344 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:22:41.38 ID:pM3JFnrJ
「大友興廃記」より高城川の戦い(耳川の戦い)
(大友の軍配者・角隈石宗が「彗星が出て不吉だから、四十九の厄年だから、大友氏と島津氏は両家とも家祖が頼朝の息子で御連枝だから」
といろいろ理由をつけて島津との戦をやめるよう、大友宗麟に諫言したが、結局は日向に繰り出すこととなり、十月十一日に大友軍が高城を包囲し戦闘が始まった)
互いに日夜鉄砲を打ち合って日を過ごしていたところ、島津義久公は鹿児島で十一月七日の夜に
「うつ敵は 龍田の川の もみじかな」という霊夢を見た。
義久「これ、天のあたえたまう所なり、軍は大利あるべし」と悦び、大隅・薩摩から十五から六十の土民・百姓まで戦に駆り出した。
四万の兵で十一月十一日に高城まで押出し、佐渡原に義久公本陣をおいた。
この時、白狐が義久公の御旗本より敵方へ向かったため、薩州の家の吉兆であるとみなした。
(この後、薩摩の布陣の説明が延々と続く)
345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:25:21.38 ID:pM3JFnrJ
大友軍の先陣、佐伯宗天(惟教)から御本陣に薩摩勢の援軍について注進をしたのち
宗天は「御旗本の到来を待つべし」と主張。
一方、もう一人の先陣大将・田北鎮周は「御本陣への注進には及ばず、ぜひ戦をせん」と主張。
宗天「大軍と大軍の合戦においてはさようのおもむきにては利を得ざるものなり。
まず敵の手立てを見計らい、味方の人数配置し種々の武略計略をもちいて勝ちをおさむるものなり」
また軍配者・石宗も「多勢を使うは大事のことなり。早速敵陣にかかりては勝利あるまじ。
その仔細は陣の形を見るに、この方よりかからんを待つらしくおぼゆ。
敵色を見計らい、この方にても策立てあるべし。」と宗天に同意。
田北鎮周「各々は申さるるになされよ。この鎮周においては目の前に見ゆる敵を、さようにのびのび見んような分別は一向に同心ならず。
明朝、鎮周先駆け討ち死にして見せん」とわが陣へ帰る。
石宗「鎮周、日ごろの覚悟よきとも、軍法に背く分別にてはよきことあるまじ。
人数のくばり、軍の手だてもいたずらなり。豊後にて申し上げたがごとく、当年大軍を起こすこと不吉なり。」
宗天「先陣を仰せつけられ、鎮周にわかに気を負い、無分別となる。
軍に利を失い、日ごろのほまれも水になるべし」と悔やむ。
諸軍将は鎮周に同心し、宗天の意見に従うものはわずかであった。これは不吉の相であった。
臼杵惣左衛門、柴田何左衛門、斎藤進士兵衛、この三人一同は、かくなる上はと
「鎮周、かくのごとき分別なれば、明朝討ち死にあるべし。諸軍勢も利を非に曲げてかかるゆえ、利あるまじ。
この食い違いを推し量るに、宗麟公の果報も末なり。御運かたむく端なるべし。
明日死ぬべき命ならば諸郡に先立ちて討ち死にせん」
ということで、十一月十一日申の刻のおわりに三人かけだして討ち死にした。
宗天は相備えを三段にしようと佐伯掃部介を使者として鎮周に使いを出したが、掃部介が鎮周の陣に行ってみると、かがり火をきかせて
大魚を焼き、明朝討死しようと酒宴をしていたため、掃部介は宗天の伝言を伝えず帰還した。
掃部介から鎮周の覚悟のほどを聞いた宗天は
「今度、鎮周よこしまなる分別にて討ち死にせんことのみ思い軍に勝つべきてだてなし。まばらけの軍にては利を失わん」と仰せになり、
御子息の惟真、鎮忠も「おおせのごとく、この度の軍はみな談合も不合なるものばかりにてよきことあるまじ」と賛同した。
とはいえ鎮周だけに戦をさせるわけにもいかないと、宗天軍も明朝の出陣を決意した。
346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:30:16.85 ID:pM3JFnrJ
翌、十二日の卯の刻の終わりに鎮周は田北勢を率い、宗天も陣を三段構えにした。
鎮周は薩州の先手・本郷(北郷?)の軍を突き、敵陣が魚鱗であるとみた宗天の勢は偃月に陣を変え、本郷の六千余の陣を打ち破り、本郷(時久と久盛?)を討ち取った。
