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永禄八年上野国撰銭騒動

2012年10月08日 20:26

750 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 00:02:39.36 ID:ucQTLqwW
永禄八年(1565)のこと、上野国矢場郷(群馬県太田市)に住む、由良成繁の家臣・石橋与三衛門尉が、
平塚郷(群馬県太田市)の百姓から大豆を買い上げた。
ところがこの時石橋と百姓との間で、支払いを精銭(良銭)でするのか鐚銭(悪銭)でするのかで
対立した。そう、これぞ『撰銭問題』である。

この当時、同じ額面の銭であってもその種類や状態によって価値は大きく異なった。
精銭と鐚銭の価値の差は、5~10倍ほどもあったとされる。
少し解りやすく説明すると、日本で日本円の他に、価値としては日本円のほぼ10分の1である
韓国のウォン(漢字表記は円)が額面としては同等の貨幣として流通している、というようなものだろうか。

この時石橋は、代金を強引に鐚銭で支払った。すなわち5~9割引きで無理やり買い取ったということである。
百姓たちは石橋の地所まで出向き当然猛抗議をしたがなかなか会おうとせず、百姓たちは近隣にあった
長楽寺の住持・賢甫義哲に助けを求め、義哲は石橋に書状を送った。

ようやく帰ってきた石橋からの返事にはなんと、『精銭で支払って欲しいのなら計る升を大きいものに変えろ』
というものであった。こんな話に百姓たちも納得するはずもなく、義哲は再び石橋に、
『この地域では鐚銭での支払いは認められていないこと。升も過去から使い続けられてきたものである』
とのことを説明し、精銭での支払いを求めたが、かんばしい反応はなかった。

業を煮やした百姓たちはついに領主である由良氏の居城・新田金山城に押しかけた。これには由良氏の側も
驚き、役人を派遣し裁定を行うとした。しかし3ヶ月たってもこの問題の解決は一向に進まなかった。
そして、それ以後の記録は無く、これが一体どうなったのか、わかっていない。

関東における撰銭問題の実態を端的に表した、貴重な記録である。
(長楽寺永禄日記)





751 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 12:29:14.17 ID:zZF9wQuo
あれだな、相撲大会

752 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 12:58:23.60 ID:dvSpoWsP
そうだな揉め事の解決には相撲大会だな

753 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 13:57:54.80 ID:PhOw4zrL
相撲大会なら円満解決

754 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 14:46:52.35 ID:jB/Q2g6o
茶席を整えるようにと宇喜多さまが申しておりました
・・・というか西から信玄が攻めてきたからそれどころじゃなくなったのかもしれん


756 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 17:49:19.36 ID:KIOp1hmP
この頃ってまだ貨幣を中国から輸入してたんだっけ?
暦も中国のパクリ。
現代でもいまだ中華暦パクリの悪影響が、まだ寒いのに立春、まだ暑いのに立秋で残ってる。
(大陸性気候の中国は日照時間の変化がすぐに気温に影響する。)

757 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 17:57:16.41 ID:eiQoRDUO
>>756
日本の独自貨幣は江戸幕府が慶長11年(1606)に公鋳した慶長通宝で待たねばならない。
というかまともな通貨制度が出来たのは全部江戸時代に入ってからだな。

ちなみに慶長通宝は、日本で皇朝十二銭いらいおよそ600年ぶりに政府によって公鋳された通貨

758 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 18:01:50.34 ID:Jaj5m+dt
この頃の良銭は永楽通宝だな。
暦は宣明暦ベースだが北条は三島暦だろうな。

気候に関しては戦国時分と現代は違うから、
今の感覚でどうこう言うのもおかしい話だ

760 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 23:23:26.60 ID:78zjey80
>>758
永楽通宝は西では悪銭、東では良銭

761 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/08(月) 23:51:44.53 ID:wzVNTHRI
>750
永禄年間に「鐚銭」なんて用語はまだ無いだろ。
原文でなんて書いてあるか興味が有るんだけど。

