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伊木半七の事

2022年04月09日 15:25

431 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/09(土) 11:16:59.24 ID:/cGAqrGu
ある本に、伊木七郎右衛門常紀(伊木遠雄)は幼若の時、遠雄半七と称していた。
彼の祖父は式馬大和守と称し、下総国より上って織田信秀に仕えた。
父は式馬七右衛門と言ったが、続いて信長公に仕えた。

そのような中、濃州各務郡に、木曽川を隔てて東は尾州犬山、西には濃州伊木山があった。
その頃、伊木山香川と云う将が籠城して、信長公に敵対していた。
これに対して、式馬七右衛門は先登して力戦し、かの伊木山を攻め落とした。
これに信長公は感悦斜めならず、「末代の誉れに、氏を改めよ」と有ったため、この後氏を伊木とした。
また、この白の本丸に、石の井桁があったが、その場所において働き抜群であった故に、それまでの
月に星の家紋を替えて、井桁紋にした。

又、七郎右衛門は十六歳の時、秀吉公の児小姓に召し出され、翌天正十一年、江州賤ヶ岳合戦において
太刀打ちして、新発田型の使番の、指物を差した武者を討ち取った、この働きは七本槍と左右に立ち並んだ
手柄であるとして、世に『七本槍。三振太刀』と云った。(その他の二人は石河兵介、櫻井左吉である)

同十八年の小田原陣では黄母衣を掛けた。

大坂夏の陣での落城の時に命を遁れたが、その後方々より高禄を与えるとして招いたが、所存あって
応じず、片桐氏の後見として、現米五百石、嫡子は千石を領した。
その後京極安智(高広)の招きに応じ、丹後国に赴き、父子三人にて三千石を領した。
二代目七郎右衛門は千二百石の采地にて、同丹後守の家老職を勤めたという。

(新東鑑)

「三振太刀」や大坂の陣後の話はどうも後世の創作らしいですが、
伊木半七の名で有名な、秀吉の近習で黄母衣衆でもあった伊木遠雄についての様々な伝承。



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