わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない

2017年07月13日 17:31

945 名前:人間七七四年[] 投稿日:2017/07/11(火) 18:03:36.07 ID:aeyCj/OX
 前田肥前守利長なる者がいる。加賀大納言の子である。前田はその姓である。
大納言は、もともと、家康と官爵勢力ともに相等しかった。
秀吉が死に臨んで、秀頼を肥前守に依託して、「そこもとは、備前中納言秀家とともに、秀頼を奉じて大坂に居られよ。
諸事を調護するのは、そこもとにこれを一任する」と言った。
秀吉がすでに死んで、大納言も戊戌年冬に死んだ。
肥前守が、越中・加賀・能登の三州の地を襲ぎ、秀頼を奉じて、大坂に居し、その威勢は家康に劣らなかった。
高く門楼を建て、それが大坂内城と斉しいほど高かった。
彼はひそかに、上杉景勝・伊達政宗・佐竹義宣・宇喜多秀家・加藤清正・越中守らと、
家康を殺してその土地を分けようと謀り、血を啜って同盟し、盟約がすでに定まってから越中に帰った。
石田治部少輔が、たまたま家康にとがめられて、その領地である近江州に退いていた時に、
その謀を知り、ひそかに書面で家康に告げた。
家康は、己亥年9月9日、秀頼に挨拶するとかこつけて虚に乗じて大坂城に入って拠りどころとし、
肥前の家来を呼んで、その門楼を毀たせようとした。
家臣たちはみな、「わが主君は外におられ、まだ何の命令も聞いてはおらぬ。
死はただ一度のこと。内府の[命]令に違って死ぬとしても、
我が主君の命に違って死ぬことはない」
と言ってその命令に従わなかった。家康の怒りはますます激しくなった。
肥前の妻の甥であった秀家が行って肥前の家臣を喩し、撤去させ、
「そち達の主が私に言いおいた言葉がある。私が責任を取ってやろう」
と言った。
家康は、遂に関東の諸将に[命]令して、肥前が倭京に上ってくる道を塞ぎ、
又、石田治部少輔[三成]に[命]令して、近江州の要害を防備させた。
肥前守も城や隍を修理改築して固守の計を取り、
ひまひまには、狩猟にかこつけて、精兵数万を率いて越中・越後などの地に出没し、
景勝などともひそかに相互援助の盟約を結んだ。
群倭が家康に和解を勧めているが、家康は多分聞き入れないであろう。
思うに、この勢いでは、戦わなければすなわち和解するであろうし、和解しなければすなわち戦うしかない。
和解を、幸いにして、成立させないですませたならば、醜奴[倭]の方城はまさに一つの戦場になるであろうから、
わが国にとって幸いであるのはことさら言うまでもない。

(看羊録)
※前田利家が死んだのは己亥


スポンサーサイト

古今稀なる値段であった

2016年02月09日 09:54

280 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/08(月) 21:40:08.39 ID:hgTyXSQ3
日野肩衝茶入(元来は日野家御珍蔵)は次々と伝来があり、加賀様のお館に入りました。
井川善六から金一万両でのお買い上げであり、古今稀なる値段であった。
(本阿弥行状記)

調べてみたら、湯川善六という人から前田利長へ伝来していますね。
そしてもう一回湯川善六の元へ戻ってもいます



281 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 12:35:22.19 ID:vHAWVXux
何が良い話なんだろう

282 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 13:30:24.82 ID:my3cxd0i
前田が金一万両も出した
金払いのいい話?

283 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 13:43:51.89 ID:6lkYJXcB
長屋の浪人から屑屋が買い取った仏像を手に入れて磨いてたら中から小判でも出てきたんだろ

284 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 14:56:19.35 ID:IArT5ku2
今の価値に換算したときが怖いんですが

285 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 16:51:30.97 ID:pSVTyQTE
10億くらいかな

286 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 18:52:00.40 ID:pbn6bhoo
>>281
持ち逃げしたとか脅し取ったとかじゃなくて
ちゃんと金払って買ってんだぞ
充分いい話だろうが(戦国脳)

287 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 18:52:11.59 ID:OEiUCML7
国を貰うより茶器のほうが良かったとか言う人もおったわけだし

