461 名前:人間七七四年[sage] 投稿日:2022/04/24(日) 23:17:26.73 ID:6RLowsdy
「朝野雑載」より矢崎城主・中村惟冬の妻
薩摩より島津中務少輔家久を大将として新納武蔵(新納忠元)、鎌田尾張入道寛栖(鎌田政年)、梅北宮内左衛門(梅北国兼)、河上左京(川上忠智)など三万余騎が
兵船数百艘に乗り、肥後国宇土郡の郡の浦に上陸し、阿蘇大宮司の家臣である中村伯耆惟冬の籠っている矢崎の城を取り囲み、城攻めした。
惟冬も粉骨砕身で防いだが、多勢に無勢で援軍もなかったため、過半数が討たれ、残りの多くも手負となった。
惟冬はそれでも勇気をたゆまさず、わずか七十余人で城門を開けて打って出て、数刻戦い討死した。
しばらくして惟冬の妻が緋威の鎧を着て、女二十人ばかりを左右に立て、不意にどっと打って出、敵を二、三町退けたのち、枕を並べて討死したという。
ただし「明赫記」だと中村惟冬や家臣たちは各々自らの妻子を刺し殺したのちに打って出たことになっている。
「朝野雑載」より矢崎城主・中村惟冬の妻
薩摩より島津中務少輔家久を大将として新納武蔵(新納忠元)、鎌田尾張入道寛栖(鎌田政年)、梅北宮内左衛門(梅北国兼)、河上左京(川上忠智)など三万余騎が
兵船数百艘に乗り、肥後国宇土郡の郡の浦に上陸し、阿蘇大宮司の家臣である中村伯耆惟冬の籠っている矢崎の城を取り囲み、城攻めした。
惟冬も粉骨砕身で防いだが、多勢に無勢で援軍もなかったため、過半数が討たれ、残りの多くも手負となった。
惟冬はそれでも勇気をたゆまさず、わずか七十余人で城門を開けて打って出て、数刻戦い討死した。
しばらくして惟冬の妻が緋威の鎧を着て、女二十人ばかりを左右に立て、不意にどっと打って出、敵を二、三町退けたのち、枕を並べて討死したという。
ただし「明赫記」だと中村惟冬や家臣たちは各々自らの妻子を刺し殺したのちに打って出たことになっている。
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