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一祐働きの事 付、月山の長刀

2022年02月12日 15:37

335 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/11(金) 19:06:14.95 ID:W8VD7UMk
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13378.html
怯者が負け勇者が勝つだけのことだ

吉田一祐の話を「大友興廃記」から

大友興廃記」より一祐働きの事 付、月山の長刀

さる天正十四年に薩州勢討ち入り、足軽六十人が乱妨のために臼杵の城下へ押し入り、津久見に帰ろうとした。
吉田一祐という武士は平原坂に待ち伏せを行い、長刀をふるい足軽十八人を討ち取った。
一祐の侍たちも二十三人を討ち取り、宗麟公から褒美に月山の長刀を拝領した。
大友家退散の後、臼杵佐伯は太田飛騨守(一吉)のおさめるところとなったため、一祐は前々の知行である栗山で耕作していたところ、
飛騨守家老・高橋六右衛門尉という者が一祐の月山の長刀を所望した。
一祐「一命に代えても取らせない」と断ると、高橋は一祐を恨み
年貢の取り立てがうまくいってないと飛騨守に言って兵を出してもらい
「まず人質をとってそのあとに滅ぼそう」と足軽十人に言って「事がならないようなら一祐をからめとれ」と栗山に遣わした。
兵が門の前から「百姓(一祐)の人質を出せ」と言うと一祐は「人質を出すべき理由もない、武具にてお相手しよう」と断った。
足軽が「力及ばず」と言ったところ高橋は自ら出陣すると馬で行ってみれば門の扉に矢狭間をあけて一祐がかまえていた。
高橋は不敵な者なので「この扉の矢狭間はなんだ?」と仔細を問うと
一祐「百姓の家のため武具は持たず、高田という金よき鎌を高橋殿の足にひっかけてはあしからん」とはやしたてた。
高橋「即時に討ち果たさん」と臼杵に急を告げ臼杵の家中の衆で栗山の屋敷を取りかこんだ。
一祐の一類六十余人は家に籠った。

336 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/11(金) 19:11:56.68 ID:W8VD7UMk
ここに豊後の住人、植田玄佐鎮定の嫡男で善三郎というものがいた。
飛騨守は善三郎に「おまえは一祐と旧情があるため話をつけよ」と命じた。
善三郎が扉を開けようとすると百姓が引き留めて
百姓「一祐は昼時に妻子を殺して、焼き草をつみ、その上に拝領の長刀を添えおいているため、入らない方がよいでしょう」と言った。
一祐に一人の甥があった。日頃不仲であったがこの度一祐に一味しようと言ってやってきた。
一祐は大いに怒って「汝は臼杵に頼まれたのであろう。さしづめ一祐の首をささげれば知行を安堵、との謀であろう」と追い返した。
甥はしばらくすると妻子を連れてきて妻と子を害した。
一祐はこれをみて涙を流し感じて屋敷に引き込んだ。
一祐の屋敷は岩壁がめぐる険阻な地形でただ一口だけあいていた。
岩壁につけてある大竹は二尺、三尺の長さで切っ先をするどくしてあった。
しばらくは屋敷を囲んでいる武士も破れず過ごしていると、一祐が扉をあけて、長刀を手にして攻めかけてきた。
寄せ手はあるいは長刀に斬られ、あるいは岩壁の竹に貫かれて三百六十人が討ち死にした。
飛騨守の伯父・通随という人も一祐の長刀に斬られ傷を負い、岩壁に砕けてうせた。
その後、一祐が門を閉じ引きこもると、夕方に裏門から人が入って火をつけ焼いた。
この火事の隙に武士が乱入してきたが、一祐に斬られ、退けられ、向かおうとする敵は一人もなかった。
高橋六右衛門尉と植田善三郎が「進みてはや一祐を討ち取れ」と下知した時、物陰から鉄砲で一祐の肩の骨をうち通した。
一祐が長刀を突き立てているところに、植田が二つ玉の鉄砲で一祐の真ん中をうち通し、脇にいた敵が「これは一祐ぞ」と首を取ろうとしたが、
一祐は伏しながら長刀で彼の者の膝を払って殺した。
そののち平左衛門尉と言う者が、一祐が伏しながら振るった長刀で片膝に傷を負いながらも、一祐の首を取った。
一祐の甥は佐藤仁右衛門尉に討たれた。
この度の戦いで一祐は八十三人を討ち取った。雑兵の討ち取った数はしれなかった。

この月山の長刀は先年、大友政親公(16代で宗麟の5代前)の御代に山伏が「出羽国歯黒山より、さる方の進上なり。御披露あれ」といってきた。
政親公は古庄八郎を奏者にして「さる方とは覚束ぬ」と言うと、この山伏は「失念申し上げるに、たださる方よりと御披露あれ」と申した。
古庄が政親に披露している間に山伏は消えるがごとく失せた。
この度、一祐が討死したのも主君の御恩賞を忘れず、長刀を他人の宝となすまい、と思い入った故だろう。



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怯者が負け勇者が勝つだけのことだ

2022年02月04日 18:00

6 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/04(金) 00:55:25.95 ID:93vQYRHj
豊後の臼杵に、吉田一祐という者があった。力は片手で百斤(60kg)を挙げても重いとも思わず、
鎧は銃弾が穿つことも出来ないほど厚いものを着し、二尺七寸(約81cm)の腰刀、一尺八寸(約54cm)の
短刀は、それぞれ厚さ三寸半(約10cm:本文ママ)に作り、刃は蛤貝の耳の如くであり、挟み抜いて
これを振るに、竹を振るよりも軽々としていた。

ある年、薩摩の軍が豊後を攻めた時、味方が敗走した。これに一祐は怒り、声を上げて逃げる味方を
叱咤し励ましたがなお止まず、そこで一祐は彼等より先に走り退いて、土橋の前に来ると、
自身の三間柄(約5.5㍍)の鑓を横たえ、土橋を渡ろうとする味方を推し留めようとした。

鑓の柄の所まで逃げ掛って来た者が三、四十人。一祐は鑓の柄を握り、鎧の胸に当て、
「曳け!」という声とともに推し還すと、三、四十人の者達は後ろ足に成って推し還されること
二十歩ばかりであった。一祐は大声で呼びかけた

「私がここに在る以上、この橋を渡すことは出来ない。この橋を渡らねば、川は折節秋水漲り、
底も知れぬほど深い。ここに堕ちて溺死するか!
敵も人なり、我も人なり。怯者が負け勇者が勝つだけのことだ。どうして父祖の姓を汚し、子孫に
辱めを残すということを考えないのか!」

そう、跳ね上がり、地を踏み鳴らして諌め立てると、皆引き還し、迎撃に出て薩摩軍を退却させた。

(志士清談)