288 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2016/02/09(火) 20:33:10.15 ID:yt1305kz
宗峰妙超墨跡 「梅溪」号

大坂夏の陣を終えた前田利常(1593~1658)が、
加賀への帰途に立ち寄った酬恩庵で目にとめ、何度かの交渉後、
前田家と寺が続く限り、毎年米百石(現在の約750万円)を寄進することを約束して、
寺から前田家へ譲られたと伝わる。

http://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_04/08108_001.html

拝郷次大夫の討ち死に

2015年10月09日 12:28

798 名前:人間七七四年[aaaa] 投稿日:2015/10/08(木) 21:22:35.29 ID:2LGsNHl9
前田筑前守利長の近臣に拝郷次大夫という者があった。拝郷の祖父は五左衛門宗直(家嘉)といって、柴田勝家の臣であり、賤ケ岳で討ち死にした。父は丹羽長秀に仕え、小松の城にいた。
次大夫は十六歳の時、加賀に行き、利長の寵臣となった。慶長五年八月、利長と長重が仇敵の仲になると、次大夫は「長重は旧主であり、父親も丹羽家にいる。父母の主君に弓を引くのは、武士の定めと言っても不義である」と思い利長に暇乞いに行った。
利長も感じ入り、この戦が終わったら必ず帰参するように申渡した上で暇を出し、次大夫は同僚に挨拶をし、小松に帰っていった。浅井縄手では次大夫が一番手として討って出て、松平久兵衛と槍を合わせたが、日頃入魂の間柄であったので、笑い通していた。[
続いて水越縫殿助と槍を合わせたがこれも同様であった。その後、岩田伝左衛門と槍を合わせたが、決着をつけようと組打の最中、伝左衛門に討ち取られてしまった。
利長は首実検で、次大夫の首を見、無慚に思い涙した。松平・水越らも次大夫を思い、立派な忠孝者であったと称した。

『元禎筆記』



799 名前:人間七七四年[no] 投稿日:2015/10/09(金) 17:14:18.64 ID:SbIuOL0o
次大夫「俺、この戦が終わったら前田家へ帰参するんだ」

前田利長の事

2015年05月14日 17:56

773 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2015/05/13(水) 19:26:24.15 ID:Xi86n1fY
関ヶ原の一乱の時、石田治部少輔(三成)より、吉光の脇差に書状を添えて、前田利長を頼むという旨を
申しきた時、利長はこれを報告するため、徳川家康に家臣の野村治兵衛という者を使いとして派遣した。

家康は治兵衛に尋ねた
「三成は何事を、利長に頼むと言ってきたのか?」
治兵衛答える
「それを知る人は居りません。三成の使者は書状すら奉らず、すべて口上のみで伝えたのです。」

家康は治兵衛を側近くに召して密談し、また、夜もこの者を御寝所の次の間で寝させ、終夜
鷹狩の話をした。治兵衛も素より、鷹狩を好む人物であった。

翌日、家康は治兵衛に、金三十枚の価値がある腰の物と、馬を一疋下し置き、帰国することを許した。
この野村治兵衛は利長の無二の寵臣であった。彼が江戸から帰国する時、越前では西軍による関所が
作られ通行が遮られていたが、治兵衛は様々に申し開きをして無事加賀へと帰った。
これより、前田利長は家康に味方したのだという。

ある秘説に、利長からの口上は『それがし一生の内、家康公が秀頼公に如才あるまじきにおいては、
この度御味方申す。』というもので、家康は『その事、相違あるまじ』と返事したため、事済んだともいう。

前田利長が死んだのは、5月20日であった。その事は駿府に注進あったが、ただし、前田家よりも先に、
その家老であった本多安房守(政重)から本多正信への連絡のほうが早かったという。
このことは何か仔細が在ると、当時の世の人々は語り合ったそうである。

この注進が届いた時、徳川家康は碁を囲んでいたが、前田利長の逝去という事を聞くと
「さてさて、惜しき事かな。気の毒なことだ。」
そう言ってそのまま奥へと入ったいう。
そしてその翌月、家康は片桐且元らを召して、大阪に2,3箇条の仰せを遣わした。
関東のお心は国替えであるとした片桐且元は、淀殿を人質として江戸に下ることが第一であると
考えたが、大阪ではこれを拒絶したため、ついに事破れとなった。

