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黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと

2022年04月21日 17:55

137 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/21(木) 15:01:14.99 ID:P7oGifBM
「黒瀬山 峰の嵐に 散りにしと 他人には告げよ 宇和の里人」

 戸田勝隆に旧領安堵と音物を携えた使者が訪れ、大津(大洲)まで出頭する事になった西園寺公広が出立前に残した辞世の句です。

 この時、扈従する護衛十名は若輩の小姓も含めて全てが主君に殉じる覚悟の者ばかりで、公広自身が伯耆安綱の太刀を二尺六寸余りの無銘に大磨上げした刀を差し料として、斬り死を覚悟していたと。

 時世には、伊予西園寺家の滅亡は季節が移ろうように逆らい難いものであり、騙し討ちに遭うのも騙されて殺されるのではなく、避けがたい天命なのだと覚悟している心境を詠ったと。

 ……覚悟の上でも、呼び出しを無視して自害するのではなく、刺客を道連れに全力で斬り死する公家出身で僧侶上がりでも戦国大名だった西園寺公広の、戦国時代らしいお話。



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西園寺公広の最期

2022年04月21日 17:55

449 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/21(木) 14:48:17.33 ID:P7oGifBM
西園寺公広の最期

公家の西園寺家から分かれた伊予西園寺氏、その最後の当主である西園寺公広は元は伊予来住寺の僧侶だったが、従兄の戦死により伯父の婿養子として還俗。

長宗我部氏に降伏後は、豊臣家の四国征伐でも戦わずして小早川隆景に降伏。九州征伐には小早川勢として従軍し、降伏後も居城である黒瀬城に留まる事を許されていたのだが。

小早川隆景が九州に移封され、戸田勝隆が南予を領するようになると、情勢は一変する。

天正十五年(1587年)八月には、西園寺旧臣の過半である三十八名が城から下城が命じられ、十二月には西園寺家も土居・勸修寺・法華津の有力家臣と同様に城から去るように命じられる。

その後の南伊予の統治は、東・中予を任された福島正則と異なり東北の葛西・大崎一揆と同様の事態に。よそ者である戸田家と急遽として取り立てられた軽輩上がりの家臣により、リアル北斗の拳状態と化す南予。
土地は農家も寺社も構わず好き放題に横領され、女と見れば他者の妻でも娘でも容赦なく攫い、飽きれば捨てられたり売られたり吊るし斬りにされ、少しでも抗議すると「御公儀への謀反」と見做されて一族が磔に。

この状況下で南予の地侍達は「天下を相手に敵わないのは承知」で「座して嬲り殺されるよりは」と蜂起。

これに対して戸田勝隆、独力では鎮圧できなかったが板嶋沖の九島・願成寺で蟄居している西園寺公広の身柄と小早川隆景の傘下で九州に従軍した時の軍功で所領安堵の朱印状が出る事を仄めかして、西園寺家中で最有力な家臣であった土居清良に同朋の国人一揆を鎮圧させた。

「これでもう、西園寺公広を生かしておく理由は無くなった」

戸田勝隆はそう判断した。

十二月八日、「毛利家と小早川家を介して、九州従軍の軍功により黒瀬城と旧領を安堵する朱印状が出た」と音物を携えた使者を使わす。
翌日、旧臣十名を従えて大津城(後の大洲城)に訪れた西園寺公広。元僧侶で公家大名の五十一歳など、容易く自ら仕物にかけれると侮っていた戸田勝隆は、護衛も公広も一分の油断も隙もない事に絶句。
九日は宇和島から大洲まで移動してきた所労を労うと宴を催し、十一日に大洲城の御殿ではなく重臣・戸田駿河守の屋敷で朱印状を渡すのと偽って護衛を屋敷の玄関と次の間に控えさせ、公広単身を戸田駿河守以下で押し包んだ。

公広、二尺六寸余りに大磨上げされ無銘の安綱の佩刀を抜刀するや、即座に戸田駿河守を最初に斬り、満身創痍となりながらも同室の刺客九名を全て討ち果たすや、戸田家中の包囲する客殿で自害。次の間と玄関に控えていた小姓を含む護衛十名も五十数名を道連れにして全滅。

翌年、戸田勝隆は領内の大百姓や寺社の全てから人質を取り、武芸に秀でたと評判の者は罪状の有無に関わらず悉く殺害。
ごく一部の有力者のみ家臣に取り込み、南予支配を進めていく事になる。

以上、謀反など企んでいなくても、その実力があるだけで罪だという豊臣政権下での地元民に対する扱いが悪い話。

尚、公広の安綱は豊臣秀吉に献上された後で西園寺宗家に贈られ、今は愛知県名古屋で東建コーポレーションの刀剣ワールド財団に現存しております。