味方後陣の勢も続けてかかり、敵勢を討ち取り、大利を得、敵に敗軍させ、財部までおいこみ、川辺に陣取ったため、高城のおさえも豊後勢の若武者も先陣に加わろうとかかっていった。
その時、敵はもとより鳥雲の陣を奥義としていたため、島津右馬頭(以久)が川上からより横槍を入れ、また城からは山田新助(有信)を侍大将として城中の人数を出してきて、
義久公も佐土原より旗本をよせてきて、豊後勢の陣の道を取り去った。
一方には大沼、または広い池があり、敵は地理案内のため、豊後勢を沼や池に追い込んだ。
こうして豊後勢は討たれて利を失い、宗天父子三人は戦死、鎮周も討死に、田北勢の武士も過半が討たれた。
宗天・鎮周が討たれたため、薩州が大利を得た。この戦いで敵味方六万六千余が討ち死にした。
宗麟公の御旗本から卯の刻に「辰の刻に御本陣をよせる」と使者がきたが、鎮周の型破りな無分別のために豊後勢はこのようになった。
これを議すると、宗天・鎮周がこの度、先陣の両大将をたまわり、股肱の臣として命を全うすべきでありながら、鎮周の無分別のために利を失ったことは、天命だったのだろう
十一月七日の夜、義久公の霊夢に出た
「うつ敵は 龍田の川の もみじかな」というお告げのごとく、豊後勢は池川にて大勢討ち死にし、天より勝利を義久公に授けたのであろう
347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:35:28.00 ID:pM3JFnrJ
なおこの後「宗天の人数 戦死の侍」の条があり、
佐伯宗天は平生、家臣に対しても礼をもって接していたことご書かれており
主君とともに敵に対して一歩も引かずに討ち死した家臣
百二十人の名前が数ページにわたって記されている。
佐伯宗天(惟教)と息子の惟真・鎮忠が戦死したため
豊後佐伯氏の家督は惟真の息子の惟定が継ぐことになる
↓この前出た話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13371.html
豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった
「大友興廃記」より高城川の戦い(耳川の戦い)
(大友の軍配者・角隈石宗が「彗星が出て不吉だから、四十九の厄年だから、大友氏と島津氏は両家とも家祖が頼朝の息子で御連枝だから」
といろいろ理由をつけて島津との戦をやめるよう、大友宗麟に諫言したが、結局は日向に繰り出すこととなり、十月十一日に大友軍が高城を包囲し戦闘が始まった)
互いに日夜鉄砲を打ち合って日を過ごしていたところ、島津義久公は鹿児島で十一月七日の夜に
「うつ敵は 龍田の川の もみじかな」という霊夢を見た。
義久「これ、天のあたえたまう所なり、軍は大利あるべし」と悦び、大隅・薩摩から十五から六十の土民・百姓まで戦に駆り出した。
四万の兵で十一月十一日に高城まで押出し、佐渡原に義久公本陣をおいた。
この時、白狐が義久公の御旗本より敵方へ向かったため、薩州の家の吉兆であるとみなした。
(この後、薩摩の布陣の説明が延々と続く)
345 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:25:21.38 ID:pM3JFnrJ
大友軍の先陣、佐伯宗天(惟教)から御本陣に薩摩勢の援軍について注進をしたのち
宗天は「御旗本の到来を待つべし」と主張。
一方、もう一人の先陣大将・田北鎮周は「御本陣への注進には及ばず、ぜひ戦をせん」と主張。
宗天「大軍と大軍の合戦においてはさようのおもむきにては利を得ざるものなり。
まず敵の手立てを見計らい、味方の人数配置し種々の武略計略をもちいて勝ちをおさむるものなり」
また軍配者・石宗も「多勢を使うは大事のことなり。早速敵陣にかかりては勝利あるまじ。
その仔細は陣の形を見るに、この方よりかからんを待つらしくおぼゆ。
敵色を見計らい、この方にても策立てあるべし。」と宗天に同意。
田北鎮周「各々は申さるるになされよ。この鎮周においては目の前に見ゆる敵を、さようにのびのび見んような分別は一向に同心ならず。
明朝、鎮周先駆け討ち死にして見せん」とわが陣へ帰る。