大阪では太閤旧恩の諸侯の内、前田利長、加藤清正といった人々の病死は誠に力を失ったという。
そのためこの時は、それ以外の大名の中にも、5人か3人は自分たちに味方する者が
居ないということは無いだろうと、諸侯に頼み込んだのだという。

(明良洪範)



首一つ取るということは

2013年09月25日 20:09

385 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 05:51:27.42 ID:8YG71P0p
浅井畷の戦いのとき
 「小松勢が城を守るために、戦場から引き揚げてから、みんなで敵の首級を、
誰が、どこで、どれだけ取ったか語り合っている。」

 「首一つ取るということは、途方もなく疲れるものじゃ。団七兵衛という若者が、
長連竜の家来の小林なるものの首を取ったが、あまり疲れたので、本折町の八幡さま
の前で、その首を傍らにおいて休んでいたところ、松村孫三郎という者が馬に乗り、
若党七、八人を連れて通りかかった。ところが若党の一人が、『あの首は松村殿が、
先ほど突き倒されたものの首でござるぞ』と叫んだ。『それならその首をこちらへ貰え』
と言って奪い取ってしまい、小松勢身方同士で大喧嘩となってしまった。しかし大勢集まって来てとりなし、
ようやく首を七兵衛に戻したと、坂井土佐というさむらいが語っている。」

 「また同じ長連竜の家来に、とても力自慢の八田三助というのがいて、今弁慶と言われていた。
それが小松方の西脇左門と組み打ちして下敷きにし、首を掻き切ろうとしたとき、左門が、
『武士の作法だ、名を名乗らせてから打ち取れ』と叫んだ。
そこで三助が『さらば名乗れ』と言って一瞬気を緩めたとき、左門が三助を刎ね飛ばして、
逆にその首を打ち取ったという。」
――『桑華字苑』

百万石物語という本に書いてあった話





386 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 17:45:42.84 ID:HKsrG8Z4
まあ必要に応じて相手を謀るのもまた武士の作法だからね、命のやり取りの場でうっかり騙されちゃったなら首が飛んでも仕方ないね

387 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/09/25(水) 20:14:40.79 ID:c3aDqtW6
うむ。俺が教えた通りの首の取り方してるな。

前田利長、未来への遺産

2013年07月05日 20:01

612 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 02:45:02.26 ID:pyXRG0Tz
利長、未来への遺産


「瑞龍公世家」や「加賀藩史料」などによると加賀の太守・前田利長は、
弟の利常に跡を譲ってから自身は越中の開発をめざした。

関野と呼ばれた沼地を高山右近に拓かせ、詩経から引用して高岡と命名。
「前田家長久のために、何とかして財政の基盤となるものを…」
この頃病魔に侵されて臥せりがちだった利長は死を意識しつつ、高岡の整備を進める。
そして領内の優秀な鋳物師たちを集め、五千坪近い土地と諸役免除といった特権を与えて優遇した。
それは高岡を工業都市として発展させようとする利長の決意の表れでもあった。

利長の死後、一時高岡は衰退したものの利常たちの庇護で盛り返し、金物加工をメインに越中経済の中心になった。
そして今でも富山県は銅工業やアルミ加工などにおいて日本一のシェアを誇る工業県の地位を守り続けている。




613 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 03:30:50.27 ID:STkZBiM/
神通川…いや、なんでもないです。

614 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 03:48:56.63 ID:2oT87jeU
赤座さんが溺れたのは庄川だっけ

615 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2013/07/05(金) 05:47:23.85 ID:pyXRG0Tz
>>613
アレは飛騨からの汚染だから越中は被害者なのよ

太田但馬守長知謀殺の内容

2012年10月05日 20:37

721 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/05(金) 06:29:34.92 ID:7dNJWe3w
太田但馬守長知の謀殺
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-3125.html

これの謀殺の内容が出ていたので書いてみる

上にあるように、家臣である太田但馬守長知に愛妾を寝とられた前田利長はこれを甚だしく怒り、
横山大膳長知、山崎長門長徳の二人に、太田但馬の誅殺を命じた。
しかし太田但馬といえば、前田家を代表する武勇の者として有名であった。

横山大膳は命を受けて、勝尾半左衛門と共に登城した。
この時太田但馬は既に登城しており、何事も無く座していた。横山大膳、席にすこうとするその時、
突然側に居た侍童を激しく叱りつけた!