762 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/09(火) 12:43:53.22 ID:cHbghv6Y
>>永禄8年(1565)伊勢大湊の「船々聚銭帳」には、港の税金を納めるお金で、
>>永楽銭1枚は”ひた7枚”に値するとの記述があります(この『ひた』がビタ=鐚の言葉の初出とされています)。

ちょっとググったら出てきたが・・・
俺は研究者じゃないので本当かどうか知らんが。

766 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/09(火) 23:26:12.71 ID:nHbFVm2X
>762
片仮名や平仮名で「ヒタ」「ひた」などと記述される銭種の呼称が
東海地方で1560年代に登場するのは間違いないけど、
しばらくは東海ローカルな用語なのよ。

その後畿内でもヒタ、比タ、比多といった用語の使用例が出てくるけど、
例えば奈良興福寺の多聞院日記だと初見が天正7年(1579)、
東大寺文書で初見が天正9年(1581)かな。
関東だと、例えば後北条氏領国だと永楽銭と対比される銭種は「並銭」などと
呼ばれていて、ヒタという用語の使用は家康の関東入部以降ではないかと思う。

さらに、ヒタに「鐚」の漢字が当てられるようになるのはおそらく17世紀に入ってからで、
今のところ文書での初見は慶長13年(1608)の江戸幕府の法令らしい。

だから永禄年間の上野に「鐚銭」は無いだろうと。

768 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2012/10/10(水) 09:21:11.01 ID:Rb3K20Cz
出典出してくれてるんだから調べてみればいい
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最も緩やかな下克上

2011年12月30日 22:00

536 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 17:43:25.04 ID:D/Uq39ik
最も緩やかな下克上


戦国時代の初期の頃、上野の国の新田庄の領主は新田氏の後裔である岩松氏であった。
しかし、岩松尚純の代に家宰である横瀬成繁・横瀬景繁親子の専横が目立つようになり、
尚純は明応4年(1495年)に兵を起こしたものの敗れ、子の岩松昌純に強制的に家督を譲らされた。

岩松氏の凋落はここから始まった。
昌純は家督を継いだ当初から横瀬景繁の傀儡の立場に甘んじていたが、横瀬景繁の死後に
子の横瀬泰繁を倒す計画を立てる。
しかしながら横瀬泰繁に計画が漏れ、横瀬泰繁が先手を打って岩松昌純を殺した。これが
享禄2年(1529年)の事である。

横瀬泰繁は岩松昌純の弟である岩松氏純を擁立したが、より専横の色を強め、もはや氏純には何の権限も無かった。
そんな横瀬泰繁も天文14年(1545年)に下野で戦死する。
しかし、泰繁の子である横瀬成繁は相続時既に40歳で政務への参加歴も長く、横瀬氏の支配は盤石であった。

もはや岩松氏の出る幕の無いことを悟った岩松氏純は天文17年(1548年)、失意の末に自害して果てた。
そこで横瀬成繁は従来通りに岩松氏純の子である岩松守純を擁立し、権力を握った。
しかし、横瀬成繁は更なる野心家で、ついには「実質的な権力者」には飽きたらず、「新田庄の正式な支配者」
になることを志向する。

永禄8年(1565年)、ついに横瀬成繁は岩松氏の本拠である新田金山城の城主であると主張し始め、
岩松守純は桐生に幽閉された。
熱心な献金も功を奏して朝廷や時の将軍からも正式な領主として認められた成繁は
やがて由良成繁を名乗り、家系図を改竄して「新田氏の後裔」とまで主張する。

ここに足掛け4代、70年にも及ぶ期間を経て横瀬氏(由良氏)の下克上は完成したのであった。




539 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 18:44:13.67 ID:3SW+FGis
由良成繁こんな奴だけど善政敷いてたので領民に凄い慕われてたらしい。


540 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 19:09:51.62 ID:CIc4TCEk
そうして支持者が多かったのも下克上が成功した一因だろうな
上手くやったものだ

541 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 19:20:05.76 ID:SrjtQPKR
善政敷いて支持を受けてるのも自分だし軍事外交切り回してるのも全部自分なのに何でこの座ってるだけの奴に
主人面されにゃならんのよ、こいつ要らなくね?ってのが先だったかもね。