石宗「鎮周、日ごろの覚悟よきとも、軍法に背く分別にてはよきことあるまじ。
人数のくばり、軍の手だてもいたずらなり。豊後にて申し上げたがごとく、当年大軍を起こすこと不吉なり。」
宗天「先陣を仰せつけられ、鎮周にわかに気を負い、無分別となる。
軍に利を失い、日ごろのほまれも水になるべし」と悔やむ。
諸軍将は鎮周に同心し、宗天の意見に従うものはわずかであった。これは不吉の相であった。
臼杵惣左衛門、柴田何左衛門、斎藤進士兵衛、この三人一同は、かくなる上はと
「鎮周、かくのごとき分別なれば、明朝討ち死にあるべし。諸軍勢も利を非に曲げてかかるゆえ、利あるまじ。
この食い違いを推し量るに、宗麟公の果報も末なり。御運かたむく端なるべし。
明日死ぬべき命ならば諸郡に先立ちて討ち死にせん」
ということで、十一月十一日申の刻のおわりに三人かけだして討ち死にした。
宗天は相備えを三段にしようと佐伯掃部介を使者として鎮周に使いを出したが、掃部介が鎮周の陣に行ってみると、かがり火をきかせて
大魚を焼き、明朝討死しようと酒宴をしていたため、掃部介は宗天の伝言を伝えず帰還した。
掃部介から鎮周の覚悟のほどを聞いた宗天は
「今度、鎮周よこしまなる分別にて討ち死にせんことのみ思い軍に勝つべきてだてなし。まばらけの軍にては利を失わん」と仰せになり、
御子息の惟真、鎮忠も「おおせのごとく、この度の軍はみな談合も不合なるものばかりにてよきことあるまじ」と賛同した。
とはいえ鎮周だけに戦をさせるわけにもいかないと、宗天軍も明朝の出陣を決意した。
346 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:30:16.85 ID:pM3JFnrJ
翌、十二日の卯の刻の終わりに鎮周は田北勢を率い、宗天も陣を三段構えにした。
鎮周は薩州の先手・本郷(北郷?)の軍を突き、敵陣が魚鱗であるとみた宗天の勢は偃月に陣を変え、本郷の六千余の陣を打ち破り、本郷(時久と久盛?)を討ち取った。
味方後陣の勢も続けてかかり、敵勢を討ち取り、大利を得、敵に敗軍させ、財部までおいこみ、川辺に陣取ったため、高城のおさえも豊後勢の若武者も先陣に加わろうとかかっていった。
その時、敵はもとより鳥雲の陣を奥義としていたため、島津右馬頭(以久)が川上からより横槍を入れ、また城からは山田新助(有信)を侍大将として城中の人数を出してきて、
義久公も佐土原より旗本をよせてきて、豊後勢の陣の道を取り去った。
一方には大沼、または広い池があり、敵は地理案内のため、豊後勢を沼や池に追い込んだ。
こうして豊後勢は討たれて利を失い、宗天父子三人は戦死、鎮周も討死に、田北勢の武士も過半が討たれた。
宗天・鎮周が討たれたため、薩州が大利を得た。この戦いで敵味方六万六千余が討ち死にした。
宗麟公の御旗本から卯の刻に「辰の刻に御本陣をよせる」と使者がきたが、鎮周の型破りな無分別のために豊後勢はこのようになった。
これを議すると、宗天・鎮周がこの度、先陣の両大将をたまわり、股肱の臣として命を全うすべきでありながら、鎮周の無分別のために利を失ったことは、天命だったのだろう
十一月七日の夜、義久公の霊夢に出た
「うつ敵は 龍田の川の もみじかな」というお告げのごとく、豊後勢は池川にて大勢討ち死にし、天より勝利を義久公に授けたのであろう
347 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/02/14(月) 01:35:28.00 ID:pM3JFnrJ
なおこの後「宗天の人数 戦死の侍」の条があり、
佐伯宗天は平生、家臣に対しても礼をもって接していたことご書かれており
主君とともに敵に対して一歩も引かずに討ち死した家臣
百二十人の名前が数ページにわたって記されている。
佐伯宗天(惟教)と息子の惟真・鎮忠が戦死したため
豊後佐伯氏の家督は惟真の息子の惟定が継ぐことになる
↓この前出た話
http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-13371.html
豊後の佐伯太郎惟定は、驍勇智謀の将であった
スポンサーサイト