この騒ぎに驚いた太田但馬は急いでその場にやってきて、「何事か?」と尋ねる。横山大膳

「私が先に、この者に命じて書類の文案を作らせたのですが、このように間違いだらけなのです!
これを見てください!」

そう言って懐中よりその書類を出して太田但馬に渡す。但馬は体を屈め手を伸ばしてこれを受け取ろうとする。
その時

横山大膳、すかさず刀を抜いて大膳の頭を斬りつける。しかし浅手。「何事ぞ!?」太田但馬叫び
刀を抜いて横山大膳を刺す!違わず腹の真ん中を貫いた。が、『ガキッ』刀弾かれる。
横山大膳は太田但馬が剣術の達人であることを知っていたため、懐中に金属の鏡を忍ばせていたのだ。

そして横山大膳は身を躍らせ再び斬りかかり、ついに但馬を殺した。

勝尾半左衛門も走りよって後ろから但馬の背中を斬りつけたのだが、却って但馬によって傷を負わされた。
この時前田利長も但馬の剛勇を気遣い、薙刀を取って彼に挑んだという。
山崎長門は期を失って、ついに斬りかかることが出来なかった。
時に慶長七年のことであったという。

太田但馬守長知謀殺、についての話である
(武士道美譚)




「ミカンが食いてぇ・・・」と洩らしたのは、前田利長である。

2010年10月17日 00:01

724 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 00:26:23 ID:n0tNMc84
「ミカンが食いてぇ・・・」と洩らしたのは、前田利長である。

天正13年(1585)、父・利家から越中守山32万石を預かった利長だが、少年期を信長の小姓として畿内で過ごした
彼にとって、北国での生活は退屈なものだったのか、突然こんなことを言い出したのだ。
(ちなみに紀州や伊予でミカンの栽培が始まるのは慶長期を過ぎてからで、天正の頃は超高級品である。)

「・・・と、若殿が言っておられたが、この越中でミカンなんぞ手に入るのか?」
「まぁとにかく、方々に当たってみるしかあるまい。」
利長の近習たちは手分けしてミカンを求めたが、やはり京でも珍しい果実を、北国で探すことはできなかった。


そんなある日、近習の一人がある商家に立ち寄ったところ、菓子として見事なミカンを出された。
驚いた近習が亭主に利長の話をすると、亭主は四、五十ほどもミカンを持って来て、近習に渡してくれた。

翌日の朝、山盛りのミカンを見た利長は大いに喜び、四、五十もあるミカン全てを平らげた。
ところが、昼過ぎになって利長はひどい腹痛を訴え、病の床に着いた。医師の懸命の治療も、功を奏さなかった。

「これはいかん。若殿に万一の事あらば、我らは責任を取って腹を切り、後に続こう。」
近習たちは行水をして身を清め、ジッと利長の側近く詰めた。

夕方になってケロリと治った利長は、襖越しに近習たちの会話を聞いており、
「なにをしておる?わしの腹ごときで、お主らが腹を切る必要などないわ。早く帰って家族を安心させてやれ。」
と言って、早々に近習たちを解散させた。




726 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 00:38:24 ID:bSXqVZk4
いくら好きだからって、一度にみかん50個も食うなよw
というのは現代人的感覚なのかもな。
たった4,50年前の人すら、好物は今すぐ食べないと誰かに横取りされてしまうっていう感覚があったらしいから。
戦国時代なら、なおさら明日食うため残しておくなんて考えないだろうな。

727 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 00:42:09 ID:D/Lsq7hr
落語の「千両みかん」思い出した
(真夏に大店の若息子がみかんを食べたいとの思いが高じて病気になって、
みかん倉庫にたった一個だけあったみかんを千両だして買う話)

728 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 00:48:16 ID:v/kU6jxM
>>726
120万石の太守から横取り出来る人間などそうはいないだろw

729 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 00:49:55 ID:Plp4RxH7
これはちょっと食い意地の悪い話だろ