明確にどっち先てのは本人ですらはっきりしてなかった気もするけど

542 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/12/30(金) 19:20:46.18 ID:Gi3e2PjE
善政敷いてくれるなら主君でも家老でもどっちでも良いんだろうな
その方が近代的か

由良氏誕生

2011年08月21日 22:59

513 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 19:11:55.41 ID:/tJ71kRE
由良氏誕生


横瀬氏は元々は新田氏の血を引く上野の名族、岩松家に仕える家柄であったが戦国中期の横瀬泰繁の代から
家中を牛耳り、やがて主家を凌ぐ権力を得ていた。
だが、専横を極める泰繁は天文14年(1545年)に下野壬生合戦で戦死し後を息子の由良成繁が継ぐことになる。
そしてこの成繁は父以上に容赦がなかった。

家督相続時、成繁は40歳という年齢で政務への参加歴も長く「家中法度」「百姓仕置法度」などを制定するなど
既に実績充分で家中の信任を得ており、
泰繁の死という絶好の機会が有りながらも既に梯子を外されているどころか当主が幽閉されてしまっている
岩松家は流れを変えることは出来なかった。
そして天文17年(1548年)頃、時の岩松当主である岩松氏純が長年の幽閉に精神が擦り切れたのか自殺し、
跡を岩松守純が継ぐとこれも成繁は幽閉した。

成繁は名実ともに新田荘の支配者となるべく時の将軍、足利義輝との関係を重視し、また関白近衛前嗣が
関東に訪れた際にはこれを持て成して義輝より賞詞を賜った。
やがて幕府との関係強化が身を結び、永禄7年(1565年)に成繁は幕府より刑部大輔に任じられ、
御供衆に加えられるとともに毛氈の鞍覆と白傘袋を免許された。
こうして横瀬氏の新田荘支配の正当性は幕府公認という事になったのである。

成繁はこれを期に姓を横瀬から新田荘は由良の地からとって「由良」と改めた。
また、この時より成繁は横瀬氏の系図を小野氏後裔猪股党から清和源氏新田氏後裔に改竄した。
どこから得たのか成繁は岩松家の系図を把握していたようで由良氏の系図はかなり新田氏の系図とシンクロしており、
あたかも本当に新田氏の子孫であるかもような系図が完成したのである。


こうして源姓由良氏は「作られた」。




514 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 19:22:04.77 ID:A8v9Gtzt
明治時代に新田嫡流争いで岩松さんの方が嫡流と認められるんだよな、これ。

515 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 19:27:45.51 ID:yBhJ4BtY
岩松守純って後に旗本になるんだけど、なんと
「20石」なんだよなあ
そのへんの足軽レベルじゃんこれ

516 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/08/21(日) 19:32:33.37 ID:3mC0MeTQ
そりゃ得川さんからすればねぇw

由良氏顛末

2011年05月02日 00:00

309 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 12:22:58.80 ID:S23UAFMY
そんなこと言うなら、季節ごとに立場を変える、北関東の領主の皆様はどうなるんだよ・・・




310 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 12:54:15.47 ID:zmah96Am
ちょうどこの前年に由良氏がそんな状況になってた。
由良成繁は下克上の後に謙信の小田原攻めにはやくからしたがって謙信から領土を与えられるが
謙信の勢力が衰えると真っ先に北条に帰参し関東諸侯が一斉に北条方へ雪崩を打つきっかけをつくり
謙信から第一の侫人と呼ばれた。
越相同盟を仲介して形式上は上杉の傘下に入るが裏では同盟に不満があった氏政に通じ氏政から
上野一国を進呈すると書状を送られた。
その後越相同盟が破綻すると周辺の上杉方勢力を攻め勢力を拡大した。
しかり成繁は謙信と同時期に世を去り後をついだ国繁には成繁ほどの手腕はなかったらしく
滝川一益退去後一人勝ち状態になった北条は由良氏を攻めた。
昌幸は由良に「上杉と佐竹が援軍に来るから頑張れ」と書状を送ったが
佐竹は援軍に来たものの景勝は上野の瀬下氏に関東に出兵することはないと言って援軍を出さなかった。
結局佐竹も途中で軍をひいてしまい、由良氏は居城を失って北条に屈服することになった。




