278 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/01/15(土) 16:27:52.40 ID:CFXpItV1
南都(奈良)の奉行である中坊飛騨守(秀祐)・美作守(秀政)父子に仕えていた、
柴田角兵衛、田村源兵衛という兄弟の勇士があった。
ある日、兄弟は連れ立って木津川を渡ったのだが、この渡は武士からは船賃を取らない事になっていた
にもかかわらず、この時の両人の風体が春日社の禰宜に似ていたため見誤り、船賃を乞うた。
渡守は川の中程で舟を止めて、彼等に対し「船賃を出さねば渡さない!」と悪口に及んだため、
兄弟は水棹を取って一人の渡守を打ち倒すと、もう一人は水に飛び込んで遁れ、木津の町に入ると
「人殺しだ!」と叫んだ。
この町は浪人なども居住していた地であったので、鑓長刀を持って数多の者達が兄弟に向かって
出合った。兄弟は刀を抜いてこれと当たり、数箇所に傷を負い、兄弟の間も隔てること半町ばかりであった。
源兵衛は血で朱に染まり、また角兵衛は溝に踏み込んでしまい危うかったが、町の者共も彼等の勇気に
辟易し、近づく者も無かったため自ら起き上がった。そして取り囲んでいた者達も次第にまばらになったので、
彼等は木津の町へと向かった。
すると町は騒動して木戸をさし堅めて彼等の侵入を阻止しようとした。しかし潜り戸より婦人が
彼等を覗いているのを見つけるとこれを人質に取ってその家に入り込んだ。この婦人は所の長の
妻であったので、様々に扱いとなり、これは当分の難を遁れるためであったので、約を定めて
婦人を解放した。その内に彼等兄弟が奉行所の士であることが解り、木津の町の者達は却って
打ち詫び、怠状(謝罪状)を書いて出した。
死者六人、負傷者は数を知れず。兄弟は大難を遁れた。
(志士清談)
船賃を取る取らないで死者六名負傷者多数の騒ぎになったというお話。
南都(奈良)の奉行である中坊飛騨守(秀祐)・美作守(秀政)父子に仕えていた、
柴田角兵衛、田村源兵衛という兄弟の勇士があった。
ある日、兄弟は連れ立って木津川を渡ったのだが、この渡は武士からは船賃を取らない事になっていた
にもかかわらず、この時の両人の風体が春日社の禰宜に似ていたため見誤り、船賃を乞うた。
渡守は川の中程で舟を止めて、彼等に対し「船賃を出さねば渡さない!」と悪口に及んだため、
兄弟は水棹を取って一人の渡守を打ち倒すと、もう一人は水に飛び込んで遁れ、木津の町に入ると
「人殺しだ!」と叫んだ。
この町は浪人なども居住していた地であったので、鑓長刀を持って数多の者達が兄弟に向かって
出合った。兄弟は刀を抜いてこれと当たり、数箇所に傷を負い、兄弟の間も隔てること半町ばかりであった。
源兵衛は血で朱に染まり、また角兵衛は溝に踏み込んでしまい危うかったが、町の者共も彼等の勇気に
辟易し、近づく者も無かったため自ら起き上がった。そして取り囲んでいた者達も次第にまばらになったので、
彼等は木津の町へと向かった。
すると町は騒動して木戸をさし堅めて彼等の侵入を阻止しようとした。しかし潜り戸より婦人が
彼等を覗いているのを見つけるとこれを人質に取ってその家に入り込んだ。この婦人は所の長の
妻であったので、様々に扱いとなり、これは当分の難を遁れるためであったので、約を定めて
婦人を解放した。その内に彼等兄弟が奉行所の士であることが解り、木津の町の者達は却って
打ち詫び、怠状(謝罪状)を書いて出した。
死者六人、負傷者は数を知れず。兄弟は大難を遁れた。
(志士清談)
船賃を取る取らないで死者六名負傷者多数の騒ぎになったというお話。
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