730 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 00:55:19 ID:bSXqVZk4
>>728
だから感覚の問題だって。

731 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 01:16:56 ID:YGAtepTY
あと、保存の問題で後で食べるって感覚はあまりないんじゃないのかな~

732 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 01:22:14 ID:oBoZIyQh
保存の問題もあったんじゃない?
北陸で寒くても腐る可能性はあるしね



733 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 01:32:07 ID:1M5MplOg
みかんを雪に埋めてウマー。

735 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/10/16(土) 02:20:28 ID:bSXqVZk4
>>733
この時代には埋めた金や食い物を掘り起こすプロがいたから危険w

利長が輿をかつぐ者達を見ると

2010年03月09日 00:02

488 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 21:32:12 ID:gUhdGWxl
前田利長が本能寺の変事を知ったのは京都見物に行く道中で
今の滋賀県あたりだった。
事態に動揺した一行はとりあえず領地の越前は遠いので
利長の妻(信長の娘)の郷里である尾張に行く事にした。

ところがふと利長が輿をかつぐ者達を見ると、どうも尾張に行くのが
嫌そうな顔をしている。
「私が妻子の事を思っているように、彼らもまた郷里の妻子を
気にしている。越前に妻子を残しているのだから無理もない事か…」

利長はそう言うと、輿を棄てて妻を馬に乗せ尾張に行かせた。
そして自信は安土城に入ったという。




489 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 22:16:43 ID:SIitZ2rH
本拠は安土、自領は越前だったのに尾張にあてはあったんだろうか(荒子?)
織田一門も他にいるし…
単に安土や岐阜よりは京から遠いからってことなのかな

490 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/03/08(月) 23:51:07 ID:/1UGV3/V
とはいえ、20前後の若侍が10も下の嫁と行動しているのが
戦国時代のすごいところ。

いざ、鎌倉へ!!!!!

2010年01月23日 00:12

911 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/22(金) 19:09:13 ID:ubPsIaZH
いざ、鎌倉へ!!!!!  1/2

前田利長が江戸入府を果たした時の事でした。
加賀藩は、当時はかなり資金が潤っていた為に

「見苦しい姿をしていて、田舎サムライと思われたくない。
 きれいに格好を整えて参ろうではないか」

そこで、馬の鞍に新調の虎の皮をかけ、
南蛮渡りの美しいラシャの布であつらえたカッパを着用するという
おしゃれぶりでバシッときめた利長の一行は、意気揚々と富山城を旅立ったのでした。


そして、江戸に向かう道中、鎌倉近くにやってきた時の事。


( ゚Д゚)「なぁなぁ俺ら、せっかく鎌倉の近くまで来たのに、
    このままだと一生鎌倉なんて見ることもねェぞ!
    ちょっと鎌倉見物行かねぇか?」
(=゚ω゚)「あ!俺もそれ思ってた、行こうぜ、行こうぜ!」
ヽ( ゚Д゚)人(゚Д゚ )ノ「いざ、鎌倉へ!!!!!!!」


と供の者50人中30人近くが勝手に鎌倉見物に行ってしまったのでした。

912 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/22(金) 19:10:12 ID:ubPsIaZH
いざ、鎌倉へ!!!!!  2/2

そして、タイミングの悪い事に
このとき、一番逢いたくない西国大名と出会ってしまい

(・∀・)「あれ~~~利長殿。格好はえらく立派ですが、またえらく少数精鋭ですなぁwwwww」

( ゚Д゚)「ハァァァァ?なに言ってんだ?ここにちゃーんと・・・・」
Σ(゚Д゚)「あれ?うそ!少な!」
とびっくり仰天!!!!

さすがに温厚な利長もこれにはブチギレ
(# ゚Д゚)「このようなことは、あってはならぬこと!!!!!!! 切腹じゃぁ!!!!!!!!!!!!」


・・・・がなぜか?
鎌倉見物に行った者に切腹や召し放ちはせず、
罰金を科しただけでしましたそうです。

どこまでも甘いぞ利長・・・・・・・・




913 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/22(金) 19:15:39 ID:JRHDzDbd
なんたるフリーダムwwww

914 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/22(金) 19:17:41 ID:zOyTLTOT
江戸時代初期の加賀人
しかも終わり生まれ近江育ちの利長の部下が
田舎侍に見られるかどうかを気にするものなのかね?