311 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 13:04:33.97 ID:8RyvYDu7
謙信は5回攻めたけど最期まで由良の新田金山城攻略できなかったね。

成繁も腹芸は確かに上手かったが防戦も上手い。

312 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 13:55:20.55 ID:crvr1eFn
地理的・地形的なものってあるよね。
小勢力は、大勢力に一旦従属したとしても、あくまで自家を保つことが最優先で、
主との間は双務契約的なものだから、攻められたときに後詰めに来てくれない
(来られない)なら、忠義を貫いて滅びなきゃならない義理はない。

関東に何度も入った上杉しかり、三河に何度も入った武田しかりで、山越えして
来る軍勢は、どんなに強くても、季節が過ぎたらお家に帰らなきゃいけないし、
お留守番をたくさん残していくことも出来ないし、一旦帰ってしまったら、せっかく
落とした小城を取り返されそうになっても迅速に後詰めに行けないし、で、結
局、長くキープできないから延々と取ったり取られたりのループになる。
板挟みになった現地の小領主はまたくたまったもんじゃないな。

313 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 13:59:56.70 ID:s6SEHbzx
>>309
高増「確かに周りはそんな人ばかりですな」
資孝「義理も無い人々に囲まれて疲れる」
綱清「全く」

314 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 14:57:19.64 ID:nTaZve+o
おまえらの血は何色だあ

315 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 15:03:45.71 ID:cXfoASMt
山家三方衆は徳川と武田だけだが
上野は上杉、武田、北条が争奪してるから小領主は悲惨。

316 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 15:08:56.25 ID:Y/z4Zx80
関東地方唯一の一揆の国、上野は
戦国時代後期になれば隣国の強大な戦国大名権力に蹂躙されるのが宿命

317 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 15:38:00.35 ID:r+JAXZvE
異常に強い長野爺も居なくなったタイミングだしな

318 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/01(日) 17:59:14.60 ID:KGeeRxkF
>>312
前線で落城した城主の一家は、
親類の城にでも家臣を引連れて居候しながら、
再起を計るだけで
どこでも似たようなものでしょう?

319 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 18:15:59.01 ID:crvr1eFn
>>318
そもそも、敵の大軍が迫ったときに、「落城」云々というところまで戦うのか?というのが問題で。
援軍が来てくれそうなら城門を堅く閉ざして粘ってみようか?という気になるだろうけど、こりゃど
うしようもないな、と思ったら、戦になる前に城ごと降って所領を守ろうとするんじゃないかな。
その場合、たいていは元の主のところに人質を差し出してあったりするので、その人質を見捨て
る覚悟が必要になるんだろうけど。




320 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 19:28:24.37 ID:ykCTw3hD
んだねぇ

321 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/01(日) 20:22:15.33 ID:731tBxiO
>>299
当時の上州は他国の動きをけん制できる要衝だから
そこを治める真田に対する扱いもおのずとね…

利用価値があればどれだけ恨みや貸しがあっても優遇
逆に言えば利用価値がなくなった途端それまでどれだけ尽くしてもポイ捨て
上杉、北条など使う側の周辺勢力も、使われる側の真田も
最初からそういう関係と割り切ってつきあってたんだろうな。
今でいう北朝鮮とその周辺諸国みたいなもんか

322 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 21:47:00.06 ID:S23UAFMY
>>321
殿、「幸村様と正男を一緒にするとは」と怒った鬼女たちが押し寄せてござる!!
我らが支えているうちに、早くお逃げくだされ!さあ!さあ、とく落ちられたまえ!!!

323 名前:人間七七四年[] 投稿日:2011/05/01(日) 22:07:14.91 ID:731tBxiO
まさおは嫡男だから信幸のほうじゃないのか?

