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浅野彦五郎・新九郎兄弟捕縛

2022年02月07日 15:17

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 00:09:32.56 ID:v+FyJ//b
>>312の前に出てくる話
「吉田家伝録」から浅野彦五郎・新九郎兄弟捕縛

吉田重成は捕物(罪人を生捕)を三十余度行ったという。
その昔、浅野彦五郎というものがいて長政君に千石を与えられ、財利を量る才に抜きん出ていたため、唐土との交易に携わっていた。
しかし私腹を肥やしていたことが露見し重成の家に預けられることとなった。
重成「尋問するので吾に預けられることになった。礼儀のため刀と脇差を吾に預けよ」
彦五郎「我が異国に渡った時に受け取った金銀の勘定が相違しているため、罪が行われるのは必定。
今吾子(ごし)を討ち果たそうと思ったが慇懃に礼を尽くされたため刀と脇差を預けよう」
そのあと彦五郎は菅正利に預けられたが、二、三日して長政君からまたお召があり
「彦五郎の弟の新九郎も同罪のようなので重成の家に呼んでからめとらえよ」とのことだった。
彦五郎が菅に預けられたのち、新九郎が放火して奪い取ろうとするような風聞があった。
そこで重成は家人の村山理兵衛を呼んで策を授けたあと一人で新九郎の家に向かい、
「彦五郎の尋問が終わるまで、新九郎は我が宅に預けられることとなった」と言った。
新九郎は家族へ別れを済ませたのち白帷子で雑談をしながら重成の屋敷にきた。
新九郎が重成に続いて入ろうとすると、掃除をしている用人のふりをしていた理兵衛が後ろから新九郎の足を捕らえ、
重成は振り向きざま新九郎の髻を捕まえて引き倒した。
新九郎は力量が優れ、相撲を好んでおり、力を入れて脇差を抜いたが、重成と理兵衛から縄をかけられ捕らえられてしまった。
のちに彦五郎も新九郎もともに誅されたということだ。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 00:36:38.92 ID:v+FyJ//b
と、これだけなら別に悪い話ではないのだが、
実はこの浅野彦五郎、お綱さん話で釜炒りにされた浪人と同姓同名?なのである。
また、お綱さんの夫であった麻井四郎左衛門だが、「箱崎釜破故」では元は「礒之丞」という名前で小姓となり四郎左衛門という名前が与えられたとされる。
(さすがにサザエさんの磯野とは関係ないと思うが)
ついでに元々の伝承では明石四郎左衛門という名前で(「黒田騒動箱崎文庫」のお綱さん話でも)、伝承の過程で浅野彦五郎と苗字が逆になった説もあるとか。
その場合、実は
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13255.html
残金は後でやるぞ

この「博多細伝実録」の、黒田長政が通りに足を出している町人を斬った話で出てくる小姓の名前が明石四郎左衛門であり
「寛永箱崎文庫」ではこの話を、黒田忠之が通りに足を出していた鬼河原源蔵という暴れ者に小姓の明石四郎左衛門が代金を聞く話にしちゃっているので
(ついでに斬ったのは倉八十太夫で喜んだ忠之が八千石与えた設定)
お綱さん話に出てくる浅野彦五郎も明石四郎左衛門も実は黒田長政の時代の人物ではないか?という疑惑が

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/07(月) 01:22:18.06 ID:v+FyJ//b
考えたら「箱崎釜破故」で浅野彦五郎を処刑するための釜をつくれと命令をされたが、どの鋳物師もやりたくないもんだから
博多・甘木・芦屋の三ヶ所の鋳物師が籤を引いて、当たった芦屋の太田氏が釜を鋳造する場面があった。
博多の鋳物師の代表格が礒野家だとしたら、タイトルの「ふばこ」にわざわざ「釜破故」と「釜」をあてているし
四郎左衛門こと礒之丞が箱崎で美男と噂になるところから物語が始まっているから
礒之丞の名前を考えるにあたって博多の礒野を念頭に置いている可能性はあるか


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宝はいつでも金銀に限るわけではない

2021年12月24日 16:19

908 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2021/12/23(木) 21:59:55.29 ID:VMPClW5p
>>905の吉田重成の息子の吉田久太夫について
黒田藩のさまざまな話をまとめた江戸中期の「博多細伝実録」から

黒田忠之の出世頭の侍に吉田久太夫というものがいた。二千五百石取りであった。
十六の時に島原の乱に出陣したが後衛を命じられたため、不満に思い先駆けを願ったが聞き届けられなかった。
武士と生まれて留守番とは口惜しいと思い、抜け駆けし先手に加わり敵を追いかけた。
これを見た忠之は「主人に叛く言語道断の奴ばらめ」と激怒し
翌日、久太夫を呼び「城楼に登って敵味方の様子を見て参れ」と内心殺すつもりで命令した。
久太夫は「かしこまりました」と言うや否や城楼に駆け上り、敵城の内を見渡した。
鉄砲の弾は雨のように降り注ぎ、兜の緒が切れたり、右肩をかすめたりしたが、久太夫は慌てず、こよりで兜の緒を結び直しそのまま偵察し続けた。
敵も味方も「あっぱれな若武者だ」と勇気を賞賛した。
忠之はよけいに立腹し、「汝のようなものはわが陣中には不要である!どこにでも立ち退け!」と告げたため
さてもの久太夫も国を追われ、三年ほど伏見や草津で馬の世話をして露命をつないだ。
その後、松平讃岐守が久太夫のことを知り
「黒田浪人吉田久太夫といえば島原の乱において十六でありながら角前髪を振り乱して勇気を披露し味方を鼓舞した者ではないか。
そのような惜しい士を埋もれさせてなるものか」
と方々に手を回して久太夫を探し出し、紛れもなく本人であると知ると讃岐に連れて行き三千石を与えた。
その後、江戸に諸大名滞在の折、讃岐守の屋敷に忠之も含め国持大名が集まり、料理に舌鼓を打ち、国々の噂や名物について話に花を咲かせた。
この時、讃岐守は忠之に対して「わたしは貴公より小身であり、国の財とてさしたるものもありませんが、近来殊のほか優れたものを見出しました」
と久太夫を忠之の前に出し、外に連れ出して久太夫の巧みな馬術を見せつけた。
世上流布する言葉に「宝はいつでも金銀に限るわけではない」と言う通りである。
忠之は大いに後悔し、久太夫に詫び、讃岐守と交渉して黒田藩に同じ三千石で戻してもらうことになった。
その後も久太夫の家は繁盛し、代々「久太夫」を名乗っている。