915 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/22(金) 19:27:33 ID:ubPsIaZH
田舎侍と同じように見られたくないという意味だと思われます。
派手な格好して流石加賀藩と思われたかったんでしょうね。

916 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/22(金) 19:33:21 ID:ZD6gLp+O
全体の6割が居なくなってるじゃねーか

940 名前:人間七七四年[] 投稿日:2010/01/22(金) 22:24:09 ID:/pbrbubR
上の話の前田利長が逢いたくない西国大名って誰だろうか?

942 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/22(金) 22:32:37 ID:bhC3IEZQ
どうせ市松か三斎だろw


943 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2010/01/22(金) 23:04:42 ID:/GdPmdrL

>>942
アンカないから家忠のイラストのことかと思ったじゃねえかw

太田但馬守長知の謀殺

2009年11月09日 00:09

78 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2009/11/08(日) 12:51:28 ID:UPXZF7aI
有名だがまとめスレに無いようなので。

慶長7年5月、金沢城内本丸御殿にて、加賀前田家筆頭家老太田但馬守長知は、
主命により家老横山大膳長知らによって誅殺された。
太田但馬は数多の戦場を経た剛の者であったから、斬りかかった家臣数名が
切り殺され絶命、大怪我、抵横山大膳も危うく突き殺される寸前であった。

藩主前田利長の命であった。
利長の愛妾との密通を犯したとの咎による、とされた。
後日愛妾おいま他数名は、眼をえぐり取られ斬首という残虐な処刑が
百名を超す家臣らの前で執行された。

前田利長、父利家のばさらな気質とは異なり、ひどく慎重で己の心持を
滅多なことでは人に明かさない男であった。
親戚でもあり、関ヶ原の折も、大聖寺城、浅井畷の功は抜群であり、
家中の最重要人物でもある太田但馬を討った理由は、様々な憶測から
悪狐の憑依なる伝説までも生んだ。

愛妾を寝とられた恨みというものが、一般的である。
男ぶりの良い太田但馬を、愛妾らが憧れ夢見る如く見つめる様子を、
利長が憎く思っていた、或いは己の功を鼻にかけ増長する太田但馬を
誅するに至った、ともいう。

が、家康を嫌う太田但馬が、かねがね豊臣から徳川家に傾こうとする
利長の政治手法にことごとく異を唱え、家康への恭順の意を示すための
生贄にこそ太田但馬が最適であった、というのが真相ではなかろうか。


参考
太田但馬守長知謀殺の内容
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-6857.html


織田信長の娘、永姫のプレッシャー・悪い話

2008年12月29日 00:03

734 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/28(日) 10:07:30 ID:z5VTXpja
織田信長の娘に永姫と言う名の姫がおりました
彼女は後の加賀藩主前田利長に嫁ぎ夫婦仲も良好
が、二人は子宝に恵まれませんでした
唯一生まれた娘は早世
嗣子がいなければお家の存続もままなりません
結局、利長は弟利常を養子にして前田家を継がせました
永姫には相当のプレッシャーがかかっていたのでしょう
利常の生母で利家側室の寿福院が利長生母で利家正室の芳春院と仲が悪かったとされる事も影響しているかもしれません
前田家の文章には
「どんな女でも良いから夫の子を生んで欲しい」
との永姫の悲痛な発言が残っています

御家第一、そんな戦国女性のお話


芳春院は賢妻とされているのでマイナスイメージのある寿福院との対立は創作では抹殺されている
まあ、他の側室とは仲が良かったらしいけどね
歴史という物の悪い部分



735 名前:人間七七四年[] 投稿日:2008/12/28(日) 10:14:29 ID:MyyPcZhH
>>734
露出狂の利常はなんやかんやで芳春院血統を冷遇したわなw


736 名前:鼻毛の殿茶魔か[sage] 投稿日:2008/12/28(日) 10:55:13 ID:ybm5eBCO
>>735
ともだティンコー! とフラッシュ(露出)して幕閣にも恐れられたという

だが加賀百万石の外様大名に対する警戒感は和らいだ……のか?