324 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2011/05/01(日) 22:24:36.88 ID:Y/z4Zx80
群馬県立歴史博物館(高崎市)の展示は、真田のことほとんどスルーしてたな。
高崎中心に見ると、真田の存在感ってほとんどないのかもね。

室町時代は上州一揆の上層に山内上杉氏がゆる~く君臨する統治形態だったが、
北条氏が上杉憲政を追ったことで上州一揆は切り裂かれる。
その後の謙信・信玄・勝頼・滝川一益らの相次ぐ支配者の交代と戦争で一揆は完全に解体し、
「沼田領」「新田領」「厩橋領」といった18の「領」と呼ばれるブロックに再編されていく。
小田原征伐で北条が滅んだ後、「箕輪領」が井伊直政に、「新田領」「館林領」が榊原康政に与えられる。
すごく大雑把に言うとこれが群馬の戦国史

由良成繁、弱小大名の生きる術・いい話

2009年01月01日 00:22

689 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/31(水) 05:03:45 ID:hdnF34KC
いい話というか弱小大名の生きる術を

上野国に由良成繁という戦国大名が居た
元は(新田)金山城主の若松氏の家臣であったが、
若松氏を討ち果たし、城を占領して下剋上でのし上がった戦国大名である
しかし周りには上杉氏やら古河足利氏、
一たび西を向けば武田氏で南には北条氏と
周囲を強敵に囲まれて大変苦しい状況だった
そこで成繁は上杉氏に従い、領土を維持していたが
謙信は関東の諸大名がしきりに越山を求めているのに
中々これに応じようとはしない
例え了解して遥々三国峠を越えて越山してもとっとと帰ってしまう
次第に関東の諸大名・豪族は上杉謙信に失望してゆき、
また由良成繁もこの中に漏れなかった
やがて成繁は上杉謙信を見限って北条氏に属すようになった
それに大激怒したのが当の裏切られた上杉謙信
成繁の治める金山(かなやま)城は重要な要衝で、
当の謙信も成繁のことを信頼していたため、
本当に成繁が北条方に寝返ったのか、何度も佐竹に情報の正誤を
確認する書状を送っている

しかし上杉を見限ってよいよ北条に味方した成繁ですが、
もしも上杉謙信が再び関東に越山して真っ先に狙われるのは自分
以前自分と同じように上杉を見限って北条に属したすぐ近くの佐野氏も、
居城の唐沢山城を謙信に攻撃されて幾度と無く窮地に陥っています
なんとか謙信の目を自分以外に向ける方向はないか…
成繁はしきりに思案します
そしてしばらく経った後、関東に激震が走ります
長年敵対してきたあの上杉謙信と北条氏康が手を結んだのというのだからさあ大変
勿論この同盟の締結に手を尽くしたのは成繁
「敵として狙われるなら、味方になればいいじゃない」
の如くこの同盟の締結のために東西奔走し巧みな外交手腕で見事実現に至らせることができます

その後由良氏は周囲を強敵に囲まれながらも御家をなんとか存続
御家は明治維新まで士族としてちゃんと続いていったんだそうな

※ちなみに三男の渡瀬繁詮は三好秀次に仕えて遠江横須賀3万石を領している
しかし秀次切腹事件に連座して繁詮も切腹
その後を継いだのは有馬豊氏でした
ちなみにその豊氏は後に筑後久留米21万石など破格の出世をしています
もし連座して切腹していなければ繁詮がこの領地を…?なんて…、ね




690 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/31(水) 05:21:37 ID:yZIjTRuZ
>>689
若松じゃなくて岩松じゃない?

694 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2008/12/31(水) 13:21:37 ID:U0osLOdS
しかし「関東管領なのに」関東支配を目論む北条氏と越相同盟したせいで、
関東の国人や反北条方の大名にめっさ疑われて勢威を落とした謙信。

挙げ句に、北条から養子という名の人質に入れた三郎を妙に気に入って景虎名乗らせるは、
自分の死後は甥っ子景勝と三郎景虎が内乱おっ始めて上杉家ガタガタ。北陸を織田に切り取られるは。


>>689うぉ、さいご有馬記念に繋がったぞ w
マツリダゴッホ…゙ゴッホはいずこにおはす!?…コネーー!!('A`)ーー