通記(老父夜話記)』
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